古本屋通信

思弁のキャッチボール

古本屋通信   No 2689    2017年  07月21日  


    思弁のキャッチボール

思弁 実践や経験を介さないで、純粋な思惟・理性のみによって事物の真相に到達しようとすること。実践や経験を重んじる立場からは、抽象的理論・空論の意となる。

 ネット・ブログにコピペは自由だし、金も手間ひまも懸からないから、いちおう公平に全文を貼り、更に全文を再録のうえ、私が無意味だと思う殆どの箇所を棒線で消す。そして最終に残された高原文の数行が如何に狂気に満ちた非日本語かということを指摘しておく。つまり石崎の高原批判も、それに対する高原の弁明も、その一切合財が思弁のキャッチボールであり、生きて生活する人間の言語ではないということだ。実はあまり言いたくないのだが(低脳の石崎があまりにもしばしば高原とジャレ合うので)、このさい高原の「狂気」についても一言しておく。といっても言葉の上での批判は不要であろう。このエントリー末尾に高原HP冒頭を転載しておくのでご覧ください





 高原さんのコメントに(文章を一部修正しました)
 2017年07月18日 (火)  石崎徹
 高原さんの文章は長いのでまだ初めの部分だけしか読めていませんが、高原さんの文章のどこに違和感があるのかということが今回ふと分かったような気がするので、そのことを書きます。

「人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、それを続けることである」 (高原文)

 高原さんの言おうとしていることへの反発ではないのです。きわめて単純に、文章表現への疑問なのです。

「人類が生きるとは」というフレーズで始まると、「人類にはこういう生き方しかない」というふうに聞こえてしまいます。さらに結末が「ことである」となっているので、そういう意味あいが強調されています。
 そこでぼくのような人間は、「人はもっとさまざまに生きているよ」と言いたくなってしまうのです。

 しかしよく読んでみると、高原さんが言いたいのは、人類の生き方を(あなたの文章が客観的に表現してしまっているような)狭い範囲に押し込めることではなくて、生きるということのひとつの側面を言っているに過ぎないのだということがわかります。人の生き方はさまざまとは言え、「事実の認識」「目的と手段の仮説」「その検証」という一連の作業を意識的であると無意識的であるとを問わず、繰り返しながら生きてきた、とは言えるでしょう。それは言ってみれば常識的なことで、それなのになぜ理解してくれないのかという高原さんのいらだちがあったようです。

 そこにぼくらのあいだの誤解があります。単純なことなのです。「人類が生きるとは」と「ことである」とを削除して言い換えれば済むことです。

「人類が生きるとは」→「人は」
「ことである」→「生きてきた」

 参考例

 人は現実のただなかにあってその現実を解釈し、価値判断し、それにそって仮説的な目的を立て、それを実現するためのこれも仮説的な手段を見出し(行動し)、その目的と手段とを現実によって検証し、修正しながら生きてきた。

 こういう文章ならば、生きるということの一側面の表現として理解しやすく、だれも反発しないでしょう。

 もっとも高原さんにとってそれは一側面ではなく、生きるということのすべてなのだと言いたいのなら(高原さんの文章はそうなってしまっているのです)、それに対してはいっぱい言いたいことがあります。



 689:人類と人 by 高原利生  on 2017/07/19 at 15:50:55 
 ひとことだけ。
 全体としてコメント626、633などでは、「人類の生きる全体構造」と「人の今生きる一瞬の構造」を分けて書いています。
 文章のまずさでご迷惑をかけます。

18時半追記
 取り上げていただいた文は、「人類の生きる全体構造」の本質についての仮説です。
 だから「高原さんにとってそれは一側面ではなく、生きるということのすべてなのだと言いたいのなら(高原さんの文章はそうなってしまっているのです)」というのは違うのです。
 「高原さんの文章はそうなってしまっている」と理解されるのは困りましたね。石崎さんにそう誤解されたことが多いです。何かの本質についての仮説を、何かの全てを語っていると誤解されるということですね。



