古本屋通信

伊藤詩織から出版を考える

古本屋通信   No 3134    2018年  02月23日


   伊藤詩織から出版を考える

 低脳とキチガイと動員によるレビューは少なくなったようだ。

5つ星のうち4.0
美女
投稿者 kojiro 2018年2月20日
美人で魅力的だと性的好奇心の対象になります(近親者を含む)。そうでなければ就職の世話などしないし、高級店で奢ったり、下着を欲しがったり、またこの本がベストセラーになったりしません。女性に対する性暴力などと一般化しないでください。100人中99人はこんな目には会わないのでご安心を。


5つ星のうち1.0
元キャバクラ女の強弁

投稿者 三内丸山縄文人 2018年2月20日
ひつこくメールして就職させてもらった。ホテルでゲロ吐きまくった。「避妊しないでやっちやった」Tシャツ返せ。一発やらせるくらいがなんだ。


5つ星のうち1.0
仕方なく★1つ
投稿者 Amazon カスタマー 2018年2月23日
私は女性ですが全く共感出来ません。
別の思惑がありレイプ被害者という過激な立場をとったのでしょうが、伊藤詩織さん、まっとうに生きた方がいいですよ。
レイプ被害というものは殺人と同じなのです。人間の尊厳を根底から覆すこと。
評価が高いのも動員の結果かな。




  古本屋通信

  一番上だが、私は伊藤詩織が美女など反吐が出る。だが好みもあろう。伊藤は美人でないし華もないが、娼婦の妖艶さはある。私に云わせると高級コールガールである。マア単なる田舎のオバサンとは違うだろう。つまり正邪を抜きにして「絵になる」のだ。私は「就職の世話や、高級店での奢りや、下着を欲しがったり」 が如何なる基準でなされるのか興味がないが、「本がベストセラーになったり」 には、ひとこと言いたい。

 伊藤の著書「Black Box」が伊藤の持ち込み原稿であった可能性はない。つまり文春が書かせたのである。直接か人を介してか分からないが、文芸春秋社の編集者は伊藤に会った。その段階で編集者から出版企画を持ち出している。伊藤が切り出して編集者が乗ったのではない。逆である。編集者が切り出して伊藤のアレコレの体験を聞いた。その上で企画の詳細を伊藤に提示した。

  後は伊藤に書かせたのではない。共同執筆というより伊藤の話を聞いて編集者が執筆した。あるいは編集者が別のゴーストライターを起用したかも知れない。然しコレは永久に藪の中である。なぜなら3者の間でそういう契約(お互いに口外しない契約)になっているからである。コレは原稿料印税のペイを含めて税務関係に違法性はない。

 その前段階の出版が成立するに当っての前提だが、出版社はペイすると踏んで伊藤と話を進めた。そのさい編集者が、伊藤が準強姦の被害者であると確信したとういうことは絶対に有り得ない。「よし、山口が姦ったという線で押し通そう」 となった。「伊藤さん、嘘でもいいから、強姦されたというラインで話を進めてください、辻褄はこちらであわせるから」 となった。伊藤はホロリとしただろう。本当に犯された気分になったのだ。

 もうひとつ大切なことは女の外見。本が売れるか、売れないか、この場合は性犯罪は嘘なんだけど、H 話である。ブスがいくら H されても本は絶対に売れない。恐縮ながらKM生様流に言えば、本を読みながら伊藤詩織の顔から体躯まで想像しながらマスターベーションし、しかもフィニッシュに至る過程、その十分条件を充たしている本でなければならぬ(コレを世間ではアダルト本またはエロ本と呼ぶ)。

 編集者も文春出版人も山口がシロである(クロでない)と知っている。だって刑事事件としての結論が出ているのだ。万にひとつも民事で逆転する可能性はない。誰にでも聞いてみよ。逆転の可能性があれば、「民事裁判の伊藤詩織さんを全力で支援しよう」となっているだろう。そういう声は皆無である。したがって本の出版はデマの拡散でしかない。そのことを出版社も編集者も知り尽くしている。嘘でも売れればよい。それが出版業である。「週刊文春」に書けば名誉毀損で負ける可能性もある。個人著作とりわけ単行本では、著者も出版社も責任を問われることはない。

