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古本屋通信

出隆の党除名がピンと来ない

古本屋通信   No 3654    2018年  11月18日


    出隆の党除名がどうもピンと来ない


冒頭 以下、KM生様の朝 06:14現在の投稿を貼るが、ひとつだけお断り。私はこの投稿をたった今 07:30に拝見して転載している。だが、この1時間16分の間に拙文の一部を修正・削除している。それは 「山田勝次郎、宮島義勇、浅倉摂、本郷新が党員として除名された記事を、私がアカハタで読んだ記憶がない」 という部分である。その記憶はないのに違いないが、この部分は本筋と関係ないと思って削除した。だからKM生様の投稿は私の旧文を読まれてであろう。そうであっても投稿が活きていることに変わりはない。それをお断りしたうえで転載する。この拙文、じつはKM生様の投稿を期待し予期もした一文だったのです。


投稿者 : KM生  11/18 06:14
浅倉摂は朝倉摂の間違いでは。12人のうち、本郷新氏は後日自己批判して除名されず。もし除名されていたら、果して(立命大全共闘に破壊された)「わだつみの像」は党からどう評価されたんでしょうか?芸術作品まで(丸木夫妻の「原爆の図」の評価なんぞその典型ですが)「党との関係」で評価していいんでしょうか?その他佐藤忠良氏も反党分子扱いはされなかったですね。息子は東京民医連大田病院呼吸器科医師(麻布高校→東大医学部67年卒=医学部は全共闘全盛の頃だった)。娘は俳優の佐藤オリエ。文化人学者12人声明は、4.17ストに対してではなく、部分核停条約に対してだったと記憶しています。出隆が51年東京都知事選立候補したのは、旧国際派から。しかしむしろ55年6全協以後は、「旧国際派の頭目だった宮顕は旧所感派に近づき、残された旧国際派の多くは構造改革派に行った」のは面白いですね。宮顕自身が2段階革命論者であり、この点では51年綱領に基づく武闘路線を取った(下部常任の多い)旧所感派とは一致していたし、一方インテリや学生の多かった旧国際派は構造改革論に流れたというところでしょうか?




  以下の丸山眞生様の投稿なんだけど、どうもピンと来ないんです。確かにウィキには1964年に除名されたという記述があるし、その他にもネット上の質問とアンサーで、4・17の党のスト破りに抗議した12人の知識人の声明に名前を連ねて除名されたとなっているのです。その部分を引用してみます。



2. 丸山眞生
2018年11月17日 18:21
渡辺恒雄の師匠は、「哲学以前」が代表作であり、東京都知事選挙に出馬経験がある哲学研究者の出隆さん(日本共産党を除名)。



1948年(昭和23年)、日本共産党に入党。1951年には東大を辞職して東京都知事選挙に無所属で出馬し落選。1956年から日本哲学会委員長を1期務めた。1964年(昭和39年)日本共産党を除名される (ウィキペディア)



哲学者出隆が日本共産党を除名になった理由は何ですか。
ベストアンサーに選ばれた回答
2017/9/2122:00:11
◆簡潔に言えば、党の方針と異なる意見・見解を、文化人12人で発表したから。
*********************************
<詳細>
・昭和39年(1964年)の春闘で、労働組合の全国組織である社会党系「総評」が
大幅値上げと公務員組合のスト権奪還とからめて公労協の半日ゼネストを4月17日に設定したことが発端。
・経済要求とスト権を結合したこの闘いを右派の民社党系全労会議は「違法政治スト」として反対したが、共産党も直前になって〝敵の挑発スト〟だから断固反対の「4・8声明」を出し、公労協各労組の大会決定を無視して全力で切り崩しを始めた。「革命の前衛党」が労働組合300万人のストに敵対するこの異変は職場労働者の怒りを巻き起こした。
(1964年当時は中ソ論争・対立が全面化し、その影響もあり共産党と、社会党・総評は原水禁運動や労働運動で対立が激しくなっていた)
・党の方針に異を唱えた12人の党員文化人による決起
文化人12人の要請にもある通り、党は正常な姿勢をゆがめて、労働者、勤労者の実生活からはなれ、人民から孤立化しつつあります。この危険から党と統一戦線を守り、労働組合の統一をまもる一つの道は、この際、組合内共産党員が率先して自己批判を行うことにあると信じます。また、この道を通ってこそ、党と組合との関係はいかにあるべきかの新しい道も開けてくるでしょう。党と組合の関係は、それ自身のもつ法則性の上にたちながらも、生きた媒介としての人間関係、すなわち組合員である党員たちの、人間活動を通じて具体的にうちたてられるものであります」。
12人の文化人とは、渡部義通を中心に出隆(哲学)、国分一太郎(文学)、佐多稲子(文学)、野間宏(文学)、佐藤忠良(彫刻)、丸木位里(画家)、丸木俊(画家)、山田勝次郎(経済学)、宮島義勇(映画)、浅倉朝倉(コレは誤字まで樋口の丸写しでした)摂(舞踊)、本郷新(彫刻)であった。