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   再録 不要箇所消去


高原さんの文章は長いのでまだ初めの部分だけしか読めていませんが、高原さんの文章のどこに違和感があるのかということが今回ふと分かったような気がするので、そのことを書きます

「人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、それを続けることである」 (高原文)

 高原さんの言おうとしていることへの反発ではないのです。きわめて単純に、文章表現への疑問なのです。

「人類が生きるとは」というフレーズで始まると、「人類にはこういう生き方しかない」というふうに聞こえてしまいます。さらに結末が「ことである」となっているので、そういう意味あいが強調されています。
 そこでぼくのような人間は、「人はもっとさまざまに生きているよ」と言いたくなってしまうのです。

 しかしよく読んでみると、高原さんが言いたいのは、人類の生き方を(あなたの文章が客観的に表現してしまっているような)狭い範囲に押し込めることではなくて、生きるということのひとつの側面を言っているに過ぎないのだということがわかります。人の生き方はさまざまとは言え、「事実の認識」「目的と手段の仮説」「その検証」という一連の作業を意識的であると無意識的であるとを問わず、繰り返しながら生きてきた、とは言えるでしょう。それは言ってみれば常識的なことで、それなのになぜ理解してくれないのかという高原さんのいらだちがあったようです。

 そこにぼくらのあいだの誤解があります。単純なことなのです。「人類が生きるとは」と「ことである」とを削除して言い換えれば済むことです。

「人類が生きるとは」→「人は」
「ことである」→「生きてきた」

 参考例

 人は現実のただなかにあってその現実を解釈し、価値判断し、それにそって仮説的な目的を立て、それを実現するためのこれも仮説的な手段を見出し(行動し)、その目的と手段とを現実によって検証し、修正しながら生きてきた。

 こういう文章ならば、生きるということの一側面の表現として理解しやすく、だれも反発しないでしょう。

 もっとも高原さんにとってそれは一側面ではなく、生きるということのすべてなのだと言いたいのなら(高原さんの文章はそうなってしまっているのです)、それに対してはいっぱい言いたいことがあります。


 689:人類と人 by 高原利生  on 2017/07/19 at 15:50:55 
 ひとことだけ。
 全体としてコメント626、633などでは、「人類の生きる全体構造」と「人の今生きる一瞬の構造」を分けて書いています。
 文章のまずさでご迷惑をかけます。

18時半追記
 取り上げていただいた文は、「人類の生きる全体構造」の本質についての仮説です。
 だから「高原さんにとってそれは一側面ではなく、生きるということのすべてなのだと言いたいのなら(高原さんの文章はそうなってしまっているのです)」というのは違うのです。
 「高原さんの文章はそうなってしまっている」と理解されるのは困りましたね。石崎さんにそう誤解されたことが多いです。何かの本質についての仮説を、何かの全てを語っていると誤解されるということですね



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  残された高原文古本屋通信評


 「人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、それを続けることである (高原文)



 べつにアリストテレスやカントを読むときのように構えて読んで差し上げる必要はありません。ギリシャ語やドイツ語の翻訳ではなく、ナマの日本語文だからです。何の前提もなく、また先入観も持つことなく、自然に日本語として受容できるか、それともできないか。私は大学で少しは哲学をかじった人間ですが、まったくチンプンカンプンですね。たぶん私は、日本の哲学者の文は数百人の一千文以上を読んできたと思いますが、こういう日本語の文に出会ったことはかつて一度もありません。別に好意的に読み取って差し上げようとしない代わりに、意地悪に悪意をもって難癖を付けようとも思いません。ふつうに読んでまったく理解できません。そしてこの文の、よく言えば「難解さ」、もっと率直に「狂気」は、私の理解では心療内科領域です。この文に誠実に応じた石崎文は、もちろん心療内科領域ではなく、単なる低脳文です。

 以下は高原HPの冒頭部分。


現実論理への道

技術,制度,生活の背後にある「価値」と「方法,論理」


高原利生(安井利生)ugg21948@outlook.com
takahara-t@m.ieice.org
http://www.geocities.jp/takahara_t_ieice/