 以上は出版業界のイロハである。だから私は伊藤の本など一瞥もくれない。いまだに読んでないのは、読まなくてもすべて読めるからだ。

  数日前に超党派国会議員の第4回目の検証会があったが、何の新証拠も挙げられず霧散した? アホ女に混じって柚木がひとり。田村智子は中座している。瑞穂も準強姦を実地で体験したらよい。そんなアホがと思うだろう。

  二番目と三番目にコメントする時間がなくなりました、ごめんなさい。

 日本共産党の有志諸君、とことん山口強姦で押していったらよい。アベ政治を許さないってね。山口夫妻の結婚式に安倍の写真が写っててよかったね。山口は強姦したんですよ、安倍の許可を貰って伊藤を犯したんですよ。
  1. 2018/02/23(金) 17:36:29|
  2. 未分類

2チャンネルはにゃん様専用板に

古本屋通信   No 3133    2018年  02月23日


   2チャンネルはにゃん様専用板にして下さい。


 久しぶりに覗いたら、下があり、その前後でにゃん様をめぐって盛り上がっていました。この調子だったら古本屋通信なしでも1000行くでしょう。

 私は降ろして下さい、お願いします。マル彦さんはもう来ないでしょうし、デボーリンは東京××ですから、ちょっとレベルが・・・。

 私ももう読みません。どうか皆さんでシアワセにやって下さい。


297革命的名無しさん (ワッチョイ)
2018/02/20(火) 12:57:56.610
にゃん様に話題奪われて古本屋先生の元気が無くなってるね
  1. 2018/02/23(金) 16:20:40|
  2. 未分類

KM生様のコメントに ・・・

古本屋通信   No 3132    2018年  02月21日


   キンピーサイトのKM生様のコメントに・・・

・・・・に正面から異論があるわけじゃあないのですが、(「資本論」は措いて)、 私のコメントを夫々の後に赤字で点けてみました。




5. KM生 @受験生の認識は正しい
2018年02月21日 15:41
1)たすかにマルエンレーニンを字面通り読めば、社会主義は暴力革命。一方「時代が変り社会状況も変化したから、議会を通じた社会主義を目指す」というのが、日共の61年綱領制定以後の主張。

マルエンレーニンはおっしゃる通りでしょう。一寸違和感あるのですが、61年綱領制定時(1961年)には「議会を通じた社会主義を目指す」という表現ではなかったのではないでしょうか? 微妙なちがいで恐縮ですが、最大限議会を通じて、革命(民主主義革命から社会主義革命への2段階連続革命)を目指すというような表現だったとの認識です。これは61年綱領の報告集である宮本の『日本革命の展望』を精読しての私の認識なのですが、ここら辺があったから後の中国分派も61年綱領に賛成したのでしょう。その後、60年代後半に入って、おっしゃるように変化し、最終的に70年代初頭、上田・不破によってブルジョア議会万能になったという認識です。


2)むろん今の時代に暴力革命なんぞあり得ない。実際日共も、50年代前半には暴力革命を目指して結果壊滅的打撃を蒙った。

私は61年綱領支持の立場です。その立場からは、そもそも「暴力革命」という用語と云うより、概念は存在しません。51年綱領の件は別にして、61綱領では、革命の形態は党が選べる性格のものではなく、あくまで権力側(敵)の出方に因るでしょう。今(今後)の時代も「暴力革命」はあり得えます。そういう意味でレーニン(主義)は生きています。新左翼諸党派は革命に暴力は避けられないとの立場でしょう。私も大袈裟に考えるのではなく、あさま山荘銃撃戦程度の暴力は避けられないと思います。必ずと言ってよい確立で、自衛隊の一部がCIAと結合してクーデターを画策するでしょうから、彼らの反革命は実力行使に拠って合法的に武装解除する必要があります。それを悪意ある政府公安当局は「暴力革命」と呼んでいます。まあ全てまる腰で革命が達成できるというようなオメデタイ夢想家にはなりたくありませんね。


3)問題は、「議会を通じた社会主義革命」などというのが果して存在し得るのか?特に現在のような(ソ連東欧旧社会主義国崩壊以後の)世界中で共産党労働党が崩壊している時代に。