  古本屋通信

 一読してケッタイな文書だと思った。12人の声明も其の名前も見たことはある。然しそれは原水禁問題での党見解の批判であって、4・17スト破り問題ではない。たとえ声明の文言に其れが含まれていたとしても、それはコジツケだろうと思った。で少し潜ってみたら、上記のアンサーが樋口篤三の引き写しだと判明した。長いが下に引用しておく。半世紀後に書いた文である。きわめて意図的なコジツケである。つまり文化人12人の声明のナマの全文言は何処にも出てこないのである。

 マアそれは置こうか。私はこの12人のうち、少なくとも出隆が党を除名になったという記事を赤旗(当時はアカハタ)で読んだ記憶がないのだ。然し旧い記憶だから間違いがあるかも知れない。一応の問題提起に留める。

 そう思って潜っていたら、戦後学生運動史年表の1964年10月の欄にこうあった。

1964年10月 10~24 東京オリソピック
14 出隆・渡部義通ら十二名の共産党文化人、党中央に批判声明(11月9日十名除名)
15 ソ連共産党・ソ連最高会議、フルシチョフ解任を発表、第一書記にブレジネフ、首相にコスイギンを任命
16 中国、初の原爆実験成功、核兵器全面禁止のための世界首脳会談開催を提唱


  つまり出隆は11月9日の10名除名の中に入っているのか否か。


 以下は上記とは直接の関係はないが、私の出隆に対する捉え方を示す記事として再録する。私的にはそもそも彼はマルクス主義者ではない。だから除名などしようがないのである。


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    再録(抄)


   古本屋通信    No 2365   2017年  01月06日


     出隆(いでたかし)船山(舩山)信一 について

 直前板(エンゲルス 『フォイエルバッハ論』)の訳者の出隆と藤川覚の文の手打ち入力は、ギクシャクした日本語も含めて楽しかった。かなり長い作業だったが、苦痛はなかった。それはそれで終わりなのだが、エントリーを仕上げた後、何か心残りがあるのだ。というのは あの仕上げだと、私自身が訳者の出隆と藤川覚、さらにフォイエルバッハの翻訳者である船山(舩山)信一をどう捉えているのかは不明だ。 私は藤川は殆んど知らないし、さほど影響力はないから気にならない。しかし出隆と船山については、一言書いて置かないと欲求不満が残る。と言っても彼らの一部始終ではない。彼らの思想は、戦後に限って如何なる思想だったのか、果たしてマルクス主義唯物論と言えるものだったのか。それと、彼らの政治党派との関係はどうだったのか。私は特に詳しいわけではないが、知っている事を少しだけ書いておきたい。尚、白紙から稿を起こすのは苦痛なので、ウィキペディアの一部分をつまみ引用して、それにケチを付ける形で書きたい。

