古本屋通信

東京大学新聞チャンネル第8回

古本屋通信   No 2667    2017年  07月10日  


   東京大学新聞  チャンネル  第 1966 (昭和41)


 7月18日号



◎ 全寮連第八回大会終る  新委員長に藤本君(東大)  
 代議員権をめぐって混乱

 二日(土)から明治大学で開かれていた全寮連第八回大会は五日(火)午後三時半、中央執行委員会提案の基調報告を189 対 0 対 13 の圧倒的多数で可決し幕を閉じた。今年の大会には全国の大学250寮から、代議員232名、オブザーバー約400名が参加したが、東学館、東学大雄辿寮、お茶大大山寮などの「反執行部派」が代議員権や議事運営をめぐって執行部と激しく対立し、3日間とも議場内外で数回にわたって混乱した。大会では過去一年間の活動の報告、現在の情勢分析、当面の方針と任務などを決め、新役員を選出、最後に大会宣言を採択した。(以上が記事冒頭のリード文、以下続く記事本文は、3日間の揉めた経過報告なので省略する)。


 古本屋通信
 ここでは上記の記事にある全寮連大会にコメントするのではなく、当時の寮運動もしくは全寮連運動全般について書きたいと思う。といっても、私の大学生活の6年間(1864~1970年)に学寮に入っていた時期はないから、特に詳しいわけではない。でも全寮連運動はいわば全学連運動の姉妹版として存在したから、私なりに見てきた。以下、思ったことをアトランダムに箇条書きにする。

まず全寮連の歴史だが、私は詳しくない。たぶん戦後まもなく結成されたと思う。でもウィキの記事さえないのだ。で解散の時期だが、これはキンピーサイトに2006年とあった。たぶん自然消滅だろう。それさえも殆ど話題にならなかった。全寮連には、1950年代後半に全学連がブント派に乗っ取られたような激しい対立がなかった。組織は分裂せず統一を維持してきた。1960年代以後にも、○○系全寮連など聞いたことがない。

全寮連の執行部は一貫して民青が握ってきただろう。だだの一時期も主導権を他派に取られたことはない。しかし上記の東大新聞のような揉め事はあった。ホンの小さなトラブルだった。というのは、反民青諸派は本気で全寮連の執行部を乗っ取ろうなどと思っていなかったからだ。割りが合わないのだ。つまり寮運動に政治が絡む部分は少なく、大半は生活闘争なのだ。これは民青しかできなかった。

全寮連に加盟している大学の寮は自治寮だろう。つまり入退寮の選考から世話全般まで全て学生がやる。これにはスゴい労力が要る。トロ連中はそういうのは苦手だ。全国の女子大の多くが当局の管理寮だったのは、学生に自治能力がなかったからである。

私の大学時代。香川大学には男子の屋島寮と女子の若草寮があった。ともに民青の拠点中の拠点だった。寮委員会があり寮長がいた。ともに全寮生の選挙で選ばれた。もちろん全寮連に加盟していた。民青の組織中では寮長は学部学生自治会委員長と同じくらい重みを持っていた。ただ、寮委員会と寮長を民青が握っていても、寮生に政治的な強制をする事はなかった。何処の大学でも、寮生の中には各派の活動家がいただろう。それと香川大学では、学生細胞と民青班は学寮単位では作られていなかった。党員、民青同盟員は学部の細胞と民青班に所属した。これは香川大学に関するかぎり正解だったろう。生活の拠点での党派活動は何かとトラブルの原因になる。

私の大学時代。岡山大学の男子寮は津島寮だった。岡大では民学同(のちのプロ学同)が強かったので、民青は法経学生会以外の学部自治会はお手上げだった。ところが津島寮は民青の拠点中の拠点だった。寮委員会をプロ学同に取られたのは1973年だったろう。ちょうどマル青同が寮を襲撃して寮生一人を殺した直前だった。まあブントのナレの果ての殺人鬼で合理化できないが、プロ学同に政治責任がないという訳にはいかない。殺されたのは大沢君といったかな。プロ学同シンパだったろう。アッ、女子寮は中核派だったなあ。


 まだまだ書けるが中断する。目がとても持たない。東大新聞の活字の小ささには参った。
  1. 2017/07/10(月) 00:01:08|
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