古本屋通信

東京大学新聞チャンネル第7回

古本屋通信   No 2666    2017年  07月09日  


  東京大学新聞  チャンネル  第   番外 京都大学篇

 とつぜんだが異例のエントリーを立てることになった。先ほどネットを遊覧中、東大ではなく京大関係の以下の研究会資料を発見した。まだよく読んでいないが、ヌシは私より一歳若い人で、共産党畑を歩んできた人らしい。とにかく資料として転載することにした。東大新聞とはまったく無関係だが、便宜的にここに「東京大学新聞 チャンネル 第7回 番外 京都大学篇」として転載する。転載に関しては先方に断らない。その理由とも少し関係するが、私の資料評価を前もって書いておきたい。

 まだよく読んでないが、とにかく感心しない。率直に書こう。京都大学であろうと何大学であろうと、また学生運動史であろうと演劇部史であろうと、書くなら必ず個人の文責で書かねばならぬ研究会という集団での作業を一律には否定はしないが、そういう集団的な営みの所産が、仮にも「党の立場」から書かれた正史となると、身震いするほど反発を覚える。とくに筆者の経歴を一瞥してそう思った、

 つまり歴史記述は個人営為以外ではあり得ない。党の側から記述した京都大学学生運動史などあってたまるか。これは党の側から記述した京都大学史がありえないのと同様である。これは党の側から記述した京都市史がありえないのと同様である。確かに日本共産党史各県版はかつてあった(1972年だったかな)。しかし今は中止されている。記述できないからだ。

 筆者は集団的に、しかも恣意的に、党の名前で、党の正史として書こうとしている。しかし、党は、今では、シンヒヨ以前の、1960年代の学生運動の総括をやっていない。できないのだ。それを京大OBが党の立場でやると言う。まあ、資料評価は人さまざまだから、とにかく貼っておこう。

 文字を拡大して読者の便宜をはかった。


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  「樹々の緑」通信


京大学生運動史研究会事務局からのお知らせ

★京大学生運動史研究会とは
山本正志(1965 年理学部入学)の呼びかけに応えて参加された
京大OBによってスタートした研究会です。

今後、参加を希望されるOBの方も含めて、京大学生運動史の
発掘・編纂・普及について話し合っていくことにしています。

事務局:山本正志
〒606-8201 京都市左京区田中玄京町76
電話・F A X 075-702-6705
メール m-ymmt@mbox.kyoto-inet.or.jp

研究会の「月報」はほぼ毎月発行しています(会員のみ)
「京都大学学生運動史」の発足とその後の経過について
2013/9/20 の「京都の民主運動史を語る会」(機関誌「燎原」)
でお話した記事を転載します。
山本正志


はじめに私の略歴

今日のお話の主題は「京大学生運動史研究会」のこれまでの取組みで、
何が明らかになってきたのか、何を解明していくことが必要なのか、と
いうことなのですが、お渡しした資料「「平和は求めて追うべし‥京大
反戦自由の伝統」は1980 年代に民青同盟京大地区委員会がまとめ、学
生新聞「京大版」に掲載されたものです。これは学内でも配布されてい
ますので私も持っていました。

最初に私の経歴を紹介させていただきます。
1965 年4 月に入学(理学部)、民同盟は倉敷青陵高校時代から加盟、
そのまま学生運動(統一派・平和を守る会)に加わりました。当時京大
同学会(全学自治会)も教養部自治会も執行部は社学同・中核派等のト
ロツキスト連合によって握られていました。
当時、アメリカのベトナム侵略反対、日韓条約反対闘争が闘われまし
たが、6 月の教養部自治会選挙で委員長は社学同のUが当選しましたが
副委員長には私が当選し、常任委員会は多数を握りました。同時に行わ
れた同学会代議員選挙では多数を獲得し、同学会を民主化、初代の委員
長は村上治充さんでした。
66 年12 月に同学会委員長に選出され~67 年12 月まで2 期つとめま
したが、思い出深いのが全学で闘われた自衛官入学反対闘争です。工学
部院生協議会を中心に60 年代に入って取り組まれてきたこの闘いはつ
いに全学学生大会・全学ストにいたり、奥田総長との大衆団交で「京大
に自衛官は入れない」という趣旨の確認を勝ち取り、その成果は全国の
大学に波及してゆきました。
68 年から69 年にかけて京大学生党委員会の責任者をつとめました。
当時京大でもトロツキスト諸派がヘルメット・ゲバ棒によるデモや「内
ゲバ」を繰り返していましたが、医学部、文学部を除くほとんどの自治
会を民主化し、党員数も400 人を超えるまでになりました。
71 年3 月に6 年間の学生生活を終えて党(東地区委員会)の専従になりましたが、80 年から85 年の間は京都府


