古本屋通信

東京大学新聞 チャンネル第3回

古本屋通信   No 2659    2017年  07月07日  


   東京大学新聞  チャンネル  第 1966(昭和41)


 5月2日号

 ◎ 早大構内で集会  全都各大学から二千人が参加
 四月二十八日(木)、各派とも早稲田大学で集会を行った。二つに分かれての集会ではあったが、合せて二千人名が参加、早稲田は久しぶりに活況を呈していた。
 二十八日三時から早大本部前で都学連(三派連合系)、革マル、フロントの集会が行われ、「五月ゼネスト」「早大スト支援」「大浜総長辞任の欺瞞性を糾弾する」などが決議された。・・・・・(中略)・・・・・
 四時ごろ、すぐ隣りで集会を開いていた全学連より一足先にデモに出発、文部省に向かった。機動隊の激しい弾圧を受けながら、日比谷公園までの八キロの道をデモ行進した。この日は東大(九十名)、早大、名大、お茶大などから千二百名が参加した。なお東大の三井君ら五名が検挙された。
 一方、全学連も「ストライキ突入百日記念中央集会」を、二十八日、早大正門前で開いた。「早大闘争勝利・大学の自治と学生生活擁護・諸要求貫徹・沖縄小笠原返還要求・ベトナム戦争反対」を主要スローガンとするこの集会には、全都の学生七百名が参加し、東大からも、本郷・駒場あわせて二十名が加わった。集会では、早大職組代表・母親代表らの挨拶があり、全学連委員長代行梓沢君・同書記長亘理君・各大学代表が、それぞれ決意を表明したのち、学生の要求を二十項目にわたって述べた宣誓文を満場一致で採択した。このあと、早大正門を出発し馬場下を通り新宿職業安定所までデモを行って、流れ解散した。




  古本屋通信

 今回はこの記事一本だけで終える。上記の記事は東大新聞が早大闘争の集会のことを書いた変哲もない記事である。これは早大の学費値上げ反対闘争の一コマの報道である。私はこの早大闘争のことを少し書きたい。いまウィキペディアを見ると詳しい記述があるようだ。然し以下ではそれらを見ないで自分の記憶だけで書く。

世間の通説では、1960年代後半に全国の大学で大学「紛争」が燎原の火のように広がったのは、東大闘争と日大闘争が発火点だそうな。私の認識は違う。その2年前の早稲田の学費値上げ反対闘争こそ発火点だ。

東大闘争と日大闘争については語り尽くされている。私はこれらにどこか人為的な運動の臭いを嗅がざるを得ない。日大闘争にしても古田体制打倒が本当に学生大衆の要求だったのか疑問がある。

早稲田に政治党派は確実に存在していた。にも拘わらず運動は学生の自然成長的な要求から起った。したがって異例の運動形態をとることになる。

学費値上げ反対全学共闘会議(全共闘)が結成された。しかしそれは後に他大学で結成される全共闘とは著しく異なる全共闘であった。まさしく全ての学生自治会の共闘だった。自治会は個人に解体されていなかった。

その結果、学内の全ての政治党派、主要には革マル派と社青同解放派と民青同盟が共闘することになる。革マル派は文学と商学部、解放派は政経学部、民青は法学部と教育学部だった。理工学部と第二文文学部は定まらなかった。

つまり大衆運動が大衆的要求を尊重する以上、政治党派は共闘せざるを得なかった。ゲバは一切無し。小競り合いさえなかった。

しかし三派の蜜月は長くは続かなかった。革マル派が解放派駆逐の方針を打ち出した。そして共闘会議議長だった解放派の大口君を半殺しにした。とにかくセクト的な党派だった。このとき民青は解放派についたらしい。

やがて早稲田から解放派は完全に叩き出される。同じく国学院からも叩き出される。革マル派は強かった。この革マルの強さは1970年代初頭の川口大三郎君誤爆事件からの立ち直りで立証される。本当に強いと思う。
  1. 2017/07/07(金) 18:18:18|
  2. 未分類