古本屋通信 No 4230 2019年 10月08日
御津中学ー金川高校時代の旧友S君来訪
午前中にS君から電話があった。用件は来月の金川高校の同窓会の件だったが、私は妻の遺作展のことを言い、午後取りに来てくれるように頼んだ。妻はS君には西大寺の寺田医院で一度顔を合せただけである。私の友人としては初めて来て貰った。4点を選んでくださり、約2時間歓談した。
主に中高の旧友の情報を聞いた。忘れないうちに衝撃度がつよい情報をメモしておく。
未確認情報だが、御津中時代の美術の恩師・宗次秀男先生が一昨日亡くなられた。90歳であったろう。数年前に我々の同級生の白髭三郎君と宗田(西田)玲子さんと三人展をされた。先生は県下の水彩画の一人者だった。ご冥福を祈る。
いきなり跳ぶが、我々の中学時代に成績がトップだったA君が広大福山高校(国立だから岡山県立と受験日が別)を受験してスベッていたといふ。初めて聞いた。ショックだった。因みに私は倉敷青陵高校(学区外5パー枠)をスベッていた。
旧友は5,6人死んでいる。名前は挙げないが、そういう年齢になっている。妻の死をおもった。脳梗塞その他は数倍いる。明日はわが身か。
高校時代に3年間担任だった高畑先生が(先月S君が先生にあったとき)石川にあいたいとおっしゃっていたという。この話にはかなり心を揺さぶられた。S君は月末にもう一度電話をするから考えておいてくれという。おそらく最後の機会になるだろう。稲田先生も栢野先生も亡くなられている。
懐かしい何人かの女の旧友が離婚している。さまざまな人生だが、あいたい人がいないでもない。
同窓会を頭から拒む人は確実にいる。私もその一人なのだが。こういう人にこそあってみたい。
S君が野菜を食べろとさかんに言う。これは盲点だった。さっそくニシナで買おう。でもトマトは食べてる。果物でもよいのではないか。青いものは嫌いだ。
師弟三人展 展示 水彩画 宗次秀男 油彩画 白髭三郎 水墨画 宗田玲子(旧姓:西田)
- 2019/10/08(火) 16:56:44|
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古本屋通信 No 4229 2019年 10月08日
岡山県部落解放連合会の非連続の連続としての人権おかやま。そして 『部落問題 調査と研究』 から 『人権 21 調査と研究』 へ
私は 「No 4210 人権21 調査と研究 おかやま人権研究センター発行」 を自信を持って書いたが、こういう問題について書くとき、つい身構えてしまう。書いたあとも後味がよくない。この雑誌に論考を寄せた人の何人かは確実に私の古本屋通信文を読んでいる。当然ながら反応はない。タブーというより、論じだしたら際限もなく泥沼に入ってしまうからだろう。
で余り片意地張った文ではなく、思いつくままに書くことにする。すでに何回か書いていることと重複するかも知れない。
『部落問題 調査と研究』が刊行されたのは1961年だというから、とうぜん部落解放同盟の分裂以前だった。解放運動は1965年ごろから複雑な経過を辿って各府県ごとに分裂する。これは運動組織である。しかし運動組織と密接な関係のあった研究組織も複雑な経過を辿る。ここらはキリがないから省略するが、地域の部落問題研究組織が持続したのが、兵庫と岡山であった。京都と大阪は複雑だから省略する。岡山の『部落問題 調査と研究』はハッキリ言って県解連の理論的バックボーンであった。組織そのものが別仕立てでも、実質はその理論誌であった。私はこれに異議はない。解同の側も岡山部落解放研究所を創設して、津山の運動に関する研究などを発表している。
部落解放運動は劣悪な部落の環境改善のため行政に環境改善を要求する運動だった。それは運動組織への資金援助をも含んだ。部落解放会館だとか民主会館の建設は運動の成果だった。その運動団体が研究組織を並立し各種出版物を刊行する、それは商業出版物ではない。だから行政から獲得した金を使うのは当然である。それも部落解放運動の一環だからである。
