古本屋通信

中核派の拠点・広島大学

古本屋通信   No 2693    2017年  07月23日  

   
   中核派の拠点・広島大学 (辻さんのプロフィール欄から)

     歴史の事実に立って

 このところ東京大学新聞の旧い記事を1966年から1971年まで通読してきたが、その中で特に私が注目してきたのは学生自治会選挙である。いくらかは既に私の記事にも書いたが、学部ごとの執行部の党派である。絶えず変動している面もあるが、その後の数十年間変わっていない面もある。ちょっとメモしておこうか。

 教養部(駒場自治会)は一期だけのフロント(今村委員長)を除いて、全て民青の正副委員長である。但し執行部全体である常任委員会では、反民青の「野合連合」が多数派を形成した時期もあった。民青を除くと、駒場では社青同解放派とフロントが強かった。但しこれは1970年までだ。フロントの今村委員長は7学部集会のあとリコールされ、再びフロントが息を吹き返すことはなかった。全国的にもフロントは、1970年代に入って組織分裂を起こし、上部党派の統一社会主義者同盟そのものが消えていくのである。解放派は1970年代に入ると革マル派とゲバの時代に突入する。そして、それまで拠点としていた早稲田、東大、国学院からは後跡もなく追放されてしまう。残っている拠点は神奈川大学だったろう。教養で民青が負けたのは、後には無党派の七夕選対に負けただけである。勝共が選挙に名乗りを上げた時期もあったが、再び民青は主導権を握り、学生自治会の中央委員会が崩壊するまで民青の天下であった。然し実質的に駒場自治会が選挙によって機能していたのは精々坂井希全学連委員長の時代までであろう。

 本郷の各学部について。民青の拠点は教育と法学部だった。教育は小さな学部だったが、拠点中の拠点であり、多くの共産党幹部を輩出している。法学部はもともと学生自治会ではなく学友会だったのを、緑会と名前を変え、実質学生自治会になった。主導権は一貫して民青にあった。だから我々の常識は法学部は民青というものだった。けれど緑会は早々と解散してしまう。だから民青も消えてしまった。元東大民青の頃には法学部の民青などいなかったらしい。

 革マル派は文学部自治会、社学同(ブント)は医学部自治会である。ここは7学部集会のあと民青が一時期主導権を奪っていたが、やがて元に戻る。もともと両学部は民青は無理だった。今でも文学部は革マル派、医学部はブント系だろう。

 その他の学部はよく判らない。と言おうかもともと無党派的であり、セクトの影響が薄い。理学部は民青だろう。農学部は党派色が薄く、経済は不思議なほど保守である。7学部集会の経済学部代表はクラス連合の自民党だった。薬学部も政治色は薄いだろう。

 学部ではない大学院の連合組織は東大院生協議会(東院協)である。ここは一貫して民青である。たぶん東院協を他派が握ったことはない。然し院生の組織ゆえに、いわゆる学生運動は活発ではなかった。以上が東大のことである。

 以上は長すぎたプロローグであり、本論は以下の中核派のことである。以下、中核派について書きたい。東大駒場自治会の選挙に中核派が立候補して一定の票を集めた時期があった。然しそれは東大闘争までだったろう。1970年代に入ると中核派は同一大学で革マル派と両立しない時代に入る。いちいち検証しないが中核派の拠点大学は限定される。三大学で最強だった。即ち東の法政と横国、それに西の広島大である。法政、横国については省略するが、ずっと中核派の一党支配であったわけでもなかろう。法政では近年大学当局に徹底的に排除されている。横国はいまや見る影もないのではないか。そうすると広大が唯一の中核派の拠点である。先日逃亡生活の長かった大坂さんが逮捕されたのも広島の土地だった。

 ここでいきなり日本共産党広島県議会議員の辻つねおさんのHPから、そのプロフィール全文を転載する。


辻つねお(恒雄 )プロフィール

生年月日  1949年7月8日
家族   妻(古本屋註 昨年死亡) と 二女
略 歴
● 大阪市西成区花園町に生まれ3男2女の末っ子。
● 小学校の掃除時間は、ほうきを抱えてのエレキごっこ。放課後は、エビつりに熱中し、トンボとりも得意でした。
  担任の先生は「あっさりして、男らしい子どもだ」と温かく見守ってくれました。宿題以外は遊んでばかりいました。
● 中学校3年生の時「家が貧乏だから私立高校にはいけない。このままでは公立高校は無理」と考え込み、
  夏休みから本気で勉強に取り組み、何とか公立高校に入学。
● 高校時代は生物部水生班で楽しく過ごす。ショウジョウバエを使っての遺伝の研究は大変おもしろかった。
● 1970年、広島大学水畜産学部(現生物生産学部)に入学。
  入学後、すぐに日本民主青年同盟に入り、部落問題研究会にも籍をおきました。
教養部自治会再建運動や地域活動や映画「橋のない川」の学内上映に取り組む。
「差別映画」だと実力粉砕が叫ばれる中、大学正面の掲示板に映画会のポスター貼りは、
  大げさのようですが「ほとんど決死の覚悟」で、夜中、強行しました。