樹々の緑( 京大反戦自由の歌)
作詞: 細川汀
樹々の緑を 雲すぎて
時計の塔の赤き壁 色あせたれど
屈辱の怒りをこめて
闘いの長き歴史を 刻みゆく
友よ 冷たき牢に耐え
鎖をひきて 突き進む
白き面の美しく
光溢るるを 見よ
春の嵐の 打ちつける
時計の塔の暗き窓 山河はるかに
誠実な心をえぐる
わだつみの遠き叫びを 映しいる
友よ 戦禍の傷うづき
祖国を愛し 学ぶ日に
ペンのながれのとだえなく
炎拡がるを 見よ
雨のしずくに 輝ける
時計の塔の鐘の音 星はふるえて
解放の誓いは固く
海越えて 高き誇りを 打ち鳴らす
友よ 未来の晴れた日に
自由を歌い 門開く
若き腕
かいな
の隊列に
旗を掲げるを 見よ


委員会で知識人対策を担当しました。この間、各大学の先生方にもお話をお聞きすることができ、京都の民主的知識
人の層の厚さを実感することができました。
87 年の京都市会議員に立候補することになり、穀田さんなどとともに当選、2007 年4 月まで20 年間市会議員
つとめました。じつは立候補が決まった当時、鰺坂先生や友人などが呼びかけて「励ます集い」がやく80 人の参加
で西武食堂でもたれたのですが、案内状を送ったOBはおそらく400 人以上あったと思います。私は議員を辞めるま
でこの400 人近くの先輩・後輩のOBに毎年年賀状を出してきました。おそらく1960 年頃から1975 年頃までのと
もに活動した仲間の数は2000 人近くなる
と思いますが、公務員や教員関係はともかく、銀行や企業に就職された
OBとは私の名前で連絡をとることはできませんでした。


私の思いと研究会の呼びかけ

2007 年に議員を辞めた後もこの年賀状は続けています。11 年は年賀に代えて「年頭所感」をお送りしましたが、
その中で「『平和は求めて追うべし‥京大反戦自由の伝統』を読むにつけ、私の心に長く温めてきた企画がある。
それは『物語・京大学生運動史』とも言える、少しでも充実した私たちの先輩や同僚、後輩たちの足跡を残してお
くことができないか、ということである。戦後、学園復興の闘いから安保闘争へと京大学生運動の変遷の話を先輩
から聞くにつけ、私にはどうしても書き残して後世に伝えておきたいと思い続けてきた課題がある。それは、戦後
一貫して京大学生運動を支え、大きな役割を果たしてきた『日本共産党京大学生細胞(後の党委員会)の闘いの歴
史』を発掘し記録すること
である。残念ながらこの点については、正式の記録文書などは入手できないという困難
もある。このあたりで、自分にしかできない仕事として取り掛かることを決意して2011 年の出発としようと思う」
と書きました。あちこちのOBから反響がありました。]

「京大学生運動史研究会」を呼びかけるにあたって鰺坂先生をはじめ幾人かの方と相談して、11 年1 月23 日に
第1 回の会合を持ちました。岩井忠熊、芦田文夫、中野一新、家野貞夫、湯山哲守の諸氏と私の6 人で話し合いの
結果、以下のことを確認しました。

①資料(「平和は求めて追うべし」)を同封して24人の方に案内を差し上げた。
②検討事項
・ 「京大学生運動史研究会」は毎月開催、呼びかけに答えた賛同者に参加を呼びかける。
・ 名簿の整理・追加:山本の年賀状名簿は約400 人。名簿の追加を呼びかけて対象者を増やしていく。
各種資料の収集:学内で配布されたビラ類をはじめ出版物、研究論文、遺稿集、新聞雑誌記事などの提供を呼び
かける。

・ 「月報」の発行:研究会開催予告や研究会の記録、収集資料の紹介などを中心に定期に刊行する。会員に限定。
会費年1000 円(主に郵送料)とする。
・ 成果物の公開と配布:資料収集と研究会での検討を経て一般公開については慎重に検討する。といった内容でス
タートしました。

