古本屋通信

エストリルのクリスマスローズ

古本屋通信    No838   5月7日

  エストリルのクリスマスローズ

 先日、エストリルのクリスマスローズさんのご訪問をいただいた。どこかで記憶にあると思ったら、saki さんという方で、石崎さんの所にリンクされている方だった。私もリンクさせていただいた。この方の記事分類 (カテゴリー) に 「哲学」 があった。一寸興味があったので、コピーしてみた。


リフレイン~存在の最高形態/アリストテレス~ヘーゲル~ショウペンハウエル/意思~ニーチェ/永劫回帰

アリストテレスから
ヘーゲルまで
所謂
西欧の哲学は
観念に始まって
観念に終わり
そこでの
存在の最高形態は
精神そのもの

そして
決定的な実存のカテゴリーとして
記憶があるんですよね。

その後
ショーペンハウエルが
存在の本質を意志と定義します
未来へ向けて・・・

けれど
その意志は
時間に対しては
どこまでも
”無力”
なんですね

人間は有限の存在

そして
死さえも
そこに含まれる

生命を支配するのは
時間・・・?

けれど

ニーチェの哲学は
この存在論を
乗り越えていった

ーー事実を
本質にすり替えてはいけないーー
ということ

あらゆる苦悩への肯定感を礎に
幸福への論理構成を導き出す

俗的(時間を含め)な事象に拘泥されない
崇高な概念こそ永遠性を帯びる

存在の円環
永劫回帰・・・。


そう・・・
たぶん
永遠は自己に忠実ということなんですね。



デカルト/方法的懐疑/独我論~カント/フッサール/ウィトゲンシュタイン/ラッセル/ヒューム

ドナウの流れ
その河畔の宿にひとり
古い暖炉に火をくべながら
窓辺の椅子にもたれ
思いを巡らした
デカルトがみた夢・・・

存在や人間の認識を
個の意識の明証性に立脚させたデカルト
そのあとに続いた
カントの認識論
”純粋理性批判”で証明した
人間の認識能力の限界も
フッサールが示した独我論へのプロセスも
ウィトゲンシュタインの独我論的世界観も
ラッセルの中立一元論その事象も
ヒュームの
観念論的知覚の集合体も

ヨーロッパの哲学思想
そのほぼすべてが此処
そう
デカルトがその方法的懐疑によって辿り着いた
この独我論から
生まれていったんですよね・・

見えるものだけが真に見えるもの
意識の中にのみ存在し
意識を離れたならな
そこには何も存在しないのと同じ

こうした概念
私は嫌いではないです
というか寧ろ好ましい
だって
心理的には
全くもって
この通りなんですもの^^

ラッセルの謂う推理
それを押し広げたとて
結局は同じこと・・・。

ただこの境地を乗り越えた
後期のウィトゲンシュタイン
彼の達観
広く世界を見渡し
導き出した真実
あの潔さは
もっと好きです・・・。


広がりゆく世界~ヤスパース/超越

精神医学から哲学へ抜けたヤスパースですが
実は彼の構想は西洋哲学を超え
東洋のそれをも包括した世界哲学とも謂えるものでした。

自身の有限性を自覚できるのは
自分だけであり
それは
極限状況で最も顕著にあらわれる
そしてその時こそ
真の実存に気付く機会になる
抜け出すに不可抗力としか思えないような
逆境のなかにあっても
強い意志をもって生き抜く(=正面から受け入れる)ことで
はじめて
ひとはその限界状況を
乗り超えることができる

