古本屋通信

小熊英二 1968 肯定派

古本屋通信  No 72 12月2日

  小熊英二 1968 肯定派

 上 若者たちの叛乱とその背景   
 下 叛乱の終焉とその遺産
 

 まえがき
 本日の記事は全て資料である。アマゾン・カスタマーレビューのうち、評価5と評価4をすべて貼った。投稿者の名前は全てハンドルネームであり、ここに掲載する意味は余りないと考えて割愛した。文中の誤字や不自然な句読点・改行等もそのままコピーした。ただしタイトルの表記から符号などを除いて見やすくした。私のコメントは改めて書かず「通信 No 70」の該当部分 (下記) を再録するに止める。
「・・・驚くべきはこの本にたいして、酷評に数倍する賛辞が寄せられているという事実だ。・・・主として若い世代からだが、これは読む力がないだけでは済ませない問題だ。言論とりわけ大学教員の言論責任を痛感する・・・」(古本屋通信)。


酷評する人は自分で書いて
リアルタイムで1968年という時代を体験していない世代の私たちにとってはとても貴重な記録です。同時代を生きた人は、そしておそらくそうした人たちこそが、酷評しているのでしょう。しかしそういう人たちに言いたいのは、「じゃあどうしてこれまであんた書いてこなかったんだ」という、ただその一言です。
全共闘世代が「大人」になってしまって「あの頃は若かった」と口をぬぐって、過去の時代について、あたかもそんな時代など存在しなかったような口ぶりで平然としているからこそ、小熊は本書を書かなければならなかった。それに文句をつけるならあんたが書きなよ。あんたたちが口をぬぐってきたせいで、後の世代の者がどれだけ迷惑してるのか、それすら気付かないというのか。ただそのやりきれない想いが消化されないままに残っています。
私の理解の範囲では、全共闘というのは誰かお偉い研究者がでっかい本を書いて、それで皆の意見が代弁される、そういうものではなかったはずだと思うんです。このままだと本書が「正史」になりますよ。あの時代を生きたそれぞれの人がそれぞれの小さな歴史を抱えているはずで、それを口々に語っていくこと。それこそが総体としての歴史を紡いでいくことになるんじゃないですか。


貶している人はプチブル冒険主義者
有能な著者による、良心的な良書。
この本を否定する人は、おそらく全共闘の活動家だった人で、自分のやってきたことを全否定されていると感じるので、否定しているのだろう。
だが、「あの時代」にいなかった人間にとっては、学術的興味以外のセクトの面子なんてどうでもいいわけで、ただ単に「知りたい」から読んでいるわけですよ。
全共闘の残党が、「あの時代」の総括も自己批判も満足に行なえていない現状を考えると、この本を否定することは自らの怠惰を否定することになりはしないかね? 全共闘の残党さんたちよ。
人間が、自分の言葉で語ることの大切さを納得されてくれる一冊です。教条主義的に、上から与えられた言葉でしか物事を批判できない人がかわいそうだね。


目的を達成するための手段としてではなく
過去の著作も大著でしたが、その大著さでは圧倒的。内容的にも圧倒的なので800字のレビューでは紹介不能なので箇条書きにて。
・上下巻あわせて(脚注を含めると)2000頁を超える大著ですが、可読性は高いです。わりとスイスイ読めます(量が量なので時間はかかったけど)。
・当時の学生運動から連合赤軍まで、かなり批判的だった自分ですが、読中読後「あ~、わかります」的に共感できる部分が多々あったことに驚く
・「現代的不幸」を切り口に全体を描写しますが、しかしそれは「闘争」そのものを説明しないのでは?「現代的不幸」自体は時代に蔓延しながら、闘争に参加した学生が2割前後であるなら、背景としての「現代的不幸」から、現象としての「闘争」が屹立してきた要因は別に求める必要があって、だったら「闘争」をより適切に説明するのは、その別の要因のほうじゃないの?
・戦中の大本営軍令部の愚かさ/昨今の大学教育の質を問う議論/近年のブラック企業と従順な従業員の関係/スクリーニングを受けていないNPOやNGOなどに通じる論点が多々。
・目的を達成するための手段としての運動ではなく自己目的としての運動/政治の嫌悪ってあたりは共感するところ大だけど、冷静に考えれば負の遺産である方が大きいと思います。
・時代的な背景も含めて、事実的な描写(統計とか)には依拠せず、当事者のメンタリティを再現しようとした記述が多く、ところによってやや過度に恣意的。
・歴史的事実に言及した著述ではなく、歴史的事実に照準した社会的事実に言及している ただしい「社会学」的業績だと思う。その意味では「スゴイ」著作だが、過去の著作と同様に者自身は、自著の“学術性”を誤解している節があるかと。いろいろありますが、これは是非広く読まれてほしい本です。
続きは下巻のレビューで(Amazon的に上下で一冊あつかいだとアップできないかも)。