現在会員は130 人ですが、呼びかけると5 万円のカンパが寄せられるなど「待っていた」「期待している」と
いった声と同時に「いまさら過去を掘り返しても」「事実確認や固有名詞などの検証なく記録公開はいかがなもの
か」といった声も寄せられました
したがって「月報」は会員以外は非公開としています。Eメールでの送信もど
こに転送されるか分かりませんので、印刷文書にこだわっています。また「京大統一派」であったOB以外は呼びか
けていません。

研究会発足と「月報」の発行
2011 年1 月23 日初回の会合では岩井忠熊氏にお話をしていただきました。岩井先生は「燎原」の2006/11/15
から「滝川事件以後 15 年戦争期京大学生運動の断章」を6 回連載されています。


<岩井先生のお話から>

山田幸次さん(元京都市会議員 昭和5 年三高ストで検挙、退学)は滝川事件以前の三高世代でした。当時の
三高のやり方は、あのストライキの関係者を呼び出して追及し、反省するというと形式的な1週間程度の謹慎処
分で済まされているのです。「反省しない」というと放学になるのですが、山田幸次さんは毅然として「反省し
ない」と答えて放学になった。北山茂夫さん(日本古代史専攻、元立命館大学教授)は、とても立派な人物とし
て山田幸次さんのことをほめています。東洋史の宮崎市定さんは三高の教授だったと思いますが弁解していまし
た。「燎原」の昭和55 年(1980)6 月15 日号には「55 年ところどころ」という山田幸次さんのお話が掲載され
ています。
中野一新さんは「吉村達次さんに聞いた話ですが戦前の最後の学生運動は学消(学生消費組合)だったというこ
とです。山岡亨一先生の話では、瀧川事件の翌年卒業者で京大に残った人たちが『昭和9年会』というリベラル
な会をつくり、西尾雅七さん、松井清さん、島恭彦さん、田畑茂二郎さん、庄司光さんなどが入っていたという
ことです」というエピソードを紹介されています。
2011 年6 月3 日には、大阪堺市の定免政雄氏(元共産党大阪府委員会委員長 1947 年9 月卒)のお宅に鰺坂
先生とともにお伺いしてお話をお聞きしました。


<定免政雄氏のお話>

私は47 年9月に卒業しましたが、当時の細胞は100 人くらいいました。若杉光夫さん映画監督 46 年卒)は
京都地方委員会の常任で、彼の後1947 年の夏休みが終わってから「お前がやれ」ということで私が常任になり
ました。当時は小柳津恒さんや儀我壮一郎さんや北牧孝三さんたちがいて、しばらくして舞鶴から河田賢治さん
が帰って来ました。
じつは私(山本)もそうですが「戦後京大の党組織が再建されたのはいつごろで中心はどんな人たちだったのか」
ということがよく分かっていなかったのです。定免さんは昨年1 月お亡くなりになりました。

2011 年6 月25 日は小畑哲雄氏のお話ですが、「燎原」07 年7 月15 日から「戦後京大学生運動私記」として
5 回連載されています。天皇事件(51 年11 月)から荒神橋事件(53 年11 月)ころの京大学生運動のことを詳
しく書いておられます。
]
2011 年9 月は田中清和氏(1961 年3 月卒)のお話で「安保前夜の京大学生細胞解散事件」についてみてみます。