 出 隆  1892年~1980年

第六高等学校を経て東京帝国大学卒業。1920年、日本大学および法政大学教授、1921年、東洋大学教授となる。同年刊行の『哲学以前』は哲学青年の愛読書となる。1924年、東京帝大助教授。1935年教授。1948年(昭和23年)、日本共産党に入党。1951年には東大を辞職して東京都知事選挙に無所属で出馬し落選。1964年(昭和39年)日本共産党を除名される。アリストテレスの研究。主著は『ギリシヤの哲学と政治』、『アリストテレス哲学入門』、『英国の曲線』、『詩人哲学者』、『アリストテレス全集』(監。訳)。『出隆著作集』全8巻。


 古本屋通信

  これでもウィキのごく一部だが、彼の著作上の仕事の殆んどは大昔の哲学青年向けの教養書とギリシア哲学なのだ。つまりマルクス主義者としての仕事ではない。それじゃあ戦後に入党してからめぼしい仕事はあったのか。直前板の翻訳はその一例だろう。しかし実践運動を別にすると、著作活動は啓蒙書を含めて少なかった。これは『出隆著作集』全8巻を見れば明らかだ。入党そのものも戦前の反省に立った自己批判から出発したとは言い切れない曖昧なものであった。普通なら戦前の著作は絶版にするだろう。東京都知事選挙出馬は党の50年分裂時代に一方から担がれた不正常なものだった。1964年の除名は多分「日本のこえ」に同調してのものだったろうが、殆んど話題にもならなかった。結論だけ言うと、私は出隆をマルクス主義者と捉えたことはない。リベラルな教養主義者だと思う。それでも党の哲学者に混じってミーチン歓迎会に出席したりした、そういう時代の、まあ遅れてきた三木清のような人ではなかったか。もちろんこれに対する異論もあろうが、いずれにしても過去の人である。

1 出隆著作集 別巻1 ギリシャ人の霊魂観と人間学 出 隆/[著] 勁草書房 1980
2 出隆著作集 第5巻 哲学史余話 出 隆/[著] 勁草書房 1974
3 出隆著作集 第1巻 哲学以前 出 隆/[著] 勁草書房 1980
4 出隆著作集 第2巻 哲学を殺すもの 出 隆/[著] 勁草書房 1974
5 出隆著作集 第3巻 エッセー 出 隆/[著] 勁草書房 1974
6 出隆著作集 第4巻 パンセ 出 隆/[著] 勁草書房 1974
7 出隆著作集 第6巻 哲学青年の手記 出 隆/[著] 勁草書房 1974
8 出隆著作集 第7巻 出隆自伝 出 隆/[著] 勁草書房 1973
9 出隆著作集 第8巻 出隆自伝 続 出 隆/[著] 勁草書房 1973


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 党を除名されても「階級の利益」を! 鈴木市蔵 2

 樋口 篤三


 戦後労働運動の2回の大高揚

 日本の戦後労働運動で第一の大高揚期は、1946年に始まった戦後革命期――上から民主大改革に下からの民主革命が労働運動中心に大爆発した時期であり、そのピークが「2・1ゼネスト」攻勢であった。
 国労は全逓など官公労の中でも その主力部隊であったが鈴木市蔵が中心者であった。
 第二の大高揚期は、高野実事務局長期に上昇し、平和四原則と砂川・内灘などの米軍基地反対闘争、原水協運動を経て60年安保、三池闘争で闘うエネルギーが大噴出したが、鈴木は党幹部としてこれらの闘いに全力でかかわった。
 そして62年、参議院全国区で当選した。
 だが、日共は中ソ論争が公然となって対立が全面化した当時、中共一辺倒で「反米愛国」闘争に著しく傾斜したことから、平和・原水禁運動、労働運動で社・総評との矛盾対立が激しくなっていった。
 それが頂点化したのが64年の、4・17ストと部分的核停条約であった。

