古本屋通信

住井すゑの階級性。欺瞞的生涯

古本屋通信   No 2701    2017年  07月27日  

    
 住井すゑの階級性。戦中・戦後の発言のウルトラC。欺瞞的生涯。

 まず私が前々の「通信 No 2699 加藤哲郎は除名ではなく除籍でした」文中で引用したマーブルさんの住井発言の部分を貼っておく。私はマ-ブルさんはネット右翼だと思うから、そのブログ全体にはまったく同意できないが、彼が住井を引用している部分に限っては正確だと思う。私も住井のこの発言をはっきりと記憶している。だから頭に来たのだ。そしてマーブルさんが「小林多喜二以外の「民主文学」はクソだと言い切る(住井すゑ)」と言うのも本当である。これも私は直接読んだ(但し元文は失念した)。


ここでは最後に、かの「橋のない川」の作者、小林多喜二以外の「民主文学」はクソだと言い切るGoodな住井すゑさんの言葉でしめくくりたい。
「共産党の理 論の『切れ味』がよすぎるというのも私はこわい。物事は鋭い刺身包丁でマグロを切るようにはいかないんです。私の知っている指導者は、鋭い包丁でピタッ、 ピタッと一匹のマグロを刺身にできる。刺身好きな人にとっては結構な料理人かもしれないけれど、マグロにしたらかわいそうです。
人間として鋭すぎるための非情さが共産党にはある。大衆も何とはなしに感じるのではないでしょうか。近寄ると切られるような気がするから、近寄らない方がいい。そういう感情です。」

指導者の手で「マグロの刺身」にされた皆さんが、泣いてうなずきそうである。



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 まあアッとおどろく「勇気ある発言」だが、この部分、マーブルさんの引用は正確である。つまり住井は「小林多喜二以外のプロレタリア文学はクソだ」とは言っていない。また「戦後の民主主義文学(の作品)はクソだ」ともダメだとも言っていない。言っているのは「民主文学」に「 」を付けて、「民主文学」がクソなだけである。

 まあ凄い発言だが、その前に住井のデタラメ(たぶん意識的な混同)を指摘しておこう。小林多喜二が民主主義文学だとは、ありえない。戦前の階級的な文学はプロレタリア文学であり、民主的な文学であろうと「民主文学」だとか民主主義文学の名前で呼ばれる事はなかった。これは高校生の文学史レベルである。また、戦後の、プロレタリア文学の伝統を受け継ぐ新しい文学潮流は民主主義文学の名前で呼ばれたが、これは宮本百合子の「歌声よ、起これ」などの呼びかけによって、社会の様々の対象を民主主義の立場から描いた文学の総称であり、戦前のプロレタリア文学とイコールではない。それは戦後まもなく新日本文学会の名前で出発した。ここらは文学史のおさらいである。そして住井のいう「民主文学」が1965年に創刊された。新日本文学会第十一回大会から締め出された所謂共産党系の日本民主主義文学同盟の雑誌である。

 住井の言いたいことは、この「民主文学」こそがクソであり、誰ひとりマトモな文学者はおらず、その作品はオールゴミだと言っている訳だ。これはいくら何でも「勇気ある発言」過ぎる発言である。全ての民文の作家の作品を読んだ訳でもなかろうに、傲慢だけでは片付かない怨念である。

 結論を急ぐ。日本民主主義文学同盟は新日本文学会を除籍された江口渙・霜多正次・西野辰吉、それに津田孝が中心になって結成されたが、結成にあたって(率直に書くと)非党員を加えるか否かで激論があった。つまりいわゆる同伴者作家の問題である。ここらは表面に顕れていないが、このとき対象になったのが住井と広津和郎だったと聞いている。広津は措いて、住井は色気を見せたらしい。正式な打診があった訳ではなく、情報が漏れ伝わったのだろう。結局、同伴者作家は加えない事になった。この決定はたぶん宮本顕治と蔵原惟人と江口渙の合議だった。

 住井はもともと夫君の犬田の関係もあって、戦前の農民文学いわば労農派の流れを汲む社民派だった。だから新日本文学会にも行かなかった。それが民主主義文学同盟が出来て参加できると思いしや、お呼びではないと知って頭に血が上ったのだろう。

 『橋のない川』 のことを書くのをすっかり忘れていた。作品評価はマチマチであってよい。ただこの作品第二部の映画化とその上映にあたって、原作者住井の日和見というより商売第一が醜かった。私は今井正にも感心しないが、いったい住井は上映に賛成だったのか、それとも反対だったのか。解放同盟になぜあれほど媚を売らなければならなかったのか。


