古本屋通信

ちゅうたしげるさんへ

古本屋通信    No843   5月11日

  ちゅうたしげるさんへ


 県北の詩人・ちゅうたしげるさんより、古本の買取りについて質問がありました。まずは用件についてお答えいたします。古本屋は結論だけ言います。それについてアレコレの理由づけはいたしません。


 
 新日本新書

businesslike で失礼します。新日本新書が50冊たらずあるのですが10万円でどうですか。店の場所がわかれば持参します。失礼ご寛恕ください。
2014/05/11(日) 14:30:51 | URL | ちゅうたしげる #ioNTQDqo


 古本屋通信
 残念ながら当店では新日本新書の買取りはいたしておりません。評価はゼロです。全点揃っていても変わりありません。

 それから、古本屋通信の店は一応リアル書店ですが、この通信はバーチュアルなネット上のサイトです。したがって、私の場合、ブログのコメント欄でリアル書店に関するお問い合わせは出来ません。今後は自動的に削除するようになりますのでお含みおきください。

 また、当方はリアル書店に備え付けの電話はありませんが、仮にあっても(ケイタイがあります)本の売買や在庫に関するお問い合わせには応じません。他店については確実なことは分かりませんが、古本屋は電話での問い合わせを極度に嫌うようです。電話は客人にとっては便利でしょうが、古本屋にとっては極めて不本意です。相見積もりをとるために電話を掛けてくる。しかも先方が何処の誰だかわからない。とにかく古物の売買は実物を目の前にして商談をする、それが大原則です。一切の電話お問い合わせは固くお断りする、これは当然です。以上が今回限りのお答えです。


 それは措いて、よくお越しになりましたねえ。あなたのブログは時々拝見しています。私のブログでも一度あなたのお名前を書いた覚えがあります。そのエントリーを再録して歓迎の挨拶とします。本の問い合わせも左翼ブログとして、売買に関係なければ大いに歓迎です。またの投稿をお待ちしています。

 済みません。ちょっと見つかりません。
 見つかりました。最後の所に貼ります。


 ありがとうございました。
了解しました。ご返答に感謝します。
2014/05/11(日) 15:30:14 | URL | ちゅうたしげる #ioNTQDqo


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 古本屋通信
 被訪問を記念して、少し旧いがちゅうたしげるさんの最新の記事を転載させて頂きます。これぞ詩人の本領とも言うべきでしょう。

 ちゅうたしげるの”まじめにコツコツやるっきゃない?!”
 
管理責任 忠田茂 chuta@po.harenet.ne.jp
 メールマガジン”詩人の部屋”  
 2014年04月30日 14時03分42秒 | ノート note

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 あなたのそばに一冊の詩集を
  http://blog.goo.ne.jp/chutashigeru


 無関心でいること、忘れ去ること  2014/04/30 水曜日  

 「たいした問題じゃないが」(行方昭夫編訳、岩波文庫)を読んでいたら面白いエッセーに出会った。翻訳なので原文の英語の味は伝わって来ないが内容は読める。リンド「無関心」と「忘れる技術」の二編が秀逸。

 リンドは「我々が日々の仕事をきちんとしようと思ったら、人間的な多くのものと無関係でなくてはならない」とローマの喜劇作家テレンテイウスの有名な言葉「人間にかかわることですべてわたしに無関係なことはない」に対峙して書いている。

 テレンテイウスの言葉は、K.マルクスが、娘のラウラの質問に答えて好きな格言に挙げた。それは気楽なお遊びだったのだがマルクスの答えはそれを信奉した者に重く影響した。

 イタリアファシズムと闘ったイタリア共産党の創立者のひとりA.グラムシに至っては「わたしは無関心な者を憎む」と書いている。政治的無関心はファシズムの土壌ということになったのだ。

 どうだろう。現在の日本では福島原発の爆発に無関心な者はどうなのか。関心の在る者はさまざまな情報をあらゆる角度から検討して仔細に事態を追跡するのかもしれない。しかしわれわれは私有財産制度下の貨幣システムのなかで暮らしている。日々の生活費の獲得のために余念がない。
 社会は多くの労働の元で成り立っている。人は仕事をして暮らしているのだ。わたしのように昼間散歩と入浴で一日終わってしまうような馬鹿者とは違う。リンドの言う通り「日々の仕事をきちんとしようと思ったら」無関心であらねばならない。そうでなければ多くの仕事が「きちんと」なされなくなるのだ。社会生活が一日も成り立たなくなってしまう。

 無関心であることはおそるべき能力なのかもしれない。地球の裏側でわたしの暮らしに仔細に関心を持つ者などいないのだ。ひとつの仕事をやり遂げるためには多くのことに無関心でなければならないのはリンドの言う通りではあった。

 リンド「忘れる技術」も秀逸だ。リンドは「国家は自らが犯した罪は覚えておき、蒙った被害は忘れろということである。言うまでも無く、記憶力はこれと全く逆に働くというのが問題である。通常、我々は記憶したいことのみ記憶するのであり、それは蒙った被害であり、他者に与えた害でない。」と書いている。

 ことさら政治問題にかかずらうわけではない。人は自分の人生で起こったことを細大漏らさず覚えているような人もいれば、今朝あったことを夕方にはきれいに忘れ去る人もいる。一般に記憶は世上の高い評価を得るものだが、忘れる能力をあなどるわけにはいかない。人間関係の上で蒙った被害をいつまでも根に持つのはあまり勧めたものではない。忘れることが清潔な精神的能力の場合があるのだ。

