古本屋通信 No 4214 2019年 10月02日
高原利生「未完成の哲学ノート」なるゴミ出版をマトモに相手にする石崎徹
よう相手にするな。何百万懸けて自費出版したか知らんが、そういう金があったら施設に寄付でもしたらどうか。いっぱしの哲学者気取りでホウボウにゴミを送りつけて自己満足している。そういうのが自費出版物の殆どなのだが、高原クラスはそういないだろう。はっきり言ってキチガイ沙汰だ。あのな、そういうのが金の無駄だからネットがあるんだ。高原だってホームページを持って記事を発信している。まるで読めない代物だから訪問者は完璧にゼロだ。だからそれを本にして他人迷惑も顧ず送り付ける。当然だれひとり読まない。石崎だって読んでいないと公言してる。
高原のは言葉や観念の遊戯でさえないんだ。脳内妄想つまり病気なんだ。なにが 「未完成の哲学ノート」か。マルクスの「哲学手稿」か、レーニンの「哲学ノート」でも妄想して、自分が大哲学者にでもなった気になっているんだろう。
あほらしいけど、ひとつだけ教えてやろうか。自分の書いた文章を英訳してみ。それを外国人にとは言わない、日本人の外国語ができる教授にでも読んで貰ったらよい。まあオリジナルの日本語文と同様に読める英文にはなるまい。
石崎君よ、いい加減にせえよ。あんたの文自体が活きていないんだ。自分の書いた小説批評の文章と較べてどうなんだ。
下記の石崎文を読んで思った。林じゅんがネット右翼と戯れてシロクロを演じて悦に入っている構図を。それとそっくりではないか。石崎に言いたいこと。あんた物書きなんだろ。だったら言葉をたいせつにしんさい。高原に返信すること自体が言葉の破棄なんだ。ほかに言いたいことはない。下のあんたの文、だれも読んでいない。私も当然読まない。
高原さんよ、あんた自分のブログにアクセスカウンター付けていないだろ。私も付けていない。でも人気ランキングでおおよそのアクセスは判る。だいたい150から200人だ。石崎のは私の一割だ。それでもって私は石崎に勝っているとはツユほども思わない。ブログの性格が違うからだ。石崎ブログには一定の固定客が付いている。でもアンタどうなんだ。ゼロだろう。そういう発信はそもそも無意味なんだ。ホームページを閉じてしまえ。そして自費出版一本にしんさい。でも虚しいと思わんか。印刷屋が儲かるだけで、誰ひとり読まない本って虚しいだろう。
高原氏への若干の疑問
批評 - 2019年09月18日 (水) 石崎徹
(このブログでは箇条書きがうまく反映されないことを忘れていました。ぼくのパソコン上で訂正しても、他の機器ではやはりもっと見にくくなるだけと思うので、このままいきます)
(20日から30日までブログもメールも一切確認できませんので、ご了解ください)
高原さんから「未完成の哲学ノート」と題するぶあつい本が送られてきた。半年前に初版が来たのだが、それに重ねて、最近第四版が届いた。
初版と四版との相違点もわからないままだが、いずれにしても極めて難渋で、またとても長く、とうぶん読めそうもないので、いただいた御礼を送信するさいに、その旨に加えて、「ダイジェストがないか」と打診した。
すると、「この部分を読んでください」ということで、本のなかから抜粋したと思われる文書がメール添付で届いた。しかしそれも相応に長く難渋なので、読めずにいたところ、平松さんがその文書への疑問点を朱書きしたものが手元にも来た。さらにそれへの高原さんの返答が今度は青書きで来た。
それらを通読すると、高原さんに対する疑問点がいくつか浮かんできた。それをここに走り書きする。ただし、高原文書中、「生き方」と題した部分はとうめん関心を持てない部分なので読んでいない。
高原―平松交換文書は未発表のものであるが、ここに記すのはそれをヒントに浮かんできた高原説そのものへの疑問であり、「未完成の哲学ノート」を読めていないながら、高原さん自身によるそのダイジェストに対する疑問なので、一応公開文書への疑問として自ブログで公開する。
高原説を確認しようと思われる方は、「未完成の哲学ノート」が出版されているので、高原さんまで注文してください。連絡先はこのブログの「メールフォーム」に問い合わせてください。
