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古本屋通信

梓澤和幸

古本屋通信   No 3661    2018年  11月21日


    梓澤和幸


 赤旗は梓澤氏の肩書きを、なぜ 「元全学連委員長」 と書かないのか。自ら青年学生運動の歴史を抹殺していては、青年学生運動の未来があるわけがなかろう。


 きょうの赤旗一面に梓澤和幸の活字を見つけて、少し意外だった。一面左の 「いま言いたい 2018」 欄に 「改憲打ち破るペンの力」 という表題で、6段書いている。肩書きは弁護士。昼前にウェブ版に載ったら転載するが、たぶん載らないだろう。平凡な内容だから、手打ちで印字するほどでもない。

 それよりも、いま古本屋通信のブログ内検索に「梓澤和幸」と入れたら、以下の文言を含む記事がヒットした。その部分をママに貼っておく。解題は要らないだろう。全学連の元委員長である。感無量である。



  古本屋通信 No 1460 より   

 川上さんのお別れ会の実行委員を挙げておこう。これが常識的に見て「元日共や日共の批判的党員」であることは衆目の一致するところだろう。

実行委員長 梓澤和幸

実行委員(五十音順)
秋廣道郎・朝日健太郎・池山吉之助・伊藤龍太郎・江藤正修・大窪一志・笠井青年・神山正弘・木元康博・川瀬健一・木島淳夫・斎藤邦泰 佐々木希一・佐藤礼次・沢井洋紀・宗邦洋・下山保・高野孟・高柳新・寺岡衞・平田勝・前畑博・牧梶郎・三浦聡雄・宮崎学・山崎耕一郎・山田信良・山根献・山本政道・尹義重・亘理純一


  私は全ての人の書いたものを知っている訳ではない。しかし『査問』が刊行された直後に書かれていれば、話題を呼ぶから否応なく気が付くだろう。私の知る限り、だれひとり発言していないのだ(私が知る限り、多少ともマトモな批評をしたのは第4インターと民学同系列の2文だけだった。いずれも日本共産党の党員でも離党者でもなかった。いまでも夫々のサイトで読めるだろう)。発言していないのには、それなりの理由があるのだが、・・・ (以下、省略)


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2018年11月21日(水)  赤旗

いま言いたい2018

日本ペンクラブ平和委員会委員長 梓澤和幸さん

改憲打ち破るペンの力

(写真)あずさわ・かずゆき 日本ぺンクラブ理事、弁護士。立憲主義回復・国分寺市民連合共同代表。『報道被害』『改憲どう考える緊急事態条項・9条自衛隊明記』ほか

 戦争と平和や憲法の問題を考えるとき、私の心の底にあるのは私自身の体験です。父は群馬県桐生で衣類の小売りをしていましたが、1943年、私が生まれて間もなく出征。店は廃業、母は、幼子2人と姑を抱えて、取り置いてあった京呉服を売り食いする生活でした。

家族に戦争の傷

 そのなかで、3歳だった兄の誠一が防火用水の水を飲んで疫痢にかかって死んでしまったのです。中隊本部で電報を聞いた父は卒倒。背後に回っていた兵士に受けとめられたといいます。この話を初めて聞いたのは小学校4年のときでしたが、笑いながら話したのです。古年兵に殴られたことなどと一緒に、軍隊生活への郷愁を思わせる口ぶりでした。

 しかし、1970年代半ば、海水浴の旅の夜、海岸の散歩から宿に帰る途中のかき氷屋で、「誠一を上野動物園に連れて行ったら喜んでなあ」といったきり、ウオーと号泣。慰めを許さない慟哭(どうこく)でした。戦争のもたらした傷と悲しみは、どこの家族にもあったのです。

 憲法改正の国民投票になってテレビCMの口当たりのよい改憲論に世の中が流されかけても、梃子(てこ)でも動かないものがある。それはこうした体験からくるものだと思います。

 同じ体験のない若い世代でも、派遣労働の不安や“保育園落ちた”といった自分の暮らしの生の体験として憲法を感ずることはできる。そういう考え方への道を引き出したい、そのように考え、日本ペンクラブ編「憲法についていま私が考えること」を発刊し12月にもシンポジウムを開きます。

