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古本屋通信

近況 ーー 目を休める日々

古本屋通信   No 3610    2018年  10月20日


    近況ーー目を休める日々


  この数日間、意識してパソコンから離れ、ブログを書かないのは勿論のこと、いっさいのディスプレイに目を遣らないようにしています。目の保護のためです。これまでも何回も目の調子が悪かったことはあったのですが、回復すると直ちにパソコンを再開して、記事を書き捲っていたわけです。つまり目そのものの病気ではなく、酷使からくる視神経の衰えだから、休めないと何時まで経っても回復しないのです。数日休めたら目のかすみはとれたようです。

 で 、田舎に行ったり、倉庫の古本に触ったりしているのですが、昨日から写真整理をやっています。売り物ではない葉書入れパックに収めたものが1700個くらいあって、そこには計10万枚くらいの生写真があります。すべて古本と一緒に入ってきた物を整理して収集したものです。私流の基準で再編集した、マア民俗資料です。個人情報に興味はなく、戦前と戦後の歴史資料集です。でも個人の写真も写っているので、売り物ではありません。そのママでは門外不出です。

 その大量の写真も含めた資料から書いた、私の記事を一つだけ紹介すると、以下の 「福田英子顕彰碑設立運動から」 です。拍手が半年で65個も付いています。郷土史資料です。


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    再録


   
古本屋通信   No 3212     2018年  04月01日

   福田英子顕彰碑設立運動から

 昨日から表題の書き出しで何回か書き始めて、その都度やめた。資料が入ってから殆ど眠っていない。それほど魅力があった。夢中で読み込み、整理して、2冊のアルバムと5冊の葉書ファイルにまとめた。私は論文は苦手ではない。一ヶ月もあれば200枚くらいの研究論文は仕上がるだろう。それほど豊富な宝の山だった。でも誰も読んでくれないだろう。ほんの少しだけ書く。

  福田英子顕彰碑については2度あった。一回目が1966年の碑の建立。二回目が2005年の笠井山から西川緑道公園への移転。今回の資料はたぶん旧事務局周辺から出たものだ。一回目の碑の建立資料である。関係者は殆ど物故者である。また仮に生存されていても、当時の公開資料ばかりだから、何を書いても構わない。客観と私の主観を峻別すればよいのだ。当時の世話人の事など少し書く。

  その前に二回目の碑の移転だが、これは崎本さんが書いているように共産党主導の運動だった。但し豊田文子さんは治安維持法賠償同盟の役員だっただけである。設立運動も(協力者ではあったが)運動の担い手ではなかった。「豊田さんからバトンを受け継いだ」 とは新婦人の石村英子さんも書いているが、これも共産党員の勝手な想いである。ただ、二回目の運動を見えるかたちにして結実させたのは、明らかに日本共産党岡山県委員会だった。それを如実に示しているのが、運動の代表世話人が則武真一である点である。国会議員則武真一の選挙運動の一環としてこの運動はあった。碑を万人の見える場所に移転してくれという要望が皆無ではなかったろう。だがそんな要求が市民レベルであろうとは考えにくい。つまり万人が反対しない文化運動を共産党が掘り起こしたのだ。私の反対理由はすでに書いた。碑そのものにも反対である。当時の事務局長はすでに共産党市議を引退した片岡五百樹だった。片岡の下で現役市議の崎本と竹永が事務局員として働いた。そのとき共労党の横田悦子をも巻き込んだ。

岡山県平和委員会主な予定2004年
10月5日14:00~岡山市議会第一会議室 岡山県が生んだ全国的な女性解放運動の先駆者 福田英子(1865~1927)の 生誕百年を記念して東京と岡山で記念する会の運動が起こり、県民挙げての募金 運動で岡山市笠井山に顕彰碑が建立されましたが、来年の生誕140周年に合わ せて本来の建立予定地であった岡山市野田屋町の西川河畔に移設するため、岡 山市長に要請中です。幅広い県民の運動で移設を実現させていきましょう。 事務局連絡先:赤磐郡瀬戸町万富451-3片岡五百樹方TEL・FAX ...