怒りと絶望と少しの希望の間で,全てを考え直す旧題 世界観とその実現(要約)   高原利生  20160118,19,20,23,25,26,28,29,30,31,0201,02,04,07,13,14,16,17,26,29,
0306,07,09,10,13,18,19,20,21,22,23,24,25,26,27,28,29,30,31,
0401,02,03,04,05,06,07,08,09(題変更),10,12,13,14,15,16,17,18,23,24,27,
0502,07,09,11,21,29,30,0601,03,13,22,0701,05,07,10,12,30,0819,
20170118,19,20,0711,12,13,16,17
(まえがきと概要1:基本となる価値と論理)

 石崎徹氏のブログへのコメント626、633、本637、638と最新発表論文(今は、情報技術フォーラムFIT2016、電気・情報関連中国支部連合大会CGK2016、情報処理学会IPSJ2017、2017年9月発表のFIT2017)が、今までの高原利生の人生総括である。今までの発表を分かりやすくまとめなおした方がいいかもしれないが、そうすると、思考の過程が見にくくなる恐れがあるので行わない、というのが、怠惰の言い訳である。(2017年06月26日追記)

 石崎徹氏ブログへのコメント626、633の中で、FIT2016で書いた「人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、それを続けることである」という文を引用している。これは、世界の過去、現在、未来をどう見るかという世界観の一部でもある。

 ある人から、2017年1月16日に、コメント626に説教臭さを感じてしまうというメールがあった。
この人は言う。
「<人類が生きるとは……である>と数行で言ってしまうことができるなら、小説なんか必要ありません。人生は無限に多様で無限に複雑だし、人生とは何かということが誰にもわからないので、そこでたくさんの小説が書かれ、読まれています。」
「ぼくは人生論が嫌いなのです。人生論とは説教です。人はどう生きるべきかについての御託です。でも人はそうは生きられないよ、というのがぼくの書こうとすることです。
 ぼくにとって哲学とは、エンゲルスが言ったように形式論理学がすべてです。物事は筋道を立てて考えねばならない、そのすじみちを教えてくれたのが哲学です。そこから先は現実と科学の仕事になります。現実を先入観なしに見て、科学者たちの到達点から学ぶしかないのです。」(以上、メール)

 また「御託」と言われるだろうが少し反論しておく。
 以下の思考の前提になっているのは、粒度である。人は、制限された能力で世界を切り取るため、粒度を必要とする。オブジェクトとは、世界からある粒度で切り取った情報である。機械は制限された粒度を必要としない(ように扱うことはできる)。情報量が、昔に比べて画期的に増えた対策が、粒度の意識だと言ってもよい。2017年7月17日

理想について 1:理想は「状態」でなく運動であること
 高原は、今、自分を含めて「人はどう生きるべきか」が根本的に違っていると思っている。この数年の論文のテーマは生き方の追究だった。
 「人は人生論の説く理想のようには生きられないよ」と言う人がいる。そこで述べられる理想が違っているのではないだろうかと思うので、理想について再考する。
 理想は状態ではなく、努力の運動、過程であると言う意味の文が「ドイツイデオロギー」にある。これは「共産主義」の「定義」について述べたところで、「共産主義」とはある状態を指すものでなく、それを目指す運動、過程を指すのだと語ったところである(正確な引用は、ホームページの別の場所に書いた)。宮沢賢治が1926年に「農民芸術概論綱要」で「永久の未完成これ完成である」と似たような表現をした。マルクスとエンゲルスは、これより80年ほど早い。

 もっと早いのがあった。植田さんから下記のメールを頂いた。
 「論語の解説書「生きるための論語」安富歩/ちくま新書
を読んでいたら、似たような内容のところに出会いました。
『これを知るを知ると為し、知らざるは知らざると為す、これ知るなり』
 この論語の一節に関して、こう解説しているのです。
 解説:
「知の峻別がフィードバックされて元の知を修正する、これの連続過程が知そのもの。
 知は静的な状態、対象ではなくダイナミックな運動、全体の過程そのものが知である。
 知の過程の名称、この過程の繰り返し全体が知である」(植田氏メール引用終わり)