 世界革命運動でも稀な〝スト破り〟

 64年春闘で、総評は大幅値上げをスト権奪還と絡めて半日ゼネストを4・17に設定した。経済闘争ではあるが、スト権と結合したこの闘いを右派の民社・全労会議は、「違法政治スト」として猛反対する。
 しかも共産党は、直前になって〝敵の挑発スト〟だから断固反対の「4・8声明」を出し、公労協各労組の大会決定を無視して全力で切り崩しを始めた。「革命の前衛党」が労働者階級300万近くのストに敵対するこの大異変に、敵は喜び、味方は驚き、かつ職場労働者の怒りを巻き起こした。
 4・8声明は、幹部会員統一戦線部長・聴涛克巳(元産別会議議長)が発案し、書記局の伊井弥四郎(2・1スト共闘議長)と竹内七郎(電産)の2人が起草した。
 4月6日に原案をみせられた鈴木は「まったく誤りだ。すぐ書き改めよ」と申し入れたが、8日に再び見せられたら一言一句同じものだった。
 ときの党幹部会は野坂、宮本、袴田、志賀、鈴木ら9人。宮本らは労働運動の経験がまったくなく、史上最大の三池大闘争時も全山無期限ストに入って8ヵ月目にやっと激励に行った―しかも、それ1回だけ―くらいの感覚であり、春日正一、袴田里見、聴涛は戦前戦後に経験したが、期間も短く、しかも長らく現場を離れ、ほとんど知らなかった。
 宮本(中国海南島で療養中)、袴田、松島(外国党訪問)がもし日本にいても、同じ反米愛国路線が固まっており、聴涛・伊井・竹内という「専門家」のいうことをきいたに違いない―70年党史はあれこれと弁明が載っているが―。
 鈴木は、労働者感覚と運動思想を身につけ、労働者モラルもあったから、あやまった「党の利益」より「階級の利益」こそ擁護さるべきだと決意する。

 スト破りの思想的背景

 4・8声明(スト破り)は、世界の左翼史の中で見聞したことのない暗く後ろ向きの「階級的裏切り」行為であった。
 鈴木はその本質を次のように告発している。
 「『四・八声明』はこの党の独善である。日本共産党の名をもって『声明』を発するその独善である。日本共産党になんらの相談もなく、労働組合だけで勝手にゼネストを決行する。そういう組合至上主義の横暴をゆるしてはならない。党は労働者階級の前衛であり、階級の指導部だという思い上り(ママ)が、こういう『声明』になるのである。代々木の党内には、党と労働組合の関係で、不思議な信仰が根付いていた。

 『労働組合は共産主義の学校である』

 レーニンがそういっている。だからという信仰である。レーニンがそういっているのは事実である。が、レーニンはそのとき前提をおいている。つまり『ソヴエト治下』の労働組合は、といっているのである。この混同、無限定な教条主義、この信仰が『四・八』声明をださせた思想的背景であった」[『共産主義者の光と影』(人民の力社)、以下『光と影』])
 鈴木は国労に参加して以来、幾多の大闘争と修羅場をくぐり抜ける中で「統一戦線の思想と運動」をしっかりと体得し、日共幹部の中でもっとも実践した。
 大会挨拶でもそうであった。
 「大会のみなさん、わが国の運動をつつむ情勢は決して安易なものではありません。とりわけ日本独占が公然と帝国主義の道を進みつつあることに目を向ける必要があります。
 ……ここにわれわれの当面する実践的課題が、反帝反独占の統一戦線を急速に強力にうちたてることにあるという真の理由があると思います。労働組合戦線における組織的統一はこの統一戦線の中核をなすものであり、実践的指導部隊としての位置づけは六〇年安保闘争いらいの不動の支柱でもありました。それはまたわが国統一戦線の歴史的本流であるということができるでしょう。
 それにもかかわらず、事態は不幸な逆流に向って進んでいます。原水禁運動の場において、平和の国際運動の場において、民主主義擁護運動において、さらに政治的に社共両党の間において、労働組合運動の内部において、行動の統一は破られつつあるのです。「安保共闘会議」、偉大なこの人民統一戦線の財産でさえ今日窒息させられました。この不幸な事態から一日も早く脱け出し、真の統一をたたかいとることは、今日、民主陣営に身をおくものすべてに共通した最大の課題であると信じます」。
 鈴木は前号でみた如く、1949年の大首切りと組合からの二重のパージ下に分裂必至といわれた国労を身を挺して守り大統一を堅持したが、それは国労の民同派などにも大きな影響を与えた。旭川大会の挨拶も、国労本部がこの優れた実践を認めた。

