古本屋通信 No 4210 2019年 9月29日
人権21 調査と研究 おかやま人権研究センター発行 これは妻が論考を発表した媒体だが、当初から限りなくうさんくさいものを感じていた。早かれ遅かれ書かねばと思っていた。
但し断っておく。論考がうさんくさいとか、編集がうさんくさいとかいう意味ではない。雑誌の存在それ自体に言いようもない違和感があるのだ。一言で云えば立派すぎるのである。類書と較べてみればよい。せいぜいが団体の組織広報クラスなのだ。パンフレットが関の山だろう。いったい何様の高級雑誌なのか。用紙だって中質紙か新聞用紙で十分である。「前衛」なみで宜しい。
妻は会員だったらしく、雑誌代だか会費だかを滞納していたので、振り替え用紙で支払い、死去に伴ない雑誌購読は中止するように通知した。
それから私はおかやま人権研究センターというのは、人権おかやまの研究分野の組織だと長いあいだ信じていたが、田中金ちゃんに両者は無関係な組織だと教えられて納得した。以上の点を前提に以下を書く。
さて何処から書いていこうか。下に少し古い役員一覧がある。知っている名前もあるし、知らない名前もあるが、まあ名前貸しだろう。共通しているのは殆どが日本共産党員らしいという事くらいだ。各界の知名士だろう。トップの岩間一雄が世紀のペテン師であることを除いて良心的な顔ぶれであろう。
実質的に雑誌の編集に関わっているのは菅木智子さん一人だと私は見ている。この人こそ妻に論考を掲載する機会を与えてくださった人だろう。妻の口からもしばしば名前が出たし、拙宅も二度訪問され、私も直接お会いしている。理論的にも高く、人間として信頼できる方である。私は全幅の信頼を寄せている。その前提で書く。
私は元編集者だが出版人でもある。出版人は一冊の書籍なり雑誌を一瞥して先ず何を思うか。それはその書籍なり雑誌の根拠である。一瞬にして原価計算をし、販売部数と損益分岐点の部数を思う。割りが合うか合わないか。売れるか売れないか。
「人権21 調査と研究」 はたちどころに胡散臭い雑誌だと確信する。ふつうは総会屋雑誌なんだが、それとは違う。行政から金をふんだくって雑誌を発行している。それ以外にあり得ない。これは旧い時代の部落解放同盟時代からの遺産だろう。でももう止めたほうがよい。
妻が菅木さんから聞いた話である 「雑誌は金があるから継続する。せっかくある金を使わないのは勿体ない」。そういうことである。もちろんこれは彼女の個人的見解ではない。組織の見解である。でもそういう雑誌こそ出版の風上に置けないペテン雑誌である。もうそろそろ廃刊にし余った金は行政に返すべきであろう。
ちょっと、妻の論考「ひまわり学級に参加して」は8ポ二段組5ページである。ページ当りの写植代が5000円と見て25000円くらいは筆者が負担しなければならぬ。妻は逆に原稿料をもらっている。こんな馬鹿な出版があるか。いちおう年会費3900円、一部頒価650円としているが、回収率は3割、あとは無料配布である。一回1000部印刷製本するとして一回の刊行費が100万円か(これは100万÷1000部だと単価が1000円となるが、いくらなんでも原価はもっと低い。刊行費というのは菅木さんの給料まで含むのである)。うち70万は役所の公金だろう。こんなことやってるから、いまだに同和利権などと陰口をたたかれるのだ。
岩間一雄理事長
小林軍治副理事長
中島純男副理事長
清水善朗理事
井場哲也理事
田中博理事
碓井敏正理事
三宅良子理事
内田みどり理事
吉野一正理事
小畑隆資理事
菅木智子理事
小出隆司理事
榊原精理事
崎本敏子理事
平島正司企画編集
福木実監事
藤澤末博監事
1,2 胡散臭いのも混じっているが、それはおこう。こういう組織のトップにペテン師を戴いたらオワリである。全活動がペテンになるからだ。以前の原野あきら法学部教授は立派だった。岩間って何なのよ。下に過去記事を貼っておく。
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古本屋通信 No 3527 2018年 09月01日 岩間一雄といふ人の著書