1959 年11 月27 日、第8 次全国統一行動があり、東京では全学連ブント派の扇動による国会突入がありました。
新聞、テレビで大きく報道され、その是非をめぐって激しい議論が起き、日本共産党はトロツキストの挑発行為
だとして全学連指導部のブントを批判しました。これに対し、今泉(当時の京大学生細胞キャップ、ブントでは
「東の島、西の今泉」と称されていた)らが12 月3 日、新聞記者会見をして「日本共産党京大学生細胞解散声
明」を出し、党はもはや前衛ではなくなったと誹謗しました。これに対して私たちは、4 日夜、地区委員会の招
集により黒谷のお寺で緊急会議を開き、彼らを除名し、翌5 日には全学規模でビラをまきました。
山本:「残ったのは何人いたのですか。『7人のサムライ』が残ったという伝説があるようですが?」
田中:私の記憶では、30 人近くいました。「7人のサムライ」という伝説(?)は、私も後に耳にしたことがあ
りますが、おそらくは12 月4 日の緊急会議のときに選出された新指導部のことだろうと思います。当時、学生
党員のうちには地域の組織に所属していた者もいたので、「元々学生細胞にいたのが7人」という意見もあるよ
うです。
その後の例会では、50 年以降の党の非合法化、分裂という事態の下での活動の実態のお話も幾人かの方から
お聞きしました。
当時の非公然機関の「核」はビュローと呼ばれ、「表」の公然機関とは別にありました。非公然活動というのは
手間、ヒマがかかります。人数も要るが、しかし金はない。学内の党組織を離れて、府委員会の「総務」担当と
しては、上下・相互の文書連絡や会議場所の設定、上部組織からきたオルグの宿泊の世話などの仕事があり、
たとえば隠れ家(アジト)を準備する仕事でいえば、一週間おきに居場所を変えなければならないので、多い
時には10 軒ぐらいの家を見つけておかなければならない。しかも一部屋を提供できるほどのゆとりのある家、
加えて家族全員が協力的であることが条件になるので、協力してくれる人を探して依頼するこはたいへんだっ
た。当時、学内で看板を出すと許可していないということで、つかみあいの喧嘩を学生補導のある先生とやっ
たことがあるが、ある時の府のビューロー会議に私宅を提供してくれたのが、その先生だったので驚いた、と
いうお話も。また、郡部で非合法の機関紙「平和と独立のために」を党員をたずねて手渡し、かろうじて食事
はそこでいただきながら地域をまわる、という当時の日常活動の実態もお聞きしました。当時学内から次々と
「工作隊」が補充されこうした「地下活動」の支えとされていたようです。
ところで私も「山村工作隊」ということをある先生方からお聞きしていましたが、これはある方からお預か
りした当時の資料の中で見つけたものです。「農工通信」(54 年3 月)とありますがその中で「全党の同志は
この闘いに続こう! 周山*では君たちの来てくれるのを一日千秋の思いで待っている」といった記事があり
ます。地域オルグの地下活動だけではなく、農村に入っての援農とオルグ(農民組合の組織化など)活動も活
発だったと思えます。

2011 年12 月には「京大天皇事件60 周年を語る集い」で神戸女学院の河西秀哉氏を招いてお話をしていた
だきました。その後の例会でのテーマと話題提供者については割愛させていただきます。次回は10 月に予定
していますが、以降も様々な分野・テーマでの発掘を探求していくことにしています。