ヤスパースは
そう考えたんですね・・・
深い決意
そのなかにこそ実存のほんとうの意味が
息衝いている
限界を突き抜ければ
世界は開けてゆく・・・

美しい概念だと思います


アモールファティ/ニーチェ~海岸通り/銀杏並木~山下公園/横浜マリンタワー
海岸通りの銀杏


冬木立となった
その樹形も綺麗です。

DSC_0020.jpg

人生のなかで・・・
何が起きても
静かに
そのすべてを受け止めて
肯定する

時に
死さえも。

そうした
ニーチェのアモールファティ

彼の著作でこの意思に出会ったあの日から
どれだけの時間が流れていったことでしょう
けれどそれが私の脳裏から
離れることはなく


人智の及ばない領域への
その透徹した眼差しを含む精神を
高潔で
美しいと・・・。

自身の生のなかに訪れる
すべてのことを享受し
慈しみ
そして味わい尽くす

人生そのものを愛せないのなら
価値ある生は
得られないものかもしれません

いつのときも
哀しみをも笑顔に変えて
穏やかに
小さなときを
丁寧に重ねてゆきたい
そう思っています・・・。


合理的理性/大陸合理論~デカルト/ライプニッツ/スピノザ~聖夜へ

瞳に映る世界は
あらゆる法則が貫き
思い通りにゆかないことが多くあります

けれど
観念
理想の世界は
どこまでも
自由

そしてそれこそが
モラリティの
基底となる処なんですね
(Guevara の生き方が象徴的です)

ヒューマニティ
人間のもつ理性に対し
深い信頼を寄せた
デカルト
ライプニッツ
スピノザ
冷たい凛とした空気に包まれると
何故か彼らの志向性
その鼓動を
強く感じるんです・・。


真理(こころ)求めて・・・~バランス/哲学の責任
見つめるもの・・・


生きるに
もっとも大切なことのひとつ
それは
もしかしたら
自己との対話であろうかと思ってみたりしています。
そして
それはそのまま
西洋の哲学の基本となってきたもので
(東洋も大きく変わりませんね)
その思惟は真理へと向かい
倫理ー他者への理解、思い遣りーは
自律となって立ち顕れる。
もっとシンプルに云えば
哲学は
”自省”に始まって
”自省”に終わるものとも謂えましょうか。
それが
学問として成立する以上は
やはり
そこには
”学問としての責任”が
求められる・・

そして
その責任とは
たぶん
遍く、社会の中の
”均衡点”を
見出すこと
なのかとも思うんですね。

政治、経済、科学・・
そして法に環境など
いずれも重要な分野に違いありませんが
それが
何れかに偏ってしまうことが
如何に危うい状況に陥らせるかは
歴史を紐解けば
明らかで・・。

”バランス”を
重んじるこの学問は
独立して存在すると云うより
寧ろ
あらゆる学殖に内包されしもの

そして
それは
極めて身近な存在であり
また
そうあらねばならないもの・・でしょうか

ひとが
より良く生きるための
そのいちばんの
枢要
それは
こころ在る”バランス”
ということに
なるものかもしれません・・。


プルースト/失われし時を求めて~円環する時間~ハイデガー
現代の時間観
限りなく直線的です


古代のギリシアやインドは
反復する時間のなかにあり
それは
陽は沈みまた昇るような
或いは
季節が廻るような
”円環する時間”
そうした概念に
支配されていました。

中世になって
”終末思想”のキリスト教的世界観を起源とした時間
(良く言えば”未来”)に統馭されるようになって・・・

そして近代以降
客観的な”数量”としての時間(スケール)が
人間たちを先導するように闊歩し始めた・・・

故か、デカルトは人間にとっての時間を認めようとしませんでしたし
カントは”感性による直観の形式”とした
要は、時間は、空間同様に
ただ存在するのでなく
認識する人間の内にあるとしたんですね。

そこから
ベルクソンは
空間は時間の派生態であると考え始める
そう
私たちは過去を”空間化”して認識していると理解した訳です。
時計が音を刻む
物理的外面的時間を”過去”とし
空間化されない時間”純粋持続”こそ”主体の自由の根拠”としたものです。

その後
プーレが
このベルクソンの”過去の空間化”を批判します。

思い出は時間軸に沿って整列されているものでなく
プルースト的なものなのではないか・・・と。

ーー記憶のすべてのもの
   あの街も庭もみな私のティーカップから出てきたーー

此処には
私達の自己認識の手立てとなるものが
”記憶の再認”ただ一つだけ
という
根源的問題が伏在しています。

現実の時間に働く感性こそが
過去の感覚を浮かび上がらせ
そこに構築される記憶の出現
それこそが
”自我”を支える
それを於いて他に
自我の証となるものはないという事
よって
”記憶”は”自我認識の唯一の手段”
アイデンティそのもの
ということなんですね。

