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古本屋通信

革命か、改良か

古本屋通信   No 3591    2018年  10月10日


     革命か、改良か


 表題について何の構想もなく、自由に書いてみたいが、その意図は共産主義の称揚であり、社会民主主義の否定である。両者を別ける分岐は、ふつうプロレタリアート独裁を認めるか否かだが、ここでは人間の視点から書いてみたい。

 西口克己の小説の『廓』 だったか 『祇園祭』 だったか、いまでは確かめようがないのだ。江戸時代の刑場で打ち首に従事する「賎民」(それは「エタ」ではなく「非人」だった)が、忌み嫌われる仕事であっても、与えられた仕事に誇りをもって従事していたとあった。それは宿命としての悲壮な描き方ではなかった。歴史の事実に沿った楽天的な描写だった。

投稿者 : KM生  10/10 16:48  遊廓育ちの西口克己が部落問題の起源に触れたのは、「廓」でせう。「祇園祭」は、室町時代が舞台ですたから。自身の生立ちや(治安維持法違反で逮捕された結果)就職先がなく廓を継いだ経過などが記されていて、興味深かったです。


 言うまでもなく「非人」の仕事は資本主義の労働者の仕事ではない。だが現代の労働者の仕事は封建社会の「非人」の仕事と同じ側面を持つ。私はこれを後で2つ書こうと思う。一つは私のかつての F書店での仕事、もう一つはブル新聞。

 私の田舎の中学時代、それは3つの小さな中学校が統合した直後1960年だったが、部落差別事件が起こった。それを起こしたのは私の中2の担任教師だった。詳細は最後まで生徒に知らされなかったが、何でも学区内の特定地区を「部落」だと名指しで公言したという。その教師は翌年の新学期には学校から消えた。懲戒解雇だったろう。部落解放同盟は圧倒的に強かった。

 で翌年、私の中学は民主(同和)教育指定校となり、部落問題を徹底的に学ぶ機会に恵まれた。いま考えても優れた歴史教育だったと思う。「差別はダメですよ」 というような説教は一言もなく、江戸時代の士・農・工・商・「エタ」・「非人」の制度が、武士の階級支配にとって、なぜ必要だったか、それを生徒にも分かるように教えた。私が特に印象に残っているのは「エタ」と「非人」の違いである。「エタ」は生涯変わらないが、「非人」は農民に戻れる等。教えたのは、やはり3年次の私の担任だった難波先生(社会科公民担当。ちなみに私の父は当時、同中学の社会科地理担当だった。父は歴史が分かっていなかった。だからこそ後に神社史の、国家神道に無批判な書籍を自費出版した)である。私は中高校通じて尊敬できたのは難波先生だけである。


 1970年春、私は岡山大学を卒業して F書店に入社した。その F書店は、私の中学時代から 「アチーブの F書店」 として県下に知られていた。県下の中学の殆どの生徒は、月一回アチーブメントテストを受検し、その成績で事実上進路が決まった。まあテスト屋である。今も昔も生徒を成績で輪切りして高校を決める仕組みは変わらないが、私の中学卒業生の7割は普通科の金川高校に進学したから、受験戦争はなかった。学区外の朝日・操山に 5パーセント枠で入れる者はおらず、むしろ成績上位者は商業科や工業科に進学した。

  F書店は単なるテスト屋なのだが、そういう企業は県下の民主勢力から快く思われていなかった。とりわけ岡大の民青はかなり歪んでいた。企業に就職することをもって、資本の軍門に降った、などと公言する者もいた。

 その党員は今も 「人権21」 関連の編集で健在である。かれは定年まで中学校で社会科の教鞭をとった。私は中学校の教員などトコトン馬鹿にしている。何の事はない、公務員以外だと共産党業界に就職するのが民青のエリートコースだったのである。そのやうな現代の最も稚拙な体現者が宮本岳志である(森実元民青委員長追悼記)。

 私の F書店への就職は左翼からの脱落であったらしい。これは香川からも少し聞こえてきたが、さすがに民青からではなかった。岡山の民青からはあった。反論するのもあほらしいから軽蔑した。ここまで不勉強だとグーの音も出ない。

 「エタ」 と 「非人」 は自分の職業を自由に選べない。現代資本主義社会において、仕事・職業が自由に選択できると思うのは幻想である。我々の前に存在する選択肢は基本的に疎外された労働の市場でしかない。疎外された労働の市場から職業を選ばない限り、我われは賃金を得て生きられない。

 少し飛躍するが、私は左翼を任じる人間が一生涯左翼業界でメシを食うのは誤りだと思う。専従や党議員はできるだけ短期に一般職場、賃労働者に戻るべきである。或る民主団体では、親子で同一職場の専従だそうな。何をか言わんや、究極の利権集団である。

 私は F書店で5年間テスト業務に携わったのち、出版部門に移った。その出版部門は学習参考書と学術図書の同時並行だった。両者の間に何の差別性もない。共に疎外された労働である。出版はヒトの幸福のためになされるのではない。企業の儲けのためだけに継続される。100パーセントそうである。この認識を失ったとき労働者は労働者ではなくなる。しかしこの理屈はいまだに日本共産党員の多くに理解されていない。

 ブルジョア新聞に移る。産経、読売が右で、朝日がリベラルだということはない。すべて等しく新聞資本として、支配階級の階級支配の道具である。個々の新聞編集者や労働者が努力によって、紙面に人民要求を反映できる部分は、精々1割である。いっさいの幻想は捨てるべきである。むつかしい理屈は要らない。ブル新聞の紙上から日本独占資本のいっさいの広告を削除せよ。絶対に出来ない。それは独占資本の利益のための道具だからだ。いまこの大原則を見失った低脳が左翼の中に多いことに驚く。もっとも愉快で噴飯ものなのは、朝日、毎日の最近の反安倍キャンペーンである。やればやるほど政権は強固になっている。これは意識してやっている。つまり安倍応援キャンペーンである。ここまで書いてアホらしくなった。

 いま野党共闘が面白い。ブレまくるというような生やさしいブレではない。統合失調症そのものである。見ていて御覧。国民民主党が中心になるゾ。前原さんのいる国民民主党が(笑)。

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  朝、ひと仕事して帰ってきた。上記の文が表題と乖離していることに気がついた、が、マンザラずれてもいないだろう。上記のような人間と貨幣の価値が転倒した資本主義社会から、本来の人間を取り戻すには、革命しかないといふことだ。確かに現代社会から 「エタ」、「非人」 は消えた。だがそれは封建残滓の消滅である。賃労働と資本の対立は革命をもってしか止揚されない。人間の人間のための、共産主義革命実現の課題は、商品が存在するかぎり、絶対に古くならない。大山奈々子の限界は 『資本論』 の世界に自己を投影できない点にある。資本家の幸福のための日本共産党など、絶対にあり得えない。寝呆けなさんな。

  既出投稿者の決定的拙劣は、自分が党の社民化を実証するフリして、決定的社民にまで至っていない党を社民に追い込んで、その基準から私を指弾している点にあった。何のことはない、自分が社民であることの告白である。そういう下劣な論者を、古本屋通信が一人前に扱うわけがない。ナメるなということだ。
  1. 2018/10/10(水) 03:22:37|
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