私は「議会を通じた社会主義革命」などは幻想だと思います。基本的に議会はおしゃべりの機関ですから。これは今の国会を見れば明らかです。革命は議会を利用することがあっても、基本的には議会外、たとえば人民評議会というような場所が主体になります。これを何重にも民族民主統一戦線勢力が支えます。世界にいまだかつて議会を通じてのみで、革命を成功させた例は皆無でしょう。みんな議会外の人民蜂起です。これは物騒なことでも何でもなく、逆にソ連・東欧の国家が崩壊した時を考えればイメージがわくのではないでしょうか。


4)結論的に言えば、「議会を通じた社会主義」が「高度資本主義国におけるマルエンレーニンの今日的発展形態」などといえるのか?世界中で何一つ実現せず、むしろ衰退の一途を辿っているのに。むしろ「マルエンレーニン主義は資本主義分析の武器ではあっても、資本主義変革の武器とはなり得なかった」のではないのか?

マルエンは資本主義分析の武器でしょう。レーニンは今もなお資本主義変革の、つまり世界革命と日本革命の武器でしょう。国家の性格はまったく変わらず、帝国主義も、国家独占資本主義も生きていますからね。マルエンもですが、レーニンも百回以上殺されています。日本では共産党と前後して、共産党よりも徹底的にレーニンを殺したのが共産主義労働者党(共労党プロ革派)でした。これは岡山が拠点のひとつでしたから観察できました。今の緑の党ですね。環境政党というより選挙互助会です。やがて絶滅します。横田悦子の時代は何とか面目を保っていましたが、今の鬼木市議は江田に取り込まれています。希望の党に近いでしょう。レーニンを放棄したら党自体が崩壊するしかありません。日本共産党もそうなりつつあります。何ら日本革命を目指さず、議員と党専従がメシを食べる組織になりつつあります。デボーリンやマル彦さんはそれが完成したと看ています。私はまだ再起の可能性を否定し切れないので、こうしてブログを発信し続けているのです。だから党内の駄目な部分にはトコトン言葉が厳しくなるのです。



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  加筆

 いま、23日になった時点で、拍手が8個付いています。どちらかと言えば特殊な議論なので、読まれた方は年配の党員または元党員だと思います。ちょっと気分をよくして、少し書き加えます。ただし文献が手元にありませんので、記憶による事をお断りしておきます。赤字から黒字に変えます。


  論点ですが、上記のKM生様の 1)に対する多少の違和感は、61年綱領の策定時から60年代前半に於ける党綱領の捉え方に関わるものです。つまり1966年中国文革から毛沢東盲従派の発生までの時期、党中央はいわゆる議会主義路線ではなかったということが言いたいのです。

  その頃つまり私が入党した1965年の細胞会議を鮮やかに思い出します。

  主要には党綱領の理解に関わるのですが、当時のメインは志賀派(日本のこえ)との論争でした。それと関係して、綱領論争での反対派(春日庄次郎派、内藤知周派)との対立点も議論されました。

  以下は党中央の見解として香川県委員会副委員長(理論分野の県のトップ)の石田千年氏が明言したことです。

われわれは平和革命唯一論ではありません。革命がどういう形態をとるかは国家権力つまり敵の出方による、これはハッキリと党綱領に明記してありますから間違えることはありません。これは綱領論争の過程で反対派との激しい論争を経て確立された党の見地です。然しいまになって志賀は党が平和革命唯一論であるかのごときデマを振り撒いています。春日や内藤らへの屈服です。これがひとつ。

 もうひとつは日本革命の方法に関してです。春日や内藤が革命を議会を通じてやろうという見解であることは広く知られています。これは、ブルジョア議会で党と統一戦線勢力が過半数を獲得することに拠って革命が達成できるという誤った議論です。ブルジョア議会は革命を有利に導く上で活用すべきですが、それ自体で革命が達成できるとするのはブルジョア議会主義です。これは誤った幻想であるだけでなく人民大衆の多様なたたかいをブルジョア議会に押し込めてしまう、極めて有害な反人民的な議論です。ところが最近の志賀はこの議論に同調するまで転落しています。