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  参考 住井すゑ ウィキペディアより


戦時中の発言[編集]

第二次世界大戦中は「農婦われ」「生産の歌」「日の丸少女」「佐久良東雄」「野の旗風」「難きにつく」など数々の軍部賛美の随筆や小説を書き、それらの作品で

「戦争はありがたい。戦争は価値の標準を正しくしてくれる。そして、人間の心に等しく豊かさを与えてくれる」

「戦争はありがたい。あり余る物によって却って心を貧しくされがちな人間の弱点を追い払って、真に豊かなものを与えようとしていてくれる」

「やあ、おめでとう。マニラも陥ちたね、いや、愉快だ。全く、痛快 だ」

「無敵皇軍。何がいけない? ははゝゝゝ無敵皇軍を不穏だなんて言った腰抜野郎、今こそ出て来い。神国日本は開闢以来無敵なんだ。それを英米の倣慢野郎に気兼して、無敵皇軍と云っても書いても不可ないなんて、そんなべらぼうな話があるかつてんだ」

「いや、めでたい正月だ。マニラが、他愛もなく落ちやがった」


などと書いている。そのとき住井は40歳を過ぎていた。

しかし敗戦後、住井は自らの戦争協力の過去を積極的に偽るようになった。寿岳文章との対談では、次のように語っている。

住井 戦争中の十七、八年は私たち童話を書く人間も集められて、「童話は国策に沿って、国のためになるような童話を書け」と言われました。ある時は大蔵省、それから情報局の両方から呼び出されて……結局、命令通りに書かなければ雑誌の紙をくれない、単行本出すにも紙をくれない、といじわるしたからねえ、だから気の弱い人は翼賛会や情報局のいう通りになりましたよ。そういう会合でもそいつらと喧嘩したのはやっぱり私一人でした。

寿岳 やっぱり、住井さんだ。

住井 軍の要請に従って、ある時、大蔵省や情報局の役人が、子どもに「お父さん、お母さん、今、お国は大変なんだから早く税金納めてください」と親たちを説得するようなものを書けというんですよ。だから私は、そういう童話は書けません。子どもに収税吏の下働きをさせるような、そんなまねはできません。 そう言ったら怒りましてね、みんなのいる中でさんざん私に悪態つきましたよ。(中略)みんな黙って聞いてました。書けないと突っ張ったのは私一人です。

— 「時に聴く-反骨対談」 (人文書院、1989年)p121、「住井すゑ作品集」第8巻収録

晩年、戦時中の翼賛発言を櫻本富雄に指摘された住井は「ほほほ…何書いたか、みんな忘れましたね」「書いたものにいちいち深い責任感じていたら、命がいくつあっても足りませんよ」「いちいち責任取って腹切るのなら、腹がいくつあっても足りない」などと放言した[3]。

住井の説明によると、これらの翼賛的な文章は、思想犯としてたびたび検挙された夫の罰金を支払うために不本意ながら書いていたものであるという[4]。それに対し前田均(天理大学)は、戦時中の言論弾圧は罰金程度で済むほど甘いものだったのかと疑念を呈している[4]。前田はまた、「いずれにせよ、住井はそれ以前は、他の作家たちの戦争協力の例を挙げる一方で『書けないと突っ張ったのは私一人です』と言っていたが、それが『虚構』であることが櫻本にとって(ママ)明らかにされたわけである」とも評している[4]。

櫻本による上掲のインタビューについて、高崎隆治は「佐多稲子をはじめ、林芙美子・吉屋信子・豊田正子・円地文子・真杉静枝など」の女性作家にも戦争協力の過去があるのに、なぜ住井だけを槍玉に挙げたのかと詰り、「同質の多数の中から特定の『一人だけ』を標的にするのは」「いじめ以外のなにものでもない」と非難した[5]。これに対して前田は「同質の多数の中から特定の『一人だけ』をかばうのはその意図のあるなしにかかわりなく、神格化以外のなにものでもない」と批判した[6]。

抱樸舎[編集]

すゑは、牛久城中の自宅敷地内に「抱樸舎」(ほうぼくしゃ)を建て、人間平等思想の学習会を行った。死去後も学習会や命日付近の日曜日にすゑを偲ぶ「野ばらの日」が開催された。現在でも建物は存在し、希望者が見学することは可能である。2006年6月18日には「野ばらの日」が学習会の主催でなく自由参加となり、以後も毎年6月第3日曜日に抱樸舎にて開催される[7]。
  1. 2017/07/27(木) 11:47:34|
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