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古本屋通信

文学碑に就いて

古本屋通信  No 277 6月25日

  文学碑に就いて


 私は「通信 No 267 碑について 」で、顕彰碑について否定的見解を書いた。その時、文学碑については「あってもいいのかなあという気もする」と、曖昧に態度保留の含みを残した。それは私が文学碑に就いて殆んど知らなかったという理由もあった。その後とくに調べたわけではないが、すこし書いてみたい。

 小林多喜二の文学碑が北海道小樽にあることは知っていた。あってもいいのかなあと思ったのは、多喜二の碑を意識しての事だった。そのとき宮本百合子の文学碑はきっとないだろうと思った。これは確信に近かった。生前の百合子がこういうことを極端に嫌っていたことを知っていたからだ。ところが意外にも、百合子の文学碑は福島県郡山にあった。「貧しき人々の群れ」の文が碑に刻まれていた。民主主義文学会の現在のHPにも紹介がある。

 それと関係がないが、全国に文学碑なるものがゴマンと存在することも初めて知った。なんと佐多稲子の文学碑も兵庫県相生市にあるではないか。
 
 この辺の新しい認識をふまえて少し書きたい。私は文学碑については、私が一般論として書いたこと、つまり 「碑は基本的には、個人崇拝だろう」「尊敬や敬意を表すのに、碑は間違っている」「これはそれにかかわる人間に、ある種の思考停止をもたらすから、碑の対象になった人物の真の理解に繋がらないのみか、理解を妨げる」 は妥当ではないと思った。それじゃあ、それでもう言いたいことはないのか、と問われればやはり言いたいことはあるのだ。

 色々書けばキリがなくなるので、今回は宮本百合子の碑に限って書きたい。建立の経緯については知らない。それは公表されている訳でもないだろう。だから推測で書くことになる。顕彰碑建立に著作権が絡んでくるのか否かは知らない。然し、たとえ法的に絡まなくても、この場合宮本顕治の承認がなくては建立は不可能だったろう。因みに百合子の著作権は、現在は死後50年経過して消滅しているが、建立時の1970年代には顕治にあった。

 私の推測を書く。宮本顕治は百合子の文学碑建立に極めて否定的、消極的だったと思う。それは生前の百合子を知っていれば当然だが、加えて顕治自身が碑について、否定的は認識を持っていたと考えられるからだ。私は何処でそれを読んだか定かでないが、上記の私の考えは、顕治から学んだように記憶している。顕治は徳田派の百合子攻撃から百合子の文学を守りたい気持ちは強かった。そのためのたたかいをかつて精力的に為してしてきた(『宮本顕治文芸評論選集』 第三巻)。その顕治が徳田派の百合子攻撃の口実になる文学碑を嬉々としてすすめるはずがない。私の知る限り、顕治の残した文に百合子文学碑にふれたものはない。これでも顕治の全著作を集めてきた積りなのだ。断定するにはちょっと躊躇うが、そう思う。

 それと日本共産党だが、百合子は党員作家だったが、党のお抱え作家だったわけではなかったし、党の幹部でもなかった。だから、公的には日本共産党の出る幕は何処にもなかった。党が百合子の文学碑建立に取り組んできたという事は、公式にも非公式にもなかっただろう。しかし古いはなしだから、或いはカンパ活動などやっていたかも知れぬ。

 百合子の文学碑建立は結局、民主主義文学と近代文学の周辺、それと地元郡山から出た要望に、顕治周辺が押し切られて建てられたのではないかと私は思う。党の周辺も「あってもよいのではないか」という意見が強かったのではなかろうか。袴田里見あたりがしたり顔で、顕治に説教を垂れる情景が目に浮かぶ。これは碑に就いての意見というより、当時の大衆運動一般をすすめていく立場からだったろう。

 顕治は例の苦虫を潰したような顔で、苦り切っていたのではないか。百合子の葬儀に湯浅芳子が参列するのを拒み切れなかった時の顔だ。顕治はその顔で序幕式に出ただろう。「赤旗」は極めて小さな報道記事だった。党側からはただ一人、桑原信夫幹部会員が出席した。顕治も共産党も、「百合子の文学は顕彰に値しないのか」という一般の声に引きずられた格好だった。時は高度成長の真っ盛り、全国で文学碑が乱造された時代だった。

 ところで、百合子の文学碑は百合子の文学の理解になんらかの貢献をするのだろうか。民主主義文学会のHPの紹介にもあるが、私はこの場合悪くないと思う。ただ、こういう碑を百合子が嫌っていたことを(変な話だが、碑の脇に)明示しておいた方がよいのではないかと思う。しかし、そういうみっともない事ができるか、と言われれば黙るしかない。 

 ここまで書いてきて、文学碑はやはり商売だと思った。ただし罪のすくない商売だ。大目に見てもよいのではなかろうか。そのうえで誉められた事かと問われれば、やはり感心しないと言わざるを得ない。近代文学、現代文学の評価が定まるのは、作家によって異なるだろう。文学碑はそんな事に構わず建てられる。大江健三郎辺りが、生前のいまから「ボクの碑は絶対に断わる」と明言しておいても、松山市は子規以来の巨匠の碑は建てるだろう。

 この項、かなり独断的に書いた。私の事実認識に大きな誤りがないとは言えない。もうひとりのキーパーソンは大森寿恵子だったが、かの女も死んでしまった。宮本太郎氏は何も知らないだろうが、宮本家の文学関係の資料は公開していただきたいものだ。


補記 上記の文を書いたあと、ネット検索していたら早くも下記の文献に出会った。まだ全文が読めないので何とも言えないが、少なくとも私の文中の「顕治の残した文に百合子文学碑にふれたものはない」は誤りということになる。拙文が印刷物ではないから、誤りの記述も暫くそのままで残すが、ハラハラものだと思った。


参考資料
露草あをし:
宮本百合子文学散策
宮本顕治, 小林栄三, 桑原信夫
宮本百合子文学散策編纂委員会, 1996 - 205 ページ
宮本百合子文学マップ(宮本百合子文学碑;安積野開拓顕彰碑と中条政恒翁頌徳碑;開拓者の群像;開成山の堤の桜ほか);百合子文学誕生の地―郡山(宮本百合子と郡山;開成山を描いた初期作品―宮本百合子文学の思想的基盤;露草あをし―小説『播州平野』のこと;『貧しき人々の群』私の読み方―宮本百合子文学碑建立十年に寄せて;宮本百合子の今日的意義―近代史に生きた日本の知性ほか)

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  1. 2013/06/25(火) 23:22:15|
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