だがここまでである。21世紀に入って部落差別は基本的に解消した、それが正しい認識である。だから全国部落解放連合会は解散し県解連も解散した。解散した翌日から全組織を解体せよと言っても、それは現実的ではなかろう。だが組織の温存はよくない。残務整理のための組織にとどめるべきである。
私は部落解放のための組織が人権一般のための組織に衣替えするのに絶対反対である。世間に色々と存在する差別は、部落差別のような身分差別でなない。わかりきったことである。そういう各分野の運動はすでにある。ことさら人権組織など無用である。組織の温存の目的は見え見えである。すでに存在しない同和、その予算の延長要求である。
これに対して尤もらしい理屈はいくらでもつけられる。だが行政が正直に語っている。人権おかやまも新婦人も毎年、対市交渉をする。その両方に参加した人によると、人権おかやまの交渉では役所は局長クラスが対応てしピリピリしているが、新婦人だと小ばかにして居眠りをしているそうだ。つまり人権おかやまを解連の延長と見て恐れている、間違いない。
こういう状況のもとで 『人権 21 調査と研究』 は刊行されている。刊行を直ちに打ち切るべきである。
まあ今回、少し丁寧に読んでみたわナ。殆どの論考が優れている。だがここまでに仕上げたのは菅木智子事務局長 兼 編集人の力量だろう。これが小出隆司さんだったら可能だったか。絶対にありえなかった。菅木さん、読んでいるかい? 新婦人にSさんが妻の遺作展の案内を持っていったろ。よろしくね。
『人権 21 調査と研究』 は、ハードとしての県民主会館とならんで、岡山の民主勢力の理論的ソフトとして君臨している。わがほうが血と汗を流して獲得してきた党の陣地だ、そうたやすく手離せるものか、それが一致した認識であろう。だが考えてほしい。こういう認識は党内だけなのだ。
いまでも民主会館は党の建物だと見られている。わが家にこられる客人は平気で民主会館に車を置かれるが、それだけでもわが家は党員一家だと見られる。別に迷惑しないが公民館もあるからね。
もういい加減に差別を再生産することは止めようよ。 『人権 21 調査と研究』 の原価計算はしたが、またの機会に公表します。まぼろしの高級雑誌ですよ。部落解放運動の遺産。今は過去の遺産で食いつなぐ時代ではありません。
それから人権おかやまだけどね、望月いそこ講演会の総括はちゃんとしてね。天下の笑いものでしたよ。
- 2019/10/08(火) 04:47:21|
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古本屋通信 No 4228 2019年 10月07日
原野翹あきら先生のこと
せんじつ岩間一雄というペテン教授を論難した記事の中で私はこう書いている。
「 ・・・・・・・・・ こういう組織のトップにペテン師を戴いたらオワリである。全活動がペテンになるからだ。以前の原野あきら法学部教授は立派だった。岩間って何なのよ。・・・・ 」
私はちょっとだけだが原野あきら先生を知っているのである。それで自分のブログ内検索に懸けたら下の記事がヒットした。要するに原野先生の本が売りに出されていて私がまとめ買いしたという記事である。死亡に伴なう蔵書整理である。典型的な党員教授であった。本はあとで見ていただくとして、先生の思い出を書いておきたい。
私は1968年4月に岡山大学法文学部哲学科に学士入学した。入学式があるわけでもなく、授業が始まる数日まえ、たぶん4月5日ごろ、哲学倫理の学生の溜りにいて、顔見世をしていた。宜しくという挨拶である。そこに哲学の学生でもなさそうな少し年長の人相のよくない男が入ってきた。法学部の助手だと名乗った。どうも目的は私らしかった。原野と名乗っていなかったと思う。私が哲学科に学士入学したこと、香川を卒業してやって来たことはご存知だった。