でも、私には何もないの
 小熊氏は『〈民主〉と〈愛国〉』を出した後、上野千鶴子氏から「しかしだんだん仕事のハードルが高くなりますね。あなたの場合は、本もどんどん厚くなるでしょう」と言われ、「別に厚くするのを目的に書いているわけでは(笑)」と答えていたが、今作『1968』は、上野氏の予想通り、前著の二倍強の分量をもって読者に襲いかかってきた。しかし、一気に読み終えてしまった。そしてここには自分のことが書かれていると思った。
 「人ごとじゃない!」という感じが読んでいて重苦しく胸に迫ってきた。今回の舞台は65~72年。敗戦後まだ形骸化していない民主教育を受け、高度成長期に思春期を迎えた大勢の少年少女たちが、受験戦争に苦しみ、その末文字色に入った大学での「現実」と、自ら血肉化した「民主主義」との間の溝に落ち、苦しみ、やがて「あの時代」の学生叛乱を担い、見事なまでに失敗し、傷ついてゆく。彼らは、私の母たち父たちであり、バブル崩壊後に育った私自身でもあった。もちろん著者が断っているようにこれは「英雄譚」ではない。ここで描かれる彼・彼女らの姿には滑稽感すらある。だがそれを「何て馬鹿な奴らだ」などと笑い飛ばすことなどとても出来ない。下巻では連合赤軍も取り上げられる。いつも「著作の最後は平凡なくらいの楽天性というか、オープンエンドで終わらせる」と語っていた著者は、今度の結末を一体どのようにつけてくるのだろうか。恐ろしく不安でも読まずにはいられない、下巻が待ち遠しい!


当事者達の思い入れから距離を置いた待望の社会学書
全共闘運動とは無縁の筆者と同じかそれ以降の世代で、あの時代に
興味を持たれる方にはお勧めできます。
分厚いですが読書の喜びを満喫できます。奮発してよかったです。
評者も著者と同じ世代です。
テーマになった時代をリアルには経験していません。
もしかすると、そういう時期の「祭りの後」の残滓のようなものが、
学校生活の制度の中にかすかに残っていた最後の世代かもしません。
そういう評者からみたとき、「学生運動」なるものへ前々から不思議に感じ
ていた点がありました。
それは、今からみれば極めて愚かしいマンガチックな観念や図式に、インテ
リといっていいアノ時代の大学生が、何故こういとも簡単に感染してしまっ
たのだろのか。
しかもどうも日常に埋没する一般学生を侮蔑し、自分では意識が高いとさえ
思っているようなフシすらある。かなりの熱烈さで取り付かれていたらしい。
そこまで何故妄信できたのか?という点でした、
既存の仕組みや地味な選択肢をただ体制的なものと決め付け、従順するにせ
よ改革するにせよ地道に内部から究めんとする方向性については、とってつ
けたような理屈で頭から拒否しているようにみえる。
非当事者の私からは「頭でっかちな子供の反抗ゴッコ」としてしかイメージ
のしようがない現象でした。
さらに不思議だったのは、その後当事者達がその時代を語る際に、「若気の
至り」として触れて欲しくない恥かしい過去の筈なのに、なぜかある種得意
気だったり、それなりの歴史的意味付けをする人もいる。これは何なのか?
若い時の「ヤンチャ」を内心自慢するのとはぜんぜんレベルが違うだろうし、
寧ろオウムとかの新興宗教と同じ心性なのかなあと漠然と思っていました。
そういう関心を持つものにとっては、本書はとても面白かったです。
本書は歴史書ではないので、当事者のオーラルヒストリとしてあらわれる
個々の思念、状況認識、パースペクティブ、体感・体験的な質感などはある
意味捨象しています。
当事者の余計なバイアスやノイズからある程度フリーで、社会学的アプローチで
一貫して網羅的に書かれた著作を得たのは大変意味があるとおもいます。
まして後世代の手になるものならなおさらでしょう。
しかし「産学協同」っていまじゃ当たり前にやってますね。
この資本経済への妄信的嫌悪感ってなんなんでしょうかね。


