古本屋通信

戸坂の全集月報について

古本屋通信     No708  2月18日

  戸坂の全集月報について

 戸坂の全集には、ちょっと別巻は記憶が曖昧ですが、月報は付いています。とても価値があると思います。私はその全てを入力しようと試みたのですが、最初のところでつまずきました。他人の文を入力するのは苦痛で、お手上げです。どうか私に期待しないで、月報完備のものを買ってください(古本屋通信)。



戸坂潤全集について お尋ねします。
「月報」は、1~5巻・別巻のすべてについていますか?「月報」は読む価値がありますか?
「月報」がないほうがだいぶ安いので、月報に価値がないなら安い方を買います。
2014/02/18(火) 17:27:59 | URL | 元東大民青 #-




 戸坂潤全集の月報について   
 定年退職後、本は読まない主義を課している(読まない理由はホームページに書いた)。例外はあってマルクスと戸坂潤である。戸坂潤全集は第一巻と第三巻を持っているはずであるが、なぜか今、手元にあるのは第三巻だけである。そのマルクスも戸坂潤もこのところ読めていない。
 古本屋通信さんが高原のAMAZON書評を紹介されたとき、芝田進午の「人間性と人格の理論」に言及されていた。僕のマルクス主義との出会いも「人間性と人格の理論」だった。理科系に進んだ人間にこれは分かりやすかった。読んだ当時、人にもこの本を勧め、当時の仲間の間で「人間性と人格の理論」は、「何でも書いてある」本として読まれた。
 戸坂潤全集第三巻の月報に、西谷啓治が、戸坂の恩師西田幾太郎が、戸坂はマルクス主義でなく科学哲学をやればいいんだが、と語ったことが紹介されている。始めて戸坂潤に惹かれたのも、科学について論じたものだった。戸坂以後、彼のような固くて同時に柔軟な論理を展開できる哲学者はいなくなったように思う。
 また、戸坂潤全集の月報は、どれも、内容が濃くしかも心がこもっていて胸を打つ。これだけでも読むに値すると思う。戸坂潤全集は揃えたいと思っている。
2014/02/19(水) 10:54:17 | URL |
高原利生 #

 古本屋通信
 高原さんからの投稿をここに貼ることにしました。芝田進午の「人間性と人格の理論」について、ということで別エントリーを立てようとも思ったのですが、私がこの本を読んだのは1970 年前後までです。四国のちいさな大学の大学祭に芝田を呼んだのは懐かしい思い出です。ときはベトナム戦争の真っ只中で、芝田は焼身自殺したアリスハーズ夫人の本を引っさげて、ベレー帽をつけて講演しました。その後のかれの活動も知っていますが、私は哲学論考については残念ながら知りません。合同出版から出された数冊の研究年報に他は。
 芝田も晩年は党にとどまりませんでした。これについても私は言うべき資料を持ち合わせません。ただ、さざなみ通信のサイトで、かなり乱暴な「贔屓の引き倒し」を見るにつけ、何か書かねばとは思っていました。しかしそれは暫くあとになりそうです。
 芝田が戸坂をベタ褒めなのはよく知られていますが、それは自分の子供に潤とな名づけた程でした。私も芝田に倣って息子に潤と名付けたのですが、これだけは大失敗でした。芝田の息子の潤はどうしているのでしょうか。



再録 古本屋通信  No 173  4月6日
戸坂潤全集・月報
 通信 No 166 で予告したように、『戸坂潤全集』( 勁草書房 1966~67年)の月報 を入力する。掲載は順不同とさせていただく。同じ勁草書房から後に出版された『新版・回想の戸坂潤』と論稿が重複していないか気になったので、倉庫を探したが見つからなかった。取りあえず見切り発車する。最後まで行くのに半年くらいかかるだろう。

 第1回目は梯(かけはし)明秀だ。ウィキペディアを繰っても詳しい記事はないだろう。近藤洋逸先生の岡大の同僚だ。レッドパージのとき近藤先生とともに追放にあいそうだとの噂がながれ、立命館大に去った。近藤先生はそのことをずっと気にされていたそうだ。それから、これは梯本人の預かり知らぬ事だが、梯哲学は革マル派の黒田寛一の理論形成に影響を与えたと「いわれている」。「 」を付したのは、私にはその関連がよく分らないからだ。あれやこれやで、梯(かけはし)を冒頭に置くことになった。あとは未定だが、小山弘健はどうだろう? 近藤先生の文は何回も読んでいるので、最後にしたい。

 彼との淡々とした親交   梯 明秀
 戸坂と私が親しい交友関係に入った最初の時期は、何年の何月であったのか、それを想い起こす機縁になるはずの何らかの事実なり挿話については、全く記憶に残っていない。私が一高を出て京大の哲学科に籍をおいたのは、大正十三年の四月であるが、その時に丁度、戸坂は学士になって大学院に籍をおいていた。その頃には、母堂と共の山科に居を構えており、よく十四年には左京区の鹿ヶ谷に転居している。この年の十月に三木清氏が帰朝しており、その前にすでに、三木氏を中心とした哲学一高会を持つ意向を、私は戸坂から漏らされていたのであったから、それまでに、二人の間は或る程度に親しい関係になっていたはずである。ただ彼についての面識の程度まらば、私が入学して間もなく開講となる頃までに遡ることができるであろう。西田、田辺両先生の講義が始まるのを待つ間、教室の前の芝生で、聴講生に取り囲まれた木村素衛、高坂正顕、西谷啓治の各氏と戸坂との相互に談笑する容姿は、私たち一回生の学生にも、将来の哲学科のポストが彼等に約束されているかのように印象づけられていたからである。この印象を私たちに実証いてゆく業績としては、戸坂の場合には、二十五才の卒業の年に早くもヴィンデルバンドの『意志の自由』を翻訳、刊行しており、また、学生時代から取りくんでぃた『空間論』の研究の成果を、昭和三年の二十九歳の時まで続々と『哲学研究』および『思想』に発表してゆき、その論文の数は、六篇に及んでいるのである。
 この理科系の頭脳明晰な若き哲学者の宅を、私が、しばしば訪ねることになったのは、前記の哲学一高会を通じての校友の頃からでなかったかとも推察されるが、私が彼の家庭の雰囲気に溶け込んでいた時には、すでに彼は結婚していたように記憶している。確かなことは、昭和二年四月に三木氏が東京へ去った後の一年近くの間、毎週一回、私が彼の家で共にクールノーを読んでいたことである。この年の三月は、私にとって卒業すべき時期であったが、一高時代をボート部で過してきた秀才ならぬ私は、それまでに辛じて特殊講義の論文「社会への関心」を提出することが出来たにとどまっていた。そして、卒業を一年さきに延すことにして、四月から翌年の三月まで、黄檗山万福寺の或る塔頭に寓居して、そこで卒業論文のための準備をしていたのである。これらの二つの論文のために、私の研究対象としたものは、タルドであった。というのは、デュルケムおよびデュルケム学派の文献よりも、タルドのものの方が哲学的であったからである。タルドの主要著作は一とおり眼をとおしたが、それらが要するに社会心理学的であるにすぎなかった点から、それらを比較して、より哲学的な『モナドロジー・エ・ソーイオロジー』に焦点を絞っていくことになった。この小論文において、ライプニッツのモナドが「その窓の閉されている」のにたいする批判として「開かれたモナド」の思想が、主張されているのではあるが、  
 つづく。あと、この4倍ほどある。悪文だねえ、疲れる。
  1. 2014/02/18(火) 20:19:49|
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