古本屋通信

革マル派の見方と私の見方

古本屋通信   No 2733    2017年  08月13日
 
  山本義隆について   革マル派の見方と私の見方

 直前エントリーの後部を独立させた。「知性の叛乱 東大解体まで」 の著者だが、その内容はもはや記憶にない。東大全共闘代表だった山本についてのアマゾンレビューを読んで、私の感想を簡単に書きたい。

 そのまえに思い出を一つ。十年位前、横田悦子さんの事務所にご亭主賢一氏の著書 (「D志社大学喜劇研究会」 2005/7 ¥ 29,979)を注文したら、係りの方が私の古本屋に届けてくださった。ご亭主が悦子さんの同志社時代のことを小説化した本である。この本は出版社が倒産する直前に刊行された本であり、当時10000円の古書価が付いていた。私はそれだけは支払うつもりだった。ところが係りの方は(悦子さんのご意向として)タダで差し上げると仰った。私は感激してお返しに山本義隆本を差し上げた。ちょうど10000円の古書価だったからだ。賢一氏の本はもはや何処にも存在しない。私も同業者に売り払っている。

 山本の「知性の叛乱 東大解体まで」 にはアマゾンレビューに面白い感想が付いている。私はこの書評をずいぶん以前に読んでいたが黙殺してきた。この機会に全文を転載する。併せて私の山本に対する見方を副えておく。私は山本に一面識もないが、同時代の先輩しかも党派を異にする地方の学生だった者として。尚、山本は一般にはノンセクトラディカルと見做されているが、彼には短期間のブント歴があるから、私は党派人と見做す。でないと東大の諸党派を束ねられなかっただろう。


5つ星のうち3.0
東大は解体しなかった  投稿者ゲバラ   2010年7月28日
東大全共闘議長=山本義隆には2度会っている。一度目は東京拘置所(東池袋。現在サンシャインビル)の中と1972年1月18日に東大本郷の安田講堂前で開催された革マル派全学連の東大闘争3周年集会で。私は1・18東大闘争(法文2号館)を戦った者として演説した。その集会を東大大学院に復学した山本が見ていたのである。私は一言挨拶しようと探したが山本の姿はもうなかった。東大闘争は最後の裁判が結審したのは確か1993年頃と記憶する。20年以上法廷で戦われたのである。東大闘争の最大の当事者の山本が「決戦」からわずか3年で大学院に復学したのは許せないと私は思ったから「挨拶」しようとしたのだ。山本がどんな思いで全学連の集会や私の演説を聞いていたのかは知らない。今でも許すことは出来ないが山本をひとつだけ評価している。それは彼が大学の教員にならなかったことだ。駿台予備校の講師をしていた。予備校の講師はいい給料だが。大学の教員を拒否したのはまあひとかけらの「良心」があったということだ。現在68歳の山本に特に言いたいことはない。お互いに東大闘争では人生を誤ったよ。自業自得だけどよ。私は早稲田大学の「外人部隊」だ。よろしく。



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 まあ早稲田の革マル派だろうが、いずれにしても全共闘の代表的見解であろう。私は少し違う。この本に古書価が付いたのは山本が再版を了解しなかったからだ。当時の出版社はまもなく倒産したが、出版の継続は可能だった。山本はその後の40年間、一貫して沈黙した。私はこの誠実を高く評価する。つまり山本にとって 「知性の叛乱 東大解体まで」 は出版直後に無化されているということだ。私は自分の主観で言っていない。即ち1970年の「全国全共闘結成大会」の基調報告を彼がやっている。その全文を読めば良い。この集会は実は「全国全共闘結成集会」と銘打った全国全共闘解体集会であった。その象徴が共産同赤軍派の登場であった。この場所での山本はトコトン道化役者ピエロだった。ここで彼は息絶えた。以後いっさいの活動を断つ。これこそが左翼の唯一の誠実だったろう。私はどうしても最首悟を好きになれない。私の中で山本は川上徹と並んで、ある種の偶像である。あり続けて今日に至っている。
  1. 2017/08/13(日) 04:37:27|
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