  石田副委員長が言ったとおり一年後に志賀と春日と内藤は大同団結をめざします。結果はそれぞれの思惑の違いから失敗しますが、いわゆる修正主義者が平和革命唯一論とブルジョア議会主義の2点で一致していたことは特筆されるべきでしょう。このことは裏を返せば、1965年当時の党中央が平和革命唯一論とブルジョア議会主義をハッキリと否定していたことを意味します。

  さて、これが微妙に、そして天下に明白に変化していく過程を辿るのが本稿の目的です。マア裏切りの跡付けですね。

  微妙な変化さえも表面に現れなかった、しかし深刻な出来事が1965年9月のインドネシアの政変(反革命)でした。下に私の過去記事を貼ります。4年前の記事ですが、当時は読者が少なかったのでしょう、拍手は7個しか付いていませんでした。何とここでもKM生様を枕にさせて頂いていました。


  再録

  
古本屋通信    No809   2014年  4月20日

  インドネシア反革命と日本共産党

 私は「No798 4月13日 キンピーサイトの最新エントリーを絶賛する」で、自分の文を書かないまま放置ていました。遅れ馳せながら少し書きたい。まず私が目を見張ったKM生氏のコメント全文を再引用しておく。

KM生

 実は1965年のインドネシア政変を(半世紀近く経てなお)総括していないのは、日共自身ですよ。
1)65年当時スカルノ政権の親中路線の下で庇護されて「非共産圏最大の共産党」と言われていたインドネシア共産党のアイジット議長は、度々日共党大会にも祝電をよこし、両党は友党関係を保っていました(この辺りは新日本新書「今日のインドネシア」蔵原惟人著に詳しい)。
2)政変の真相は今なお不明ですが、中国に唆された共産党員軍人が軍内保守派を攻撃した→反撃を喰らって殲滅された→軍隊の共産党員シンパ・華僑への虐殺が開始された→建国の父スカルノは追放するわけにもいかず軟禁処分とされ、事実上実権は保守派のスハルトに移った(余談ながらデヴィ夫人も国外逃亡した(^^)→対中断交・マレーシアとの国交樹立等、親中路線から反中親米路線に外交転換した。以上が政変のあらましです。裏でCIAが暗躍していたのは間違いないでしょう。
3)インドネシア失政は当時の中国政権中枢だった劉少奇・トウ小平らの威信を低下させ、大躍進の失敗で上海に蟄居していた毛沢東の反撃を招きました。これが翌66年の文化大革命に繫がります。劉トウらが「実権派」として迫害されたのは、周知の通りであります。
4)映画案内の指摘のように、当時の日本ではこの事件はほとんど報道されませんでした。当時のアカハタや日共党の公式文書ででも、国際情勢は大部分がベトナム戦争であり、インドネシア政変はスルーしています。しかし政変の日共に与えた衝撃は、決して小さくなかったはずです。
5)イン共壊滅の原因として、党財政を親中華僑資本の寄付に頼ったこと・政権の一角をなすことによってスカルノ・華僑への労働者農民の不満を取上げられなくなったこと等が、研究者の間では指摘されています。
6)当然日共宮顕は、イン共壊滅の原因を検索したはずです。恐らくその中から、「中国の武闘路線を受入れれば党壊滅に繫がる。党財政は中国に頼らず、独自の財政基盤を確立しなければならない」との教訓を引出したはずです。そしてこれが、翌年の日中両国共産党会談決裂(武闘路線の拒否)→日中両国共産党対立・文革批判へと繫がりました。宮顕に対する批判は多々ありますが、このあたりの政治的嗅覚の鋭さ・決断力は正当に評価しなければなりませぬ。
7)66年の10大会では、不破上田兄弟の幹部会抜擢・人民的議会主義路線への転換等が行われました。多くの日共ウォッチャーが指摘するように、「10大会以前は日共もそれなりに大衆闘争に取組んでいた。しかし10大会以後は、選挙党勢拡大一本槍の議会主義政党に転落した」というのが、この間の党の根本的性格変化を物語っています。


