古本屋通信

東京大学新聞チャンネル第20回

古本屋通信   No 2697    2017年  07月26日  

    
  東京大学新聞  チャンネル 第 20 1974(昭和49)

  大学での暴力の実態

   9月9日号

 いきなり2年跳び 1974年(昭和49年)の新聞となる。一気に跳んだのはこの記事がシンヒヨと無関係ではないからだ。表題のごとく全国の主だった国公立大学と私大で暴力が蔓延して民青系が締め出されてニッチもサッチも行かなくなった。それが1974年である。党がシンヒヨ摘発によって戦わない民青を決定した2年後である。シンヒヨ直後から全国の大学では党派間のゲバが開始されていたこともあって「民青なんか目障りだから叩き潰せ」という空気が出はじめていた。その実態が下である。

 この記事自体は東京大学新聞の記事だが編集部が断っているように、九月四日に発表された日本共産党の「大学におけるトロツキスト暴力集団の暴力行為の実態調査報告」を、そのまま資料として転載したものである。

 当時私も赤旗で読んだ記憶があるが、特に酷かったのは同志社大と京大だった。ここまで殺人ワザが蔓延していると知って愕然とした。当時の民主的学生運動は東大闘争を最後に正当防衛権の主張を引っ込めて決定的に武装解除していた。ガンジー主義に徹したのだ。そしたら 「民青はいくら撲っても半殺しにしても抵抗しないから徹底的に潰せ」 となったのである。

 そして、それ以上に最悪だったのは党の対応だった。下記の実態調査は全国の党組織と民青と全学連加盟自治会を総動員して調査した結果であろう。ここまではまだよかった。その調査結果をもとに学内世論で反撃すべきだった。然しそれもママならなかったのだろう。いきなり主要な大学に共産党の国会議員団が入った。

 こういうこと(大学への立法府の直接介入)が通用すると思っているのが究極のボケである。ときあたかも党の国会議員団(衆院)が38人に躍進した後だった。ブルジョア議会主義が万能だと錯覚したのであろう。とくに京都の京大と同志社に的を絞って、党の参院議員の神谷信之助(京都選出)が国会質問した。国会質問は酷い実態を世間にアピールするためにやるのではない。政府を追及する目的でやるのだ。どういうことか。色々理屈は言った。管理者である大学当局を文部省は厳しく指導せよなど。しかしそれは大学の自治に対する国家の介入を推進することに他ならなかった。さらに神谷質問は、大学への機動隊の導入とトロツキスト学生の逮捕を政府に迫る最悪の質問であった。 

 神谷質問の是非など論じる必要はない。これが如何なる結果を大学にもたらしたか。京大と同志社に限って言おう。それまでも 「民青は活動させるな、叩き潰せ」 だった。ところが神谷質問以後は 「民青は見つけしだい殺せ」 となった。そしてそれは多くの学生に支持されたのである。ここに至って京都共産党の驕りは最悪の事態を招いた。以後半世紀、いまだに京大と同志社では、民青に市民権はない。馬鹿にされ切っているのである。神谷質問はここまで犯罪だった。

 ではどうすればよかったのか。結局大学の問題は大学の自治の範囲で解決するしかなかった。ただ、当時の大学民青が1960年代後半の正当防衛権の実力行使の路線を貫徹すべきであったか否か。私は大学民主化にはそれしかなかったと思うが、それはそもそも党12、13回大会の議会主義路線とは両立不可能だっただろう。つまりシンヒヨ摘発と両立しなかった。この時すでに今日の大学民青の惨状は予定されていたのである。 「広大な空白」、さらに「大学民青ゼロ」は分かりきっていたことである。但し当時の党の、この選択が(敵味方の)何人かの青年学生の命を救ったのは事実であろう。歴史上の選択はむつかしい、この事だけは公平に記しておこう。

 最後に。下記の大学はたしかに内部からの大学の自治の破壊であり、学問の府に相応しくない由々しき事態だった。ただ大多数の学生と世間はそう捉えていなかった。党の宣伝が説得力があれば、これらの大学・各部は暴力大学として世間の指弾を受けねばならなかっただろう。その結果、大学・学部の人気は急下降し、偏差値も落ちる筈だった。ところが東大医学部、京大各学部をはじめ全くそうはならなかった。逆に関西大学などは大学紛争の結果、人気大学になったのである。ここに党と一般の評価に大きな落差があった。いずれにせよ大学問題の拗れを国会の場に持ち出したのは決定的な誤りだった。たとえ当時の大学民青が大学構内から一掃されたとしても。