今どう役立てるかが問われる
オーソドックスな研究書です。
筆者が一番読んで欲しいのは、戦後史に関心がある人よりも、
社会運動や雑誌創刊を盛り上げたい人たちなのではないかと思われます。
(ニート、フリーター、派遣切りなどについての)
本書では、全共闘などの運動を感傷的な英雄物語ではなく、冷徹に、
日本で初めて「現代的不幸」(アイデンティティの危機)に直面した世代・階層による
反抗(自分探し)として描かれます。
そして東大全共闘という特殊なものがその後を規定してしまった不幸(おそらく)に対し、
様々な可能性がありえたことが提示されます。
手法は今まで通りで、一般に公開されている資料によって、
いま思い描かれている「あの時代」のイメージを壊す1冊です。
(こういう研究手法はこの15年ほどで増えたもので、
 かつての歴史研究しか知らない人には違和感があるかもしれませんが、
 今では普通で、いろいろな人がいろいろなテーマで本を出しています)
ただ、すぐに買うのはファン、アンチ、関係者でしょうね。
ファンは歴史を鷲掴みにする魅力からほぼ肯定、
アンチはいつものように、全体の構造には目を向けず瑣末な点を挙げて全否定、
関係者は「私個人の見た(聞いた)話と違う」と否定するものと思われます。
評価が気になる方はこれを念頭に置いてください。
それはともかく、極めて厚いですが、文章が難解なわけではありません。
関心をもたれた方は序章とどこか1章だけでも目を通すことをお勧めします。
最後に、減点1は
・対象ゆえか前著よりダイナミズムに欠け、コップの中の嵐に見える
・そのためもあり、全体で1000ページでも良かったのでは
・もう1~2年早く出ていれば
という勝手な思いからです。

  

序章をまず読むべき
 本書における著者の研究・執筆の手法は、すでに「民主と愛国」や「日本人の境界」で実験済みのものであり、新しいアプローチが採用されているわけではない。本書で面白いのは、「序章」である。みずからの執筆のアプローチについて丁寧に説明してあることは前著と変わりがないが、おそらく山本義隆氏をはじめとする関係者が多数存命していることに鑑み、「批判するなら全部を読んでからにして欲しい」と執拗に書いてある。小熊氏は自分の呈示する結論がこの時代の運動の当事者からはとても受け入れがたいものであることをあらかじめ察知して、予防線を張っているのである。
 本文については、以下の二点が目新しいと言えるだろう。まずひとつは、小熊氏は日本での1968年の闘争は、世界的な学生蜂起やフランス新思潮とは切り離して捉えるべきだと主張している点。この観点から、彼らが諸外国より受けた影響や、彼らの運動に対する国際的な反響についてはほとんど触れられていない。もうひとつは、学生運動の代表であると考えられてきた東大紛争について、例外的なものだと断じている点である。特に後者については、東大出身である小熊氏のある意味冷たい視線が感じられて、興味深く読めた。
 ちょっといただけないのは、挟んである新曜社のパンフレットに "ichi kyuu roku hachi" と書いてあることである。興ざめしたので一点減点した(笑)。いずれにしても、筆者のようにこの運動について包括的な書物を一冊読んでみたいと思っている人間にとっては、期待を裏切られることはないと思われる。ただし、運動に対する全面的な賛美の論調ではないために、当然評判はわるいであろう。アベレージの評価が星いくつになるのかわからないが、現時点であまりに低過ぎると思われたので、下巻を読む前だが評価を投じておいた。


