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古本屋通信

追悼・則武真一

古本屋通信   No 3666    2018年  11月23日


     追悼・則武真一

 たった今、党岡山県委員会のHPで、則武真一氏の死亡を知った。まったく知らなかった

2018年10月02日 日本共産党・元衆院議員、党岡山県委員会名誉役員の則武真一さん、死去
 日本共産党の元衆院議員で党岡山県委員会名誉役員の則武真一(のりたけ・しんいち)さんが2日、死去しました。87歳。家族葬をおこないました。喪主は、長男、透さん。
 1931年生まれ。57年山陽新聞細胞で入党。記者時代に、同労組委員長や新聞労連中央執行委員など歴任。大企業本位の開発政策を促進する「百万都市合併」反対闘争の一翼を担いました。労働組合運動で不当解雇を受け、11年間の裁判闘争をたたかい全面勝利しました。
 71年、岡山県議会議員に当選、県政史上初の党県議の議席を実現。79年衆院選で岡山1区(5人区)から初当選。80年5月まで1期務めました。79年10月から87年1月まで党岡山県副委員長。勇退後、治安維持法国家賠償要求同盟岡山県本部長を務めました。



  追悼文の形式を無視して則武を追悼する。

  まず上記の経歴の後半部分に沿って書こう。1971年岡山県議初当選・初議席だが、これは私が岡大を卒業した翌年であり、則武の前に萩原嗣郎が県議選に挑戦して落選していた。二人とも山陽新聞争議で馘首されていた。萩原は東大仏文卒、則武は岡大法文から広大仏文卒だった。萩原が完敗で則武が初勝利だというのが面白い。つまり大衆性(みてくれ)の違いだろう。二人とも筋金入りの党員だから長期の闘争に耐えて勝利した。そのうえで云えば勉強は萩原の方が勝っていた。

 則武を県議の議席を振ってまで国会議員にと主張したのは、たぶん萩原が中心だったろう。そしてそれは結果として成功した。つまり時代と則武の勢いだったろう。だが僅か1年弱の国会議員であった。あと3回挑戦したが、いずれも及ばなかった。惜敗でさえなかっただろう。私は則武衆院議員はフロック(まぐれ)だったと思っている。結果論だが県議から衆院候補に廻したのは、当時の岡山県委員会とりわけ萩原の誤りだった、私はそう確信している。先の衆院四国ブロック比例選挙に於いて、私が香川県議を棒に振って候補者になった白川容子を激しく糾弾した背景には、じつは則武選挙のことがあった。与えられたのではない勝ち取った議席を放棄するのは許せない。まして地方議員より国会議員のほうが格上だという認識は許せなかった。

 則武の過不足なき評価は必要だろう。優れた労働運動の指導者であり日本共産党員であった。ただマルクス学徒としては萩原に及ばなかった。私は萩原の蔵書数万冊を全て受けた。則武の蔵書は、彼が京橋の自宅を払うとき、B堂書店が受け、そのうちの左翼文献は私の所に廻って来た。則武も並みの学習ではなかったが、根は文学と音楽であった。萩原こそがジャーナリストであった。

 則武真一のことは置いて、息子の透氏に移る。私は則武透氏の弁護士活動についてはしばしば耳にしていたが、ご本人を見たことは一度もなかった。それが先日の倉敷民商弾圧事件決起集会で初めて見た。率直な感想をズバリ書く。感激した。というのは親父の真一をはるかに超えていた。つまり冴えが違う。喋りは理路整然、しかも弁護士なのに文学的素養がある。ちょっとここまで優秀な弁護士を見たことがない。

 率直な感想を続けよう。透氏は父・真一の否定の上に成立した。私はそう見ている。或る意味で父親をトコトン嫌ったのではないか。私はこれこそが息子のあり方だと思う。日本共産党前国会議員の息子であることをトコトン嫌って、弁護士の則武透は誕生した。

 透氏は今後も弁護士活動をする際、一切の党派活動はしないだろう。そういう息子に育てたのも則武真一である。

 則武真一には、もうひとり娘さんがいた。若いころは幼稚園か保育園で働いていた。長身のきれいな普通の娘さんだった。甘やかして育てたのかも知れない。今どうされているだろうか。


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   通信 No 3352 より    

 先ほど、「岡山民報」の中に彼の恩師だという長崎宏次広島大学名誉教授の 「燃えろ、則武真一君」 という文を見つけました。よくある激励文ですから転載はしませんが、ここに紹介されている彼の経歴も含めて、以下が則武の略歴です。

 則武真一は岡山の和菓子屋の伏見屋の一人息子。父親は市議会議長だった。その当時、彼は岡大法文学部文学科の学生として長崎先生に教わっていた。だが岡大にはとうじ仏文がなかったので、長崎先生は広島大学に転任した。そのとき教え子の則武を広大に連れて行った。これは大学院でも、学士入学でもないだろう。たぶん3年生にそのまま横滑りした。教授はそれくらいの権限は持っていた。また則武は、岡大でも広大でも典型的なノンポリだった。左傾化したのは山陽新聞に入社した後である。後は知ってのとおり。労組の委員長時代に馘首され、党の半専従から県議会議員一期。衆院に2回目で当選したが、わずか数ヶ月で衆院解散。その後は3連続落選。武田に候補者を譲って隠居。和菓子屋の専務。評判わるかったなあ。息子は党派性は明らかにしていないが、党関係の弁護を引き受けている弁護士である。倉敷民商事件の主任弁護人。
  1. 2018/11/24(土) 13:11:25|
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