古本屋通信

言語明瞭・意味不明瞭(不明朗)

古本屋通信   No 2663    2017年  07月08日  


    言語明瞭、意味不明瞭(不明朗)

   副題  小熊英二と石崎徹

 このところ東大新聞にずっと付き合っている。活字が小さくて拡大鏡を使って読むのは参るが、この新聞の文はきわめて読みやすく、意味を読み取るのに苦労するという経験はまだ一度もない。これは東大新聞の学生記者がよく訓練された記者であること、それから署名入りの執筆者の文章も優れているからだ。つまり文章に関しては「言語明瞭・意味明瞭」なのだ。記者の書く文はジャーナリズム文だから当然だ。また執筆者の署名文で意味不明瞭な文も皆無である。これは筆者が非文学系であろうと文学系であろうと変わらない。念のために今まで読んできた筆者の名前をあげておく。

大岡昇平、本多秋五、小田切秀雄、久野収、日高六郎 (以上の5人は五月祭賞選考委員。私をは選評の文の号は採り上げていないが、極めて厳しい選評をはっきりと書いていた)、古在由重、針生一郎、坂本徳松、五十嵐顕、田口富久治、伊藤成彦。

 内5人が文学である。念のためだが難解な批評で有名な蓮実重彦(脚注)の助手時代の、ロランバルトを論じた文があったので読んだ。極めて分かり易かった。意味が取れるということだ。上の伊藤成彦もだが(批評対象にしている吉本隆明のごとき)訳の分からない文を書いていない。


 以上は東大新聞紙上の話である。以下は朝日新聞の話である。

 朝日新聞の記者が訳の分からない文を書く訳がない。これはブル新聞の記者全てが「言語明瞭・意味明瞭」なのだ。当たり前のことである。では朝日新聞紙上に掲載される文化人の署名記事はどうであろうか。ここに来て事情は一変するのである。結論から書こう。ごく稀に大江健三郎の比較的マトモな文が載ることはあるけれど、まあロクでもない文しか載らないワ。つまりブル新聞朝日はブル新聞ゆえに良い署名記事は掲載しない。というより掲載してはならないのである。なぜならスポンサーの独占資本に睨まれるといけないから。

 もちろん言語不明瞭」な文が掲載される訳ではない意味不明瞭」な文が掲載されるのだ。それは多々あるけれど、私が咄嗟に思い出したのはシールズを世に送り出した高橋源一郎の文だ。これこそが意味の通らない文だった。他にいないか? そう考えていたら格好の標的が現われた。小熊英二である。私は小熊に就いてはクドイほど批判しているので繰り返さない。一言でいえば言語明瞭・意味不明瞭(不明朗)な文だ。これは彼の国語力が劣っているせいでは断じてない。認識力が無茶苦茶だからそうなる。論じるより「百聞は一見に・・・」 だ。それがまた小熊を紹介しているのが石崎徹と来ている。私の解説は要らない。批判も不要であろう。要は読んで意味が分かるか否かだ。しかと味読あれ。


 小熊英二と建国72年

 2017年07月08日 (土)  石崎徹
 たぶんすでに1か月ほどになろうが、小熊英二が朝日で次のように書いていた。
「今年は戦後72年なのだという。どこの国でも、戦後と言ったら戦後数年のことである。日本はいつまで戦後何年と言い続けるのか。答えは<永久に>である。何故なら、1945年を境に日本という国が根本的に変化したという意識が人々の頭に潜在的にあり、でありながらそれを表現する言葉がほかにないからである。1945年に大日本帝国が戦争に敗れて崩壊消滅し、新たに日本国が生まれたのだ。今年は日本国建国72年なのである。だが右翼はもちろんそれを認めたくないし、そのほかの人々はそこまで思いつかなかったというだけだ。ところでこの日本国に対する反体制派は、じつは日本政府を構成する与党なのである。彼らは日本国を疎ましく思ってこれを覆そうと72年間画策してきたが、政権を保持しながらできずに来た。云々」
 そこから先の論理展開は忘れた。ここまでのところが特に面白いと思った。



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  蓮實 重彥   ウィキペディア


蓮實 重彥(はすみ しげひこ、1936年(昭和11年)4月29日 - )は、東京府生まれのフランス文学者(パリ大学博士)、映画評論家、文芸評論家、編集者、小説家。第26代東京大学総長、同大学名誉教授。