古本屋通信
私は1965年インドネシア九・三〇反革命の時のことをまるで昨日の事のように思い出す。私は革命は武力でもってしないとまず無理だと思っていた。500万インドネシア共産党は大目標だった。それがたった一夜で壊滅した。ほとんど全員が即日虐殺された。武装蜂起が失敗して皆殺しになった。私はすっかりビビッて寝込んでしまった。私はこのとき学生自治会の執行部にいたが、同時に民青高松地区委員になったばかりだった。地区委員長は小豆島バスから専従になったばかりのTさんだったが頼りにならなかった。そこで県委員長の上杉さんと話した。上杉さんは(これはたぶん党中央の見解は出ないだろうと断ったうえで)率直に自分の見解を話してくれた。
アイジットは毛沢東に言われるままにやった。するとこのザマだ。日本共産党は20万人だ。インドネシア共産党は500万だ。人口はあまり変らない。スパイも相当入っていただろうが、そんなことは何処も同じだろう。俺もショックを受けたが、党中央も民青も大変な騒ぎだろう。だがそれが率直なかたちで党見解として現れないだろう。民族主義的偏向の手直しは、既に4・17問題の自己批判というかたちで顕れている。今後はいっそう民族革命路線の否定が強められるだろう。中国路線の全面否定だ。いやも応もない。中共方式の結果がこのザマだからね。

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  古本屋通信


  ここから再度、私の今の記事です。KM生様の言われているように党は今日に至るもインドネシア反革命について明確な総括も、評価さえもしていません。それは余りにもショックが大きすぎたことと、世界の共産党・労働者党に関わる、自党と直接関係ない事件の評価は慎む、の2点があったと思います。だが党中央が宮本を中心に深刻な自己検討を重ねていたことは明白です。その内容の詳細はわかりませんが、KM生様の文と、民青香川県委員長上杉さんの評価と一致しているでしょう。

 で党はインドネシア政変の評価こそ表だってしませんでしたが、殆ど間髪を置かず、アッと驚く重大論文を発表します。矢継ぎ早にです(但し、この前に日中両共産党会議の決裂がありました)。中国共産党批判です。毛沢東路線の批判です。これにはアッと言いました。インドネシアのことなど全く書いていません。また日本国内の毛沢東盲従分子など、当初は出て来ないのです。いないのですから書けません。したがって50年分裂時の志田派の残党を挙げるしかない代物でした、今もネットで読めるでしょうか。『さざ波通信』です。

●アメリカ帝国主義に反対する国際統一行動と統一戦線を強化するために (『赤旗』1966年2月4日)

●大会決定を全党的に学習し、アメリカ帝国主義に反対する国際統一戦線の強化と国際共産主義運動の真の団結のために奮闘しよう (『赤旗』1966年5月11日)

●ふたたびアメリカ帝国主義に反対する──国際統一行動と統一戦線の強化について (『赤旗』1966年8月8日)

●志田一派の反党撹乱活動を粉砕するために (『赤旗』1966年8月10日)

●極左日和見主義者の中傷と挑発 (『赤旗』1967年4月29日)

●撹乱者への断固とした回答──毛沢東一派の極左日和見主義集団とかれらに盲従する反党裏切り分子の党破壊活動を粉砕しよう (『赤旗』1967年8月21日)



 つまりインドネシア政変が1965年9月30日で、最初の赤旗の2・4論文が1966年2月4日ですから、4ヶ月しか経っていないわけです。党の対応というより宮本の対応は早かった。然し表題を御覧のとおり、最後のひとつを除いて、毛沢東や中国は全くありません。とにかく我々は長大な無署名論文を、赤エンピツで棒線を引きまくって熟読し、細胞会議で数回にわけて討議しました。読まなかった党員は皆無だったでしょう。それは今まで中国共産党の毛沢東と言ったら宮本や野坂より党内で権威があったのですから、読まざるをいなかった。そして全員がその後の党論文と、中国共産党批判をよしとしたのです。

 いま考えても不思議なのは全国の大学で中国分派が全く発生しなかったことです。山口大と下関市大だけでしょう。あれくらい構造改革派分派が広がって、安保闘争後には全自連の多数は彼らが占めていたのです。ところが中国派はカスリもしなかった。