人間的であれば

 作家は、理屈でなく、体験と感性で作品を創ります。例えば石川達三の「生きてゐる兵隊」(1938年)は南京陥落直後の中国に入り戦争の実相を描いた小説です。反戦小説ではないのですが、これを読めば、その人が人間的である限り、戦争はだめだとなる。発禁処分にされたのは、国が文学の力を恐れたからです。

 私が師と仰ぐ加賀乙彦さんは「フィクションでなければ描けない真実がある」と言っています。作家の目と言葉の力で今の現実を子細に描く、それを徹底的にやれば権力を揺るがす大きな力を持つと思います。

 今、憲法に関わる問題を避け、排除する空気が、ことに役所や大手メディアに充満しています。ペンの力でその空気を打ち破っていきたい。

 聞き手・写真 西沢亨子



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 「川上徹さんとのお別れの会」に参列して

2015年3月2日 kimura

 お別れ会今年1月2日、川上徹氏が逝去されました(享年74歳)。

 64年再建全学連委員長、66年から72年まで民青中央常任委員を務め、新日和見主義批判で査問を受けた川上氏(40年生まれ以下同じ)のことは多くの方が知っておられることでしょう。

 1月24日、日本青年館国際ホールで開催された「川上徹さんとのお別れの会」は300名の友人や偲ぶ方々で満席でした。12名の「お別れの言葉」とご子息の「お礼の言葉」を受けて、参列者全員の献花で締めくくられました。

 実行委員長の梓澤和幸弁護士(43年)から法政大学OBにと案内状が届き、Y・K、M・K、J・Yが参列しました。私たちは2000年、法政大学学生運動の歴史編集委員会を立ち上げる際に川上氏と懇談させていただいたことがあります。

 同時代社のHPでは実行委員に「素描・1960年代」共著の大窪一志氏、民青中央でともに活動した宗邦洋氏、「突破者」著者の宮崎学氏(45年)、ジャパンプレスの高野孟氏(44年)などが名を連ねており、会場では全学連元委員長の永戸祐三氏(47年)らをお見受けしました。受付でいただいた同時代社の袋には「お礼の言葉」や「お別れの言葉」そして同時代社出版録などが同封されていました。

 略歴には「亀戸で生まれ。60年東大入学と共に日本共産党に入党。80年同時代社設立。90年日本共産党を離党」とあり、著書は『もう一度船を出せ』『査問』『アカ』『素描・1960年代』『戦後左翼たちの誕生と衰亡』と書いてありました。

 「病状報告」によると2009年ごろから手足の痛みで、帝京大学付属病院で治療を受けていたが、病気をおして活動を続けたものの、2014年胃がんを告知され手術ができず、2015年1月2日永眠されたとのことです。

(喪主) 川上蓉子さんの「お礼の言葉」(抜粋)
60年大学生・青年運動のリーダーでしたが、10年余りで突然活動の場を失い、全ての道を断たれた40年余りの歳月、その後の生き方こそ川上徹の真骨頂であった。彼にはもう一冊書きとどめたいテーマがありました。

「45年の敗戦を幼児期で迎え、戦争の痛みのカケラを実感として受け止め、戦後の貧しさの中から明日への希望を求めて、60年安保を担った僕らの世代。しかし、時代の急速な変化がその世代を消した。左翼と呼ばれた様々な組織も今や消え去ろうとしている。それは左翼の側にも問題があったはずだ。僕らが見ようとしなかったもの、気がつかなかったもの、それを少しでも掬い取って、記録として残したい」

ノンポリの学生に過ぎなかった私が、彼に出会ったのは私にとって奇跡でした。彼が残してくれた沢山の物語と人が、私を勇気づけてくれるだろうと思っています。



配布されたお別れの言葉から(92名の中から抜粋)

高野孟氏(44年)

我々60年代を駆け抜けた世代が、もう一度頑張るとすれば、いったい何をどう頑張るのか、何度も話し合ってうまい答えが見つからないまま貴君はいなくなって、少々途方にくれていますが、なんとかその宿題を背負って生きていこうと思っています。

山科三郎氏(33年)