有名な原野先生だという意識はなかったので、私が近藤洋逸先生を頼ってきたこと。哲学への関心は戦前の唯物論研究会に触発されたものであること、まあマルクスですな、と大見得をきって一時間ほど喋った。原野先生はもっぱら聞き役に徹して、最後に「恵まれた勉学環境で良いですなあ。まあ頑張ってください」と言われた。それだけのことである。そのご一回も学内で顔を見ることもなかったと思う。
法文学部の文科と法経は学生自治会も別だった。文科は民学同、法経は民青の拠点だった。これは常識なのだが、それぞれの拠点には必ずバックに教官がいた。文科は好並助教授であり、法経は若き原野助手と佐々木助手と言われていた。私でもそれくらいの情報は事前に入手して岡大に行った。
で原野先生がなぜ哲学倫理の学生の溜りに現れたかだが、これは同じ哲学の党員のMが呼び寄せたことが後でわかった。香川から一人党員がくるから見にこられえ、と。
私は学生運動をするために岡大に来たのではなく、むしろ逃げてきたのだが、入る前から情報は入っていた。岡大の中核派の総帥にMという男がいたが、私の学士入学と入れ替わりにすでに卒業していた。その妹が香川の私の一級上の民青だったのである。女子寮の寮長をやった活動家だった。妹が兄に伝えたのだ。岡大の民青は中核派から聞いたそうだ。Mはそう言っていた。面白く言ったのか、それとも中核派的には有り得る話だからか知らないが、中核派は「岡大の民青がテンデ弱いから、拠点の香川から一人指導に入るそうだ」 と言っていたという。だから岡大の民青は私の学士入学を事前に知っていた。ゆえに私は転籍のまえに中原と武田に挨拶に行ったのだ。中核派にそのように言われて中原や武田が面白いはずがなかったから。でも当時の民青でそういう組織の横断はありえなかった。かりに中核派の言うような事実があったとしても、それは田村正人さんのような中央委員クラスの同盟員だったろう。
その原野先生は最後まで党員を貫いたが、佐々木先生は北海道に渡り、党に反旗を翻した。札幌の例のグループだっただろう。
原野先生は定年退職をまたず病死された。先生の奥さんは中学校の英語の先生だったが、体調をくずされ入退院を繰り返しておられる。真佐代は自分の最晩年までお付き合いはあった。ただし御病気だから死は誰もお知らせしていないだろう。私もそうである
原野翹
はらの あきら
1941 - 2005
岡山大名誉教授 行政法 徳島県
亡くなってから14年53日過ぎました。
64歳で亡くなりました。もし現在も生きていたら78歳です。
1941年に誕生、2005年08月16日に亡くなりました。
生誕78年が経過しました。没後14年が経過しました。
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古本屋通信 No 58 11月22日
シンフォニー古本まつり
昨日はシンフォニー古本まつりの初日だった。今回は目録があったが、事前にほしい本はなかった。しかし会場で予期せぬ本があったので、それを買った。全点一口物で、出品者は S 堂書店さん、単価はオール百円均一。 以下、買った本をあげる。
☆民主的行政改革の理論 渡辺佐平編 大月書店 1978
☆現代の課題と日本共産党 下 宮本顕治 党出版部 1966
☆地域自治の政治経済論 遠藤晃他編 自治体研究社 1977
☆民主集中制論 榊利夫 新日本出版社 1980
☆21世紀と社会主義 聴濤弘 新日本出版社 1984
☆治安と人権 杉村敏正 中山研一 原野あきら 岩波書店 1984
☆もろき平和 上野博久 新星書房 1984
☆意識論 寺沢恒信 大月書店 1984
☆戦後日本の技術革新 中村静治 大月書店 1979
☆日本経済と危機管理論 二宮厚美 新日本出版社 1982
☆環境科学への扉 日本環境学会編 有斐閣 1984
☆理論戦線の到達点と課題 不破哲三・上田耕一郎 党出版局 1976
☆80年代の大衆運動 市川正一 新日本出版社 1981
☆世界平和と「勢力均衡」論 巣山靖司 新日本出版社 1985
☆日本の貧困 柴野徹男・菅沼副夫 新日本出版社 1983
