古本屋通信 No 4188 2019年 9月17日
甥の賢(まさる)君と、妻の好美さんが、玉島からやって来た
昨日、昼すぎにやって来て6 時まで歓談した。久しぶりに癒された。賢(まさる)は妻の長姉の息子である。好美さんとの結婚の経緯は忘れていた。帰ってから思い出した。本人たちが嫌わない自信があるから、このさい暴露しておこう。
賢(まさる)は30年まえ岡山市内の大学生だったから、しばしば我家に泊まりに来た。いつも一人だったが、めずらしく彼女を連れてきた。それは良いのだが、メチャ深刻な顔をしていた。相談があるという。後は省略するが、結果は「できちゃった結婚」だった。私は好美さんが賢には勿体ないような美人だったのを覚えている。
そういう経緯もあってこの夫妻は今も我々を慕ってくれている。来訪の目的は妻の絵の持ち帰りだが、これは省略して、このさい賢を含む京兼家のことを少し書いておきたい。
真佐代は5人兄弟姉妹の下から二番目だったが、上の2人は異母だった。一番上が今90歳の賢の母である。真佐代とは16も歳が離れている。それはよくある話だが、真佐代の母親は我々の結婚直前に癌で死んでしまった。で長姉の賢の母が真佐代の母親がわりになった。
私はトコトン苛めれた記憶しかない。いつも真佐代の味方をするのである。亭主が至らないばかりに妹は苦労すると。でも良い姉さんだった。その子供が賢だから、我々も賢と好美さんを可愛がっていたのである。絵は遠慮なく上等の油絵4点を持ち帰った。満足そうだった。
長姉はずっと琴平の坂で土産物店をやっている。70年間やっている。今もやっている。その夫君は真佐代の父の会社で働いていた。あっ、父と義兄が死んだのも74歳だった。
兄も父の会社で働いていたが、父の死後、弟と別れて別の会社を興した。いまも醬油屋である。
妻のすぐ上の姉は嫁いで徳島の池田に行ったが、のちに夫婦とも琴平に戻って讃岐うどんの店をやっていた。夫君は順ちゃんという。私は丸亀競艇に一緒に行った。
賢と好美さんに戻るが、父の代からの小さな会社を兄と一緒にやっている。苦労は多いが、まずは好況のようである。
- 2019/09/17(火) 04:11:40|
- 未分類
-
-