私の見解に異論がおありの方はアマゾンレビューに肯定評価の書評を書いてくださいね。
私が長い間、そう、古本屋を始める前の30年以上前から、ずっと納得が行かなかったことがあります。それは岡山ではそれなりに有名人である岩間一雄といふ人の本が、何冊も出回っていて、それらが何の非難も浴びることなく流通していることです。大半はたぶん大学の教科書・副読本として学生に購入させた本だと思います。それだから論外なのか、アマゾンレビューには一件しか書評が存在しません。アレコレの前にまず流通本を列挙しておきます。
あっ、各著書の本文を少し読んでから気が付くことですが、タイトルからして、メゲていると私は怒って(思って)います。それから未来社の西谷社長は朝鮮のカルト本を平気で出版する商売人ですから、これらは自費出版扱いだと思います。
『中国政治思想史研究』 未来社 昭和43年
(丸山真男『日本政治思想史研究』を捩っただけのふざけた題名。雲泥の違いというだけでなく、中国の政治思想史なんか岩間ごときに書けるわけがなかろう。)
『三好伊平次の思想史的研究』
三好伊平次研究会 吉備人出版 2004年
(編著だからマシな論考も含まれている。三好伊平次は部落民であり、明治の運動家である。その三好の歴史研究ならともかく、「思想史的」研究という切込みは無理だと思うのだが。)
『天皇制の政治思想史』 未来社 1991年
(この題名もヘン。ふつうなら 「ーの政治史」 だろう。内容といふより目次を一瞥すれば 「思想史」でないことは明らか。)
『中国の封建的世界像』 未來社 昭57年
(意味不明だろう。中国に失礼という以前に、「世界像」って、どういう意味? 史実としての中国史ではなく、著者のイメージとして結晶した中国といふ意味か。ならば歴史研究ではない。それに「封建的」って、歴史概念として使っているとは思えない。口から出まかせだろう。)
『渋染一揆・美作血税一揆の周辺 ある墓碑銘への注』
岡山部落問題研究所 1996年
(文学的接近でもなかろうに、カッコウ格好を付けただけの意味不明な副題。それから渋染一揆は無名の農民一揆ではない。中高の教科書に載る著名な全国区の一揆である。その一揆に 「あるー」 はないだろう。)
『比較政治思想史講義 アダム・スミスと福澤諭吉』
大学教育出版 平9年
(「比較政治思想史」って何だという点は置いて、まずこれはスミスと諭吉を対象として、対照して論じたものか、それともそうではなく「比較政治思想」的論なのか、不明である。まあデタラメなんだろう。スミスと諭吉など何の相互交流も影響も皆無だろう。天才か基地外でなければ成せる技ではないナ。)
『近代とは何であったか 比較政治思想史的考察』
大学教育出版 1997年
(「比較政治思想史」が好きな人だ。図らずも上のタイトルが綻びた。「比較政治思想史」自体はまっとうな研究分野であるが、「近代とは何であったか」には笑ってしまった。こういう大時代的で空虚なタイトルは書籍名としてタブー中のタブーである。編集者が絶対に同意しない。出版会社を見ると案の定「大学教育出版」である。コレ出版社ではない。岡山市高柳の友野印刷である。自費出版。)
『毛沢東 その光と影』 未来社 2007年
(ちょっと恥かしくて、笑。毛沢東研究の新機軸だな。しかも21世紀の上梓。こんなものを金を払って購う者はいない。西谷の未来社。結局マトモな出版だけでは経営が成立しないから、数百万の金を取ってゴミを本にするのだ。朝鮮(北)の宣伝本もそうだ。まあ丸山真男 『現代政治の思想と行動』 の版元だから信用はあるワナ。詐欺商売である。福武哲彦が西谷能雄を嫌っていた。哲彦氏に私は意見を求められて 「私も嫌いです。でも丸山の本はピカイチです」 と答えたら、「ウチでも丸山さんの本を出版したい」 とおっしゃる。「社長、それは絶対に無理です」 となった。懐かしい思い出である。オシマイ。)
『日本を考えるための条件』 大学教育出版 1999年
(イカレている)
『ナショナリズムとは何か』 西日本法規出版 1987年