当時の若者が格闘した社会的閉塞空間を解明している
近現代史部門で大部の著書刊行を趣味(?)としてゐる筆者の最新作です。刊行して間もなくして上下二巻を買ひ求めましたが、その分厚さに恐れをなして、暫く積読の期間がありました。意を決して約二ヶ月かけて読み進めまして漸く先程読み終へる事ができました。
 一巻一千頁を越える著書は、やはり、圧倒的なものがありました。多くの関連文献にあたり、俯瞰しつつ客観的な叙述にあたってゐると思ひました。何故、戦後十八年のこの時期に学生運動や全共闘運動の高揚が起きたのかといふ事を理解するために時代背景や社会状況にアプローチし、大きな観点からの把握に努めてゐると言へました。
 私個人としては、1968年=昭和43年は小学校入学の年であり、この時期の若者の叛乱について殆ど直接的な記憶はありません。中学、高校、大学を経てから学んだり、聞いたりした位でしたので、本著を読むまでの断片情報しかありませんでした。知ってゐたキーワードを列挙すれば、安田講堂落城、東大入試の中止、70年安保、自己否定の論理、バリケードストライキ、学生紛争、三島由紀夫、盾の会等々の切れ切れの事項でしかなく、体系的な理解ができてゐませんでした。
 それが今回、本著(上巻)を読む事によって、その背景と片々たる事項とが一つの大きな流れとして当時の時代といふ理解につなげられたと思ひます。高度成長といふ日本社会が経験した稀有な社会変革、教育の大衆化に伴なふ受験戦争の時代の中で現代的な不幸といふアイデンティティの危機が若者世代にあったといふ事を私は理解しました。この生き甲斐と手応へを得ようといふ生の空白を埋めるための世相的な事件だったのだと思ひました。


論争よ起これ
あっけに取られるほど正攻法の記述である。上巻の第一部において著者の依って立つ論点が公開されており、その後は今までまとまった総括のなかった慶大闘争を記述する試みは行っているものの、基本的に文献を渉猟する方法で記述がなされているため、早大・日大・東大に比較して量的な不足は否めない。
最初に手の内をあきらかにしている著者の狙いは、序章にあるように「予測されぬ反乱」であった全共闘運動を再び激動期にある世相のなかで意味と教訓を引き出すところにあり、書かれたものを中心として為された記述だけに特に全共闘運動を同世代として体験した読者からの反発や批判は起こりうるだろう。
というか、起こってほしい。そんな気持ちがひしひしと伝わってくる。情緒的にではなく、歴史の記述の対象として「現代史」の一部門を為すべきテーマであることはあきらかなのだかから。
下巻が未刊行のため、ひとまずの感想としたい。下巻の記述次第で若干評価が変わる可能性はある。


酷評が多いが
まだ上巻。1000ページを超える。本屋さんで買ってもって帰るとき、ショルダーバックに入れていたら(他の本もあったので)、腰を痛めましたがな。
例によって、引用文をタップリととってテキストそのものに語らしめ、それにコメントを付していくというスタイルであるため、どうしても大冊にならざるを得ない。分厚くて寝転んで読むには不自由極まりないが、文章は読みやすく、勿論読み応えは十二分。少しも退屈しない。それもあって、一気に上巻を読了できた。
岩波書店創業以来の秀才の1人とも目された著者は、いまや高偏差値私立大学のセンセイのようだ。評者の狭い見識では、自分を売り込むことに特段熱心な学生が多いように思われる大学だが、それはともかく、著者が筆力を持っていることだけは疑い得ない。
著者は過去の作品でも、「ダラダラと資料を引用して長くしているだけ」というような評価もチラホラ見かけるが、そんなことはない。ブルジョワ大学などには属さずに、執筆に専心してはどうかなどと言うと要らぬお節介だろうが・・・。
中身に就いてはいろいろな面があってレビューなどでは無理だし、そもそも一介のレビュアーには手に余るだろう。と逃げておこう。
戦後民主主義を体現しつつ、そこからの逸脱と愛を並存させたオボコイ精神(団塊世代を中心とした)が、1968の時代思潮を形成したというのが上巻を見る限りでの本書のポイントであろう。そのオボコさを著者も若干共有していると見るのは、小熊の全著作読んだうえでの感想である。小田実に対するシンパシーなどは、いかにもそれらしいのだが。
これ以上書くとレビュー削除になるかもしれないのでやめておく。
それにしても、これほどのボリュームの本を出す版元には感銘を受ける。