さて、高原さんにお願いするが、ここに書くことがまったくの見当違いであると思われたら、無視してください。もし反論を書こうと思われたら、それをこのブログへのコメント形式で書くのなら、ブログコメントという性格を考慮されて、要点を手短に、わかりやすく書いてください。長くわかりにくいものは公開せず削除します。
短くわかりやすく書けないのであれば、ご自分の責任のところで公開するか、メール添付で個人的に送ってください。(ただ、読めないでしょうけど)。
1. 「つまり、事実を存在と関係(運動)の全体ととらえることは、機能と構造としてとらえることである。世界は機能と構造の集合である」
① かなり混乱した叙述です。
② 「事実」「存在」「世界」はあなたにとってそれぞれどういうことを意味していますか。
③ こういう問いに対するあなたの答えはたぶん以下のように繰り返しになるだろうと推測できます。
④ すなわち、「事実とは存在と関係の全体」であり、「世界は機能と構造の集合」であり、「存在とは、関係との全体性によって事実となるものである」
⑤ 閉じられた輪のなかでのみ定義されてしまうような予感があります。
⑥ 「事実」が何を意味するのかよくわかりませんが、それが「存在」と「関係」の「全体」であると定義されているのを読むと、「存在」と「関係」とがそれぞれ別のものとして区別されているように見えます。形而上学的な思考方法が顕著です。
⑦ じっさいには、「存在」は「関係」そのものです。「関係」のないところにはいかなる「存在」もあり得ません。「存在」こそが「関係」としてとらえられる必要があります。
⑧ ところがそのあとで「世界」が出てくる。この「世界」を「存在」と同義語としてとらえると、「存在」はここでは「関係」と一体のものとして考察されているようにも読めます。
⑨ 「事実」「存在」「世界」はこの文脈中では同義語のようにも見えます。
⑩ ひとつのセンテンスの前と後ろとで、言うことが矛盾しているのです。
⑪ 「機能」の問題は次のところで。
2. 「存在を、一時的に固定的にとらえられる実在の 物理的なまたは生物的等の もの と固定的観念とする」
① ここでも工学系の表現方法(通常の文章表現ではないもので表現しようとする)が現れています。(半角スペースの使用による表現)この問題はあとで書きます。
② 「存在」とは「物質」と「観念」である。ということを青で確認しています。そのうえで「常識」では「観念を存在とは呼ばないだろう」と付言しています。
③ これはデカルトの二元論そのままです。
④ デカルトの二元論には大きな意義がありました。
⑤ プラトンでは、「観念」こそが「実在」であり、「物質」はこの「観念=実在」が作り出した影に過ぎない。即ちそれは「現象」であるということでした。
⑥ デカルトはそれを否定して、「物質」は「観念」がなくてもそれ独自で存在しうると主張し、これによって現代合理主義の祖となり、ヨーロッパの自然科学の開花に寄与したのです。
⑦ だが、彼は「観念」もまた「物質」がなくても存在しうると主張し、神の存在を証明しました。
⑧ だが、現在、われわれが知っているのは、「観念」は「物質」なしには「存在」し得ないということです。「観念」はたしかに「在る」が、それを「存在」と呼ぶかどうかは「存在」の定義によるでしょう。
⑨ 「観念」は即ち「意識」です。それは生物の「機能」から発展しました。「機能」はもとは物質的、物理的な反応です。これが例えば植物にあっては、「根が水を求めて伸びていく」「花は太陽のあるほうに顔を向ける」という機能を生み出します。即ち「感覚」によって得られたものが「生存」に有利な反応へと繋がります。
⑩ 動物にあっては、感覚と行動とを結ぶ回路はより複雑高度になり、ひとつの意識へと発達してきます。
⑪ 人間の意識=観念は、その最高段階です。
⑫ それは18世紀フランス唯物論が理解したものとはまったく違うということをマルクスが鋭く指摘しました。
⑬ 意識は肝臓から胆汁が出てくるように脳から滲みだしてくるものではない。
⑭ それは主体と外界との関係性だ。それは単なる外界の反映ではない。
⑮ 意識は生きた主体であり、生きている。
⑯ それはもはや単に「機能」と呼んでふさわしいものではなくなりました。
