古本屋通信 No 4219 2019年 10月04日
保守政治家としての武田英夫君
これも書かねばと思いつつ先延ばしになっていた。まず私が彼を君付けする理由だが他意はない。1968~70年までの時期、同じ岡大の学生だったからである。接触は多くはなかったが、我々は彼をそう呼んでいた。その延長である。
それと誤解されるのだが、私はこの時期、彼にたいする個人的な感情は皆無であった。それほど接触がなかったのである。ただ岡大を互いに離れて、彼が民青の専従になった後、例の1972年の「事件」があるのだが、それにカスリもしなかった青年運動って何だったのかという想いは何時もあった。香川の民青専従は3人とも馘首されているのだ。
さて武田君を保守政治家と断定する根拠は彼自身の発言の中に存在する。近く私が引用した例ではコレだ。青が武田君の言葉で、赤が私の批判である。
講演後、ある医療関係者は「数学者としての論理」の面白さを語っていたが、政治家である私 (これが武田の自慢なのだ。救いのない自己認識である。武田が政治家である訳がない。たまたま立花一也県議が急病で選挙に出られなくなった後釜の指定席を横取りしただけではないか。それに専従も議員も政治家ではない。職業革命家である。職業革命家は単なる党員任務である。あのなあ森脇さんは今回選挙に落選した。そしたら何か変わるんか。変わらない。立花さんも一度は落選している。みんな一党員である。そして全党員は共産党員ゆえに政治の変革を求めて活動している。武田のエリート意識こそプチスターリン主義そのものなのだ。恥かしいが、恥かしいでは済まない。ブルジョア根性を叩き潰さねばならない。赤坂てる子だって、こういうヨゴレ腐敗分子といっしょに議員やってらから腐った。さいわい森脇さんは腐らなかった。近藤紗智子さんは嫌気が差して引退した) はむしろ藤原氏の「政治的見解」に面白さを感じた。
じつはこういう文言は彼の「いのしし日記」に何度か出てくる。記憶にあるものを挙げれば、県議会議員を引退する時に自分の活動を振り返って、こう回想する記事があった。「自分は地方議員ではあったが、政治家として悔いのない議員生活を送ってきたと自負している。とくに石井知事と対決した議会質問の数々は忘れられない。石井さんは操山高校の先輩だったが、後輩の私の数々の畏れを知らない質問を許してくださいました。それは政治家としての私の忘れ得ぬ誇りともなっている」。これは引退記念パーティーでの挨拶だったと思う。この席に石井知事が招かれたかどうか記憶にないが、その後にも石井知事が武田に言葉を返すことは無かった。あるわけがない。武田の方は自分を大物に見せるために謙遜して見せたのだが、石井にとって武田など屁でもなかったからだ。
こういう発言は何回かあった。それは常に保守政界を見据えた発言であった。党員として勤労市民や労働者大衆に思いを馳せた発言では無かった。
だがここで公平に見ておかねばならない事実がある。武田は保守政治家としては、それなりに大きな存在だったという点は押さえておきたい。
実名で書こう。武田が引退した直後、私の店に岡山市議会議員の吉本けんじさんがやって来られた。自分の選挙活動なのだが、私が共産党の支持者と知ってだろうが、共産党の市議会議員と県議会議員をしきりに褒めるのである。ひとしきり市議を褒めたあと、県議の武田を絶賛した。それも歯の浮くような御世辞ではなく、堂々たる議会質問の事実を挙げて褒めたのである。そして武田さんが共産党でなかったら、議長か最低でも副議長は間違いない、共産党だったのが惜しい、とマアこうおっしゃったのである。これはこの限りで本当だろうと私は思った。
これを裏付ける事実はある。私は武田の「いのしし日記」を、それなりに重宝して読んだ。彼が県議会議員だった時代、かれの日記にはアクセスカウンターが付いていた。そのアクセス数は毎日150~200人であった。これはちょうど現在の古本屋通信と同じである。そして共産党の国会議員を別にして地方議員ではトップクラスであったろう。