         以上が上巻、以下が下巻。

感動的な本
社会科学の研究書に対してこのような感想を持つのはおかしいと思われるかもしれないが、本書の読了感はあのモーゲンソーの大著「国際政治」を読了したときに感じたものと同質である。あの一見無味乾燥なリアリズムの古典が、モーゲンソーの「二度と悲惨な大戦を繰り返させたくない」という思いに裏打ちされているように思われたのと同様に、この小熊氏の大著には、「新自由主義によってセーフティネットが崩壊し、安定した生活を失ったひとびとの怒り」に対して、1970年パラダイムに替わる、新しい言説が必要なのではないか、という真摯な思いに貫かれているからである。そしてそのような観点から1968年を眺めることこそ、この運動を分析する意味があると著者は考えたし、筆者もそれはよく理解できた。
 その観点からすると、本書の読みどころは上巻ではなくこの下巻にあり、特にベ平連とリブ運動を扱った章、そしてとりわけ「結論」の章であると思われる。いろいろな批判はあるだろうが、小熊氏の狙いがどこにあるかを洞察しなければ、それらの批判はすべて有効ではないだろう。つまり小熊氏が提出しなかった(できなかった)新たな分析の枠組みを提出しなければ単なる批判のための批判に終わってしまう。本書はあくまで発展的に批判されるべき本だというように理解したい。


それでは闘ってはいけないのでしょうか
 評者はバブル崩壊後に成人した世代ですが、本書に描かれる父母の世代の若者たちの叛乱にまったく感情移入して読みました。上巻の「叛乱の背景」に書かれている当時の中学高校の様子を見て、ああ、自分の生きた時代の原型はこの時期に作られたのかと分かり、それで彼らに同一化してしまったのです。なので著者はなるべくサラッと書こうとしたに違いない連合赤軍の章はこたえました。いくら小事件といわれても、やはり強烈ですね。この章だけは読み返したくないです。しかし、著者の言う通り、過剰な教訓を読み取ることは避けるべきです。
 すべて読み終わったときは、何だか荒涼とした原野につれてこられて、その場で捨てられてどうしていいか分からない、というような感情に襲われました。これは厳しい本です。何か分かりいい結論を示してはくれません。しかし、それにもかかわらずこうまで感動的なのは何故なのか。ここでは歴史と物語が危ういほどその境界を曖昧にしてゆきます。あの『悪霊』に勝るとも劣らない読後感です。それにしても大変なものを書きましたねえ、著者はこのあと大丈夫でしょうか、校正中に倒れたというし……お大事にしてください!


結論は秀逸
大学紛争は、まだ生きている人が居るんだから、論じるのは失礼だ(死者も出てるし冒涜だ)」
「間違いだらけの偽書だ」
なんて、色々と言われているが、それも全て、著者にはお見通しだったなと思わせる一冊。
色々と『1968』を批判する人はいるが、
それは、全て事実関係の小さな間違いを指摘するだけのもので、
彼の社会学的分析に批判出来る人は居ないのではないだろう。
今や伝説や英雄談となっている当時の逸話をあれほどまで切り裂くとは・・・。面白い。
彼は結論で、「モラル・エコノミー」という歴史学の用語で、当時を説明している。
すなわち、モラルエコノミーとは、自分たちが信じている社会規範が破られた時に、それを直そうと、荒らし攻撃する行為。それは、大学紛争の最初に見られた行為であった。
そしてこの本は、その「モラル・エコノミー」をもう一度巻き起こす衝撃的な内容である。
運動に参加した人からすれば、自分たちの青春という動かし難い事実を、これほどまで切ればそれは怒るだろう。
色々と筆者の人格批判までが起きているが、それはあくまで筆者からすれば、想定の範囲内であろう。
また、『「民主」と「愛国」』の最後に論じられた、「第二の戦後」の終わりについての、その後の彼の分析も書かれており、前書を読んだ人にはとても面白い話だと思う。