当時、大学では鉄パイプや角棒で「武装」したニセ「左翼」暴力集団が、わがもの顔でのし歩き
  教養部新館の新館前では、アジ演説が繰り返されていました。
  ある日、教養部新館前にある図書館の二階から彼らの演説を聞いていると、
  突然ヘルメットに手ぬぐいで覆面をした2人組が、私の両脇をつかみ無理やりアジ演説の場所へ連れて行きました。
  クラス討論のことが原因ですが、かれらのアジトとしての自治会室に連れ込もうとしましたが、何とか振り切りました。

「暴力が肯定される時、最初に否定されるのが民主主義。
  それと正面から戦った日本共産党員の姿は、今も目に焼きついている。これが私の原点」となっています。

● こうした経験をつうじて学部に進学する前に日本共産党に入党。当時、広島に残らないかとの話もありましたが、研究者になりたくて学部のある福山へ。
  活動と勉学に・・・、★年半の教養部でした。
水畜産学部で自治会委員長(学友会会長)に立候補して、たすきをかけて各クラスに公約の演説を。
  この時がタスキの「かけ初め」です。選挙に勝ち活動を始めましたが、
  ある教官は「辻君は研究者より政治家の方がむいているかもしれんな」と。
● 1987年4月、福山市議初当選。いらい、市議二期7年、県議五期目。
  県議会では生活福祉保健委員会委員、農林委員会委員などを歴任。
   現在、生活福祉保健委員会委員、地域医療・健康づくり対策特別委員会委員。
  党所属は日本共産党広島県委員会常任委員。


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 以下、赤字部分の記載を中心に検証していくが、私は辻さんがウソを書いているとは思わない。またこの記載は辻さんが最初に福山市議会に立候補する時に書いた文であろう。そういう制約の中で書いた文としては何の異論もない。にも拘らず私は辻さんの文を、当時の広大の中核派を語る叩き台として使わしてもらう。

 まず辻さんは1949年生まれで 1970年広大入学だというから2年浪人したのであろう。それは余り関係ないが、この年は1968年の広大闘争が一段落して、封鎖も解かれ、大学の授業も正常化した年だった。正常化しようがしまいが、中核派は1963年の革共同第3次分裂以来、広大の第一党だった。1966年の三派全学連を経ての中核派全学連では副委員長の青木を輩出している。

 1968年に私が岡大に学士入学した年の秋、広大の中核派は大挙して岡大に押しかけた。角材の時代ではなかったが、白のヘルメットに中核と打っていて鮮やかだった。岡大の中核派は第三党だった。広大30名と岡大20名が総決起集会を岡大構内で開催した。スローガンは忘れたが、岡大中核派へのテコ入れだっただろう。然し真の目的は別にあった。岡大プロ学同との党派闘争すなわちゲバに拠る解体作戦であった。これを契機に岡大プロ学同は新左翼の仲間入りをする。同時にその後の岡大全共闘の運動の中で主役の座を中核派に譲り渡す。

 広大中核派(といってもマル学同中核派)が広大に何人いたのか、正確には誰にも分からない。でも見当は付く。3桁だったろう。300人いたかも知れない、当時の岡大は民青100、プロ学同100、中核派30だったろう。どこの大学でも全学生に対する政治同盟加盟者の割合は変わらなかった。広大は岡大より大きい。広大にも民青は数十人はいただろうから、当時の広大中核派が300人いたという想定はあながち過大評価ではないだろう。

 辻さんの文に戻る。当時の中核派は1967年の中核派全学連の結成から大学闘争を経て、暴力集団と呼んでも良いような集団になっていた。そのことは否めない。だから辻さんの書き方が誤っている訳ではない。しかしハッキリさせておきたい。当時の広大中核派は自治会選挙で圧倒的学生に支持されていたという事実がある。おそらく民青は対立候補さえも広島校舎では擁立できなかったのだ。そしていま50年後もそれは継続している。つまり鉄パイプであろうが角棒であろうが、中核派は支持され、民青は支持されなかった。しかもそれが50年続いているという事実だ。ここから何を導き出すかは各人の問題だが、私は広島の共産党は試されていると思う。だからこそ私は大平喜信を熱心に支持した。そして今では彼のもっとも厳しい批判者になっている。3日前に貰った村岡到のパンフには、オバマの広島訪問を歓迎すると書いてあった。四トロ崩れ社民の究極のボケである。日本共産党もよく考えたら良い。このままでは大平落選は必至である。なのに中国ブロック事務所の武田は2議席目の垣内京美の当選を、と書いている。これはハッタリを越えて有権者を愚弄する犯罪である。デボーリン流に言うなれば、有罪判決で刑務所に繋がねばならぬ。

 嗚呼疲れた、これまでにするが、続きを書くかも知れない。
  1. 2017/07/23(日) 09:27:02|
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