⑰ しかし、なおかつそれは「物質的存在」に依拠しており、それなしでは成立できないものである以上、二元論の主張者としてのデカルトの役割は終わり、それがもはや「常識」を構成しなくなったことはやむを得ないでしょう。
3. いまとりあえず、この2点が高原さんへの疑問です。それはつまり、高原さんの「存在論」がどうしても納得できないということです。ここが推論の出発点ですので、ここを納得させてもらえない限り、その続きを付いていくのはたいへん困難です。
4. 「生き方」に執着されていますが、「生き方」とはすなわち「説教」であり「宗教」です。「哲学」的文脈の中で論じることには違和感があります。簡単に言えば、「人の生き方はほっといてくれ」ということです。
5. 今回読ませていただいた部分は文章のみでしたが、ご本を全体的に見ると、図による表現が随所にある。ぼくの個人的な感覚ですが、これを工学系の表現法と感じてしまいます。それは文章にも感じるのです。パワーポイントを使ってのプレゼンテーションという感じが強い。何らかの型枠に当てはめて物事を分類し、かつ、つなぎ合わせて、ひとつの完成された構造体として説明しよう、という意図を強く感じます。即ち文章表現だけで現実の複雑さを表現しようとする努力が行われていません。
ぼくは個人的にこういうものは受け入れがたいのです。
6. どこかで、「経哲手稿」に触れておられましたね。どこにあったのか思い出せませんが、ぼくはそれを読んで、「発表する意図もない若い時代のノートが、論理の飛躍に充ちた不完全なメモに過ぎないことに、なぜ気づかないのだろう」と思ってしまいました。
これはまた機会があれば今度書きます。
今回の「未完成の哲学ノート」は出版されたのだから、「ノート」といっても、もちろん場合が違いますよね。
コメント
51:工学的表現について by 平松民平 on 2019/10/01 at 05:00:32 (コメント編集)
「文章表現だけで現実の複雑さを表現しようとする努力が行われていません」
私はここに半分納得、半分違和感があります。
*自己の感性フィルターでろ過、加工した文表現を他者と共有する場合、フィルターを透明にして論理を伝えたい場合、文字的表現か工学的表現か、は表現する対象、目的次第と思う。
*論理関係を説明したい場合、例えば接続詞で繋げられるのは、隣接文の間の、1次元上での関係だけですが、現実世界は隣接の間の関係、直線的関係に還元できない、2,3次元的な広がりを持っている。
これを文的な言語で正確に表現すると多量な文字と複雑な接続詞を要する。
*例えば、資本論などは図で表現すればスッキリ把握できる事柄を数ページ以上の文で語っている。
価値、剰余価値、価値形態論の難解さの半分はここからきているのではないか。
*例えば、多層的な事柄の説明に、隣接層間だけの説明では全体の中での各層の論理的位置づけなど、を文で表現するのは長文を要する。
*図に限らないですが、文字言語による表現は万能性はあります、図形も、文字による表現は可能で「縦3cm横2cmの濃い青色の四角」と説明することもできるでしょうから。
49: by 高原利生 on 2019/09/20 at 08:23:27 (コメント編集)
旅に出られるそうなのでとりあえず二点だけ
・まず事実について
事実を、あるものの全て、すなわち客観的世界と人の観念に、ある存在、関係(運動)の全体とする。
存在を「固定的にとらえられる実在の もの と固定的観念」とした上で、事実を、1.存在、2.関係(=運動)、の二つととらえ、かつ事実を1.客観的事実と2.人などの観念の中の像とする。
・「未完成の哲学ノート」はAMAZONで高原利生を検索すると出てきます。AMAZONで買うか、本屋に注文してください。
「未完成の哲学ノート(2019年2月): 矛盾モデル,根源的網羅思考と世界観、生き方とポスト資本主義 (MyISBN - デザインエッグ社)
高原利生 |
高原さんへの質問 言葉の定義について
批評 - 2019年10月01日 (火) 石崎徹
<事実を、あるものの全て、すなわち客観的世界と人の観念に、ある 存在、関係(運動)の全体とする>
とても全体を読める段階にないので、部分的な指摘になって、たいへん申し訳ないのですが、指摘というよりも、質問であると捉えてください。