貴重な資料と新たな発見

当時配布されたビラなどのまとまった資料としては、京大文書館(京大会館)に「戦後学生運動関係資料
解説・目録」(松尾尊兊氏寄贈 50 年代前半の資料)、「大学紛争関係資料Ⅰ~Ⅴ解説・目録」(尾﨑芳治氏、
加藤利三氏他寄贈(69 年~71 年他)、「戦後学生運動関係資料Ⅲ 解説・目録」(西山勝夫氏寄贈 1961 年~
65 年)がありますが、これらは閲覧も撮影も可能です。私も目を通しました。
また、京大新聞は現物が京大本部図書館に綴じてありますが、古い号は欠番もあります。縮刷版は第1 巻
(大正14.4~昭9.3)以降すべて京大本部図書館にあり、私の手元にもお借りしたものがそろっています。
資料の中には「内部関係資料」もありまして「京都に於ける学生運動の再建統一のために」京都府委員会
(1963/8/20「いわゆる820 決定」)や、1964 年志賀義雄らの除名の後京大細胞から除名された西村・角田
らに対する批判文書「党内の分派活動はゆるしえない」など、またそれぞれの時期の「方針書」も60 年代
を中心にそろっています。ただこれらの方針書では氏名などは一切記述がありません。
51 年11 月発行の「平和を希うがゆえに 京大天皇事件の真相」は京大同学会の発行したパンフレットです。
53 年12 月発行の「荒神橋・市警前で警官は何をしたか」は「11・11 事件究明教授団」発行となっていま
す。1951/1/30~51/10/16「京大平和の戦士」(№2~№34,35,36)は「京大平和の戦士社発行」となってい
ますが、いわば党細胞の合法宣伝物でした。1951/5/23~55/10/8「嵐をついて」(京大細胞機関紙 №4~
№210)も当時の学生運動や政治状況を知る上で貴重な資料でこれほどそろっているのは珍しいと思います。
50 年以降の非合法下での活動で紹介した「平和と独立のために」(№340~№404 54/2/28~55/4/21)も
党機関にも余り残っていないと思われます。ある解説では:1950 年からのレッドパージ(非合法化)以降、
共産党は数多くの宣伝紙や機関紙を発行していたが、52 年3 月に発禁になった『平和と独立のために』は
党の首脳である政治局の意見を広範に下級組織に発表するための内部機関紙であった。当時は共産党の大
衆機関紙である『アカハタ』(当時はカタカナ)も発禁となっており、共産党が『アカハタ』の後継紙を配
布したら同罪ということで、この『平和と独立』もその編集・印刷関係者ばかりでなく読者までも逮捕す
るという徹底した弾圧をうけた。このような弾圧にもかかわらず『平和と独立のために』は地下で発行さ
れ続け、全国に配布されていった。とあります。
この他に個人の記憶、思い出などの書籍は実に多数ありまして、まだまだ捜索の途上にあり、今後も各方
面のご協力をお願いしたいと思います。
「ああ楼台の花に酔う」(西山夘三著 82/10)、「田中診療所の三十年」(佐本昌平発行責任 85/8)、「人生
は奇縁なり」(重富健一 04/11)、「樹々の緑-戦争のあとがき-」(細川汀 10/12)などの他にもまだ
まだあります。最近鰺坂先生にお聞きして、品川正治さんの「手記 反戦への道」を読みましたが、品川
さんが三高の生徒総代だった44 年2 月の「軍人勅諭読み替え事件」にはこう書かれています。
当日は…九時から京都師団長の査閲が始まった。私は…閲兵・分列行進の指揮を執り整列している全校生
徒の前に立っていた。…「只今から軍人勅諭の奉誦を始める。本官の指名の順に奉諭せよ」 突然、理科
の集団の最前列にいた男の手が挙がった。浅沼実君だ。…「我国の天皇は世々軍隊の統率し給う所にぞあ
る」浅沼君は昂然と胸を張り、口調も荘重を極めていた。「あっー」と私は息を呑んだ。勅諭の正文は「我
の軍隊は世々天皇の統率し給う所にぞある」で、「天皇」と「軍隊」をいれ替えればまったく逆の意味にな
る。階級の高い査閲官の一人が、「何いっー、もう一度言え」と叫ぶまでは、指名した査閲官本人自身「よ
し、次…」と促しかけるほど見事に語呂が合っている。…査閲官は駆けよって軍刀の柄に手を掛けたが、
思い留まって、「査閲中止!全員解散!」と叫んだ。…その事件は一切公表を禁じられた。
敗戦の前年に当時の三高でおきた事件ですが、こうした気概をもった学生がいたことを知らされました。
新たな資料を検索していますが、前日「学生新聞」のバックナンバー(京大版含む)が党本部資料室にあ
ることが分かりました。閲覧可能ということなので関係部分をコピーできればと思っています。


今後の方向

・ まだ未解明の分野が多く残されていまして、その中でも歴史・事実に反した出版物やネット上の記述
(特に反共派、全共闘系列の活動家のもの)が多数横行
しています。例えば、京都大学九〇年史「京大史
記」の「京都大学学生運動史」(上田実S63 年農卒)の中で「昭和42 年の自衛官入学拒否の闘いは、同
学会執行部(代々木系)をのり越えて、反代々木系の「全学共闘会議」によって展開されたのである」と
あります。しかし「全学共闘会議」が結成されたのは69 年いわゆる「学園紛争」(京大では69 年1 月学
生部封鎖以降)の中でのことであり、彼ら自身も当時は「全共闘」は名乗っていません
し、まして自衛官
闘争当時は私は同学会委員長でしたが、彼らが主導で闘ったという実態はありません。
こうした誤った歴史記述や、全学連、民青同盟、党への非難・中傷の類については事実を明らかにして公
表していくことも大切な作業であると思います。中でも70 年代の京大の状況を振り返ってみる時、トロ
ツキストたちの同学会、自治会破壊と暴力的支配、岡本総長をはじめ当局との癒着、取引き、竹本問題な
ど権力の陰謀、こうした局面の真相解明と当時の活動家たちの奮闘も掘りおこし記述していくことも大切
です。
当面、女子学生の運動、寮闘争(激烈な暴力攻撃との闘い)、百万遍と関田町学生会館の歴史、合唱団
や唯物論研究会などサークル活動の掘り起こし、さらには民科(民主主義科学者協会)など学術関係団体
や、湯川さんの核廃絶への姿勢の学生に与えた影響など、学生運動の中核部隊の歴史だけでなく世相を踏
まえた学生の意識状況などの解明にも手が付けられればといった思いもありますが、こうしたことについ
ては今後話し合って行きたいと思っています。
  1. 2017/07/09(日) 15:50:38|
  2. 未分類