 これは、「知」について述べたことで、「理想」や「価値」について述べたものではないが、「理想」や「価値」も、もちろん、「知」の生み出したものである。(念のため2017.07.19追記)

 実は、「理想を状態でなく運動、過程である」ととらえることが、生きる態度にどう繋がるのかと昨日、自問し、答えが出るのに一日かかった。頭が死んでいない普通の人には自明なのかもしれないが、分かってしまえば当たり前と思いつつ書いておく。
 生きる態度とは、今の一瞬の「態度-方法-行動または認識」という連鎖の中の、さらに冒頭にある。「態度-方法-行動または認識」の全ての要素が運動、過程であると、より整合的な全体ができるのではないか?
 後の(まえがきと概要3:生きる態度を邪魔するもの三つ)を書くのに、2017年7月16日の半日を要した。この当たり前のような結論にも時間がかかった気がする。考え直すということに踏み出すためには、少しの勇気がいる。20170716

理想について 2:歴史と論理の一致という命題によって、歴史から理想を求めることができる
 弁証法の有名な命題によると、歴史と論理は大まかには本質が一致する。注
 注:明示的に、(ノイズを除くと)歴史と論理は一致すると述べたのは、「哲学ノート」のレーニンだったが、エンゲルスのマルクスの「経済学批判」(1859年)の書評、マルクスの「資本論」の各序文や後書きでも実質的に扱っている。もちろん、これらの元はヘーゲルである。ヘーゲルによれば、物事に内在する論理が展開して現実の運動が行われるので、論理は歴史とまったく一致する。

 歴史と論理は大まかには一致するという命題は、歴史の中に本質的論理を見つける可能性があることを述べている。ここで、論理と本質を同じような意味に使っている。論理的と物理的を対比して使うことがあるが(これは、設計ないし工学系の人間に特有のことかもしれない。論理像を物理的に実現するのが設計なので、設計ないし工学の思考では身に付いている)、この場合も、「論理的」は抽象的、本質的、「物理的」は具体的、現象的という意味である。
 これから次の仮説ができる。
 論理の中にある本質が必ず歪んで実現される実際のこの世では、歴史から抽出された本質は、理想、価値になり得る。

 この本質は、扱う歴史の長さ、どういう前提の歴史であったかに依存する。今の場合の歴史は、偶然かもしれないが、マルクスたちの「唯物史観」の扱っている時間粒度と一致する。この時間は、農業革命後の生産量増大を受けて、物々交換、制度が成立して以来の数千年間である。
 この数千年は、人類が(言語の発明、火の利用、道具の利用に続き)本格的に対象化を開始して以降の歴史である。
 この八千年前の農業革命のエネルギーと自然の対象化が、対象化の本格的な開始であった証拠は、二千年遅れて物々交換と所有という対象の自分への一体化、さらに二千年遅れて自然と神への一体化という自分の対象への一体化が始まったことに示される。対象化の反対概念を作ったことが、人類の新しい段階の可能性を作ったと思う。(2017年7月13日追記)
 詳しくは、高原の一体化矛盾についての論文を見ていただくしかないが、対象化の反対概念を成立させたのは、言語の発明、火の利用、道具の利用という10万―100万年の昔の対象化ではなく、八千年前の農業革命が起こしたエネルギーと自然の対象化だった。このあたりの詳しい検討は、まだまだ必要である。
 そしてコメント633で述べた対象化と一体化の矛盾(二つの運動オブジェクトの矛盾)が始まる。ただし、対象化の開始時期と一体化の開始時期にはズレがあった。(2017年3月26日、7月12日追記)

