古本屋通信

インドネシア反革命と日本共産党

古本屋通信    No809   4月20日

  インドネシア反革命と日本共産党


 私は「No798 4月13日 キンピーサイトの最新エントリーを絶賛する」で、自分の文を書かないまま放置ていました。遅れ馳せながら少し書きたい。まず私が目を見張ったKM生氏のコメント全文を再引用しておく。


 KM生
 実は1965年のインドネシア政変を(半世紀近く経てなお)総括していないのは、日共自身ですよ。
1)65年当時スカルノ政権の親中路線の下で庇護されて「非共産圏最大の共産党」と言われていたインドネシア共産党のアイジット議長は、度々日共党大会にも祝電をよこし、両党は友党関係を保っていました(この辺りは新日本新書「今日のインドネシア」蔵原惟人著に詳しい)。
2)政変の真相は今なお不明ですが、中国に唆された共産党員軍人が軍内保守派を攻撃した→反撃を喰らって殲滅された→軍隊の共産党員シンパ・華僑への虐殺が開始された→建国の父スカルノは追放するわけにもいかず軟禁処分とされ、事実上実権は保守派のスハルトに移った(余談ながらデヴィ夫人も国外逃亡した(^^)→対中断交・マレーシアとの国交樹立等、親中路線から反中親米路線に外交転換した。以上が政変のあらましです。裏でCIAが暗躍していたのは間違いないでしょう。
3)インドネシア失政は当時の中国政権中枢だった劉少奇・トウ小平らの威信を低下させ、大躍進の失敗で上海に蟄居していた毛沢東の反撃を招きました。これが翌66年の文化大革命に繫がります。劉トウらが「実権派」として迫害されたのは、周知の通りであります。
4)映画案内の指摘のように、当時の日本ではこの事件はほとんど報道されませんでした。当時のアカハタや日共党の公式文書ででも、国際情勢は大部分がベトナム戦争であり、インドネシア政変はスルーしています。しかし政変の日共に与えた衝撃は、決して小さくなかったはずです。
5)イン共壊滅の原因として、党財政を親中華僑資本の寄付に頼ったこと・政権の一角をなすことによってスカルノ・華僑への労働者農民の不満を取上げられなくなったこと等が、研究者の間では指摘されています。
6)当然日共宮顕は、イン共壊滅の原因を検索したはずです。恐らくその中から、「中国の武闘路線を受入れれば党壊滅に繫がる。党財政は中国に頼らず、独自の財政基盤を確立しなければならない」との教訓を引出したはずです。そしてこれが、翌年の日中両国共産党会談決裂(武闘路線の拒否)→日中両国共産党対立・文革批判へと繫がりました。宮顕に対する批判は多々ありますが、このあたりの政治的嗅覚の鋭さ・決断力は正当に評価しなければなりませぬ。
7)66年の10大会では、不破上田兄弟の幹部会抜擢・人民的議会主義路線への転換等が行われました。多くの日共ウォッチャーが指摘するように、「10大会以前は日共もそれなりに大衆闘争に取組んでいた。しかし10大会以後は、選挙党勢拡大一本槍の議会主義政党に転落した」というのが、この間の党の根本的性格変化を物語っています。




 古本屋通信

 私は1965年インドネシア九・三〇反革命の時のことをまるで昨日の事のように思い出す。私は革命は武力でもってしないとまず無理だと思っていた。500万インドネシア共産党は大目標だった。それがたった一夜で壊滅した。ほとんど全員が即日虐殺された。武装蜂起が失敗して皆殺しになった。私はすっかりビビッて寝込んでしまった。私はこのとき学生自治会の執行部にいたが、同時に民青高松地区委員になったばかりだった。地区委員長は小豆島バスから専従になったばかりのTさんだったが頼りにならなかった。そこで県委員長の上杉さんと話した。上杉さんは(これはたぶん党中央の見解は出ないだろうと断ったうえで)率直に自分の見解を話してくれた。
 
 アイジットは毛沢東に言われるままにやった。するとこのザマだ。日本共産党は20万人だ。インドネシア共産党は500万だ。人口はあまり変らない。スパイも相当入っていただろうが、そんなことは何処も同じだろう。俺もショックを受けたが、党中央も民青も大変な騒ぎだろう。だがそれが率直なかたちで党見解として現れないだろう。民族主義的偏向の手直しは、既に4・17問題の自己批判というかたちで顕れている。今後はいっそう民族革命路線の否定が強められるだろう。中国路線の全面否定だ。いやも応もない。中共方式の結果がこのザマだからね。

 つづく。
  1. 2014/04/20(日) 04:36:44|
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