 4・8声明は深刻な打撃を与えた

 4・8声明の決定的誤りについて、彼は大会で次のように訴えた。
 「いまさら、ここで、この党の「四・八声明」とそれにつぐ実行行為が、いかに根本的な誤りであったかについて長い説明は必要ないと思います。端的にいって「四・八声明」は労働者と労働組合には異質なもの、匂いをかいだだけで食えないものであることははっきりしています。事実の経過がそのことを示しています。すなわちこの声明と方針は、真の敵を忘れて労働者同志のなかに敵をつくったこと、行動の統一を乱し、組合の民主的決定を破り、民主戦線の分裂に拍車をかけたこと、生活と権利をまもる闘いを軽視して、スト権奪還闘争の前提を妨げたこと、党と労働組合の関係を破り、日本共産党の権威を失墜させたこと等々の事実のなかに明らかであります。とりわけもっとも深刻な打撃を政治的、思想的に受けたのは組合内党員であったと思います。
 私ははじめからこの方針に基本的に反対してきました。しかし、ついにこの声明の発表を阻止できなかったことについてお詫びしなければなりません。不思議なことに、党の指導部は、私などを除名したあと、いまではこの問題に怪しい動揺をしめし、失敗をひそかに自認しつつあります。幾百万労働者の一大ストライキを挑発ストとよび、情勢の変化とともにストライキが事実上の中止になると、わがことなれりと勝利の宣言を発するようなそのような労働者階級の党というものは世界のどこにもありません」。

 12人の文化人による決起

 「文化人十二人の要請にもある通り、党は正常な姿勢をゆがめて、労働者、勤労者の実生活からはなれ、人民から孤立化しつつあります。この危険から党と統一戦線を守り、労働組合の統一をまもる一つの道は、この際、組合内共産党員が率先して自己批判を行うことにあると信じます。また、この道を通ってこそ、党と組合との関係はいかにあるべきかの新しい道も開けてくるでしょう。党と組合の関係は、それ自身のもつ法則性の上にたちながらも、生きた媒介としての人間関係、すなわち組合員である党員たちの、人間活動を通じて具体的にうちたてられるものであります」。

 12人の文化人とは、渡部義通を中心に出隆(哲学)、国分一太郎(文学)、佐多稲子(同)、野間宏(同)、佐藤忠良(彫刻)、丸木位里(画家)、丸木俊(同)、山田勝次郎(経済学)、宮島義勇(映画)、浅倉摂(舞踊)、本郷新(彫刻)。


 これらの人々は学者、文学・芸術家として各分野で日本の代表的人物として尊敬され大きな影響力をその後も持っている。それを埋める党の後継人はあれから半世紀余、ついに生まれなかった。
 労組内共産党員が率先して自己批判を行う――云うべくして難しいこのことができる党、その党員がいるとき、多くの組合員や人々は過ちをおかしても、許し信頼するだろう。だが多くの党員は―上部のあり方に規定されて―そうはしなかった。今に至っても。