 覚えていたところで経験値に値しないことがある。さっさと忘れてつぎつぎと展開する日々のできごとに対応した方が対応能力が高い場合もある。

 さてここでわたしはなんのことを言っているのだろう。わたしはマルクス主義者だったから「すべてのことに関心がある」のを良しとしてきた。こどものころからほぼ自分が二歳の幼児だったころからの記憶であたまがいっぱいになっている。そしていまや「日々の仕事をきちんと」こなせずポンコツの老体になってしまった。収入も無く妻に養われているのだ。ということはわたしの妻は対極にある。妻は「すべてのことにおいて関心」が無く、今朝あった会話も夕べには忘れ去る。そして日々の仕事をきちんとこなして一家を支える。

 どうなんだろう。無関心と忘れ去る能力はあなどるべきことではない。怖るべき能力なのかもしれないではないか。

 
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 ちゅうたしげる氏の訪問を受けた記念に再録


 
古本屋通信 No 152  3月11日

 少国民のための大東亜戦争詩 

新入庫本中、オークションで既に落札されたものもあるが、現在出品中が26点ある。そのうちの優品6点をメモしておく。

戦ふ朝鮮 写真報道 昭和20年6月 朝日新聞社 朝鮮総督府  
  結果 15000円 落札


石原豪人 装丁 河童の源四郎 栗田信 昭和31初 スワン文庫  
  結果 3000円 落札


感想集 夢と影 水谷まさる 大正13初 交蘭社 希少本 箱付  
  結果 


満州みやげ 絵葉書50枚綴じ 明治39再 奉天 遼陽 金州他  
  結果 3500円 落札


爆裂艦隊 霹靂火 押川春浪序 大正元年 本郷書院  
  結果 10500円 落札
 

少国民のための大東亜戦争詩 恩地孝四郎装丁 昭和19年 初  
  結果 20000円落札 




  については、既に No 148 で書いた。 について少しだけ書いておこう。

少国民のための大東亜戦争詩』 は副題に「北原白秋氏に捧ぐ」とある。戦時末期の狂気の合同詩集で、編者は与田( 與田 )凖一である。百田宗治、広介、犀星、南吉、省吾、雨情、惇夫。純一、柳虹、雪夫、しげる他が詩をよせている。まあ、ここまで書くのかという「見事な」 詩の集成である。戦時中これだけの詩をかく詩人を、私は許すことはできない。心ならずも ・・・・ では済まない。だいたい文学も詩も全身全霊でかくものだ。心ならず書けるものではあるまい。文学界の A 級戦犯である。

 この本、今回の整理で最後までみつからなかった。残り少なくなった未整理の中から取り出して来て呉れたのは、常連の M 学園高校の K 先生である。かれは戦時下の教育に関わる本をかう。で、この本を山の中から抜いてきた。私はすでに何回も見ているのだ。なのに、やり過ごした。

 改めて本を見た。背文字が薄い。とくに最後の「詩」の一字が背文字で消えている。私は「少国民のための大東亜戦争」までしか見なかった。副題は背にはなく表紙字だけだ。最終までに発見しないで捨てた可能性50%だ。危なかった。K 先生に感謝だが、先生は教育の本ではないから、凝りがなかった。私は咄嗟に 38000 と値を付けた。そのあとで、すべてのウェブサイトを見た。どこにも本がない。あるのは国会図書館だけだ。

 戦時末期にかなり売られた詩集が、戦後なぜなくなったか? 戦後も戦後、すでに七十年近く経っている。戦中の詩集は時代の合わなくなったので、捨てられて自然に消えていったのだろうか? 否、断固ちがう。それは戦後すぐに、そして少なくとも戦後二十年にわたって意識的に古書市場から消され続けた。誰の手によってか? ここに詩を寄せた詩人たちの手によってだ。間違いない。これを確信したのは、古本屋をはじめて暫く経ってからだ。戦時のイカレ本はいくらでも出てくる。思想、歴史、美術は腐るほど出る。文学も散文つまり小説、随筆、研究書はいくらでも出る。しかし韻文、とりわけ詩が出ない、ではなぜ詩だけ必死に掻き集められ消されたのか?それは詩がもっとも「迫力」があり、それだけに狂っていることが誰の目にも明らかだったからだ。

 この詩集には詩を寄せてはいないが、同じような詩を戦中の書いて戦後詩壇に復帰した永瀬清子を、私は許すことができない。この一点のかぎっては、私は戦後岡山の全ての詩グループのご都合主義が許せない。尊敬する坪井宗康も含めてだ。詩グループに属さない県北の若い詩人ちゅうたしげるを好ましく思う。

 『少国民のための大東亜戦争詩 』 本当はオークションに出さず持っておきたかった。で、出品代行の Y 氏のところに持ち込んだ。私は出品するとしても 3000 円スタートだと思っていた。ヤフオクはこの分野に弱い。 するとかれは、いきなり2万円スタートで行くという。けっきょく金ほしさに預けた。本は昨夜のうちに出品された。あとは成り行きだ。 (この詩集は結局、埼玉県の40代の女性研究者が競合なしの2万円で落札したという。)



 

  1. 2014/05/11(日) 14:36:44|
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