 以下、一回目の1966年の碑の建立運動に戻る。崎本や竹永も含めて、皆様は福田(影山)英子について、綺麗事ばかり書いていらっしゃる。たしかに婦人運動の先駆者ではあった。その運動は決して過小評価できない。だが福田の生きた時代はそもそもアナ・ボルが未分化の時代だった。石川三四郎や大井憲太郎や大杉栄の時代である。福田は無政府主義アナーキズムの衣を色濃く纏っていた。 

  岡山の会のメンバーを書いておく。世話人は以下だった。

 永瀬清子 太田此実 戸田ハリエ 中垣智津 鬼丸弘行 河合勝 吉塚勤治 木村脩 宗政若子

 私が見た範囲では、太田此実と戸田と鬼丸は動いていない。鬼丸など除幕式に出席しただけである。

  あとの6人が動いている。私は中垣智津を知らないが、彼女は永瀬清子の「女の新聞」の一員だろう。二人とも党員ではない。私は永瀬に一貫して批判的だが、その理由は戦時中の転向だけではなく、戦後のアナ傾向にもある。吉本隆明とお友達である(吉本の個人誌「試行」へしばしば投稿している)。

  河合勝は言わずと知れた被除名組である。岡山市議時代に反党活動で除名されている。その除名の反党活動が奮っている。党の決定に反して三木県知事の百万都市構想を支持したというものだ。お粗末で話にならない。吉塚勤治も被除名は同じである。こっちはもっと複雑である。ただ二人とも社革にも、統社同にも、日本のこえにも行っていない。だから共産党も大目にみたのだろう(河合の除名に関しては党側の大衆宣伝のビラがあり、私はそれを持っているが、吉塚の除名は公表されていない。よって吉塚は反党分子とはされず、吉塚と公然党員との同居もしばしば見られた。たぶん彼が反党活動はしないと一札入れたからであろう)。

  木村脩の事務所は県庁近くの 「繊維クラブ」 であるが、そこには多くの岡山の知識人が出入りしていた。好並隆司や立石憲利もいた。まあ反党分子と党員の共存場所だった。『木村脩さんの思い出』 (岡山 木村脩さんの思い出集をつくる会 1988年)参照。娘さんは岡山市議の北川あえさんだが、すでに引退している。立石を 「お兄ちゃん」 と慕っていたそうだ(同書で立石述)。教育がよいから自民党に行ってしまった(笑)。

 事務局員の宗政若子は素人劇団(劇団 新劇場)の団員である。竹永は「新劇の俳優」と書いているが、これは間違いである。岡山に新劇俳優などいない。当時は労働者演劇全盛の時代だった。宗政は貧困のどん底から育った演劇運動の活動家だった。1967年5月の第37回公演「福田英子」で、英子の母親役を演じている。私は彼女は1970年代までは共産党員だったと見ている。後半生は活動の重点を華道に移しているが、これはすでに演劇時代からやっていたことだ。

 一回目の碑の建立運動は無党派アナ傾向と、共産党と、反党組織が奇妙な調和を見せた運動であった。これは運動の末端にいた数百人の名前をすべて列挙すれば一目瞭然である。ここには岡山の文化的縮図が見事に、且きわめて具体的に顕われている。その全名簿は私の手元にある。と言っても物故者ばかりだから公表しても構わないようなものの、インパクトは大きくないだろう。ただし県党史の資料にはなる。豊田文子もその中の一人である。文子は戦前からの党員だったが拷問にあって転向している。豊田秀男の夫人である。

 いくらでも書けるが、朝が近い。ただひとつ追加する。肉筆書簡のなかに鈴木市蔵の手紙があった。カンパを送っただけの数行の通知だったが、肩書きには 「日本共産党参議院議員日本のこえ)」 とあった。岡山は社革の拠点だが、一時は日本のこえもいた。私はそれを古本屋同業のすい星文庫の伊月(夫人)から聞いている。物故されたので書く。一時日本のこえの読者は岡山で30部ほどあった。それを伊月夫妻が配達していた。伊月亭主は国労のレッドパージ組だった。その頭が鈴木市蔵だった。やがて鈴木は志賀とうまく行かなくなり、運動から引いた。それに伴ない伊月夫妻も引いて短歌に逃げた。晩年は政治性の欠片もなかった。岡山社革の資料にも「大同団結を伊月が裏切った」とある。日本のこえ派の民学同組織は1965年に岡大に確かにあった。だが1968年に私が学士入学した頃は跡形もなく消滅していた。


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  ところで顕彰碑に限らず、こういった資料は写真に限らずいっぱいあるのです。「東京大学新聞」も、中核派の「前進」も、共産党岡山県委員会の「岡山民報」もそうでしたが、他に際立った物としては、宗教関係が圧巻です。と言っても個人情報が含まれていますから、生ナマでは公開できないのです。予告だけしておきましょうか。統一教会=統一協会=国際勝共連合ですね。じつに素晴らしいナマ資料です。勿論ナマでは公開できないのですが、彼らの特徴は左翼とちがって、自分たちの宗教生活を実にオープンに公開している事です。つまり反権力ではないのですから、秘密にするという観念はゼロですね。それと、もう一つ言えることは、左翼の統一教会観は間違っています。デマに近いですね。邪宗の宣伝の一例として彼らの合同結婚式を挙げるわけですが、これはいささかも彼らの貞操観念の欠如を証明しませんね。まあ近々にエントリーを立てましょうか
  1. 2018/10/20(土) 22:51:19|
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