古本屋通信

河村ひろ子さんの絶品を紹介

古本屋通信   No 2720    2017年  08月04日


    河村ひろ子さんの絶品を紹介します

  絶品 この上なくすぐれた品物・作品など。(大辞林 第三版)


  以下のような絶品はそう誰しも書けるもんじゃない。これだけ書ける女性の現役党員は神奈川の大山奈々子さんと河村さん位だろう。坂井希さんは書けるが照れて書かないだろう。時あたかもイカレ原水禁大会の真っ最中だ。皮肉ではなく勇気を称えたい。私はすでにシベリア抑留問題について数文を書いている。岡山市議の竹永さんのお義父さんの事との関連でも書いている。それを後に貼っておく。要は歴史をありのまま捉えること。自分勝手にイイトコ取りしないこと。そうすれば不破哲三の「スターリン秘史」の非歴史的記述など論外である。私はここまで書ける河村さんが核兵器禁止条約の欺瞞と無効性が分からぬ筈はないと確信する。マア書けるのはココまでだろう。もちろん意識下の無意識の産物である。惚れ直したワ。岡山の共産党員もがんばれ。党員二世もさまざまだなあ。




舞鶴市 引揚記念館に行きました
2017年 08月 04日  日本共産党福山市議  河村ひろ子

少し早いお盆休みをいただきました

丹後半島を周り、美しい日本海を眺めました

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毎日仕事ばかりですが、心にゆとりと潤いが必要だと痛感です

あ~自然って本当に素晴らしい(^^)!

数十キロ先には原発がある

美しい自然を残さねば

さて、丹後半島から舞鶴市へ

「ユネスコ世界記憶遺産登録」の舞鶴引揚記念館に行きました

1945年(昭和20年)

当時海外に残された日本人は660万人以上とも言われます

第二次世界大戦の終結にともない、すみやかに帰国させなければなりませんでした

これを「引き揚げ」というのです

舞鶴港は、政府が指定した引揚港一つとして、昭和20年10月7日の第一船の入港から

昭和35年9月7日の最終船まで、13年間も引揚者を受け入れたのです

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舞鶴では主として、旧ソ連(ロシア)、中国などの大陸からの引揚者を迎え入れました

13年間に66万4531人の引揚者と、1万6269柱の遺骨を受け入れました

終戦時、大陸に残された日本人およそ60万人がソ連へ送られ

その内の約47万2千人がシベリア各地のほか、コーカサス、北極圏等の収容所で長い年月、辛い抑留生活を強いられたのです

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私が住む福山市内でも、シベリア抑留され舞鶴港から帰って来られた方々がおられます

以前、ある方から話しをきいた事があります

「シベリアは極寒、飢えと病気と寒さで多くの仲間が亡くなった。亡骸を埋めたくても、土が凍り土を掘ることも出来なかった。毎日毎日、厳しい労働をしてなぁ・・・」

ゴツゴツの手を見ながら、涙を流しながら当時を語る姿が忘れられません

そのような厳しい抑留生活を終え、日本に帰国する気持ちは

どんなに嬉しかっただろうか・・・・

そして、遺骨で帰国せざるをえなかった方の家族はどんなに辛かっただろうか・・・

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我が子や夫の帰りを待つ歌 「岸壁の母」

以前、介護の仕事をしていた時にお年寄りの方とよく歌っていましたが

こんな、深い意味があったのだと改めて痛感しました

戦争は悲しみと憎しみしか生み出しません

一部の人々が権力を握り金儲けをするだけです

戦争はしてはならない・・・改めて感じました

しかし、舞鶴市内を車で走ると

「海上自衛隊 舞鶴教育隊」の看板

自衛隊の教育場があり

海上自衛隊なので、港には何隻も自衛艦が・・・・

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これが日本の現実

「引揚記念館」と、軍事強化の海上自衛隊の存在に大きなギャップを感じます

「戦争へ行った家族の帰りを待つ」

・・・こんな悲劇は繰り返してはなりません#

by kawamura0827 | 2017-08-04 12:05 | Comments(0)



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古本屋通信    No766   3月24日


  シベリア抑留


 河村さんが昨日の記事に、シベリアに抑留されていた方の体験談をきいて、話の要点を書かれている。こういう体験は語り継がれなくてはならない。福山の会は貴重だと思う。そのうえでだが、私は今回は河村さんの記事をそのまま転載する気になれなかった。語る古木さんがどうこうではない。問題が余りにも入り組んでいて、単純ではないからだ。この問題についての共産党中央の見解も、探せばネット上で見つかるだろう。然し、たぶん時と共に微妙に変化したであろう党見解を追う気にはならない。ここはごく平均的で無難なウィキペディアの記事を貼ることで、この問題を考える自分用のたたき台にしたい。

 シベリア抑留の私の体験と言えない「体験」。1965年盛夏、原水爆禁止世界大会のカンパ活動をした。高松市で個別訪問中、シベリアに抑留されていた引き揚げ者と、死者の家族に出会った。ひとりは本人。かれは仕方なかったと言った。もう一人は「未亡人」。彼女はソ連が憎いと言った。それでも若い学生の私たちに、若いという理由だけで千円のカンパを呉れた。当時の千円は大金だった。当時の私(たち)はシベリア抑留について何も知らなかった。ただ、日本が戦後処理において、アメリカだけと単独講和を結んだのが誤りだと思っていた。然しそんなことが説明になろう筈がなかった。以来、この問題は私の心の重しになっていた。ふだんは忘れているのだ。河村さんが忘れている事を思い出させてくれた。



ウィキペディア記事の全文  シベリア抑留 

シベリア抑留(シベリアよくりゅう)は、終戦後武装解除し投降した日本軍捕虜らを、ソ連が主にシベリアに労働力として移送隔離し、多数の人的被害を被らせた枢軸国側人の抑留と奴隷的強制労働に対する日本側の呼称。

一般的には「シベリア抑留」という言葉が定着しているが、実際には現在でいうモンゴルや中央アジア、北朝鮮、カフカス地方、バルト三国などソ連の勢力圏全域や中華人民共和国に送り込まれていた。

厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられたことにより、多くの抑留者が死亡した。このソ連の行為は、武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証したポツダム宣言、レーニンに背くものであった。ロシアのエリツィン大統領は1993年10月に訪日した際、「非人間的な行為に対して謝罪の意を表する」と表明した[1]。

「ラーゲリ」、「グラグ」、および「ソビエト連邦における外国人強制労働」も参照

旧ロシア帝国時代から囚人の強制労働が行われてきたが、ソビエト連邦では1920年後半頃から政治犯などの囚人の労働力が注目され、囚人による過酷な強制労働がより行われるようになった。また当時のソ連では重労働を伴う分野での労働力不足が深刻であり、むしろ労働力確保を目的として囚人を確保する側面もあった[2]。スターリン体制下(ソビエト連邦の歴史 (1927年-1953年)(英語版))の1930年代以降は強制収容所(ラーゲリ)の数が爆発的に増加し、強制労働の対象となる囚人も増加した。初期の労働環境は非常に劣悪であり、白海・バルト海運河建設などに動員された白海・バルト海強制労働収容所では1932年から1941年にかけての10年間で3万人近い死亡者を出し、死亡率が最も高い1934年には囚人の10.56%が死亡した[3]。

