古本屋通信 No 4198 2019年 9月22日
小さな民主主義の実験
党外の古本屋通信が公然と党を批判することは階級敵を喜ばせるか?
そして党を批判する古本屋通信と党員が関わることは党にたいする裏切りか?
さらに、古本屋通信が党と無関係なところでなす企画に党員が関わることさえも自粛すべきなのか?
いま古本屋通信の周辺でなされていること、それはごく平凡な、故人をしのぶ、つつましい行事にすぎない。
その行事に関わっている古本屋通信にたいして、おおよそ考えられない理不尽な言動があった。
行事の進行を古本屋通信の記事にしないでほしいという恐るべき干渉である(だがそれさえも私はご本人が関わっている範囲でだが、記事にしないと約束した。いかに理不尽であろうと関係者が不快に感じたら、無条件に削除するのが私のブログの立場だからだ)。
党を公然と批判し、ネット右翼と公安警察を喜ばせる古本屋通信が行事の記事を書けば、それだけで、参加したくても参加を躊躇する人が出てくると言うのである。
これはすべて一個人の杞憂(或いは根拠なき憶測)であるが、まずもって、古本屋通信の基本的人権である表現の自由は、はじめから蹂躙されている。
仮に杞憂が現実になろうと、それは古本屋通信が被る被害(ここにもトンデモ認識がある。企画物は古本屋の私有物なのだ)であって、予め表現の自由を封殺するような問題ではない。
さあ書いたぞ。
まあ、私は面白い実験だと思っている。
だれが参加されるか。だれが参加されないか。
ちょっとした民主主義の実験である。
テーマを投げ掛けてくれたカルト党員に感謝する。
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ねんのため。みさかいもない党攻撃は当然ながら階級的を喜ばせる。
私の思想的立場は科学的社会主義(マルクス主義)である。
政治的立場は党 61年綱領支持である。
現状の党を批判する私の方法は、党の肯定的側面と否定的側面を一度顕在化させたのち、(弁証法でいう)肯定的統一を図る方法である。これはカルト党員が党の基本文献を読んでいれば理解できるのだが(「空想から科学へ」、「フォイエルバッハ論」、「資本論」第一巻。最後は現行の新日本訳でよい。誰が万札を払って新訳を買うか。現行訳は党員学者二十数名の共同訳である。何時の訳も不十分であろう。なら新訳に当たって既成訳の欠陥を説明すべきである)。
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ついでに下記のモック様のコメントにコメントしておこう。ろくでもない投稿が多い中でマトモな投稿である。
11. もっく
2019年09月21日 23:22
KM生様。「不破の単独訳」などではありません。30年前の新書版は、土屋保男など当時の著名な経済学者数名を監修者にして50名ぐらいの学者が参加した集団訳でしたが、今度の新『資本論』はその訳文を使って、不破氏の見解に合わないところだけを訳文を変えたり、文章の前後を入れ替えたりしているだけです。それなのに、かつての翻訳に参加した学者たちの氏名は抹殺され、不破氏、山口氏など4名の社研メンバーの名前だけが記載されています。他人の学問的成果をほとんど利用して、その一部を自分流にアレンジして、自分の名前で発表してしまうという、およそ学問の世界では通用しない手法です。開いた口がふさがりません。
おっしゃるとおりでしょうが、やや根拠が薄弱です。新日本出版社訳についての典拠を示すべきです。これは監修者も訳者も伏せるということで、当時関係者全員の合意がなされたと思います。この点は大月版や青木版と違うでしょうね。だから後になって貴方のようなことを書いても無効なのです。出版の常識でしょう。したがって、貴方の続く発言も推測の域を出ません。新訳批判としては弱いです。新日本出版社の勝手でしょ、となるのです。それよりも新日本出版社は旧版を改版するんですから、その説明責任があります。それだけのことです。
12. もっく
2019年09月21日 23:27
追伸。そういえば、岩波文庫の『資本論』は向坂逸郎訳となっていますが、実は岡崎次郎が”下訳”したものをそのまま向坂が自分の名前で出版してしまったそうです。かつて岡崎次郎が自著で向坂を糾弾していました。
これは私も取り上げましたが岡崎が悪いですよ。向坂死後だったら決定的に出版道義に反するでしょう。だいいち岩波に告発されて然るべきでしょう。出版界の常識ですが、下訳なんて殆ど市民権がありません。腐るほど存在しますよ。監修は名目だけですが、岩波が向坂訳の名前で出版したのですから、どこまで行っても向坂の訳です。こういうのを因縁と言います。誰にも相手にされません。卑怯だからです。それに岡崎は大月版の責任訳者ではなかったかな? 青木だったかも?この点を誰も語りません。
- 2019/09/22(日) 04:37:35|
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