古本屋通信

村岡到氏の共産党批判を読む

古本屋通信   No 2688    2017年  07月20日  


    村岡到氏の共産党批判を読む

 福山の同業者・神原卓志さんが仕事のついでに季刊雑誌 『フラタニティ』 No.3・No.5 を下さった。見慣れぬ雑誌だったが、表紙下部に「ロゴス」とあったのでピンと来た。やはり村岡到氏が編集をやっている雑誌だった。本誌はまだ読んでいないが、その間の挟んであった4ページの「日本共産党の現状と課題ー第二七大会への論評」を一読した。一読して村岡文全体の論評をしようとは思わなかったが、ただ一箇所気になる記述があったので、それを書き留めておきたいと思った。

 その前に村岡氏に対する私の見方だが、氏は長期にわたって「日本共産党との対話」を提唱し、また彼なりに実践してきた人である。これに対する私の評価だが、彼は中核派、かけはし派(第四インター)を経て、日本共産党のいわば同伴者の地点に辿り着いた人である、だが私はこの到達は(ユニークではあるが)氏のマルクス主義の最終的放棄だと見做している。それは氏が日本共産党の誰からも相手にされなかったからではない。そうではなくて、マルクス主義的組織論からは到底ありえない趣味者の遊戯だからだ。私的なコトを書くならば、私の古本屋通信は村岡氏を反面教師として出発した。つまり俺は日本共産党とは対話など絶対にしないゾと覚悟を決めて出発したのだ。私は、日本共産党とはあくまでたたかううゾという決意で出発した。またそれを貫いたつもりである。私は不破や志位と対話するというような非マルクス主義的態度(または方法)が耐えられないのだ。

 以上が前置きだが、前置きが少し長くなったのは、以下の本文が短い言い訳でもある。

 4ページにわたる村岡文は、日本共産党第27回大会決定の個別について、その前大会との矛盾や破綻をアレコレと論っている。然しその基本的立場は「自共対決」から「野党共闘」への路線転換を賞賛する立場である。これは彼にしてみれば日本共産党に寄り添ってその矛盾を語っているつもりなのだが、すでに社民以下の思想的頽廃である。これを4ベージの最初の1ベージで読んだとき、私は以下の村岡文を読む意欲を完全に失った。彼は彼流に、第27回大会決定を、重箱の隅をつつくごとくケチをつけているだけである。ただ一箇所、以下の文言にアレッと思ったので、それを挙げておく。最終ページの以下である。

 「決議」では「労働者階級」が九回も強調されている。綱領では二回だけ使われているが、死語に近かった。それなのに、なぜこんどは頻回に使うことになったのか、実は、「労働者階級』という、マルクス主義の伝統的理解の正否が問われているのである。「立憲主義」「人権」「個人の尊厳」ーーこの三つの用語は、マルクス主義に存在しないどころか、「没階級的」誤りとして否定されていた。資本主義社会は、「階級社会」としてではなく、「格差社会」として捉えるべきである。

 私には前半はいちおう分かるが、後半の2文はチンプンカンプンである。この認識こそマルクス主義の基準からは理解不能な珍論ではないか。そして私が言いたいのは、この非マルクス主義的認識こそが雑誌『フラタニティ』編集の基調になっているのではないかという点である。個別の論稿はまだ読んでいないものの、執筆者の何人かは名前を知っている。この中にスパイ・松竹伸幸の名前を発見して驚愕した。まさに社民以下ではないか。私はそもそもこういうスパイさえも容認するフォーラム形式の言論空間に大いなる疑問を持つ者である。
  1. 2017/07/20(木) 21:08:31|
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