 ただ党中央は対ソ連分派に対しての数倍、対中国分派に対してたたかったでしょう。これもよく分からない。

 休憩 1970年代初頭に上田 『先進国革命の理論』 と、不破 『人民的議会主義』 によって、党が最終的にブルジョア議会主義に転落するまでを素描します。といっても、二人にとっては元巣の構造改革論への里帰りだったでしょう。これは時期的にはシンヒヨとほぼ一致します。ただ幸か不幸か、党の議会での一時的躍進と重なっていました。
  1. 2018/02/21(水) 22:06:24|
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民青同盟東京の青山昂平君へ

古本屋通信   No 3131    2018年  02月21日


   民青同盟東京都委員会の青山昂平君へ

 まだ若いのに気の毒だが、こういうカルトが民青幹部だったら、民青が一万人に増えることは有り得ない。万一そうなったとしても絶対に使い物にならない。そもそも青山君からしてキチガイだからだ。

青山昂平 @iyaiya_55
民青同盟東京都委員会で活動しています。2017年総選挙に、東京第4区(大田区の中南部)から立候補(日本共産党公認)。みんなの声がまっすぐに届く政治


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青山昂平‏ @iyaiya_55 · 2017年10月26日
総選挙、共産党の議席を減らしたのは本当に悔しい。しかし、選挙直前に、希望の党による民進党の併合という逆流がある中、立憲野党がこれだけ議席を取ったのは、大きな成果。
市民と野党の共闘は、だれにも止められない❗
次の選挙では、さらに共闘をパワーアップして、新しい政治に変えよう。




  古本屋通信

 文面に即して見ていく。口では悔しいと言っているが、本心ではまったく悔しがっていない。それがマル分かりだから、周囲から軽蔑されて、同盟拡大にも党員拡大にも、ヒトが寄りつかない。それはそうだろう。常識で考えて、日本共産党が選挙で競合したのは自民党でも希望の党でも維新の党でもない。立憲民主党である。比例得票において、日本共産党の得票前回比百数十万減の殆どは立憲民主党にくわれている。つまり日本共産党はこの党に敗れたのである。だったら、「立憲野党がこれだけ議席を取ったのは、大きな成果」などと、口が裂けても言えない。普通の大学生の常識で分かることだ。日本語の問題であり、論理の問題だが、普通の大学生は感覚でもそう捉えるだろう。あのねえ、志位低脳委員長をリピートした時点で、青山君は済んでいる。絶対に民青は増えないよ。

 何から何まで間違っているのだが、選挙戦のイロハも分かっていない。ふだん共闘している他党派であっても、選挙になったら争点を明確にして互いに戦うのが選挙なんだ。共闘それ自体を選挙スローガンにした時点で負けなんだが、これは社会科学的には解党主義というんだよ。こんなの大昔の戦前からあった。山川イズムと言うんだ。岡山出身の山川均という人の論だったんだけど、後に裏切って社会民主主義者になったよ。その反動で福本和夫が出てきて極左の福本イズムになるんだ。でも党史の上で、27テーゼとか、32テーゼとかが採択されて、戦前に誤りは克服されています。志位やキミが言ってる低脳は論外のオソマツなんよ。

 それから「市民と野党の共闘はだれにも止められない」って、まさか本気なの? カルト以外の百人が百人キチガイ扱いにするよ。だって市民なんて何処にもいない。野党って、立憲民主党を筆頭に、だあれも共産党との共闘に目もくれない。京都府知事選挙が「市民と野党の共闘はだれにも止められない」って、まさか本気なの? ホンマにカルト以外に通用しないよ。

  いったいどういう民青をつくりたいの? 『資本論』を読んでいる大学生がいるんだってね。いっしょに学習会をやってごらんよ。そして同じことを言ってごらん。確実にキチガイ扱いされるよ。

追加 気が付いたから最後の「次の選挙では、さらに共闘をパワーアップして、新しい政治に変えよう」に就いて。総選挙でこの「市民と野党の共闘」路線でたたかって大敗した、なのにそれを繰り返そう、と言っている。総選挙では百数十万票減らしてるんだ。同じことを繰り返せば更に減るだろう。なのにこう書ける根拠は志位のリピートしかない、それを党カルトという。党カルトは敗北を約束されている。絶対に民青は支持されず、カルトとして馬鹿にされ切っている。
  1. 2018/02/21(水) 18:32:01|
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2階から小便ー50年前の記憶

古本屋通信   No 3130    2018年  02月21日


   2階から小便ー50年前の記憶

 小便に階下に降りて行くのは何時の時代にも鬱陶しいという話である。それを洗濯物を乾しに上がっている連れ合いにしたら、即座にこう返してきた。

 「あんた憶えているか? あんたとM沢さんが、下宿で便所に行くのが面倒で、2階から小便を飛ばしていた.それが有名になってたのを知ってるか?