スターリンの捕虜観をあらわすエピソードとして、ポツダム会談でウィンストン・チャーチルが炭鉱労働者不足を嘆いた際に「ドイツの捕虜を使えばいい。わが国ではそうしている」と答え、4万人のドイツ人捕虜を本国に移送することをすすめた[4][5]。スターリンは捕虜を労働力としてしか見ておらず、人道的な扱いは望むべくもなかった。第二次世界大戦勃発後、ソ連が獲得した外国人捕虜は当然のごとく強制労働の対象となった。また、ヤルタ会談ではかつてドイツが賠償支払いのための外貨を市場で調達したため、世界的な貿易不均衡を生み出した問題(トランスファー問題)を回避するため、賠償は外貨や正貨支払いではなく、役務や現物による支払いで行われることが合意された[6]。この役務賠償の考え方は、捕虜の強制労働を正当化する理由ともなった。ソ連は1929年のジュネーヴ条約に加わっていなかったため、1931年以降独自規定として戦時捕虜の人道的な扱いを定めていたが、実際にはほとんど守られなかった。ポーランド侵攻以降獲得した各国人捕虜は389万9397人におよび、1949年1月1日の段階で56万9115人が死亡し、54万2576人が未帰還のまま抑留されている[7]。これらの捕虜の多くは内務人民委員部等の各省庁に貸し出され、その監督下で使役された。特にドイツ人の死亡率は高く、スターリングラード攻防戦での捕虜6万人のうち、帰還できたのはわずか5千人であった[8]。

経緯[編集]

ソ連軍侵攻と停戦[編集]

第二次世界大戦末期の1945年8月9日未明、ソ連は日本に対して、日ソ中立条約を破棄して宣戦布告をし、満ソ国境に展開する174万人のソ連極東軍に命じて、満州帝国・日本領朝鮮半島北部に軍事侵攻した(ソ連対日参戦)。8月10日には、モンゴル人民共和国も日本に対して宣戦布告した。日本は8月14日に中立国を通して降伏を声明したが、ソ連は8月16日には日本領南樺太へ、8月18日に千島列島へも侵攻して占領した。樺太では直後に、千島の占守島では8月22日に、日本から停戦命令が下り、降伏した。

これらの行動は、ソ連・アメリカ・イギリスのヤルタ会談に基づくものであった。当時非公開であったヤルタ秘密協定では、ソ連に対して対日参戦の見返りとして日本からの南樺太の返還とクリル諸島の引き渡し、満州においては旅順の租借権の回復および大連港や中東鉄道・南満州鉄道に対する優先的権利の認定が記されていた[9]。

日本がポツダム宣言を受諾したのち、8月16日には大本営から即時停戦命令が出たため、関東軍総司令部は停戦と降伏を決定した。8月17日に派遣された皇族・竹田宮恒徳王が新京に到着し、8月18日には満州帝国が滅亡したため、関東軍総司令官山田乙三大将とソ連極東軍司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥は8月19日に東部満ソ国境ハンカ湖の近くで停戦交渉に入り、8月26日頃にはソ連軍とのすべての戦闘が終わった。満州では停戦会談によって、武装解除後の在留民間人保護について、一応の成立を見たが、ソ連軍がその通りに行うことはなかった。日本軍崩壊後の民間人は何の保護も得られず、多くの被害が出た。また捕虜の扱いについては一切言及されなかった[10]。

抑留の決定[編集]

スターリンは8月16日には日本人を捕虜として用いないという命令を内務人民委員ラヴレンチー・ベリヤに下していたが、8月23日にはこれを翻し、「国家防衛委員会決定 No.9898」に基づき、日本軍捕虜50万人のソ連内の捕虜収容所へ移送し、強制労働を行わせる命令を下した[11]。スターリンの抑留方針決定をめぐってはさまざまな説が唱えられている。

関東軍密約説[編集]

8月26日に関東軍総司令部は「軍人、満州に生業や家庭を有するもの、希望者は、貴軍の経営に協力させ、そのほかは逐次内地に帰還させてほしい。帰還までは極力貴軍の経営に協力するよう使っていただきたい」という内容の「ワシレフスキー元帥ニ対スル報告」を作成した。この報告書は関東軍参謀・草地貞吾の述懐によると、草地が関東軍総司令官・山田乙三と関東軍総参謀長・秦彦三郎の決定を受けて作成しソ連側に送付したものだという[12]。また同日には「大陸方面二於テハ在留邦人及武裝解除後ノ軍人ハ『ソ』聯 ノ庇護下二滿鮮二土著セシメテ生活ヲ營ム如ク『ソ』聯側二依賴スルヲ可トス」ことを記した「關東軍方面停戰狀況二關スル實狀報告」が作成されソ連側に送付された。ただしこれを作成したという大本営参謀・朝枝繁春本人は、この文書が偽造されたものであると主張している[13]。

なおこのソ連軍との停戦交渉時に日本側とソ連側との間で密約が結ばれ、日本側が捕虜の抑留と使役を自ら申し出たのではないかというという疑惑が、全国抑留者補償協議会会長・斎藤六郎や近代史が専門のノンフィクション作家・保阪正康らによって主張されているが、ロシア側はそのような史料を公開していない。またこの交渉に同行した瀬島龍三もフジテレビ出版から上梓した『日本の証言』の中で、停戦協定を結んだヴァシレフスキーと秦にはそもそもそうした密約を結ぶ権限はなかったこと反論している。

北海道代償説[編集]

8月16日にスターリンは、ヤルタ協定で約束されていた千島列島・南樺太の占領のみならず、日本敗戦直後に米大統領ハリー・S・トルーマンに連絡し、北海道の分割占領(留萌町(当時)から釧路市を結ぶ線の北東側と両市町を占領)を申し入れた。理由は、「日本によるシベリア出兵によってソ連は占領されたため、ソ連も日本の領土を占領しなければ、国民の怒りが収まらない」というものであった。しかし、トルーマンはこれを一蹴した返書を8月18日に送った。このため「北海道の代償として捕虜をシベリアに送った」という説があるが、8月23日に決定された「国家防衛委員会決定 No.9898」は非常に細かい内容であり、トルーマンからの回答後に作られたとは考えにくい[14]。

移送[編集]

占領地域の日本軍はソ連軍によって8月下旬までに武装解除された。この際多数の死傷者が出たという。また、このとき、日本人捕虜は内地への帰還を望んだが、ソ連軍は復員を認めず、すでに離隊していた男性も強引に連行した。日本人捕虜は、まず満州の産業施設の工作機械を撤去しソ連に搬出するための労働に使役され、のちにソ連領内に移送された。9月5日の山田ら関東軍首脳を手始めに、日本軍将兵、在満州民間人・満蒙開拓移民団の男性が続々とハバロフスクに集められた。彼らは日本に帰れることを期待していたが、ソ連は捕虜を1000名程度の作業大隊に編成した後、貨車に詰め込んだ。行き先は告げられなかったが、日没の方向から西へ向かっていることが貨車の中からでも分かり絶望したことが伝えられる。抑留された捕虜の総数は、作業大隊が570あったため、当初は総数57万5千名が連行されたと考えられたが、65万人というのが定説である。一説には70万人近くが移送されたと言われ、最高数としては200万人以上との説がある[15]。モスクワのロシア国立軍事公文書館には約76万人分に相当する量の資料が収蔵されている[16]。

一般的には「シベリア抑留」という言葉が定着しているが、実際には現在で言うモンゴルや中央アジア、北朝鮮、カフカス地方などのヨーロッパ-ロシア、などにも送り込まれていた。現在でも、それらの地域には抑留者が建設した建築物が残存している。彼らの墓地も各地に存在するが、現存するものは極めて少ない。

収容所での生活[編集]

シベリア抑留では、その過酷で劣悪な環境と強制労働が原因で、厚生労働省把握分では抑留者全体の1割にあたる約6万人の死亡者を出した[17](犠牲者数に関しては後述)。