(まさにナショナリズムとは何だ、まったく分っていない者が本を出版する奇怪。一定の共通認識はあるが、丸山と、中国文学研究者の竹内好よしみでは使い方が全く異なる、そういう文言は書物の題名に成り得ない。)
以上10点はすべて単行本です。このうち2点が編著であり、これらには他の著者の論文も入っていますが、巻頭論文は岩間氏のものですから、2つの本については岩間文だけを問題にします。
ちょっと余談ですが、私の岩間大先生評価を上記の理事さんの小出隆司さんに言ってみました。小出さんは元中学校社会科教員で、金川高校の私の一級先輩です。それで拙宅にこられた時に言ってみました。チンプンカンプンでした。まるで会話にならないのです。有名な岡大の名誉教授に何を因縁をつけているのかという口ぶりでした。嗚呼、相手にできないナアと思いました。小出さんでも理事が務まるんですね。言っておきますが、菅木智子さんはちゃんと分かっているでしょう。それでいて担いでいるのです。組織って怖いですね。
これら10点の他に、新日本出版社から守本順一郎との共著で新書本が出ています。日本思想史〈上中下〉1981~ です。これは共著というより守本氏の論考を岩間氏が編者としてまとめた本です。私は守本氏を丸山真男とならんで極めて高く評価しています。そもそも私がコロッとだまされたのは新日本新書に拠ってです。これは名古屋大学での守本氏と岩間氏との師弟関係で出来上がった本でしょう。
ここからが本論なのですが、結論から。すべての本(編著書の他人の論考を除いて)が失格などという生易しい代物ではなく、支離滅裂でとうてい数ページと読めない偽書です。こう断定するのですから、私が間違っていたら、私が大恥をかくのです。私は読書家としても、古本屋としても、編集者としても、またマルクス学徒としても、自信を持って言い切っているのです。
どの一冊でもよろしい、そのうちの任意のどの数ページでもよいです。どうか読んで見てください。私はこれが理解できる人は、狂っていると思うのです。思想性がなっていないとか、本物でないといふのではありません。とにかく日本語になっていないのです。そしてこの場合の日本語の欠陥は日本語力の問題ではなく、論じようとしている対象についての認識の問題なのです。
私は編集者時代に多くの一般書の持ち込み原稿を見たわけではありませんが、それでも十数人は見ています。研究者のマトモな原稿は、注文を付けてリライトして貰って、こちらが最終的に朱を入れれば本になるのです。でも半数以上の素人の本は持ち込み段階で、ハナから読めないのです。丁寧に怒らせないように断ります。断っておきますが、これは主要には国語的にどうか、ではありません。大学の優れた研究者であっても、文筆家ではありませんから、文が下手だったりはいらっしゃるわけです。例えば岡大教授の藤井駿先生のような人です。これを直して本にするのが編集者です。
私は古本屋を始めてから、多くの人に岩間氏の著者について、自分の感想を言ったうえで意見を求めました。まず20年前に岡大法学部の女子学生(共産党員)です。「よく分からないヘンな先生」 ということでした。次にM学院高校のK先生です。まあ一級の読書家で歴史学徒ですワ。逃げの一手でした。モノ言えば唇が寒い、喋れば私が書くからでしょう 「分からん、私なんかの及ぶ先生ではないデス」。あと名前を挙げませんが、皆さんダンマリ、但し褒めた人はいませんでした。
私は一大学教授がここまで岡山の読書界を壊している例を知りません。それは岡山には立石憲利さんのような人は何人かいます。でも立石さんの本は日本語でしょう。意味は取れるでしょう。岩間氏とは違います。
私が岩間氏をどうしても看過できないと思ったのは、彼が長期間に亘って岡山部落問題研究所のトップであり続けているからです。いまもそうでしょう。本当にエライ先生だと思っているのか、それとも岡大名誉教授の利用価値なのか分かりませんが、私はちょっと黙っているわけには行かないのです。小畑先生まで名古屋大学で先輩だった岩間氏を持ち上げているのですから。
- 2019/09/29(日) 10:21:10|
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