 党議拘束をしてはならない

 彼の演説の最後は、次のごとく格調高く訴えた。
 「……私どもは、いま、日本共産党の中央から『裏切り者』よばわりされていますが、こうした人間否定の罵倒は労働者のものではありません。私たちはより次元の高い労働者的論争を行うつもりです。私も政党の掟は知っています。だが、今回の論争は問題の性質から、党規約で拘束できないもの、そうしてはならないもの、つまり、立党の精神に関する根本的問題だったと思います。核軍縮の一指標である『部分的核実験禁止』条約の賛否、『四・八声明』の承認を認めるか否かの問題、こうした問題に直面したときの党員のとるべき態度はどうあらねばならないかの問題だと私は思います。党の決定が不幸にも労働者階級と国民の根本的生存権に相反するような場合には断固として労働者と勤労人民の利益の側に立って、党の誤りを正すために闘うべきであり、それによって、党内の矛盾が爆発したとしてもためらってはなりません。本来このような性質の問題では、党議で党員を拘束してはならない。レーニン的党の教訓に学ぶべきだと信じます。そして、三つの旗を掲げて前進することを誓います。労働者階級の統一戦線。日本における共産主義運動の統一。国際的統一と団結。これであります。
 大会の成功を期待して挨拶を終わります。ありがとうございました」。
 「党の利益」が「階級の利益」に反したときにどうするか。ためらうことなく「階級の利益」を「優先」することが、彼の演説に鮮明に訴えられている。
 そしてこういう階級原則にかかわるような際の「党議拘束」を外すことの指摘は、共産党―新左翼を通じてこのときはじめて公的にいわれたのではなかろうか。

 党員である前に人間である

 それから25年余すぎた1990年頃、日本の代表的知性の1人であった日高六郎(社会学、国民文化会議代表など)は、東欧圏の社会主義政権がのきなみ市民革命で倒されたときに、「個であり人間であり人類的であること―新しい運動にとってラディカル(根本的)とは?」を『労働情報』に発表した。
 「従来の社会主義像、左とか右とかの従来の枠自体がくずれたこと、『髪一筋動かすことのできない革命主義より、一歩の変化を実現する改革主義のほうが、よりラディカルであると考えることもできます』」と指摘した。
 チェコのある誠実な青年共産党員の言葉も紹介している。
 「『私は党員として誠実に活動してきたことがひとつあった。私が党員である以前に人間であるということだ』。
 これがソヴィエト型社会主義の最大の欠陥であったと、私は感じます。党員であるまえに人間であること、党の存在以前に、人々がいること、人類があること、それらのことを忘れた結果が、八九年の事態になったと思います。そのときにそのどちらがラディカル(根本的)といえるでしょうか」。
 日共宮本指導部には、とくにこの「党員である前に人間である」というあまりにも当たり前のことが消え失せていた。長年の教育と慣習ゆえに、党内のかなりの党員もそう〝洗脳〟され、中央に批判的な党員、それゆえ除名脱党した人は〝人間のくず〟〝裏切り者〟として手ひどい仕打ちを受け続けた。
 同じことが党外の人にも及んだ。その結果、周りの人々をして「こわい党だ」「人間味がまるでない」などで、つきあうことも敬遠した人々が労働組合や市民活動で何十万もいたといたといわれ、昔ほどではないが今も続き、〝いやな体験〟として党と厚い断絶帯をつくってきた。
 鈴木市蔵に対してもそうであった。


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 関連文書を貼っておく。


晴走雨読  晴耕雨読ではないが、晴れたらランニング、雨が降れば読書、きままな毎日
戦後左翼史 その23 1964年⑤ 文化人除名 フルシチョフ首相解任   2016-06-02 21:05:16 | Weblog
 会社でも人事から様々な意味が読み取ることができる。では、今春の日共人事をどう読んだら良いのだろうか。2014.1第26回党大会で書記長になった山下芳生が2016.4の5中総で慢性の腎臓病を理由に退任した。実権のない副委員長にはなったが。僕は、安保法制成立後の党の迷走に対し、詰め腹を切らされたと読む。独りよがりで非現実的な民主連合政権構想の提唱、1人区での選挙協力の失敗、結果的には候補を取り下げざるを得なくなった。全ては、志位の責任だが、委員長の交替は対外的な影響が大きすぎるので、山下ということになったのではないか。いずれも、主観的な情況認識の病が原因と考える。