一方、共産主義の教育が定期的に施され、もともと共産主義的だったり、隠れ共産党員だった捕虜が大手を振い、また「教育」によって感化された捕虜も多数いる。「革命」や「階級闘争」の思想を育てるため、兵卒や下士官に元上官を殴らせる事もしばしばあったため、兵卒や下士官が(もともと農村出身者が多いことも影響しているが)熱心な共産主義者になることが多かった反面、将校クラスではそれが少なかった。共産主義者の捕虜は「民主運動」を行い、革命思想を持たない捕虜を「反動」「前職者」と呼び、執拗な吊るし上げや露骨な暴行を行った(死者も出たという)。

抑留中に起きた事件としてはこの他に「暁に祈る」事件、ハバロフスク裁判がある。

日本側の対応[編集]

1945年11月になって、日本政府は、関東軍の軍人がシベリアに連行され強制労働をさせられているという情報を得る。1946年5月、日本政府はアメリカを通じてソ連との交渉を開始し、同年12月19日、ようやく「ソ連地区引揚に関する米ソ暫定協定」が成立した。

当時ソ連と親しい関係にあった左派社会党の国会議員による視察団が収容所を視察した。視察はすべてソ連側が準備したもので、「ソ連は抑留者を人道的に扱っている」と宣伝するためのものであったが、抑留者の生活の様子を視察し、ともに食事を取った戸叶里子衆議院議員は思わず「こんな不味いものを食べているのですか」と漏らしたという[18]。左派社会党視察団は、過酷な状況で強制労働をさせられていた日本人抑留者から託された手紙を握りつぶし、帰国後、「とても良い環境で労働しており、食料も行き渡っている」と国会で嘘の説明を行った。抑留者帰国後、虚偽の発言であったことが発覚し、問題となる。

日ソ共同宣言をまとめた鳩山一郎は訪ソの前に、「北方領土返還が最大の課題として話題になっているが、ソ連に行く理由はそれだけではない。シベリアに抑留されているすべての日本人が、一日も早く祖国の土を踏めるようにすることが、政治の責任である。領土は逃げない、そこにある。しかし、人の命は明日をも知れないではないか」と語り、シベリア抑留問題の解決を重視する姿勢を示した。

帰国[編集]

1947年から日ソが国交回復する1956年にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われた。最長11年抑留された者も居れば、日本に帰国すれば共産主義を広める活動をすると収容所でソ連側に誓い念書し、早期に帰国した念書組と呼ばれる者、満洲国皇帝であった愛新覚羅溥儀やその弟愛新覚羅溥傑、満洲国国務総理であった張景恵など満州国の要人らと共に1950年代に中華人民共和国に引き渡され、撫順戦犯管理所などに収容される者達もいた。しかしさまざまな事情(ソ連当局の勧誘を受け民主運動に関係した、日本に身寄りがなく帰国しても行くあてがなかった、現地の人間と恋仲になった、など)で帰国せずにソ連に残留して帰化した例、記録が紛失してソ連当局に忘れ去られ、後になってからようやく帰国が実現した例もある。

一方、兵卒や下士官を中心に、抑留中の教育によって共産主義に感化された者が多数おり、占領軍による1950年からのレッドパージも、帰国事業が本格化してから彼らの存在を危惧したことが遠因となっている[19]。しかし、多くは帰国後も共産主義に固執しつづけたわけではなく、しだいに政治活動からは身を引いていった。しかし、日本の公安警察は“共産主義の脅威”を理由に1990年代後半まで彼等を監視下においた[20]。

冷戦終結後に、ロシア側から収容所や墓地の所在地リストが日本政府に手渡されたことに基づき、厚生省(現・厚生労働省)や民間の遺族団体などによって、毎年夏季に現地で抑留中死亡者の遺骨収集事業が進められている。

厚生労働省では、2003年より遺族の希望に応じて遺骨のDNA型鑑定が行うこととしており、2010年までに約828名の身元が特定され、遺族に引き渡されている[21]。

犠牲者数[編集]

日本側の調査による死者名簿には約5万3千人が登載されている。ソ連側(現ロシア政府)はこれまでに約4万1千人分の死者名簿を作成し、日本側に引き渡している[22]。従来死者は約6万人とされてきたが、実数については諸説ある。近年、ソ連崩壊後の資料公開によって実態が明らかになりつつあり、終戦時、ソ連の占領した満州・北鮮・樺太・千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいたが、このうち約107万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと見られている。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモ著『検証-シベリア抑留』によれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという。

賃金未払い問題[編集]

国際法上、捕虜として抑留された国で働いた賃金と、捕虜の給養費は捕虜所属国の負担となっており、この慣習はハーグ陸戦条約などで確認されているが、日本政府はハーグ会議でもこの規定採用に反対していた[23]。この規定に基づき、捕虜は帰国時に証明書を持ち帰れば、国から賃金を受け取ることができた。日本政府は、南方地域で米英の捕虜になった日本兵に対しては、個人計算カード(労働証明書)に基き賃金を支払った。しかし、ソ連は抑留者に労働証明書を発行せず、日本政府は賃金や給養費の所属国負担が慣習として定着していないと主張していたため、賃金は支払われなかった。1992年12月以後、ロシア政府は旧抑留者の申請に対して労働証明書を発行するようになり、1994年からは正式に日本政府に送付するようになった。未払い賃金については複数の訴訟が行われているが、日本政府は未だに賃金支払を行っていない。

シベリア抑留経験者からなる全国抑留者補償協議会は、2006年10月に未払い賃金の補償を引き続き日本政府に求めることを申し合わせた。

国家賠償訴訟[編集]

ウィキニュースに関連記事があります。
シベリア抑留の国家賠償訴訟で原告側の請求棄却 - 京都地裁


シベリア抑留を巡っては、日本全国で4件の国家賠償訴訟が行われている。このうち、京都地裁では2009年10月28日に、「国による遺棄行為は認められない」などとして、原告の請求を棄却する判決が出された[24]。

シベリア特措法[編集]

旧ソ連、シベリアやモンゴルで強制労働させられた元抑留者に対し1人25万から最高150万円を一時金として支給する、「戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法(シベリア特措法)」が、2010年5月20日に参院総務委員会で佐藤泰介委員長により提案され、全会一致で参院本会議への提出を決めた。5月21日に本会議で可決し今国会で成立する運びとなる。法案は抑留された期間に応じて、元抑留者を5段階に分類。独立行政法人「平和祈念事業特別基金」の約200億円を財源に支給される[25][26]。

同法案は、第174国会最終日の6月16日に衆議院総務委員会で可決の後、衆議院本会議で可決成立し、同日付けで法律第45号として公布、施行された。
同日において日本国籍を有する戦後強制抑留者が特別給付金の対象になるが、前日までに死亡していると対象外となるので、支給人数はごくわずかであり、支給されない抑留者の数は膨大なものとなる。支給対象者が、特別給付金の支給の請求をする前に死亡した場合は、相続人が請求できる(本人が前記年月日までに死亡していれば支給されない。)ためにする法律でもある。

なお、2007年4月から2009年3月まで同基金が実施した「特別記念事業」により戦後強制抑留者と認定され、慰労品が贈呈された人には、10月中旬までに直接同基金から特別給付金請求書が送付される予定である。

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古本屋通信     No 1160  12月2日


ソ連共産党のアメリカ帝国主義美化と現代修正主義者の「平和共存」論(部分核実験停止条約支持と核不拡散条約への屈服)