 まったく記憶にない。だがそういう事実がなかったとも言えない。その頃のことを少し書いてみる。

 私は大学2年生から4年生まで、時代で云うと1965~68年まで、高松市旅籠町の不動産屋2階に、M沢君(同学年の経済学部学生)と一緒に下宿していた。場所は高松市のメイン通りである観光通りと栗林通りの交差する地点から100メートル栗林公園に寄った地点にあった。我われのまえの借家人は自主上映をやっていたFさんだった。まあ代々が学生活動家に貸していたのだ。大家さんは家賃を滞納しても悪い顔をしなかった。

 観光通りと栗林通りの交差する地点には、民青香川県委員会(同高松地区委員会)の事務所があった。要するに我われの下宿は民青の事務所から100メートルの至近にあったのだ。つまり活動家の巣窟にされがちだった。然し、常に会議に使われては堪らない。個人の生活が無くなってしまうからだ。だから極力断った。然し、断っても断っても当時3桁いた「同志」はやって来るのである。

 当時の大学男子寮は屋島寮だった。ここは民青の拠点でもあったから、大勢の活動家がコトデン瓦町駅経由で大学に通っていた。我われの下宿は大学から瓦町駅の途中に位置していた。コトデンの屋島行きの最終は午後11時だった。そしてそれに遅れた民青は 「泊めてくれ」 と云って、我われの下宿に転がり込んできた。いやな顔をする暇もなかった。

 たちどころに数名が思い浮かぶ。先だって50年ぶりに「私信」をくれて一悶着起こした元経済学部委員長のM浦君もその一人であった。と云っても彼は記憶していないだろう。私が2階から小便を流した記憶がまったくないと同様に。

 半世紀前の記憶は個人差もあるが、出来事によって極端にマダラ模様であろう。先日私は過去記事を削除したが、そもそもは私の記憶違いに起因する削除だった。結果、当時の学生自治会関係の記事はきれいサッパリ消滅したわけだが、これも成り行きであろう。

 当時のことをよく記憶している点では、M浦君も私も同様であろうが、実はその反対にまったく記憶に留めていないK野君の存在に私は驚いた。があとで納得した。M浦君も、K野君も、そして私も、当時の活動家としては大学内で知られれていた方だろう。

  M浦君のその後の50年は知らないが、いま被団協の県段階の責任者らしいから、党員であろう。私は知っての通り脱落分子である。で、K野君なのだが、ネットで検索すると故郷に帰って行政書士の仕事をやっていた。50年が空白に見えるのは、たぶん党や左翼と関係のない50年だったからだろう。よいも悪いもないが、私が感銘を受けたのはK野君が学生時代の活動のことを殆ど記憶に留めていなかったことだ。自分にとって必要ない自分の過去は忘れたいという一面はあるだろう。でもそれだけではない、価値を認めない過去情報は人間的自然として記憶に残らないのだろう。

 M浦君とのあいだであった一寸したトラブルは、私の記憶違いに起因する事はたしかだ。スムーズに是正されればよかった。だが、そうならなかったのは、M浦君のせいでも私のせいでもなかった。50年度の歳月と、その間の二人の党派的差異だったろう。

  私は当然ながら、彼の「私信」を下敷きにして、当時の学生総細胞キャップのK野君のことを書いた。そして党東讃地区委員長T氏の官僚的指導のことも書いた。ここまで書けば今のM浦君の立場はないであろう。だが板は私の板である。その立場からはM浦君は闖入者だった。かくして破談し、エントリーは削除された。

 きょうの記事は連れ合いの記憶に感銘を受けたから書いた。50年近く一緒に暮らしていてはじめて聞いた。
  1. 2018/02/21(水) 09:21:55|
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