☆社会科学学習辞典 労働者教育協会編 学習の友社 1966
☆共産主義運動の基本問題 宮本顕治 新日本出版社 1988
☆マルクス主義と環境問題 ギ・ビラオ 青木書店 1976
☆管理社会と民衆理性 日常意識の政治社会学 栗原彬 新曜社 1982
☆現代民主主義の理論 榊利夫 新日本出版社 1975
☆経営での党活動と党建設 不破哲三 新日本出版社 1986
☆マルクス主義研究年報 No2 1978年版 芝田進午責任編集 合同出版
☆マルクス主義研究年報 No3 1979年版 芝田進午責任編集 合同出版
☆唯物論研究年報 1988年版 唯物論研究協会 白石書店
☆経済思想史読本 水田洋・玉野井芳郎編 東洋経済 1978
☆前衛 1969年3月号 日本共産党中央委員会理論政治誌
東大闘争の到達点と今後の課題 ・・・・大野源一
大学問題における各党の政策 ・・・・・小林栄三
大学闘争におけるトロツキストの「理論」と行動 ・・宇野三郎
哲学シンポジウム2 史的唯物論と現代の思想的課題
古在由重 吉沢 達 森 宏一
高田 求 中原雄一郎 司会・河野公平
☆自治体政策づくり読本 大原光憲・横山桂次編 総合労働研究所 1981
☆法と経済の一般理論 藤田勇 日本評論社 1976
☆婦人問題と日本共産党 党中央委員会出版局 1979
☆社会主義的所有の基本問題 シュクレドフ 御茶の水書房 1973
☆反共風土と社会進歩 党中央委員会出版局 1983
☆デモクラシーの二つの伝統 セイバイン 未来社 1977
☆南ベトナム小説集 炎のなかで ベトナム外交出版社 東邦出版 1967
☆サイゴン解放作戦秘録 バン・ティエン・ズン 新日本出版社 1967
☆知りたい知らせたい女たちの戦後史 柴田悦子 創元社 1989
☆オルグ学入門 村田宏雄 勁草書房 1982
☆社会主義協会向坂派批判 日本共産党中央委員会出版局 1975
☆人間裁判 生と死をかけた抗議 朝日茂の手記 草土文化 1965
☆婦人論の学習 マルクスレーニン主義学習双書 村上益子 1972
☆現代技術論 有斐閣選書 中村静治編 有斐閣 1978
☆日中両党会談始末記 小島優編 新日本出版社 1980
☆日本共産党の45年 日本共産党中央委員会出版局 1967
☆日本共産党初級教科書(案) 教育部編 出版部発行 1968
☆投降主義者の観念論史観 中央委員会出版局 1986
志位和夫氏の2論文は本書のなかに収められている。
*変節者のあわれな末路 *退廃と遊戯の「哲学」
☆革新統一戦線の探究 日本共産党中央委員会出版局 1978
☆自由に生きる権利 小林孝輔 法律文化社 1972
☆高齢化社会と社会保障 角田豊他編 法律文化社 1978
☆東の風と西の風 毛沢東 新日本出版社 1958
以上48冊、数冊を除いて珍しい本ではない。このうち半分以上は在庫がある。はじめ、在庫のない本だけを抜こうかと思った。然し頁をめくるうちにタダナラヌ空気を感じた。一瞥して同じ旧蔵者からでていることはすぐ分ったので、旧蔵者の正体を知ろうと本を探った。次々と本を手にとり頁をめくった。なんと、なんと、本に何の痕跡もないのだ。48冊中だだの一冊にも書き込み、傍線、蔵印、メモ用紙、なんにもないのだ。完膚なきまでに打ちのめされた。 S 堂さんに訊くなど、恥じさらしができるわけがない。それで、ほぼ全点を持ち帰った次第である。いやはや凄い天才がいるもんだ。読んでいないことは絶対にない。天才なんだろう。こういう出会いがあるから、古本屋はやめられないのだ。
ひと晩、まっさらの古本と格闘して、なんとか旧蔵者の目星をつけた。今回の場合、私に守秘義務がないこと、旧蔵者が故人であるらしいことから、ここに書いてもいいと思う。旧蔵者は上記の本の著者のひとりと看た。しかし、違うかもしれないので、実名を書くのはとりあえず止めておこう。
- 2019/10/07(月) 19:45:54|
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古本屋通信 No 4227 2019年 10月07日