問題は誰がアクセスしていたかである。共産党の地方議員もいただろう。武田の支持者党員もいただろう。でも大半は県内の保守政治に携わる面々だったのだ。自民党の県議や保守派の市議はもちろんだが、共産党の情報を求める保守すべての人に愛読されていたのだ。だからその集大成とし引退記念パーティーがあった。その席には石井県委員長も出席して挨拶をした。そればかりではなく我が妻も5000円支払って参加したのである。
先を急ぐ。連日150~200人のアクセスがあった 「いのしし日記」 だが、武田の県議引退と同時にアクセスは急減した。一ヶ月後には一割になった。それに気付いた武田はアクセスカウンターを取り外した。やがて一年後にはアクセスはほぼゼロになった。
私が武田の欺瞞性をトコトン暴いて武田のブログを閉鎖に追い込んだのも事実だが、私がいなくても自滅していた可能性はある。
問題は武田のような議員が共産党にとって必要だったかである。私は武田の議会質問はまったく読んでいないが、読まなくても見当はつく。保守派の議会質問である。それに「わが党は・・・」を加えるだけである。まともな共産党議員が、防衛大学校で記念講演をする藤原ゴロツキを絶賛できるわけがないではないか。
先を急ぐ。おそらく武田道子さんからだと思うが、妻に毎年年賀状が来る。それは武田英夫・道子の連名の年賀状なのだが、必ず家族写真が掲載されていた。大抵が大家族である。アメリカに嫁いだ娘さん一家の写真もある。だが不思議なことに道子さんは何処にも写っていなかったと思う。
妻は道子さんと少々付き合いがあった。道子さんの県教組書記辞任の経緯も知っている。批判的だったが、同情的でもあった。協立病院で出会ったら暗い顔をしていたそうな(武田の実弟が協立の医師であり、道子さんは盛んに「弟が・・・」と言っていたそうだ。自慢好きな武田だが、この実弟の話は武田の日記に一言も登場しない。江田五月もそうだが、余程不仲なのだろう)。介護介護で疲れ果てていた。なんで亭主はあんなに明るいのか不思議がっていた。
「あんた、あんまり武田を悪う言うちゃるなよ。あんだけの人間じゃが」。「萩原が甘やかしたのが元凶じゃ。でも餓鬼じゃあ無いんだ。勉強も足らんが、それより思想闘争がない共産党員は惨めじゃな」。
彼が最初に選挙に出たのは、すっかりやる気をなくした則武真一の後を受け継いだ衆院岡山一区の選挙だった。当選の可能性はゼロだった。そのご参院選挙にも出馬した。万年落選候補であるべきだった。そうすればあそこまで腐らなかったろう。彼の不幸は立花一也県議の急病に依る不出馬だった。緊急に武田が出た。なにも選挙活動をしなかったが、議席が転がり込んできた。ブルジョア議会の議席がここまで人間を堕落させるのか。当選したその日から彼は「先生」になった。地方議員でも「政治家」になったのである。彼は人民に奉仕する議員にではなく、保守政界に名だたる議員になった。極右藤原を絶賛したのはケアレスミスではなかった。本当に共感したのである。日本共産党は防衛大学校の創立記念講演に出掛けて行って拍手を送ったのである。極右であった。
。。。。。。。。。。。。
思い出した。
彼が議員年金が廃止される直前の選挙に出ないで、年金を受け取ったことは何ら非難に価しない。だが間違ってはならない。この年金は党の議員に与えられた金である。個人が受け取ることは税法上は妥当であるが、共産党選挙を戦ってきた党員と支持者が勝ち取った金である。
それから武田は引退後に、森脇県議を自分の後継者呼ばわりした。私は空いた口がふさがらなかった。武田が議員団長であっても、議員団長が後継者を指名する? そんな党議員議員団が何処にあろうか。敢て武田の後継を言えば、氏平みほ子さんであったろう。ここまで覇権主義とは、究極のブルジョア腐敗であったろう。そういう議員団の雰囲気の中で赤坂てる子の傲慢もあった。
- 2019/10/04(金) 04:21:02|
- 未分類
-
-