古本屋通信

津田孝

 古本屋通信  No 427  9月22日

  津田孝


 ブログのタイトルを「放言」にしようか迷ったが、踏み止まって「津田孝」とした。今朝、田舎の倉庫で古い雑誌と向き合っていた。左翼系ばかりだが、捨てきれなかった『文化評論』、『民主文学』の2束を岡山に持ち帰ろうと、紐を解いて目を通していた。たまたまだが、稲沢潤子の「青麦」について書いた津田孝の文に目がとまった。二段組の数頁を読んだ。なんじゃ、こりゃあ評論か? もう無茶苦茶だ。あきれてものが言えん。引用する気にもなれない。

 私はブログのネタを漁っていたのだが、『文化評論』と『民主文学』の束を括り直して放り投げた。津田孝だけでなく、こういうものに関わってきた自分が厭になった。
 
 じつは私の中でこういう感覚は、ここ十数年ずっとあった。文学運動なんかまっぴら、時間の無駄だ、そういう思いが増幅してきた理由はいくつかあった。その一部については、これまでも書いた。しかし決定的になったのはごく最近のことだ。ネット上で或る女が言葉のかぎりを尽くして、自分の意に沿わぬ筆者の人格攻撃をした。攻撃対象の一文も引かずにである。これは稚拙なかたちであった 。しかし私には、これが民主を名のる文学集団の外で起こったハプニングとは思えなかった。攻撃対象になった評論は「放言」だったのか。それは私には分らない。実作者からすると、作品の内面に入ることが不十分だと思える評論は、それが短かければ一刀両断に斬られたと感じられよう。それは「放言」に映るかも知れない。仮にそれが批評ではなく感想だったとしても、発した言葉ではなく、発した人間の人格が否定されねばならぬものなのか。

 私は女の人格攻撃と津田孝の「青麦」批判に、同質のファシズムを看る。なるほど津田文は稲沢潤子の人格に言及している訳ではない。だがもし津田が共産党の文化担当中央委員でなかったら、こういうハシにも棒にもかからない駄文を、『民主文学』編集部は載せなかっただろう。その意味でこれは稲沢に対する人格攻撃に等しい。

 『民主文学』に載るか載らないかもまた、作品の出来・不出来が唯一の基準ではないだろう。津田流にいえば「掲載の基準」ということになろうか。武井昭夫流にいえば「文学の党派性」ということになる。絶対に書いてはならぬことがあるのだ。共産党批判である。稲沢潤子は初期の作品でそれを書いた。「青麦」はその仕上げだったろう。だから、党官僚の津田の目に止まった。言いがかりを付けることで津田は自分のつとめを果たした。津田のような存在を、見て見ぬふりをしてまで、ひたすら自作が『民主文学』に掲載されるべく創作努力すること。これもまた、すでに滅んで久しいソ連型社会主義の後追いではないのか。長くない余生、そういう世界にだけには身を置きたくないものだ。
  1. 2013/09/22(日) 20:07:27|
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