 -日本共産党の61年綱領からの逸脱と修正主義・議会主義への転落 その仕上げとしての第13回臨時党大会 「自由と民主主義の宣言」 採択


 これを少しずつ書いていきます。今回はウオーミングアップです。飛び飛びになります。まだ草稿さえも出来ていません。これが草稿の予備運動のつもりです。まあ、ゆくゆくは大西巨人の小説みたいなのを書きたいんですが・・・・。

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 これから選挙が終わるまで、題を決めないで取りとめのない事をダラダラと書こうと思っている。その間、対話はしないつもりだ。出典を明示してのブログの引用も避けたい。私がアレコレ引いておいて、その一方で先方からの反論を受け付けないというのは不公平だろう。ただし共産党議員からの引用は今まで通り遠慮なくやらせていただく。それはどのみち相手からの投稿があると想定されないからだ。

 これを思い付いたのは一時間ほど前に河村さんの昨日のブログを読んでからだ。昨日の街頭演説中に年輩の男が駆け寄ってきて、「戦争中で仲間が大勢ソ連で殺された、日本共産党も同じ共産党だから許せない」 と言ったそうだ。これに対し河村さんは少し反論したけれど、相手の納得を得られなかったのでもっと勉強したいと書いている。

 相手がどういう考えか、これだけでは分からないが、15年戦争中に日本軍とソ連軍との直接的な交戦は少なかった筈だから、これは戦後のシベリア抑留のことだろう。ここでは多くの日本人 (といっても旧日本兵。これはハッキリさせておかねばならない) が重労働と栄養失調で死んでる。

 その前に。最近不破哲三の『前衛』連載が単行本になった。まるで反ファッショ統一戦線が誤った戦術であるかのごときデマが流布されている。コミンテルンのこの戦術こそが日独伊ファシズムを敗北に導いた。この限りにおいてコミンテルンは正しく、ディミトロフも正しかった。不破はトロツキストの寝言を50年遅れでリピートしている。ボケ老人の趣味の繰言なのだが、他に書く者がいないから怖ろしい。


 河村さんに詰め寄った男にはハッキリと云わねばならない。日本軍とソ連軍との交戦において、日本軍は侵略軍であり、ソ連軍は正義の軍隊であった。戦地は日本ではなく中ソ国境であった。日本軍が殲滅されたのは当然であって、男の怒りは侵略戦争の責任者である天皇ヒロヒトに向けられなければならない。ソ連共産党に何の非もないし、ましてや獄中で死を賭して戦争に反対した日本共産党に怒りを向けるなど論外であろう。シベリア抑留と北方領土問題での非は全て日本にある。戦後処理の間違いに起因するのだ。その仕上げが日米単独講話条約であった。捕虜の取り扱いに国際協定に反する非人道があった。それは事実だが人道的だったとの証言も多い。

 この辺は日本史の初歩の初歩。アホらしくなるような常識だが、常識がいまや世間では異端になっている。のみならず共産党の界隈でも通じない。その理由はひとつしかない。世の中が右にならえのとき、ブルジョア議会に軸足を置いていては絶対に正しく対応できない。ここ一年、私はあきれ返っている。私もまた修行が足りないばかりに、全く無駄な時をすごしてしまった。いくつかの問題は小学生レベルであった。時間の共有において、私もまた稚拙であった。キンピーサイトの投稿人のTom2 さんが正解であった。

 アッ、河村さん、日本共産党とソ連共産党は1962~63年はじめて公開論争するまで、ずっと兄弟党の関係でした。これは別に日本共産党だけではなく、1960年には世界の81ヶ国の共産党・労働者党が一堂に会して『モスクワ声明』に調印します。当時すでに中ソの共産党には意見に違いがありましたが、このときは妥協の産物として全会一致の調印でした。ただ、『モスクワ声明』 には「国際共産主義運動におけるソ連共産党の指導的役割」を明記しています。日本共産党は1964年の志賀問題以後、ソ連共産党とは関係が断絶しますが、その後ソ共が志賀との関係を絶つと、両者の関係は正常化します。以後もいろいろあって、あなたが書いているような子供だましの方便は、後にも先にも誰にも通用しないのです。つまりハッキリいうと大半がウソだからです。詰め寄ってきた男もバカにしたでしょうね。これはあなたが悪いのではなく、今の共産党の立場では言いようがない、これが議会主義の日本共産党の「犯罪」です。まあ、村井さんではないけれど、かなり自信があっても必ずボロが出ますから、日中、日韓、日朝などは党中央のムービーを借りるなりして、触れないほうが賢明だと思います。


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 ちょっと加筆しておきます。河村さんの記述は現在の党中央の言い分を鵜呑みにして書いたものですが、そのうち明らかなウソの部分を指摘しておきます。
 
「ソ連の政治で誤りがあることについて、日本共産党はソ連に対して厳しく指摘してきた。日本共産党とソ連の共産党は違う。ソ連は私たちが目指す社会主義・共産主義の社会ではなかった、と日本共産党は考えている」。
また、ソ連共産党と日本共産党は同じ共産党と思っている人が多く、私たちの考えや立場を伝える努力と工夫が必要だな、と感じました。レーニン亡き後引き継いだスターリンは独裁政治を進めました。それは共産党が目指す社会主義とは違うのです


 これらは日本共産党が簡潔に街頭宣伝するときに使うマニュアルに書いてあるのでしょうが、聞いていて腹が立つほど説得力がなく、内容的にも誤ったものです。

  その誤り(ウソ)の始まりは、日本共産党が「 ソ連の政治で誤りがある」 と 「厳しく指摘してきた」 というウソです。これは両党の公開論争(1963年)までは全く逆です。日本共産党は一貫してソ連社会主義を讃美してきました。現代世界における社会主義体制の優位性と社会主義の祖国ソ連のすばらしさの称揚です。その端的な例が人工衛星の打ち上げでした。ソ連の国内体制、とりわけ社会保障や教育の無償化などは、共産党が賞賛せずとも、事実、先進的だったのです。今になってソ連社会を暗黒な牢獄社会と描き出す手法こそスターリン主義を思わせます。

 両党の公開論争後には、ソ連の国内体制を賞揚する事はありませんでしたが、批判したこともまた、ありませんでした。これは今日に至るまで、ソ連社会の内部のあれこれを批判してません。だって、他国の内部体制について批判することは日本共産党が最も嫌った「対外干渉」なのです。それなのにソ連の内部問題を日本共産党が批判できる訳がありません。

 1963年以後の公開論争で日本共産党が厳しく批判してきたのはソ連共産党の対外路線、とりわけアメリカ帝国主義美化論と対外干渉に限ってでした。大国主義的干渉、とりわけ日本国内のソ連同調者と関係を絶て、と批判しました。ソ連の国内政治批判では全くありません。またソ連共産党内部の組織問題のいっさいを日本共産党は批判していません。批判など出来るわけがありません。相手が志賀を使って干渉してきたから怒っているのですから。。

 「ソ連は私たちが目指す社会主義・共産主義の社会ではなかった、と日本共産党は考えている」。これはごく最近、不破さんが言い出したことです。こんな幼稚な方便を使うから、高校生にもバカにされ、大学生が党に寄り付かない。だってそうでしょう。ソ連の国内の問題、その社会主義の諸問題について全く(肯定的にも否定的にも)触れないで、どうしてこんな結論が導き出されるんでしょうかね。それに仮にソ連社会主義が申し分ない社会であっても、それが条件のまるで違う日本の社会主義の「目指す社会主義・共産主義の社会」であろうわけがないでしょう。こんなのを語るに落ちたといいますね。