とても役に立ちました
リーダー:事件後生まれ 地方 歴史とかよく知らない 基礎知識なし
読書目的:'1、学生運動って聞いたことあるし有名な割には、身近な年配の人に聞いてもうやむや→実際何だったのか
     '2、たまにテレビで見る時計台とか山荘の映像はすごくセンセーショナルっぽいわりに結局何も変わってないみたいで、この温度差が不思議。
     '3、個人史でなく大づかみに大体の流れを知りたい 入口として。
目的達成度:'1、3…大満足。目的にかなった。 '2…ひとつの見方として本書内容もありだと思った。
いいところ:読みやすい。分厚くてびっくりしましたが、だれずに最後にむかって加速していく読ませる構成で大丈夫だった。
      過度に美化せず等身大の感じがリアルで腑に落ちる。
わるいところ:信ぴょう性不明。ただし自分のようにアウトラインだけガバっと食いたい場合は気にならない。
注意点:すでにいろいろ知識のある人には物足りなかったり不満があるのはそうだろうと思います。著者のせいか当現象の性質のせいかは
    分かりませんが。どういう目的で読むかによるでしょう。星5つの理由は 目的にかなったことと、読みやすさ の2点です。


厳しい評価が多いが当時の記録史として良書である
事実に基づくため、あらゆる記録を漁るように引用しているため、事実誤認も
多いのは仕方がないだろう。しかし、当時の全共闘運動やべ平連などについては
ああそうだったのかと記憶違いを指摘される場面、そうだったと当時を思い起こ
す場面も多数あった。とくにべ平連の章については、よく調べてくれたと敬意を
表する。連赤や党派については、もう触れなくともいいから、べ平連について、
もう一度まとめてもらいたい。読み応えがあった。


大衆消費社会とジェネレーション・ギャップ
1968年に小学校低学年だった私にとって、全共闘運動という名称はいやと言うほど聞いていたが、その原因や運動をになった団塊世代の、当時の心情については全く知らなかったし、単に失敗に終わった政治運動と思っていたので積極的に知ろうともしなかった。そんな私にとって、団塊世代は、集団的に「現代的不幸」に直面した初めての世代であり、全共闘運動は彼らがくりひろげた大規模な「自分探し」だという本書の主張はとても新鮮だ。また、当時の若者たちの心情がよくわかる引用文は、青春期のみずみずしさにあふれ感情移入して読めるので、膨大なページ数もほとんど気にならなかった。
 著者によれば、全共闘運動は高度経済成長に対する違和感の表明であり、日本が途上国から先進国に脱皮するプロセスで必要な通過儀礼だった。そして、彼ら団塊世代の最大の成果は、結果的に大衆消費社会へ見事に適応したこと?だという。なるほど、私は団塊世代とは十数年の違いしかない。しかし、物心ついた時から既に大衆消費社会だった最初の世代であり、著者のいう「適応」というプロセスを意識的に行う必要はなかった。幼い頃から無意識のうちに消費社会に適応、すなわち多種多様な商品の中から、ある商品を選択することによってアイデンティティを確立したのだ。だから、違和感を抱きつつも意識的に適応せざるを得なかったベビーブーム世代、あるいはさらに年長の世代とは、消費社会に対する感じ方がまるで違うのだろう。
 明治以降、急激な変化にさらされ続けてきた近代日本は、常に大きなジェネレーション・ギャップを抱えてきたと言ってよいだろうが、本書を読んで私自身もそれを再認識させられた。書評を見ても、実際に体験した世代とより若い世代とでは、まるで評価が違うようだし、改めて世代を超えた議論の大切さを教えられた。