部分的に質問しますので、部分的にお答えください。
上記の言葉を読ませていただいて、高原さんの書くものがなぜ理解できないのかが分かったように思いました。高原さんは言葉の定義から始まるのです。AはBであるというのが高原さんの論理の出発点です。なぜAはBなのかと質問すると、「わたしがAはBであるとするからだ」という答えが返ってきます。あるいは別の場所で、AがBである理由を説明しているのかもしれませんが、順序としては、AがBであるということの説明から始まるべきでしょう。あるいは、この仮定の前にすでに説明を終えているのかもしれませんね。だとしたら、ぼくの読みが不十分なだけなのかもしれません。
ぼくが言っているのは単に<事実>についてだけではありません。すべての単語を高原さんはまず定義します。定義のその場に定義の理由が書いてあるようには思えません。
言葉とは何ですか。言葉はもちろん本来厳密に定義づけできるものではありません。それは習慣的に使われ、社会環境のなかで変化し、ひとつの言語社会にひとつの言語文明として存在しています。
一定の時代における一定の社会のなかで、ある程度共通の認識を与えられています。それはもちろんあいまいなものですが、あいまいでありながら、なおかつ何かなのです。
これをある個人が勝手に自分流に定義してしまったら、「わたしはこう定義する」と断った上であっても、もはや読者の理解を得るためにはたいへんな困難を読者に強いなければならないでしょう。
マルクスの「価値」が人々に誤解を与えたのは、それがあくまでも「商品価値」という経済用語としてのみ使用されていることが明白であるにもかかわらず、読者が勝手に「道徳的価値」と誤読してしまったことによりました。「資本論」の価値に関する部分はそんなにわかりにくいものではありません。この誤読は読者に責任があります。
しかし例えば、不破哲三は、30年程前に自分勝手にいろんな言葉を作り出しましたね。「暴力」は「強力」である。「独裁」は「ディクタツーラ」もしくは「執権」である。「ディクタツーラ」は原語らしいので、それでもかまいませんが、「強力」だとか「執権」だとかいったい何ですか。
古本屋から。これは不破哲三を弁護するわけじゃあないけど、ちょっと違う。まず事実誤認から。wikiでは「1973年の第12回党大会での綱領改定時に、プロレタリアのdictaturaを「独裁」と訳すのは適切でないとして、「プロレタリアートの執権」と言い換えた。1976年の第13回大会における改定の際に、用語自体の使用をやめて、「労働者階級の権力」とした」。これは1970年代だから当然ながら不破ではなく宮本がトップの時代である。でも宮本が勝手に言い出したことではない。レーニンの著作の翻訳に関わって集団討議があった。綱領改訂だから赤旗評論特集版に反対意見も掲載された。「暴力」の日本語には通俗的な響きがあったから訳語を変えた。「強力革命」がよい訳語とは思わないが、レーニンに照らして一定の根拠はあったろう。でも「独裁」は独裁のママでよかったと私は思った。「執権」は拙い訳語だった。ついでだが、今日の不破になると、レーニンの総否定だから石崎の言は当らない。このように石崎が文学を論じる時はよいが、いったん社会問題を語るとなると、おおよそアバウトなんだ。事実関係を無視して、その誤謬を前提に議論をするんだ。
あるいは「社会主義を目指している国」だとか、この人は勝手に言葉を作るのが好きな人だ、そんなおかしな言葉を他人に強制しないでくれと、ぼくは当時から主張していました。
言葉を作りたがる傾向の人々がいるのです。
そういう言葉はそういう仲間内でしか通用しません。
まあ、大衆迎合ではあった。
断定できないものを断定したいとき、あるいは説明の難しいものの説明を省略しようとするとき、人は勝手に言葉を作り出し、あるいは勝手に定義します。
現実というものはそんなに簡単に説明できるものでもなければ、断定できるものでもなく、定義づけられるものでもなく、名付けられるものでもない。というのがぼくの主張です。
- 2019/10/02(水) 03:23:46|
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