 「ソ連はスターリンの官僚主義国家だったからダメだ」。これが最近になって不破さんが言い出したことです。日本に初めてトロツキスト同盟が結成されたのは1956年だったと思います。同じ事を50年遅れで不破さんは言っていますね。

 「 レーニン亡き後、引き継いだスターリンは独裁政治を進めました」。これで済むなら、今日までの日本共産党の暫定党史、すなわち 『日本共産党の45年』、 『日本共産党の50年』、 『日本共産党の60年』、 『日本共産党の65年』、 『日本共産党の70年』、 『日本共産党の80年』 の全ては無効になります。なぜなならこれらは一時期をのぞいてソ連共産党をソ連邦における正当な政権政党と認めたうえでの記述だからです。いまこの世にソ連もソ連共産党もないのを幸いに何をか云わんやです。

 私の記憶では、対ソ連共産党よりも、対中国共産党とのたたかいのほうが数倍も熾烈でした。不破さんはなぜ中国批判をやらないのでしょうか。私にはとても不思議に思えます。


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  忘れないうちにコピペしておきたい一節があった。誰の文かは問題ではないので出典は添えない。私の批判も特にない。ただ、これの原型は戦前に遡り、戦後69年間かたちを少しずつ変えて、商業文壇で繰り返されてきたように思う。その少し下品なかたちがネット右翼だろう。彼らの左翼批判は事実の見極めの点で極端に甘く、結果デマゴギーそのものである。つまり何一つ根拠を示すことが出来ず、左翼がただ憎いだけの心情なのだ。つまりこの文は本人のいう 「右翼言論」 そのものなのだが、かれにはその自覚はない。

あの学生運動の昂揚期の中で(?)、そのどの辺の位置(?)にいたにせよ、ともかく時代の空気(?)を吸い、そののちの高度成長期を、会社側だろうと組合側だろうと(???)、ともかく正道を歩き(?)続けて、めでたく停年退職(?)し、そこそこ十分な年金を獲得して老後を楽しんでいる人たち、かれらにはまさに懐かしい時代なのだ。
 とりわけおそらく左派の人々にとっては、あの若い日々に情熱を傾け、そののちも職場や地域でたたかいを継続する中で、さまざまなものを勝ち取ってきた、自分の多少恵まれた老後もその延長線のものなのだという実感があるのだろう。
 だが、現代とはどういう時代か、彼らはそれをわかっているのだろうか。労働組合は壊滅し、学生運動もあらゆる市民運動も死に絶え、左派政党が消滅し、右翼言論が日本中に蔓延し、憲法はまさに廃止されんとしている。格差は拡大し、老人たちは姥捨て山に、若者たちはブラック企業と派遣労働とで、貧困の中で疲れ果て、知性を失ってヘイトスピーチとネトウヨの世界に。
 と、まあ、こういった世界なのである。いったい、団塊は70年に何をやったのか、そののちの40年間に何をやったのか。少しも世の中は良くなってはいない、悪くなる一方ではないか、このことに団塊は責任がないのか。
 あの時代も、そののちの日々も、個人的に失敗して生きた人間は、それらの日々を否定的にとらえる。個人的に成功した人間は肯定的にとらえる。
 まあ、それはそれでよいのだが、文学として時代を描こうとするとき、現代への認識を欠いたままで過去を懐かしむわけにはいかないのである。


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古本屋通信     No 1207  1月2日

  竹永光恵市議のお義父さん



  日本共産党岡山市議の竹永光恵さんが元旦のブログで、日本共産党員だったお義父さんのことを書いている。竹永さんがお義父さんのことを書くのは数年前に次いで二度目だ。私は毎日読んでいる。めったに取り上げないだけだ。今回は全文引用させていただく。



1月1日  新しい年が始まりました。
投稿者 :竹永みつえ
新しい年が始まりました。今年は戦後70年.あらためて、戦争をする国に暴走している安倍政権と、きっちりとたたかわなければ!と決意を新たにしています。
年末、姑の部屋を掃除していたら、舅の古い写真が出てきました。
大正14年生まれの義父は16歳から満州鉄道に入り、19歳で兵に入隊。この写真は出征する先輩の壮行会の夜に、当時二十歳だった義父が初めてお酒を飲んだと書いています。その最後に、青春再び来ずか?の文字。せつないです。その後すぐ終戦。その後捕虜になり、そこで人類平等の共産主義思想に触れ、
日本共産党に入党した筋金入りの人でした。
じだい という義父の作った詩に、おろかな戦争がなんだったのか?怒りと悲しみが感じられます。

また私の母も被爆者です。2度と戦争のない国へと、ずっと彼女も平和運動をしていました。

こういう、人達の思いしっかりつなげて、今年も頑張ります。
どうぞよろしくお願いします(^O^)/




  古本屋通信

 私が数年前に読んだ時も僅か数行だった。しかし強烈であり、私は竹永さんの話になる度に、これを持ち出した。「竹永さんは、ええ筋しとる。筋金入りじゃ」。私は家系や血統を過大に評価することには反対だ。しかし先祖が自由民権運動の闘士だったり、古くからの共産党員だったら、誇らしく書いてもよいと思う。

 僅か数行の竹永文だが、推測を交えて感想を書く。
 夫君の実父だが、県北と聞いている。ならば戦災に遭ってないだろう。戦前の遺品はともかく、戦後の党員時代の書籍や資料を一家は処分されたのであろうか。いや、古本屋的興味からではない。そんなものに古本価値はない。竹永さん夫婦はそれをどう処分されたのだろうか。上記の一枚の出征直前の写真だけ残っていたのだろうか。


 以下は推測だ。満鉄志願は当時の青年の青雲の志だった。日本の中国侵略の巨大な「成果」が満鉄だった。また兵役は侵略の地での徴兵だったのか、それとも志願兵がったのか。いずれも当時の青年のたどってきた道である。

 敗戦での捕虜と抑留はソ連領シベリア半島の極冷の地だった筈だ。また、この地で間違いなくお義父さんは共産主義の教育を受けて、そして共産主義者になった。日本共産党員になったのが日本に帰ってからか、それともシベリア時代か、私は分からない。かの地にも党組織はあったと思う。それが日本共産党だったか、それともソ連共産党だったか分からない。当時はどっちでもよかった。

 日本での党活動の一つは村会議員だったと承知している。それは不確かだが、間違いないことがある。当時の党組織は50年分裂の真っ只中にあり、岡山の党は主流派だったということだ。その中でのアレコレ、単色では描けない戦いがあった。

 私は歴史を引き継ぐ際には 「いいとこ取り」 しない事だと思う。負の遺産も引き受けるということだ。上記をたったこれだけ見ても、不破哲三の近著 『スターリン秘史―巨悪の成立と展開〈1〉 統一戦線・大テロル』 のデタラメが分かる。これでは貴方のお義父さんの党員時代はどうなるのか、貴方は考えたことがありますか。机上の大論文を書いても、歴史に向き合うことにはならない。不破氏を批判しきる「科学の目」を持とう」ではありませんか、竹永さん。


