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古本屋通信

石崎徹の松本清張評

古本屋通信   No 4220    2019年  10月04日


    石崎徹の松本清張評

 下に石崎の清張評の全文を貼る。まさに正解だろう。私の言葉で一言で言えば、人間が描けていないに尽きる。「点と線」もそうだし、短編もそうだ。だが私は清張の殆どの作品を読んでいる。で何故なのだろうと考えてみた。生きた人間がいないから面白いのだろう。私は「点と線」と「目の壁」と「昭和史発掘」を挙げる。




  松本清張  批評 - 2019年10月02日 (水)  石崎徹

 旅のひまひまに、清張を二冊読んだ。膨大な本を書いている著者を二冊だけで評するわけにはいかないが、とりあえず感じたことをメモしておく。
 今回読んだ一冊は、「点と線」である。じつはこれはいちおう再読だ。いちおうというのは読んだのが中学生のときで、60年前、たぶん出版直後のことだからで、ほとんど内容の記憶がないからだ。
 覚えているのは冒頭の部分、二本の線路の向こう側にあるホームを見ることができるのは一日のうちほんのわずかな時間であって、それ以外は必ずどちらかの線路がふさがっていて、見ることができないという部分だ。
 ぼくは、線路もホームもわずかしかない田舎の中学生だったが、十日町から福山に転居した小学一年生のときに、東京駅を目撃しており、そのとき記憶に残ったのが、ホームの多さと、その線路がみなその駅で途切れており、ストッパーが付いていること、ほかの駅のように連続していないことだった。
 いや、「線路がみな」と記憶したのは、そういうホームの印象が強かったからだろう。現在の東京駅にそのようなホームは見ないし、清張作品は60年前だが、それでも線路は普通の駅のように連続している。
 というのは余談。
 もう一冊は短編集で、月刊誌に連載して12回で終了している。どの短編にも同じダイヤの指輪が登場するということで関連性を持たせているのだが、内容には関連がなく、ダイヤはこじつけ以上ではない。
 二冊に共通する点を述べる。

 文章に癖がなくて読みやすい。体験と知識が豊富で、それがリアリティに役立っている。たぶん、読者を引き付ける理由のひとつだろう。小説から雑学的知識を得ると何か得したような気分になるものだ。そしてじっさい、人生体験の豊富さと博学的知識とは、小説に必要なもので、なかなか我々の真似のできないものでもある。
 ところがあまり面白くない。すらすらと読んでいけるのだが、読書の楽しみというものがあまりない。読めるので読むというだけである。なぜだろうと考えてみた。
 人間の描き方、および状況設定に、この本でしか味わえないというオリジナリティがないのだ。
 書いていることが平凡なのである。人物も平凡、状況も平凡。
 それはインテリを書かないという意味ではない。むしろインテリばかり登場する。だが、そのインテリの関心事はセックスとマネーだけだ。そこには複雑な人間心理がない。人と人とを結ぶものがすべてセックスとマネーであって、ほかにはなにもない。
 ぼくはなにも、日本的な自然主義私小説のように人間心理をああでもないこうでもないと書けと言っているわけではない。そういう、作家がでっち上げたような心理は要らない。
 ただなにか心に響いてくるものが欲しい。
 どんなに平凡な人間にも、教育を受けていようがいまいが、現実に接する人間には必ず何かその人でしかないものがある。そこに現実の人間の魅力がある。
 読者が小説に求めるものは人さまざまだから、もちろんいろんな小説があっていい。それは好みの問題だ。そして今回ぼくは自分の好みを発見したような気がしている。ぼくが小説のなかに求めるのは、人間と人間との間に生じるなにか人の心をうつ微妙な何かなのだ。

 ミステリーとしては、「コロンボ」ものである。「罪と罰」ふうと言ってもよい。犯人は最初から読者にも探偵にもわかっている。ただアリバイがある。殺人方法が分からない。証拠がない。というわけで、それを探し出していく過程である。
 ところがそこに読者の推理を要求するところがあまりない。「点と線」など、どうして飛行機に思いつかないのだろう、と不思議でならなかった。飛行機をほったらかして列車の時刻表ばかりを検討し続ける。結局最後に飛行機を見つける。がっかりだ。
 しかし60年前の話だから、そういう時代だったのかもしれない。移動手段と言えば列車だけで、飛行機は思いつかなくて当然の時代だったのかもしれない。

「罪と罰」はもちろん単なるミステリーではない。人間性の内奥にせまる深いテーマがある。しかし、ラスコーリニコフとポルフィ―リイとの対決場面は非常にスリリングで、そこだけでも上質なミステリー小説でありうるし、後のミステリー小説に大きな影響を与え、コロンボもそのひとつだろう。
 清張に言わせればリアリティがないということになるかもしれないが、小説だから、小説的リアリティがあればよいのだ。なにも現実そのものである必要はない。

「コロンボ」は作品によって出来不出来はあるが、出来のよいものは、たとえば、コロンボがなぜ最初から犯人を知っているのか、ということは視聴者には伏せられたままで、最後に「なるほどたしかにそうだ」と視聴者をうならせる解答が与えられる。
 もうひとつは、犯人の言い訳の矛盾を突く、そのロジックの見事さ。(もっともこれはある人に言わせると、それは犯人がロジックを理解できる人間だから引っかかるので、そうでない無教養な犯人なら自分の矛盾を理解できないだろう、だから降参しない、ということになるわけだが)。
 ほかにもいろいろあるが、要するに視聴者をうならせる見せ場が用意されている。

 清張ミステリーには、この二冊の限りではそういう見せ場はなかった。
 それでも、豊富な知識が披露される点で、たしかに何か得するし、読む価値はありそうだ。
  1. 2019/10/04(金) 06:26:15|
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