勇気ある問いかけ
先にレビューを書かれた方が指摘しているとおり、著者の書きたかったのは下巻の第14章以降であろう。
それにしても「あの時代」を直接体験できなかった世代がうすうすと感じていたことー「全共闘運動など虚妄に過ぎなかった」ということを手間ひまかけて論証する著者の力業にはただただ敬服するばかり。
歴史書としては穴だらけであるが、そもそも著者は学術書として書いたのではなかろう。これは問いかけの書であり、今人生の曲がり角に経っている全共闘世代への挑戦状である。もし、1968年前後に抱いた疑問を持ち続けて人生を生き抜いてきたのであれば、退職して弟二の人生を始めるスタートラインに立った全共闘世代は、行動で答えを返さなければならない。書くことでもよい、実践の活動でも良い。そうすれば後に続く者は必ず登場するだろう。
1962年生まれの著者からの熱いエールの書であることを読み取ってほしいものだ。


連合赤軍の章はやっぱり辛かった
思うことは多々ありますが、上巻に引き続き箇条書きにて。
・佐藤栄作元首相が、なんでまたノーベル平和賞なのか、超疑問。
・当時の述懐が列挙されていますが、後藤田正晴氏の見解にブン殴られました。小泉改革で抵抗
 勢力とされた保守政治家の一部にこそ、統治技術という点ですぐれた「職業」政治家が含まれ
 ていたのかも知れません。
・それでもトライはしたのだ、みたいに美化しちゃ駄目なんじゃないの?
 また、感覚的な不全感だけで突っ走って人が死ぬだけなのでは?
・社会運動論の一環としての実証研究では全然ありません。
 そうだとすれば、たとえばトゥレーヌやグラムシに言及して(グラムシについては上巻のはじめ
 のほうに名前だけ出てくる)いわゆる「新しい社会運動」との比較あたりを軸にしないと始まら
 ないんじゃないかと。たとえば、ですけどね。
 だから、本書は、制度や仕組みに照準した実証的な「社会」研究ではない。
 そうではなく、歴史的事実に照準した社会的言説、その社会的言説の記述に徹した「社会学的」
 研究です。その意味で重要な著作だと思います。
 ただし、やはり著者自身があんまり自覚していないみたいですが。
・大量の文献を駆使して再現した本文部分の記述は「ノンフィクション」として読むべき価値あり
 と思います。「結論」部分は微妙。
・「現代的不幸」をめぐって「70年代パラダイム」を乗り越えるのであれば、むしろ「もう若くな
 いさ」と言い訳して髪を切った若者たちのその後をこそ知りたいです。
 その後向き合うことになった「仕事」を介した世の中との関わりは、学生時代に「しがないサラ
 リーマンにはなりたくない」と思っていたとおりの無機質な日々だったのか?それとも、仕事を
 介してこそ、学生時代には自覚し得なかった「社会」を実感できることはなかったんでしょうか?
・なるほど、人文系の「近代批判」って、スローガンだったのですね。納得。


近代から現代に至る時期の日本社会描写にチャレンジ
一九六八= 昭和四十三年前後に起きた学生と若者の叛乱の実相と意味を追究した本書の偉業には、心から敬意を表したくなる。当時の置かれた状況を多面的にアプローチされてゐる営みは献身的と言へるかもしれない。前半においては、日大、東大を始めとした各闘争の事実経緯をかなり綿密に調べてゐるし、後半においてもべ平連、連合赤軍、リブといった派生的に起こって来た運動事象にも詳細に迫ってゐる。
近代から現代、高度成長を受容せんとした時代の狭間を適確に捉へてゐるし、大衆消費社会の時代が到来した現在の位置を把握してゐると言へる。時代の狭間の感情不全感に対応した若者に古典的マルクス主義が風靡したり、マイノリティへの関心、戦後民主主義への疑問の問ひ掛けがあったわけであるけれども、日本や伝統への回帰といった面での考察は薄かったと感じました。
アイデンティティの危機をパトリオティズム、ナショナリズム的アプローチがもっとあってよかったかもしれない。
  1. 2012/12/02(日) 07:18:25|
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