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不破哲三の著書

▽おもな著書
 ●新日本出版社からの出版物は同社のホームページに内容の紹介があり、注文・購入できますのでご覧ください ##私の戦後六〇年 日本共産党議長の証言(新潮社)
##どう考える北朝鮮問題──不破議長に聞く(党出版局発行)
##チュニジアの七日間
##『資本論』全三部を読む 第1冊~第5冊
##マルクスと『資本論』1──再生産と恐慌(上)
##マルクスと『資本論』2──再生産と恐慌(中)
##マルクスと『資本論』3──再生産と恐慌(下)
##ふたたび「科学の目」を語る
##北京の五日間
##二つの世紀と日本共産党
##二十一世紀はどんな時代になるか
##二十一世紀と「科学の目」
##ここに『歴史教科書』問題の核心がある
##日本共産党綱領を読む
##科学的社会主義を学ぶ
##世紀の転換点に立って
##日本共産党の歴史と綱領を語る
##日米核密約
##一滴の力水 同じ時代を生きて(水上勉氏との対談、光文社)
##「首都移転」を考える
##日本共産党の東南アジア訪問 マレーシア、シンガポール、ベトナム、香港
##現代史の中で日本共産党を考える
##新 日本共産党宣言(井上ひさし氏との対談、光文社)
##私たちの日本改革論
##レーニンと資本論(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)


##『エンゲルスと資本論』(上・下)
##『日本共産党と中国共産党との新しい関係』
##『新しい国づくりを提唱する』
##『現代日本における大衆的前衛党』
##
##『地方政治と議員活動』
##『千島問題と平和条約』
##『二十一世紀の日本をめざして』
##『革新の本流を大河のように』



##『綱領路線の今日的発展』(上・下)
##『経営のなかの日本共産党』
##『人民的議会主義』
##『科学的社会主義と執権問題』(文庫)
##『不破哲三国会論戦集』
##『日本共産党 その歴史と路線』
##『スターリンと大国主義』(新書)
##『資本論と今日の時代』
##講座『家族、私有財産および国家の起源』入門
##社会主義入門―『空想から科学へ』百年
##『古典への旅』(新書)
##『資本主義の全般的危機』論の系譜と決算
##『自然の弁証法』―エンゲルスの足跡をたどる
##レーニン『カール・マルクス』を読む
##「『新しい思考』はレーニン的か」
##『自然の秘密をさぐる――宇宙から生命・頭脳まで』
##『科学的社会主義における民主主義の探究』
##『ソ連・東欧問題と現代の世界』
##『宮本百合子と十二年』
##『私の宮本百合子論』
##『ソ連覇権主義の解体と日本共産党』
##『たたかいの記録 ソ連・中国・北朝鮮――三つの覇権主義』
##『労働基準法を考える』(新書)
##『日本共産党にたいする干渉と内通の記録』(上・下)
##『科学的社会主義の運動論』
##『史的唯物論研究』
##『対話 科学的社会主義のすすめ』(新書)
##『マルクス、エンゲルス百年―日本共産党はをうけついできたか』
##『古典学習のすすめ』
##

▽山の本(山と渓谷社刊)
##『回想の山道』
##『私の南アルプス』


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古本屋通信     No 1417   5月04日

  歴史を偽造する試み=不破哲三



  ここ二、三日極端に目の調子が悪く、新聞とパソコンが鬱陶しい。よって厳密な検証のない不完全な記事になることを断っておく。

  いずれも二、三日前の記憶だが、朝日新聞に戦後の日本人兵士 (一部は民間人) の抑留者名簿公表のことが載っていた。シベリア以外の抑留者が公表されたという記事だった。

  もうひとつは、それとは関係ないが、赤旗日刊紙の広告である。『前衛』 6月号の広告の中に、不破哲三の 「スターリン秘史」 の連載があった.

  私は 「スターリン秘史」 の連載が始まった当初、何回か 『前衛』 を買って読んだ。しかし余りにもアホくさいので止めた経緯がある。一言で言えば、歴史の検証に名を借りた老人の 「趣味の論文」 なのだ。たしか二冊書籍になっている。

 すでに書いたから繰り返さないが、歴史のダイナミズムを殺した修辞学の書である。私はこういう本もあってよいとは思う。然しコレは 「済んだ人間の繰言」 であって、日本共産党の現役幹部の書物ではない。アマゾンレビューをご覧ください。コレを褒めている低脳。貶している妥当。

 というわけだが、私は最近の「スターリン秘史」を読んでおらず、広告の文言だけを見て書くことをお断りしておく。

  不破はスターリンがナチス・ヒトラーと結んだ独ソ不可侵条約を批判しているようだ。私はここで独ソ不可侵条約の是非について論じる気はない。しかし不破の書き方は無茶苦茶である。全てスターリンが悪である。ここまではかつてのトロツキストと一緒である。

  不破の文では更に、コミンテルンがすべて誤りなのだそうである。それはこうだ。ディミトロフがスターリンの配下なのだから、反ファシズム統一戦線はすべて誤りである。まあ、きちがい沙汰だ。いったいこういう史観に賛成する歴史家は存在するのだろうか。

 朝日新聞の記事関連に戻る。私は確かに読んだ。不破が戦後処理問題に於けるソ連の、つまりスターリンの不当なやり方 (シベリア抑留) に就いて言及している文を読んだ。それをいま引けないのは私の怠慢だが、いったいシベリア抑留自体は日本の無条件降伏から結果したもので、止むを得なかった。そこに数々の人道的配慮を欠く扱いがあったことは確かであろう。然し反面、シベリア引揚者の中から多くの日本共産党員が生まれたのだ。スターリンは日本人にちゃんと「赤い教育」をしてくれた。そういう党員はかつて日本に多くいた。現岡山市議の竹永みつえさんのお義父さんもそうだ。

 不破哲三は世界と日本の歴史を偽造するなよ。誰かが書いていたけれど、不破は60年遅れのトロツキストである。しかもオソマツなトロツキストだ。それはそうだろう。「巨悪の根源」 を、スターリンの批判に名を借りて、世界の共産主義運動に求めるのだから。

 不破の論稿など読む価値のない老人の繰言なのだ。しかしそれが万が一にも日本共産党の 「不可侵の聖典」 であるならば、不破哲三こそ諸悪の根源と言わねばなるまい。


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古本屋通信     No 2118  8月24日


    シベリア抑留問題に就いて

 今日の赤旗(3)が1頁を使って「シベリア抑留とは何だったのか」という特報を組み、さらに(15)でも関連時事を載せている。「シリーズ戦後補償」 という特集の一環らしく、そういう視点からの記事と見た。

  問題を全面的に論じる余裕はなく、また時間的に余裕があろうとも、私には重すぎるテーマである。記事を、それも前半だけを読んだ感想に書く。

  事実そのものは繰り返し言われてきたことである。私はシベリア抑留体験の自費出版本も何冊か読んできた。抑留体験そのものはビルマ南方戦線での生死の間を彷徨った過酷な戦争体験とは少し違った記録だった。けれど筆致そのものは私に言わせると変わりなかった。すでに書いたがオールゴミである。なぜゴミか。書かれていることは事実である。過酷な被害体験である。しかし体験に当てられるべき歴史の視点がない。加害者であった自分がない。まったく書かれていないのだ。この典型が立石憲利氏の『戦争の民話』である。

 今日の赤旗特報記事は微妙である。まず真っ当な部分は、シベリア抑留者支援センターの有光健さんの平和祈念展示資料館についての発言部分である。

 他の戦争関連の展示もまとめて、歴史的な視点から再構成し、その中にシベリア抑留も位置付けるべきです。シベリア特措成立法(2010年)のときにそこへ踏み出すべきでした。日本側の悲劇を語る際に、そもそも他国に出掛けて軍事支配し、100万人もの日本の軍隊(関東軍)が中国東北部に常駐していたこと自体が異常な状態で、無理なことだったのではないか? 抑留問題もそこから考えねばなりません。

 私は極端に云えば、この問題はこれでオワリだと思う。有光さんは書いていないが、関東軍の多くは徴兵制で徴用されたのではなく、いわば青雲の志功名を立て、立身出世をしようとする志)をもって志願した兵士たちであった。満蒙開拓団が当時の青年の野心の顕われであったと同じ文脈であった。コレとて農家の三男坊が生きるためにやむをえなかった選択だったという理屈はある。然しそれらは全て侵略を受けた側に通用しない理屈である。