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   資料

 四日発表された日本共産党の「大学におけるトロツキスト暴力集団れの暴力行為の実態」によれば、六月現在で全国八大学二十カ所が依然占拠されている。この調査は国公私立大学計四百五校について行われたもので、そのうち暴力行為が頻発し、事態が重大な東大、横浜国大、宇都宮大、京大、大阪教育大、大阪市大、早大、法大、明治大、明治学院大、同志社大の十一大学には国会議員を中心とする調査団を派遣した。
 同報告から「大学での暴力支配の状況」 「学内での暴力行為の実態」の部分を抜粋した。(編集部



  大学での暴力支配の状況

 調査した全国の約四百の国公私立大学のうち、暴力集団によって程度の差はあれ、教職員、学生の教育、勉学、研究活動、自治活動の自由がおびやかされている大学は、二十一都道府県の五十三大学におよんでいる。この五十三大学で学んでいる学生数は五十七万人にもなり、調査対象になった大学の学生総数の36パーセントを占める。
 これらの大学の、ことしにはいっての暴力行為の状況は、

(程度A)=暴力を批判し、暴力に反対する学生が、長期にわたって授業をうけられず大学の構内に入ることもできない。あるいは、ビラの配布や学内集会などの自主的民主的活動が公然とできないところ。
 法政大学(本校)、明治大学、明治学院大学、宇都宮大学(農)、同志社大学、京都大学(教養、経済、文)の六大学、学生数十六万七千二百名。

(程度B)=大学構内でのビラ配布など公然とした自主的・民主的な活動がテロ・リンチの危険にさらされているところ。
 北海道大学(教養)、小樽商科大学、札幌医科大学、帯広畜産大学、東京大学(医)、早稲田大学(一文、社会)、和光大学、東洋大学、国学院大学、駒沢大学、横浜国立大学、関東学院大学(経済、文、工)、神奈川大学、立正大学(教養)、群馬大学(工)、新潟大学、大阪大学、大阪市立大学、大阪教育大学(池田分校)、大阪経済大学、大阪産業大学、桃山学院大学、大阪電気通信大学、関西大学、京都大学(医、農、理)、関西学院大学、広島大学、九州大学(教養、農)、福岡教育大学、熊本商科大学、琉球大学、沖縄国際大学の三十二大学、学生数約二十八万八千二百名。

(程度C)=状況により、学生大会や集会などが暴力集団に襲撃されたことがあるところ。
 秋田大学(教育)、東北大学(教養)、中央大学、法政大学(別館六二年館)、立教大学、東京農業大学、立正大学、国際基督教大学(工)、独協大学、日本工業大学、宇都宮大学(工)、岐阜大学(教養)、愛知大学(豊橋)、名城大学(法、商)、岐阜経済大学(経済、経営)、三重大学(農)、富山大学、福井大学(教育)、関西大学(二部)、京都大学(工)、京都府立大学。九州大学(工、医)の二十二大学、学生数十一万
四千名。

 二年前には、暴力の程度A=三大学、程度B=十四大学、程度C=十五大学で合計三十二大学であった。この間、多くの学生、教員の努力によって十五大学で暴力支配をやめさせたが、新たに三十六大学に程度の差こそあれ暴力が広がっている。しかも京都大学、大阪大学、宇都宮大学、大阪市立大学などでは二年前より事態はかえって悪化し、また広島大学、法政大学、明治大学、明治学院大学、同志社大学などではひきつづき深刻な状況にある。


 (古本屋 ようこんなもの公表したナ、破廉恥の極みだ。こんなにも負け続けて大学から締め出されているんです、助けてくださいと。情けない、ヤラレタラ、ヤリカエセ)


  学内での暴力行為の実態

 (アホらしいから手打ちの印字はやめた。ヤラレ捲って、撲られ続けている実態など転記しても仕方がないだろう)

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   参考

  神谷信之助  ウィキペディア

神谷 信之助(かみたに しんのすけ、1924年3月15日 - 1999年1月8日)は日本の政治家。元参議院議員(日本共産党公認、通算3期)。日本共産党中央委員会名誉幹部会委員[1]。
京都府京都市下京区出身。東亜同文書院を1945年に卒業後、京都府庁へ入庁。1952年には日本共産党へ入党すると共に府職員労働組合書記長となる。1974年の参院選で全国区から出馬し初当選を果たす。以後京都府選挙区に鞍替えし3選。1992年西山登紀子に地盤を譲り引退を表明する。議員在職中は参院国対委員長などを務めた。
1999年1月8日、胃がんのため京都市内の病院で死去。74歳。
  1. 2017/07/26(水) 00:16:16|
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