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古本屋通信

Y・Mご夫妻来訪

 古本屋通信   No 4212    2019年  9月30日


     Y・Mご夫妻来訪
 
 午前中、私が済生会病院にいるとき、Mさんから電話があり、急遽午後からお会いすることになった。午後2時から約3時間拙宅で歓談した。

 私がご夫婦にお会いしたのは1989年いらい30年ぶりである。このとき真佐代は鹿田小学校に勤務していて、ご夫婦はこの小学校の父兄だった。かなり懇意にさせて貰った。それでY氏が編集していた 「岡大全共闘20周年記念文集」 に私も原稿を書くことを妻を通じて勧められ、私は全共闘ではなく民青だったが、勧めに応じて原稿を書いた。その続きで、御宅で長時間話したのである。この文集にはY氏も書いておられ、その文には氏がムショ帰りであることを娘さんに話したとある。

 Y氏に今もこの話を書いた立ち居地に変わりはないかと訊いたところ、変わりないとのことであった。よってそれを前提にして今回の拙文も書く。

 まあ色々当時の話になったわけだが、その前に2点。ご夫婦で相談され真佐代の絵は人物画ばかり3点を選んでくださった。油絵と水彩とデッサン各一点。これは嬉しかった。こう言っちゃあ何だが、人物画は絵を見る目がないと選べない。良い作品ばかりだったと思う。

 もう一つはMさんと私の関係だが、私が岡大哲学科に学士入学で3年に編入したとき、哲学科の同学年だったのがMさんである。そういうわけで半世紀前からの旧い友人だった。

 絵を選ぶのに時間はかからなかった。あとは歓談した。

 歓談といっても漠然と思い出話をした訳ではない。私のブログが左翼ブログであることから、そのネタになるような話をY氏から聞き出したのである。たが固有名詞が出てくる。どこまで実名を書いたら良いのか分からないが、全国区で名前が通っている人物は実名で、岡大関係はぼかして書く。ただ半世紀前のことだしキーパーソンだけは実名で書きたい。

 1968年秋、岡大中執選挙には民学同、民青、中核派に混じってブントも3名立候補した。ブントは惨敗だったが、その3名がY氏と行方氏(連合赤軍で死亡)と女性一人だった。Y氏、行方氏は赤軍派に行くが、女性はブント関東派の男と結婚したという。

 関西ブントの大半が赤軍派になったわけではなく、真っ二つに割れた。このとき反帝全学連の委員長にして加藤登紀子の夫君であった藤本敏夫が赤軍派に行ったという。この話は初耳だった。

 関東のブントは赤軍派には行かなかった。ならば明治大出身の重信房子は例外だったのか。

 京大工学部の奥平剛士は赤軍派だったわけではない。これは最初から日本赤軍として重信が一本釣りした。彼女に一本釣りされた日本赤軍は多い。赤軍派とは区別しなければならない。

 京大と同志社の1970年代前半のブントは、もちろん赤軍派ではないが、いかなるブントか、Y氏から明確な回答は得られなかった。私はかなりアナーキーなブント系だと思えるのだが。

 1968年秋の岡大中執選挙時の各派の裏方の中心だが、Y氏は中核派は三沢氏ほか数名を挙げた。常識的な名前だった。民学同は内藤(青井)秀之氏と山田雅美氏を挙げた。これも分かる。だが民青の中原猛氏と武田英夫氏はまったく御存知なかった。名前を聞いたこともないと言った。これは意外だった。中原氏と武田氏はトコトン裏方だったのだろう。

 大阪扇町公園で機動隊に虐殺された岡大生に糟谷孝幸氏がいる。その50周年を記念して追悼の企画があるそうだ。それは良いのだが、同氏はプロ学同が同志としているが、実質は組織員ではなかった。ノンセクトだったが、たまたま同派の集会とデモに参加して殺された。でもまあ同志扱いも不当ではなかろう。

 共労党 → グローカル → 蒼生 → 緑の党は、岡山では頑張っているという認識で一致した。大塚愛さんの楽々の当選はその証左である。Y氏によると、横田悦子さんをセットしたのも大塚愛さんをセットしたのも山田氏だという。また、大塚愛さんが市場夫妻の二世党員だということはないという。ご夫婦は一貫して共労党 → グローカル → 青生 → 緑の党の党員ではなかった。シンパであったそうな。私の誤認だったろう。訂正しておく。山田氏は今も大塚ー鬼木事務所の実質的な中心であるらしい。

 私は民学同の内藤(青井)氏を一貫して高く買っているが、それは医学部を中退して県北で基地反対闘争をしていたからである。大学解体を叫んだのだから大学を中退した。しかし彼は元々県北に自宅があったわけはなく、内藤家に出入りしていて娘さんと懇意になったという。私はちっとも知らなかった。
 
 今回も革共同と民青とプロ青同とブントの相違についての話になったが、これは抽象議論だから、書いてもピンとこないだろう。あと思い出したら追加する。

。。。。。。。。。

 思い出したこと。

 岡大の哲学科は哲学、倫理、美学美術史、心理の専攻に分かれていたが、うち哲学と倫理は履修科目も殆ど同じで、学生の溜り場も一緒だった。倫理のKさんという難しい文章を書く一級上のひとがいた。典型的なノンセクトの全共闘だった。中核派寄りだったが、典拠は吉本隆明だった。私は卒業後十五年後に数回、岡山駅前のパチンコ屋で彼を見掛けた。その風采はまさに暴力団員であった。だからそう書いた記憶がある。これを今回のY氏の話で訂正しておく。彼は水商売の世界で生きたが、暴力団になったわけではないと。

 それから倫理専攻の岡確あきら君の話にもなった。彼は故人だから実名でよかろう。プロ学同の活動家として逮捕され服役した。そのご解放同盟の専従になったが、早期に病死した。その追悼文を何人かが書いていた。たしか山田氏も書いていた。今もネットで読めるのだろうか。

  Y氏は盛んにブントは一匹狼だったという。その通りだろう。それは彼が今もあらゆる党派の人間と付き合える根拠でもあろう。中核派とも緑の党とも自民党とも、そして妻や私とも付き合える、これは左翼通のプラグマティストだろう。私はそのように理解している。

 あっ、それからMさんは丸亀高校で妻の二級後輩である。妻は丸亀西中だったが、彼女は丸亀東中だった。二人とも中学時代にはよくできたが、高校に入ると落ちこぼれたそうである。この高校で生き残れるのは上位一割だけらしい。
  1. 2019/09/30(月) 19:36:44|
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