戦後左翼史 その23 1964年⑤ 文化人除名 フルシチョフ首相解任

以下、★印は中ソ対立関係、 ◎日共関係、▽フルシチョフ解任関係である。

★1964.10.1道新 試練の秋を迎えるフルシチョフ首相 世界共産党会議の準備会議 中共制裁に手心が 東欧団の動向無視できず

★1964.10.2道新 モスクワ放送強調 中国と友好望む 成果大きい経済援助 フ首相 米案を拒否 中国の核開発阻止のため米ソ協力

◎1964.10.2道新夕刊 志賀氏ら(鈴木、中野、神山:日本の声同志会)4氏が共同声明 不当な除名認めず党員の責任果たす 

◎1964.10.4道新社説 日共の内紛と党内民主主義

◎1964.10.5道新 日共 新たな国際会議提案 世界党会議に反対

◎1964.10.6道新 日共 中央委の報告を発表 憲法擁護を強調 国際的には自主性堅持 

★1964.10.6道新 中国 懸案解決に意気込む 「調整」から「大躍進」へ 共産圏の主導権めざす

★1964.10.6道新 非同盟会議(第2回、カイロ)開く 焦点は「平和」と「開発」 期待される成果 参加は2倍に 「平和共存」の具体化図る

★1964.10.6道新 ユーゴ 世界党会議を支持せず ソ連の努力に一撃 各国の自主傾向強まるか

1964.10.7、8道新 苦悶するソ連経済 ①再燃した利潤論争 病状悪化 迫られる早急解決 レラベーズニコフ ②強い政治的抵抗 利潤導入 価格体系修正も必要 リーベルマン

★1964.10.8道新 ルーマニア代表団 周恩来首相らと会談 中ソの調停工作か

★1964.10.15道新 仏共産党声明 世界党会議に賛成 中共除名反対が条件

◎1964.10.15道新 除名覚悟の文化人12氏 日共指導部を批判 佐田稲子、野間宏、朝倉摂、丸木位里、俊子、出隆、国分一太郎、佐藤忠良、本郷新、宮島義勇、山田勝太郎、渡部義通

*(れんだいこ氏HPに学ぶ)ここに至るまでには、6.11に今回と同じ党員文化人が、志賀問題に関し「要請」文書を党中央委員・同候補・中央統制委員全員に郵送。内容は、「我々は二人の行動に同調する立場にはないが」、「第8中総」が党の根本問題から目をそらし、志賀問題を形式上の規律問題にすり替えたことに不正常さを認めざるをえない、とするものであった。6.14には、12名で「声明」を報道機関等に送付。党中央は、これは党規約第2条の(9)に定めている党員義務違反(「党の内部問題は、党内で解決し、党外にもちだしてはならない」)とした。
(参考)

・佐多稲子:小説家、『キャラメル工場から』、『夏の栞』など

・野間宏:小説家・評論家・詩人、『真空地帯』、『青年の環』など

・朝倉摂:舞台美術家・画家

・丸木位里、俊子:日本画家、『原爆の図』など

・出隆:元東大教授、哲学、アリストテレス研究

・国分一太郎:児童文学者、国語教育、作文(つづり方)教育の実践家・理論家

・佐藤忠良:彫刻家、『夏の像』釧路市幣舞橋

・本郷新:札幌市生まれ、彫刻家、『氷雪の門』、『わだつみのこえ』、『冬の像』釧路市幣舞橋

・宮島義勇:撮影監督、『人間の條件』、『怒りをうたえ』

・渡部義通:日本史学者、社会運動家、衆院議員、1967春日庄次郎らと共労党を結成

*(*は僕の考え)各分野での活躍している12名、作家、画家、彫刻家、学者などの人材が党から流出したことは、必然的に党公認の文化がその後ますます貧しく細った要因と考える。逆に言うと、党の束縛を解かれたからこそそれぞれが創造的な仕事ができるようになったと考えた方が良いのだろう。

▽1964.10.16道新 英紙報道 ソ連政府部内で大異動 フ首相にも影響? 赤い広場に肖像見えず 党本部で重要会議 イズべスチア紙休刊

▽1964.10.16道新夕刊 フルシチョフ首相解任 最高幹部会が公式声明 老齢、健康悪化を考慮 後任コスイギン氏 第1書記ブレジネフ氏 追放説が有力 新連合政権は“つなぎ”か