1970年代、党教員支部(細胞)会議のことなど
きのう妻の永年党員証のことを書いたあと、54年間という長期の党生活は妻にとっても余り意味が無かったといふような事を書いた。だが読み返してみて消した。それを書くことのほうがさらに意味がないと思えたからだ。要するに永年党員証は学校の卒業証書みたいな一枚の紙きれに過ぎないと思えた。ただ1965年11月の入党といふのは9大会三中総の拡大運動での入党だったと思った。以下では趣向を変えて、(私はすでに脱落していたが)1970年代中葉に私たちのマンションで行われていた妻の党教員支部会議のことを書いてみたい。
こういう半世紀まえの想い出ばなしは一般の物書きの書物にはいくらでも登場するが、素人のブログでは珍しいだろう。登場人物にいくらかの配慮をしたうえで自由に書いて構わない。アホなカルト党員がいるから、ねんのため。但し、書かれた本人限定だが、クレームが着けば、私はその部分は無条件に削除する。アッハッハ、物書きである坪井あき子さんがクレームを付ける可能性はパーフェクトにゼロである。カルト党員は坪井さんを見習えよ。
たしか1975年だった。妻が犬島小学校から岡山市中心部の伊島小学校に転勤になった時、思い切っていわいサンコーポというマンションを購入した。すでに長男は生まれていたが、とても便利な住家だったので会議の場所に最適だった。私は部外者だったが、いちおうシンパだったから警戒もされず話にも入れて貰った。
すっかり忘れていたが、このときの党支部長が坪井あき子さんではなかったかと思う。坪井さんも妻と同じ伊島小学校の勤務だった。ただし津島学院と呼ばれる親のいない子供ばかり集めた特殊学級だったろう。
党支部は7,8名の支部だったと思う。多少入れ替わりがある合同支部だった。メンバーの多くは記憶から消えているが、記憶に残っている党員もいる。香川大学から岡山の教員になった我々夫婦の友人であるS君。それから同じく橋本君。橋本君は妻と同じ伊島小学校勤務だったが、まもなく病気で急逝してしまった。だから実名にした。香川大は健在だったのだ。それから武田英夫君の細君の道子さんは、教員ではなく県教組書記だったが同じ党支部に所属していた。それから則武真一さんの娘さんが同じ支部だった。彼女は幼稚園の教諭だったが、その支部が無かったので一時的に小学校支部に属していた。でもやがて転籍したと思う。それから萩原地区委員長の細君の清子さんも同じ支部だった。坪井あき子さんのあと津島学院の教員だった。
あっ、もう一人思い出した。Aさんという愛媛大学を出た、私たちより一つ年長の党員だ。かれは清心女子大の附属小学校の教諭だった。私が古本屋になってからも清心の教授からAさんの武勇伝は聞いた。かなり強引な活動をしていたという。ところが公立学校の教員試験に合格すると同時に党から離れたらしい。それも離党ではなく自然消滅した。と同時に妻などとも、顔を合せても目を反らせるようになったという。私もよく知っている元愛媛大民青の方である。結局彼は夫婦とも教頭校長の道を歩んだという。私の中では管理職になったらオワリだという想いは強い。これは民間でも同じである。
私はこの会議でたしか数回、絶世の美人に出会うのである。どうも同じ支部員だとも思えない、数回だけ臨時で参加したのだと思うが、それが田中のぞみ現岡山市議のお母さんだった。お腹が大きかったかどうか記憶にないが、学生結婚同様だったそうだから、すでにのぞみちゃんは生まれていたのかも知れない。絶世の美人であったことは最初にのぞみちゃんに会ったとき伝えた。あんたも別嬪じゃけど、お母さんには敗けとるなあ、と。それを先日も伝えたら、もう70歳ですからと言われた。
それから当時の支部に指導に入っていたという記憶はないのだが、支部会議のイメージとダブって記憶にある美女がもう一人いた。それが石井妃都美さんである。別嬪ではあるが、学生あがりの嘴が青い娘さんだというイメージはあった。党地区専従になったばかりの後の党幹部会委員である。直接話した記憶はない。