 対象化と一体化の矛盾というのは、一体型矛盾の一種である。従来の両立矛盾が普通の両立矛盾と一体型矛盾に分かれる。エンゲルスの三つの法則とは少し異なる。エンゲルスの「対立物の統一」は矛盾の定義に関する。エンゲルスの残り二つが矛盾の分類である。この二つを四つに分類しなおしている。下記11の量的変化はエンゲルスは矛盾と扱わないが、これも運動なので矛盾ととらえている。FIT2016は散々紹介してきてリンクも示しているが、見られていないと思うので、一部を引用する。

 以下、矛盾の分類についてのFIT2016和訳の記述を書き直した。2017年に記述を変更している。まだまだ検討の余地がある。2010年以来、一体型矛盾を検討しているが、7年経ち、まだ道半ばである。
 矛盾は、通常の変化、変更である狭義の差異解消矛盾と、従来の通常の矛盾である両立矛盾に分かれる。両立矛盾も広義の差異解消と呼べる。その理由は、両立していない状態から両立の状態への差異解消という粒度があるからである。
 1.差異解消矛盾
   11. 量的変化を起こす(値)
   12. 量的変化により両立二項が質的変化を起こす(値から属性変化):例:水の沸騰
 2.両立矛盾(値、属性)
      21. 二項の両立を実現する
   22. 統合された二項が弁証法的否定され質的変化を起こす。例: 全ての製品。それぞれの「部品」が構成されて、車のような新しい質を持った製品になる。
 3.一体型矛盾(オブジェクト、属性)
   23. 特別な両立矛盾で両項を「変更し続ける」。(FIT2016 では「高め続ける」としていたが間違いだったのでFIT2017で、訂正した。悪化され続けることもある。良くなる/悪くなるというのは、人のとらえる価値に依存する) (2017.03.26、07.12、07.20追記)

 以上が、理想,価値の成立根拠が現実の歴史の総括にあるということと、理想,価値が状態でなく過程,運動であることの説明である。
 このような目的、理想が「でも人は理想のようには生きられない」という理想でないために必要なことだと思う。
 しつこいが、書くことは考えることである。ここでも、今までに分かっていたことに、自分で初めて分かった(2017年1月26日)ことを加えて書いた。悪文の弁明にもなったかもしれない。

価値(理想)と事実の同時認識の必要性
 理想、価値は、生きる態度のために必要なので、哲学の一要素であると考えている。
 先の批判メールの人と一部一致するのは、哲学は時間的に科学の前にあるものだというとらえ方である。そして、どうしていいか分からないが行動しなければならない目の前の物事という事実に対し、意識している価値だけを根拠に(世界観と、意識していない価値に規定されている潜在意識によって)目をつむってエイッと飛ばなければならない。これが、方法、論理学は別にして、科学に移行せずに残っている哲学である「世界観」と「態度」の役割である。
 そして、方法、論理による判断は、必ず、理想、価値が具体化された目的と現実の差異解消のために行われる。
(これで抜けているのは、「音楽」や「小説」などだ)

 事実と価値を、1.相互規定があり、従って同時に把握、変更する一体として観る態度、2.謙虚にかつ批判的に観る態度は必須であるというのもこの数十年の歴史的教訓の一つである。
 理想、価値がないと事実を見ることができず、事実があって始めて理想、価値が生まれる。事実と価値は同時に決める(後に述べる)矛盾である。「人類が生きるとは云々」という文は、事実と価値,理想の双方を対等に含む。事実と価値,理想が同時に必要だということが、コメント626の全体をとおして言い続けたことであった。
 謙虚な態度と批判的に観る態度も、同時に実現する矛盾である。
 この二つがないため、多くは、今のマスコミや政党、マスコミに登場する評論家のように、現状を変えず感情に迎合する保守になってしまう。

 事実と価値,理想の両立の客観的・主観的実現が、若きマルクスが目指し、サルトルの全体化の目指したことだ。「人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、それを続けることである」
 もう一つ、この文で、言いたいことは、あるべき価値、理想も、人が作っていく、作り続けるものであることである。つまり、価値、理想は、静的状態でなく、実現し続ける運動、過程であり、同時に、求め続け作り続けるものである。
 「もう一つ、この文で、言いたいことは、」と書いてしまったが、繰り返しになるが、と書いた方が良かった。コメント626、633に、「、、し続ける」という表現が頻発する。「、、し続ける」ということは、常に未完であるということである。
 これも、過去の総括から得られた。繰り返しになるが、この文は変えられない。