経歴[編集]

『反=日本語論』で第29回読売文学賞を受賞[1]。2007年、『「赤」の誘惑 フィクション論序説』を発表[2]。2008年、7年ぶりとなる批評集『映画崩壊前夜』を発表する[3]。そのほかの著書に『批評あるいは仮死の祭典』(1974年)、『表層批評宣言』(1985年)などがある[4]。2014年、大著『「ボヴァリー夫人」論』が刊行された[5]。2016年、小説『伯爵夫人』で第29回三島由紀夫賞を受賞した[6]。

立教大学非常勤講師時代の「映画表現論」の教え子として映画監督の黒沢清、青山真治などがいる[7]。

年表[編集]
1936年 - 東京府(現・東京都)麻布区(現・港区)六本木町(現・六本木)に生まれる。父は美術史家の蓮實重康。
1943年 - 学習院初等科へ入学。
1949年 - 学習院中等科へ進学。
1952年 - 学習院高等科へ進学。
1955年 - 大学受験に失敗。研数学館で浪人生活を送る。
1956年 - 東京大学教養学部文科二類(現・三類)へ入学。
1958年 - 東京大学文学部仏蘭西文学科へ進学。
1960年 - 東京大学大学院人文科学研究科仏語仏文学専門課程修士課程へ進学。
1962年 - 東京大学大学院人文科学研究科仏語仏文学専門課程博士課程へ進学(同年4月)。フランス政府給費留学生として渡仏(同年9月)。パリ第4大学文学人文学博士課程へ進学(同年10月)。指導教員はロベール・リカット教授。
1965年 - パリ第4大学へ博士論文 "La méthode psychologique de Flaubert d'après Madame Bovary"(「ボヴァリー夫人」を通してみたフローベールの心理の方法)を提出し博士の学位を取得。
1966年 - 東京大学博士課程を中退(同年3月)。東京大学文学部助手に就任(同年4月)。学習院大学文学部フランス文学科非常勤講師を併任(同年9月)。フランス留学中に知り会ったベルギー人のマリー=シャンタル・ヴァン・メンケベークと結婚(同年12月)。
1967年 - 長男重臣が誕生(同年12月)。
1968年 - 立教大学一般教育部講師に就任(同年4月)。東京大学文学部フランス文学科非常勤講師を併任。
1969年 - 立教大学一般教育部助教授に昇格(同年4月)。
1970年 - 東京大学教養学部講師に就任(同年4月)。立教大学非常勤講師を併任し映画表現論を担当。
1971年 - パリ第7大学に日本語教師として着任。約1年間をパリで過ごす。
1974年 - 東京大学教養学部助教授に昇格(同年4月)。
1975年 - 東京大学教養学部で映画論ゼミを開講。
1985年 - 季刊映画誌『リュミエール』(全14冊)を個人責任編集により発刊(1988年廃刊)。
1987年 - 東京大学教養学部表象文化論分科で映画論を担当。
1988年 - 東京大学教養学部教授に昇格(同年4月)。
1989年 - 『凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン』が芸術選奨文部大臣賞評論等部門を受賞(同年2月)。
1990年 - 東京大学大学院総合文化研究科に表象文化論研究室が新設され東京大学大学院教授に職位改称(同年4月)。
1993年 - 東京大学教養学部長を併任(同年2月)。
1994年 - フランス政府より芸術文化勲章(シュヴァリエ)を授与される(同年5月)。
1995年 - 東京大学教養学部長を退任(同年2月)。東京大学副学長を併任(同年4月)。
1997年 - 東京大学副学長を退任(同年3月)。東京大学教員を定年退官(同年3月)。第26代東京大学総長に就任(同年4月)。パリ第8大学より名誉博士号を授与される(同年12月)。
1999年 - 「Yasujiro Ozu」がフランス映画批評家協会文芸賞・最優秀仏訳海外著作物に選出される(同年2月)。フランス政府より芸術文化勲章(コマンドール)を授与される(同年2月)。
2001年 - 東京大学総長を退任(同年3月)。東京大学名誉教授の称号を得る(同年5月)。
2016年 - 22年ぶりに発表した小説『伯爵夫人』(『新潮』4月号)で第29回三島由紀夫賞を受賞[8]。
2017年 - 長男・重臣が死去(同年6月)。
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  1. 2017/07/08(土) 20:25:55|
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