会議そのものには私は参加できなかったが、狭いマンションだから会話は筒抜けであり、警戒されることもなかった。キャップは坪井さんではなくS君だったかも知れない。それと則武さんの娘さんも大柄な美人だったが、みなさん父のために宜しくお願いします、という言い方が顰蹙をかっていた。坪井さんは親が甘やかして育てたから娘がなっていないと言っていた。あき子さんの亭主の宗康氏と則武氏は山陽新聞の元同僚であった。
妻は会議の場所を提供するだけの末端の党員だったが、党生活は楽しかったように見えた。もっとも二人目を妊娠していて殆んど党活動はやっていなかったと思う。
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この阿呆、一行で済むところを小理屈を並べて、自分をいっぱしの理論家だとでも思っている。無意味な多弁が恥かしい。
3. KF
2019年10月07日 02:40
日本共産党が、党中央の主体的判断として、政党助成金を受け取ることは、あり得ないと思います。
革命政党を自認する共産党にとって、革命以前の政府とは、支配階級(資本家階級=大企業・財界)の奉仕者であり、打倒の対象です。打倒の対象である政府から助成金を受け取るということは、政府に屈服するということであり、革命政党としての立場を放棄することです。すなわち、党のアイデンティティを自ら捨てるということであり、党中央としては、絶対避けなければならない。
アホ低脳。ならば議員歳費はなぜ政府への屈伏でないのか。それはブルジョア議会であっても一定の民意の反映はあるし、民意の反映が党の議席だから、有権者の税で賄われる議員歳費は当選ながら受け取る。この理屈と政党助成金受領の是非はまったく別である。党は議会内存在ではない。ブルジョア議会があろうがなかろうが、政治結社は大昔から存在する。もちろん憲法以前である。ならばブルジョア法によって助成される謂われはまったく無い。分かるか? 分からんだろうな。阿呆だから。
だから、党の内外から、党の財政を憂慮して「助成金を受け取ってもいいのでは?」という声が上がっても、それを否定するために、あらゆる理屈を繰り出して来ました。理屈なんか一切言っていない。
典型的なのは、政党助成金は憲法違反だという理屈( https://www.jcp.or.jp/faq_box/2002/0224-faq.html )。憲法以前だが憲法違反でもある。政治結社の自由の規定に違反している。
以下、付き合い切れない。
もう一つは、助成金を受け取った党は、「政治とカネ」の感覚が麻痺して、堕落・腐敗した、税金頼みの「国営政党」になり下がるという理屈( https://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-12-27/2014122703_01_1.html )。
こう言ってしまった以上、もし党中央が助成金を受け取ることを決断すれば、それはすなわち、「我が党は、今後は、憲法違反で、政治とカネの感覚が麻痺し、堕落・腐敗した、税金頼みの国営政党になる」と、党中央自ら宣言したことになります。
いくら党員たちが過去の党の主張(憲法9条反対党の憲法草案くらい読めや、阿呆、中国の核実験擁護など擁護などしたことは皆無である。帝国主義の圧倒的核兵器に対抗する中国の核実験を同列におくことが帝国主義の核兵器を結果的に利するという事実を指摘したまでだ。をきれいに忘れ去る実績を持っていても、これをも同じように忘れてくれる保証はありません。党中央に対する不信感が一気に高まる可能性があると、党中央は認識しているでしょう。
共産党が政党助成金を受け取るのは、党の支持者である「市民」たちから、「助成金を受け取って欲しい」という声が、「圧力」と言っていいほどに高まる場合バーカ、あるわきゃニャーイワ。しかあり得ないのではないかと思います。
- 2019/10/07(月) 02:37:10|