論理について
 ここまでの記述でも、論理は一方向に進まず、概念にも双方向関係がありお互いを含みあっている。これが問題だった。このため、全体を理解しないと部分が分からない事態が必ず起こる。これをどう解決するかを今まで延々と述べてきた。また全体の中の位置を示すように努力してコメント626と633を書いたつもりだ。
 高原の用語使用、悪文の問題もある。(用語使用についてはコメント633で苦しい言い訳をしている。)
 コメント626、633の記述の方法は、FIT2016などで書いている矛盾と根源的網羅思考からなる弁証法である。
 コメント626、633の繰り返しになるが、なぜ矛盾概念が必要かというと、一方向に進まない事実を表すために双方向性を表す事実の最小単位が必要だからである。この最小単位が矛盾である。そしてどういう事実を扱うかを決めるのが粒度で、粒度を管理する思考が根源的網羅思考である。余計な固定観念を捨てれば、この方法が最も単純、簡単である。IPSJ2017では、「大きな問題」に必要な矛盾と根源的網羅思考による解き方を提案している。
 また、これは、「人類が生きるとは……であると数行で言ってしまうことができるなら、小説なんか必要ない。人生は無限に多様で無限に複雑だし、人生とは何かということが誰にもわからないので、そこでたくさんの小説が書かれ、読まれている」という批判に対応している。「無限に多様で無限に複雑」な事実を扱う近似モデルの最小単位が矛盾である。

哲学を作っている
 コメント626、FIT2016、IPSJ2017では、今までの矛盾と根源的網羅思考をまとめ、これらにより、世界観の一部として「生きる構造」と生き方を考察した。
 コメント633、FIT2016、CGK2016、FIT2017では、今までの矛盾と根源的網羅思考をまとめ、これらと「生きる構造」とにより、「ポスト資本主義」と生き方を考察した。

 人類の過去の歴史認識,現在の生きる構造,未来像、価値観からなる世界観、態度、方法が哲学だとすると、高原が作っているのは哲学である。メールをくれた人は、従来の哲学に満足しているらしい。あいにく高原は、この人と事実認識が異なり、今は、哲学が存在しない危機にあるので、事実主義(従来の「唯物論」)と弁証法による新しい哲学を作っている。
 メール氏は「ぼくにとって哲学とは、エンゲルスが言ったように形式論理学がすべてです。物事は筋道を立てて考えねばならない、そのすじみちを教えてくれたのが哲学です。そこから先は現実と科学の仕事になります。現実を先入観なしに見て、科学者たちの到達点から学ぶしかないのです。」と言う。

「人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、それを続けることである」という文が、人類の歴史と現在を俯瞰して観た「生きる全体構造」であるのに対し、このメール氏の「哲学、現実と科学」は、「生きる一瞬の構造」に関する。高原利生の「生きる全体構造」「生きる一瞬の構造」は、コメント626で述べたものである。「生きる全体構造」は、現状であり本質であり理想であった。「生きる全体構造」は、変えられない、「生きる一瞬の構造」の要素だけが変えられる。変えられるので「生きる全体構造」に合うように変えるべきであるという当たり前のことを述べている。

 しかし、メール氏のこの言は、現状を根本的に変える必要のないことを暗に述べている。
 これ自体、メール氏への批判であるが、内容についての疑問、批判を二つ述べる。
 一つは、エンゲルスが言ったという形式論理学の哲学、筋道を立てて考えていくというのはよく分からない。コメント626などに書いた意味で、ほとんどの判断は、形式論理ではできない。
 二つ目、「現実を先入観なしに見る」ことは、不可能である。せいぜい、よりよい世界観、態度、方法を持つ努力をすることができるだけである。これは高原の結論に等しい。20170118,19,20
  1. 2017/07/21(金) 04:17:21|
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