 日本帝国主義は戦争に敗れ、無条件降伏を受け入れた。ソ連軍が日ソ不可侵条約を破って・・云々・・は全て無条件降伏する以前の言い分である。

  ここから先で赤旗は 「シベリア抑留の悲劇がなぜ起こったか」 を書く。識者を引いて、「スターリンの指令」がポツダム宣言に違反だと書く。

  ここから先は読む気がしないし、読まなくても分っている。スターリンひとりを悪者にする非歴史。これはソ連の国家国防委員会の決定であった。日本共産党の徳田指導部は当時これを支持した。そしてその後の日本共産党暫定党史も、これを徳田らの誤りだったと言っていない。

 当時のシベリア抑留はやむを得ぬ侵略戦争の見返りだった。それに対する不服と異議申し立てはあろう。然し歴史を塗り替えることはできない。「50万の旧日本兵はどうにでもしてください」 とソ連に申し出たのは共産党ではない。日本政府であった(実際に申し出ていなくても、捕虜の存在を認めるとはそういう意味でしかない)。戦後の天皇ヒロヒト(および象徴天皇制)を残す代わりに戦犯(関東軍そのものもC級戦犯であった)は好きに料理してくださいと言ったのは日本政府であった。日本共産党は日本兵に赤化教育(マルクス・レーニン主義の正しさ。そしてこれは間違っていなかった。こういう教育を受けて多くの抑留者が戦後に日本共産党に入党した。竹永光恵岡山市議の義父さんもその一人だった)をしてくれるようスターリンの党に依頼しただけである。

  シベリア抑留問題は国際的には全て解決済みである。戦後賠償は国内問題である。

  余談だが、北方領土も竹島も未解決の問題は皆無である。きのう岡山県庁前に巨大な垂れ幕を見た。なんで岡山県庁が北方領土を言うのか。県知事が悪い。共産党の県知事を当選させよう。県議補選は大塚愛さんをよろしくお願いします。

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  参考

  
  関東軍   ウィキペディア


関東軍(かんとうぐん、旧字体: 關東軍)は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ(1942年(昭和17年)10月1日以前は軍の一つ)。

概要
旅順の関東軍司令部跡(現・関東軍旧蹟博物館)
大日本帝国の中華民国からの租借地であった関東州(遼東半島先端)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が前身。司令部は当初旅順に置かれたが、満州事変後は満州国の首都である新京に移転した(現在の長春市であり、司令部跡は中国共産党吉林省委員会本部となっている)。「関東軍」の名称は警備地の関東州に由来し(関東とは、万里の長城の東端とされた山海関の東側、つまり満州全体を意味する)、日本の関東地方とは関係ない。

張作霖爆殺事件や満州事変を独断で実行したことは、1920年代からの外交安全保障戦略を現地の佐官級参謀陣が自らの判断で武力転換させたことを意味し、その後の日中戦争(支那事変)や太平洋戦争(大東亜戦争)に至る日本の政治外交過程を大きく揺るがす契機となった。なお、これら一連の行動は、参謀本部・陸軍省といった当時の陸軍中央の国防政策からも逸脱していた上、明確な軍規違反であり、大元帥たる昭和天皇の許可なしに越境で軍事行動をする事は死刑に処される程の重罪であったが、首謀者達は処罰されるどころかみな出世した。

歴史
日露戦争後にロシア帝国から獲得した租借地、関東州と南満州鉄道(満鉄)の付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部が前身。1919年(大正8年)に関東都督府が関東庁に改組されると同時に、台湾軍・朝鮮軍・支那駐屯軍などと同じ軍たる関東軍として独立した。司令部は同年4月12日、関東州旅順市初音町に設置され、翌日13日から事務を開始した[1]。当初の編制は独立守備隊6個大隊を隷属し、また日本内地から2年交代で派遣される駐剳1個師団(隷下でなくあくまで指揮下)のみである小規模な軍であった。

1919年4月25日、関東都督府旅順陸軍軍法会議を関東軍旅順陸軍軍法会議に、関東都督府遼陽陸軍軍法会議を関東軍遼陽陸軍軍法会議と改称することを決定し同年5月1日に施行した[2]。同年5月16日、関東軍憲兵隊を配置した[3]。

1928年には、北伐による余波が満州に及ぶことを恐れた関東軍高級参謀・河本大作陸軍歩兵大佐らが張作霖爆殺事件を起こす。しかし、張作霖の跡を継いだ息子張学良は、国民政府への帰属を表明し(易幟)、工作は裏目となった。そのため1931年、石原莞爾作戦課長らは柳条湖事件を起こして張学良の勢力を満州から駆逐し、翌1932年、満州国を建国する。当初、犬養毅首相は満州国承認を渋るが海軍青年士官らによる五・一五事件の凶弾に倒れ、次の斎藤実内閣は日満議定書を締結し満州国を承認する。その後、関東軍司令官は駐満大使を兼任するとともに、関東軍は満州国軍と共に満州国防衛の任に当たり、一連の満蒙国境紛争に当たっては多数の犠牲を払いながら、満州国の主張する国境線を守備する。関東軍司令部は、1934年に満州国の首都新京市(日本の敗戦後、旧名の長春に戻る)に移った。

一方で、1917年のロシア革命とその後の混乱により弱体化していたソビエト連邦は、1930年代中盤頃までに第1次及び第2次五カ年計画を経て急速にその国力を回復させていた。当初日本側は、ソ連軍の実力を過小評価していたが、ソ連は日本を脅威とみなして着実に赤軍の極東軍管区の増強を続けていた。1938年の張鼓峰事件で朝鮮軍隷下の第19師団が初めてソ連軍と交戦し、その実力は侮りがたいことを知る。さらに1939年のノモンハン事件では、関東軍自身が交戦するが大きな損害を被り日本陸軍内では北進論が弱まる契機となった[4]。

これらの武力衝突によりソ連軍の脅威が認識されたことや第二次世界大戦の欧州戦線の推移などにより関東軍は漸次増強され、1936年には、関東軍の編制は4個師団及び独立守備隊5個大隊となっていた。そして、翌1937年の日中戦争(支那事変)勃発後は、続々と中国本土に兵力を投入し、1941年には14個師団にまで増強された。加えて日本陸軍は同年勃発した独ソ戦にあわせて関東軍特種演習(関特演)と称した準戦時動員を行った結果、同年から一時的に関東軍は兵力74万人以上に達した。「精強百万関東軍」「無敵関東軍」などと謳われていたのはこの時期である。なお、同年4月には日本とソ連との間で日ソ中立条約が締結されている。

1942年10月1日には部隊編制が従来の軍から総軍へと昇格。関東軍は支那派遣軍や南方軍と同列となり、司令部(関東軍司令部)は総司令部(関東軍総司令部)へ、従来の司令官は総司令官、参謀長は総参謀長、参謀副長は総参謀副長へと改編された。

しかし、太平洋戦争の戦況が悪化した1943年以降、重点は東南アジア(南方方面)に移り関東軍は戦力を抽出・転用され、また日ソ中立条約によりソ連軍との戦闘がなかったため関東軍も進んで戦力を提供した。その埋め合わせに1945年になると在留邦人を対象にいわゆる「根こそぎ動員」(25万人)を行い、数の上では78万人に達したが、その練度・装備・士気などあらゆる点で関特演期よりはるかに劣っており、満州防衛に必要な戦力量には至っていなかった。