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古本屋通信 No 4226 2019年 10月06日
永年党員証
このころはまだ2004年の綱領改悪まえだったので、赤字のようなマトモな文言があったのだな。納得。
「 永年党員証 石川真佐代同志 一九六五年十一月入党
日本共産党は創立以来一貫して日本の労働者階級と人民を搾取と抑圧から解放するため不屈にたたかってきました。
貴同志が党歴三十年をこえ長期にわたって この党の党員として 活動したことを記念し 本証書と記章を贈ります。
一九九五年七月十五日 日本共産党中央委員会 」
応接間の本箱の上に、数個の紙筒に入った表彰状があった。その一つが上の文面の永年党員証であった。香川大学二年時の入党であった。私とほぼ同時の入党だったろう。当時の学生の入党は民青同盟で一年間試された者という暗黙の条件があったので、二年時の入党であったのだ。
妻は生前、日本共産党員であることを公表していなかった。また公表することを考えてもいなかった。だが積極的に隠そうともしなかった。例えば妻の絵を今回お持ち帰りになった方のほぼ全員は、妻が日本共産党員しかも永年党員であることは知っておられただろう。私の古本屋通信を読む方も、妻の党員を当然の前提にしてお読みになっていたと思われる。
妻は自分から積極的に公表することは考えていなかったが、死後に私が公表することを拒んでいなかった。これは確信である。まあ自分が夫より先に死ぬとは夢にも思っていなかったのだが。
よってここに公表する。公表の根拠は、私の記憶や妻の語りではなく、物的証拠としての永年党員証が厳然と存在するということである。ここにあるのは党歴三十年の永年党員証だが、さらに二十年後に党歴五十年の証書を貰っている。これが2015年7月15日である。妻は今年7月に死亡したから、党歴は五十四年だったということになる。
以下は公表に当っての私の感想である。正式に所感を述べるというような「見解」ではない。思いつきの「雑感」である。
妻が私とちがって、この党に長期にわたって留まっておれたのは、私に言わせれば日本革命に対する理論的無関心の結果であった。別に非難に価しない。妻は多くの共産党員と同じように、この党に属する仲間への限りない信頼があった。ゆえに党員であり続けることができた。また同志たちも妻の誠実さを信頼して付き合ってくださった。今回の絵をお持ち帰りのかなりの方は妻の同志であると私は認識している。そういう信頼関係に恵まれた妻が私は羨ましいとさえ思う。
この党に対する私の批判は多い。だがこの党のすべてを完全否定する地点からは日本革命の展望は拓けてこない。これまで論じ尽くしてきたとおりである。
私が党によって転籍を不当に握りつぶされたのは1970年だったが、たとえこの時の除籍がなくても、2年後に私は確実に離党していた。新日和見主義事件の時である。
この1972年から妻の死亡する2019年迄の47年間、私たち二人は党員と非党員の関係にあったが、この問題で対立や桎梏(または確執)は一度も無かった。我々の間には党の問題を遥かに超えた信頼があった。だが断っておきたい。これは性愛だとか夫婦愛では断じて無い。夫婦間には子育てや私の無職などを含めて多くの問題で対立や確執があった。だが党の問題と政治の諸問題については無かった。
いきなり至近の問題に移るが、こういう問題がまったく理解できないのが例のカルト党員である。我々の夫婦仲が円満なのが不思議で堪らないのだ。なんで真佐代さんは反共の古本屋通信を許すのだろうと思って怒っておられる。言うまでもないが県委員会は完全に理解されている。理解できなければ一日たりとも党幹部はつとまらない。これは人間の問題ではあるが、極めて高度な階級闘争の問題である。
妻の(政治的無関心に基づく楽観主義的)期待とは違って、この党はいま絶滅の危機にある。党員の老齢という自然死である。妻の死によって日本共産党員は確実に一人減少した。今の党方針では党の再建は絶対に不可能である。古本屋通信の批判こそが党再建の道である。