記憶がひとにとって
どれほど大切なものか・・

如何に
未来の時間が豊かに眼前に横たわっていたとしても
記憶を失う病が
いかに恐ろしいものであるかに思いを致せば
分り易いようです。

自分が生きたことを認める過去は
自分が生きてきた証
もっと言えば
人間の基盤となるもの
結え
真の人間
本質的人間は
過去との関係性でしか
その存在は認められないことになってしまうんですね。

プルーストの”失なわれし時を求めて”は
まさに
失われた時を求めて
気の遠くなるような旅の中から
自己の本質を見出す物語でもある訳ですが

この超越した時間のなかにしか
ハイデガーの謂う
”人間的時間”は備わらないということになりましょうか。

“時間”の観点から眺むるなら
人間は
紛れもなく今此処にある存在
であり乍
同時に絶えず未来へ向けての運動を続けざるを得ない存在
けれどその未来は
全く以て未知の領域であることから
より良く生きようとする人間は
絶え間なく過去へと回帰せざるをえない存在・・・

学術から垣間見えてくる
人間本質への深い諒解は
雄偉たる時間を
厳かに告げられるそれと
少し似ているように思います。


ヘーゲル Ⅱ~精神現象学~シラー/友情
 ーー最終的に得る精神の王国の盃から
        精神の無限の力が沸き立つーー


冒頭の句は
ヘーゲル37歳の時に執筆したという
”精神現象学”
その最終ページを飾るフレーズ

ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが
シラーの詩”友情”からの一節です。

接するたびに
元気が貰えるような
パワーある言葉は心に残ります・・・。

諦めないひと シラーのこのメッセージは
ヘーゲルのその著作の論旨と見事に調和していて
挫けそうになった時に開きたくなる扉(書物)の
ひとつでもあります。

扉の先の世界観
名フレーズの散りばめられる
”精神現象学”は哲学書というよりは(教養)小説的構成で
感性から悟性へ
そして得られる自己の自覚(自己意識)
さらに自我を超え
普遍的他者との共感から理性が立ち顕れ
客観的精神
絶対精神を獲得する、といった
謂ってみれば
観念論的立場で(ありながら現実を見据え
当時ドイツ資本主義が発展していたなら
社会的存在から社会的意識への流れを定式化したものでしょう)
弁証法によって絶対精神に行きつく
そのプロセスを描いた著作なんですね。
(カントの二元論からドイツ観念論・・
ショーペンハウアーに対するマルクスへの系譜)
他者不在の哲学に対し
徹底的に他者を取り込み
一般”精神”にアウフヘーベンしてゆく・・

そう
”否定”って
一見ネガティブなようで
実は価値あるもの
と申しますのは、これこそが
”発展の契機”になりえるものだから。
けれど
単なる妥協や対立に陥っては発展は望めない・・
此処は
あくまで”止揚”なんですね・・・。

こうして、弁証法的唯物論以降もこの
”矛盾の止揚”による発展の法則だけでなく
否定の否定の法則や
螺旋的プロセスによる発展の法則
など弁証法の法則は
社会の中でしっかり働いていることがわかります・・
敬遠されがちな書物ではありますが
現実的学びの宝庫にこの
エンディングの爽やかさ・・

それはシラーの謂う精神の王国
科学的思考に純粋な洞察を加え
道徳的自己意識に至るさらに
その先に在る世界を
示唆するものと理解しているのですが・・

精神の自己知
絶対知に
自由な精神史
そこで体系化され現象する知の融合
これこそが絶対精神の記憶・・・



 古本屋通信
 凄いなあ.。ただ、ただ、堪能させて戴きました。
  1. 2014/05/07(水) 07:21:11|
  2. 未分類