1945年5月ドイツ敗北後、ソ連軍の極東への移動が活発になった。6月4日梅津参謀総長は大連に赴き、日ソ開戦時、一部の満州地域を放棄し、防衛線を段階的に大連 - 新京 - 図們の三角線まで南下させ、持久戦に持ち込む作戦を関東軍に命令した。

同年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し対日参戦。満州に侵攻してきたソ連軍に対し、10日大本営は朝鮮防衛と司令部の移転を命令した。14日関東軍司令部は通化に移転。これによって関東軍は、「開拓殖民を見捨て逃げ出した」と後に非難されることとなった(殖民を守る部隊が全く存在しなかったゆえに葛根廟事件という悲劇まで起きた)。一方で、大連 - 新京防衛ライン(満鉄連京線を指す)では、後方予備として温存していた9個師団を基幹とする第3方面軍が展開して実際に持久戦が企図されていたが、反撃に移るまでに8月15日の玉音放送を迎えた。正式に降伏と停戦の命令が満州の関東軍総司令部に伝えられたのは16日夕方であった。「徹底抗戦」を主張する参謀もいたが、山田乙三総司令官は夜10時に停戦を決定し、関東軍の諸部隊は逐次戦闘を停止した。ただし、一部の前線部隊には停戦命令が到達せず、8月末まで戦闘行動を継続した部隊もあった。

停戦後、関東軍将兵の多くは、ソ連の捕虜としてシベリアへ抑留され、過酷な強制労働に従事させられ、多数の死者を出すこととなる。総司令官の山田乙三陸軍大将や参謀の瀬島龍三陸軍中佐ら関東軍幹部は11年間の長期にわたって抑留される。近衛文麿公爵の嫡男で近衛家当主の近衛文隆陸軍中尉はシベリア抑留中に獄死したため、当主が不在となった近衛家は文麿の外孫の近衛忠煇が継ぐこととなる。また、八路軍の捕虜になった林弥一郎陸軍少佐の第4練成飛行隊は、東北民主連軍航空学校を設立し中国人民解放軍空軍の基礎を築いた。


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古本屋通信     No 2121  8月26日


   
  岡山市議の東クンへ。

 シベリア抑留問題真実はすでに十分明らかにされています。

 たぶん昨日の赤旗の特番記事を読まれてであろうと思われますが、日本共産党岡山市議の東つよしクンがツイッターで以下のように呟いておられます。


 東 つよし ‎@Tsuyoshi_Azuma
 
私の祖父は終戦直前に応召され大陸へ。戦後2年間シベリアに抑留されていました。五体満足で帰ってはきましたが、ジャガイモしか食べられなかった話以外はしなかったそうです。抑留したソ連、兵を売り渡した日本軍…。真実は明らかにされるべきです。2016年8月24日 12:37




 古本屋通信
 少々長文だけれど、3つ前の私の板を後に再録するから読んで下さい。つまりもう語る事なんかないんですよ。だからキミのお祖父さんは語らなかった。私は自費出版で苦労話を書く阿呆や、寒冷の地の「露スケ」がどんな非人間であったかを恨みがましく語る低能よりは、一切を語らなかったお祖父さんを尊敬します。お祖父さんは終戦直前の招集だったそうですから、満蒙の地での戦争犯罪加担は少なかったでしょう。然しシベリア抑留は関東軍の戦争犯罪の延長線上にあったということは片時も忘れてはいけません。ずいぶん控えめなウィキの記事も貼っておきましたからお読みください。ふつう人は自分が旧満州でどんなに酷いことをしたかは喋らないものなのです。しかし中にはずいぶんバカ正直な人がいて、(そのひとは私が小学校のころ家の改築をやってくれた大工さんなのですが)自分たち日本兵が中国人女性を輪姦して、その味がどうだったかを、子供相手に自慢するのです。その裏返しとしての「露スケ」の日本人酷使だったでしょう。こういう話は参考にもなりません。これをもっと小綺麗に聞き書きのかたちでまとめたのが立石憲利氏の『戦争の民話』です。キミたちの市議の先輩である崎本さんは立石さんを絶賛しています。一切の対象に批判の目を持たないで、なんで市議会質問原稿が書けるでしょうかねえ。

  シベリア引揚者から多くの日本共産党員が生まれています。当時はあちらに大きな党組織がありました。指導していたのはソビエト共産党でしたが、当時の日本の党はまだソビエト共産党の弟分でした。ハッキリした記録は無いのですが、当地にあった党組織は日本共産党シベリア総細胞だったのではないかと思われます。日本の党からも指導的な党員が当地に派遣されていたでしょう。ちゃんとした理論学習も積んでいました。だから引き上げるとすぐに党員として活動できたのです。そのうちの一人が君の先輩議員である竹永光惠さんのお義父さんです。引き上げてきて直後に岡山県北・美甘村会議員です。日本共産党でした。竹永さんが書いていたことです。これもシベリア抑留が結果的に引き起こした落とし物でした。私は竹永さんがお義父さんを誇りに思うことを是としたうえで、不破哲三氏の著作を引いて、「竹永さん、エエ所取りしなさんな、不破を批判しきる科学の目を持ちんさい」 と書いたのです。

  東クンはまだ若い。アタマが柔軟です。しかし今の共産党では、いつの間にかカルト党員になってしまう危険に晒されています。特に党議員がその確率が高い。党公認議員として歳費で生活しているからです。それに岡山は議会質問が決定的に甘い。勉強不足です。福山市議団に学ぶべしです。雲泥の差があります。あのね、羊のような大人しい当り障りのない質問では、市当局は痛くもかゆくもありませんね。福山は共産党議員の質問に限って激しい野次があるんですよ。林くんのヘイト法賛成の質問にせよ、竹永さんの女子会にせよ、岡山市議会共産党の当局との馴れ合いは看過できないですね。

  あたまの柔軟性を保つには、坂井希さんのツイッターを参考にしてください。ツイッターには相手がいります。坂井さんに一度ツイートされてはどうですか。坂井さんを相手にするにはずいぶん勉強が要りますよ。

 アッ、「抑留したソ連、兵を売り渡した日本軍」と呟かれている部分についてのみ。コレは赤旗だけを読んで書くから、情緒的でいい加減なことを書くようになりますね。前半 「抑留したソ連」 は関東軍の戦争犯罪と日本の無条件降伏がもたらした結果だから当然です。だから当時の日本共産党徳田指導部はこれを支持しました。それについて、今日に至るも日本共産党はアレは徳田らの誤りだったとは言っていない。なぜなら党50年分裂の前だったから、徳田分派は存在せず、統一した日本共産党としての見解でした。だから昨日の赤旗を注意深く読めば、赤旗はソビエトのシベリア抑留を非難していないのです。スターリンの誤りだったとする部分を識者の見解としてそれを引用するにとどめています。そこまで読み取らないと議会質問は書けませんね。

  後半はその通りですが、「日本軍である関東軍」が「関東軍兵士」を売り渡したというのは同義反復ですから、「兵を売り渡した日本政府」 というべきでしょう。それは措いて、ソ連が長期にわたって日本兵のシベリア抑留を解かなかったのは、日本の戦後処理の誤りが原因でしょう。天皇制を残したこと、講和を全面講和ではなく単独講和としてアメリカとのみサンフランシスコ条約を締結したことです。つまり今に至る日米安保体制です。これが悲劇の源みなもとです。天皇制も安保も当面は温存する日本共産党では、少なくとも当面は「兵を売り渡した日本軍」を非難できないですね。
  1. 2017/08/04(金) 20:23:46|
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