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以下、余談。
世間には夫婦党員を遥かに超える、夫婦いずれか党員が存在する。しかし党員と非党員の組み合わせ生活をブログで公表している例は少ないだろう。ここに古本屋通信の人気の秘密がある。ノゾキ見趣味である。私はそれを十分意識して記事を書いている。ただしノゾキを満喫してもらうためではない。党の民主主義のためだ。それは日本の民主主義のためでもある。分かるかなあ。
もう一つ余談。
先日拙宅にこられたY・Mご夫妻。この方は明らかに党員ではないから、妻が50年党員であることを申し上げた。まったく当然のことと受けとられた。そして党に反対のブント崩れであっても、個々の党員には敵対しない。細君のMさんは九条の会である。妻の死は党員の知人から聞いておられた。このご夫婦に対する妻の姿勢と、私の新左翼に対する姿勢が共通しているということだ。我々は最早1970年のゲバに時代に生きていない。
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別項目を立てないで、この場所で、現代志位政治がいかにデタラメで拙劣かを、かれ自身に語らせよう。
垣内京美さんがリツイート
志位和夫認証済みアカウント @shiikazuo · 10月4日
私たち日本共産党は、野党共闘の道を選択してから4年間。共産党独自の主張は堂々と行いつつ、不一致点を野党共闘に持ち込まず、一致点で大同団結をはかり、さらに一致点を広げ、野党共闘を発展させるために、一貫して努力してきたつもりです。今後もこの姿勢を揺るがずに貫きます!
このツイッターにはネット右翼からの批判よりもカルト党員の支持が多いが、こういう綺麗ごとの詐術に惑わされるようでは日本革命の道は遥か遠いだろう。
そもそも「野党共闘」など4年間皆無であったという点は置こう。党独自の主張とは、例えば日米安保条約を廃棄し米軍を日本からたたき出す政治課題であろう。この4年間、党はこの政治課題実現のため、いかなる独自のたたかいを実践してきたか。理念を掲げて降ろさなかったなどはダメだ。いかなる大衆闘争を組み主導してきたか。完全にゼロであった。のみならず政治課題として赤旗の冒頭に掲げることさえも止めている。完全に安保棚上げである。つまり米日反動勢力への完全な屈服である。
それはそうだろう。旧民主党の前原一派は言うに及ばず、立憲民主党のすべての党員は日米安保大賛成、憲法改悪大賛成なのだ。「不一致点を野党共闘に持ち込まず」なら、日米安保に賛成し、憲法改悪には賛成だが安倍改憲にだけ反対するしかなかろう。これが「一致点で大同団結をはかり、さらに一致点を広げ」のペテン的現実なのだ。つまりブルジョア議会で戯れているだけである。その犯罪が最も端的に顕われたのが、27大会に元自民党幹事長の小沢を迎えて喋らせ、党始まって以来の大歓声を上げたことであろう。革命政党としてはもちろんのこと、議会主義改良政党としても完璧に済んでいた。これが「野党共闘を発展させるため」だったのである。次期28大会での引退はもはや既成事実となっている。小池ではもっと悪いワ。
ねんのため。日米安保については即時廃棄しかない。これのみが正しい。かつての社共共闘のスローガンがそれであった。民社党は「駐留なき安保」だった。公明党は「安保の段階的解消」だった。これが如何なる末路を辿ったか。すべて日米安保大賛成である。アホらしくて付き合いきれんワ。
垣内京美さんへ。真佐代の絵を貰ってくれて有り難うよ。でもそれはそれ。こんなアホなリツイートしているようでは県書記長は無理だ。ワシ、あんたの評価、しばらく変えんぞ。覚悟しとけ。
- 2019/10/06(日) 04:52:49|
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