今、私の机の上に一冊の本があります。『トロツキズム』で、1969年に私と貴方とで編纂したものです。今から見れば問題だらけでも、20歳代の思考面目躍如たるものがあります。


田中武雄氏

1965年6月教養学部自治会再建となった時、法政大学での集会で川上さんから励ましと祝福を兼ねてのあいさつを受けました。


加藤哲郎氏(47年)

『査問』に解説「査問の背景」を書かせていただきました。そこに1972年に川上さんが「君が消えてくれるのが一番いいんだが」と査問者に言われたことを引き、「共産党が党史上最大規模の人権抑圧事件の被害者たちに謝罪するのは、いつになるだろうか」と結びました。あと10年、生き続けていただければ…。残念です。合掌。


吉田嘉清氏(26年)

84問題の時、西神田の同時代社川上徹さんはその場で水道橋の事務所を世話して下さいました。『古在由重 人・行動・思想 二十世紀日本の抵抗者』は同時代社から出版しました。いつも大同団結を心がけてくれた友よ。さよならだけが人生か。


お別れの言葉を述べた12名の中から

平田勝氏 花伝社社長

65年12月の全学連再建から50年。60年代学生運動の希望の人だった。戦後民主主義世代として育った。61年夏、党綱領決定の時は駒場の党員は数名だった。それが駒場本郷で民青1.000名となり東大生の一割となった。全国でも6つ7つあった。72年の政治的事件に連座し、その後学生運動は急速に衰退した。一つの時代、未完の時代が終わった。君の意思を引き継ぐことを信じるよ。


宗邦洋氏 民青元中央委員

12月11日、コレコン忘年会で飲んだ時は「やり残したことがある。あと5年生きる」と言っていた(これからの社会を考える懇談会)。民青中央の多数派が形成され、民青会館は楽しかったが党は弾圧で応えた。新日和見主義の連中で毎年一回集まり楽しい日を過ごしている。私は後5年頑張りたい。


山崎耕一郎氏(40) 社会主義協会顧問

2001年、三池闘争写真展をきっかけに共産党系、社会党系、新左翼系から三分の一ずつ集まりコレコンを始めた。三分の一のバランスが崩れないように集まってきたことで長生きしてきた。新左翼グループの代表的存在であった樋口篤三さんが2009年に亡くなり、川上さんが亡くなりコレコンのバランスが崩れてしまった。


高柳新氏(39) 民医連名誉会長

いくつかの顔の持ち主だった。学生運動のリーダー、古在・藤田・丸山の後継者、出版者。飲み仲間で医師としてセカンドオピニオンだった。もう一度船を出せの思いでいっぱいだ。


梓澤和幸氏(43) 全学連元委員長

62年11月27日、大管法反対・日韓条約粉砕集会(芝公園)で演壇の姿を見たのが初めての出会いでした。当時22歳と19歳。60年代学生運動の希望を託した凛然とした川上さんでした。査問後の孤独は彼の義侠心を侵すことはできなかった。古在、藤田と共に託そうとしたこと、次世代につなげることは言葉にしても伝えられない。2015年、大事な年の今日は始まりの日だ。母のように優しく見守って下さい。ある時は憤りの龍となって立ち上がれ。19歳の春に考えたことに立ち戻れ。



川上隆(高井隆)

父とは15年一緒にやってきた。父と同じことができるとは思っていないが、同時代社の旗を掲げ続けることが皆さんに報いることだと思っている。


あとがき

『学生運動:60年から70年へ』(日本青年出版社)が最初の出会いでした。学生時代に新日和見主義批判が始まり学友から「法政は無関係だよ」と聞きましたが、その後急速に学生運動が衰退していったことにずっと疑問を持ってきました。97年の『査問』でその実相の一端を知り、学生運動=全共闘というマスコミの喧伝に全学連の一員として闘った法政大学の学生運動を残そうと川上さんのお話を聞いたのが2000年でした。「まじめで大事なテーマだ。作る側の満足が大事だ」と励ましてくれました。「お別れの会」出席者の多くは60年代世代。70年代世代の私にとって「一時代が終わった」のは理解できても、このままでは終われないと思っています。(J Y)
  1. 2018/11/21(水) 07:44:37|
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