*(れんだいこ氏HPに学ぶ)10.14ソ共中委総でフルシチョフは第一書記、首相を解任された。ブレジネフ党中央第一書記、コスイギン首相、ポドゴルヌイ党中央委書記によるトロイカ体制に。政権末期でソ連経済は危機に、各級党委員会を工業委と農業委に分割するなどしたが、党指導と行政を混乱に陥れ、中ソ対立やキューバ危機などもフルシチョフ株を下落させた。思いつき方針と同僚無視のやり方に不満が高まり失脚。

*フルシチョフの人となりはわからないが、最大の功績はスターリン批判を行ったことと、中共とは対立したが、平和共存路線を打ち出し米国との核戦争を回避したことであると考える。

▽1964.10.16道新夕刊 フルシチョフ解任の背景と今後の国際政局 解任の真相 中ソ問題でツメ腹切らされる 多数派工作に失敗 中ソ論争、中国軟化しよう 共産圏、新たな統一の道歩む

1964.10.17道新 中国 最初の核実験に成功 本国の西部地区できのう(10.16)の午後3時(日本時間4時) 新疆の砂漠地帯か 中国政府正式提案 核兵器の全面禁止で首脳会議を招集せよ

1964.10.17道新夕刊 ソ連新指導者の意向 世界党大会は開く

1964.10.18道新社説 中国の核実験に抗議する

▽1964.10.18道新 フルシチョフ失脚の内幕 極秘に中央委招集 スースロフ氏が検事役で非難 党内での戦術に敗れる

★1964.10.18道新 核実験の完全停止 ソ連呼びかけ 米、英、仏と友好、協力

▽1964.10.19道新夕刊 伊共産党ロンゴ書記長 フ前首相解任 やり方に不満

★1964.10.20道新 ブレジネフソ連第1書記が演説 平和共存が改革の基礎 モスクワ宣言を土台に世界党会議を推進 西欧の安全保障を

▽1964.10.20道新 フルシチョフ解任の真相 専横な行動に反感 寝耳に水“解任動議”必要の反論もむなし 中ソ論争批判させず

▽1964.10.20道新 フ前首相解任は強制された 国防政策で軍首脳と対立 突然発表が証拠

▽1964.10.22道新 デンマーク共産党機関紙報道 ソ連の新指導部 各国共産党の批判でフ前首相非難を中止 インドネシア外相語る 軍縮促進に役立つが中国核実験は不賛成

▽1964.10.22道新 アイク(アイゼンハワー)特別会見記 フ首相解任は残念 ソ連、核戦争の意思はない

▽1964.10.23、24、25道新 フルシチョフの功罪 ①歴史をつくった強烈な個性―軍事バランス回復 反感を招いた個人崇拝 ②毛沢東との衝突―反感買った大国意識 自己過信 何より権威尊重 ③官僚群との戦いに自滅―性急だった機構改革 尊大、独善が怒り買う

▽1964.10.24道新 各国共産党代表近く訪ソ フ前首相解任問題で

▽1964.10.24道新 フ氏失脚の真相 農業問題が決め手

1964.10.24道新夕刊 アラブ連合 ソ連の動きに警戒 中国にも新しい対応

1964.10.27道新 スースロフ氏病気療養中(肺結核)

1964.10.29道新 ソ・仏両党会談終わる スースロフ氏も出席

1964.10.29道新夕刊 ソ連 党第1書記と首相 今後永久に分離

1964.10.30道新 社党使節団(成田) 中国と共同声明 核全面禁止で一致 浅沼精神(米帝は日中人民共同の敵)発展に努力

▽1964.10.30道新夕刊 ソ連 党機関に文書配布 細かく罪状列挙

★1964.10.31道新 ソ連党機関 中ソ和解もねらう 改革の失敗を個人に転嫁 周首相語る ソ連政変 中国核保有で中ソ好転期待できる
  1. 2018/11/18(日) 00:29:42|
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