古本屋通信

東京大学新聞チャンネル第2回

古本屋通信   No 2656    2017年  07月07日  


   東京大学新聞  チャンネル  第 1966(昭和41)


 4月18日号

◎ 強まる反動政策を分析  第一回全国学生ゼミ

 全学連・全寮連・大学生協連の三者主催による「大学自治と学生生活を守る弟一回全国学生ゼミナール」は、三月二十六日から三日間、明治・法政大学を中心にして行われ、大きな成果をおさめた。このゼミには全国百六十校から約千二百名(主催者発表)が参加、大学制度問題から女子学生問題まで幅広い討論が行われ、新学期からの各大学での運動に、様々な影響を与えている。
 大会は、・・・・・第一日の全体集会では日本科学者会議・在日朝鮮人留学生同盟・日本共産党などのあいさつの後、亘理純一実行委員長(全学連書記長・岩手大)からの基調報告、東大教授高柳信一氏の講演などが行われた。
 亘理純一実行委員長の基調報告は二時間半にわたる膨大なもので、・・・・・


 当時の全学連関係の集会としては大規模なものとは言えないが、ここに記事冒頭の小さな文字を手打ちしたのは、私自身がこの集会(明治ではなく法政だった)に参加したから、その思い出を確認したいがためである。三日間とも参加した。

 その前に書いておく。政治集会とは少し趣を異にしたこういう研究集会、ゼミナール形式の集会は民青系全学連の運動ではしばしば行われていた。1964年12月が全学連再建だが、その前後には全国的規模の文化集会が年に二度開催された。我々はそれを「三月集会」、「七月集会」と呼んでいた。またこれとは別に大学学部ごとの「全教ゼミナール」のような集会も持たれた。いずれも2,3千人規模の集まりだった。これらは政治課題中心の決起集会ではなく、いわば勉強する集まりだった。そして民青系はこれで勢力を伸ばしてきた。つまり他派学生運動は真似ができなかったのである。

 私自身は確か大阪で開催された「七月集会」についで二度目の参加だった。この東京の集会には香川大学3学部から30人が参加した。私自身は教育学生自治会の委員長になって最初の参加だった。といっても疲れ果てて居眠りばかりしていた。高柳氏の講演は眠気を誘った。亘理全学連書記長の基調報告は憶えている。アジは効いていた。二時間半とは驚きだが、内容はすぐれた分析だった。当時の全学連中央の力量を思わせる。それと亘理さんが岩手大学だったこと。たぶん教育学部だった。岩手の片田舎の教育こそ当時の民青の最強の地だった。

 この集会では川上徹全学連委員長もアジ演説をした。新保さんも演説をした。でも私は新保さんが全学連書記長を降りていたと、今はじめて知った。当時の全学連中央の活動家数名が鮮やかに思い出される。生き残ったのは田熊さん(東京経済大)だけだったろう。みんなシンヒヨで消えてしまった。

 アッ、思い出したので付け加えておく。香川から東京に向かう車中で法政大学の安全性が問題になった。中核派に襲われないかということだが、いや当然襲ってくるだろう、その場合は一気に逆襲して叩き潰すんだから血を流す覚悟をして行こうという話も出た。結果は法政は静まり返っていた。中核派も黒ヘルもひとりもいなかった。集会のなかで実行委員会から何の報告もなかった。これは今にして思うのだが、裏で取引ができていたのだろう。確かに法政の中核派は横国大と共に最強だった。しかし民青も強かった。とりわけ大学の理事会には共産党員が多かった。だから平和共存の取引が成立したのだろう。しかし気味が悪かった。まだゲバ棒を握る時代ではなかった。しかし襲撃を恐れては学生運動はできなかった。この集会が会場に法政と明治を選んだのも、中核派とブントの一元支配を許さないという民青の意思表明であったろう。つまり勢力が互角だったら物理的な喧嘩を避けるのだ。

 尚、この集会のあと香川大学生の半数は朝鮮大学校を訪問して交流した。何から何まで感動した。もちろん金日成崇拝はあったが、当時は毛沢東崇拝もあったし、社会主義を達成した国の指導者が尊敬されるのは当然だという空気はあった。それはまちがいではなかろう。ホーチミンもゲバラも英雄だった。我々は朝鮮の学生を腕を組んで「国際学連の歌」を歌った。そして「へいじょうは心のふるさと・・・」と歌った。日朝の良い関係の時代だった。



◎ 新日本文学会代12回大会報告

きりひらかれる展望  共通の課題で生産的対話を   針生一郎 (文芸評論家)

終わっていない「政治と文学」の問題  すぐれた武井昭夫の問題提起  追求された創作と批評のありかた  明らかにしてきた発展の条件  党的結合と同人誌的結合の止揚

 これにはビックリ仰天、アッと言った。まず針生一郎がミス・キャストではないか? 何故ここに針生が登場するのか。新日本文学会代11回大会は揉めに揉めて、共産党系が排除され、1965年8月に日本民主主義文学同盟が結成された。針生や武井は共産党系を排除した中心だった。それを東京大学新聞の編集者が知らなかったということはあるのか。三つの可能性を思った。本当に知らなかった。知っていたが敢てこれまでの編集の立場から新日文側の主張を掲載し、追って文学同盟側の主張も掲載する編集上のバランスを採用した。編集部がこの問題では新日文側を支持した。これはあり得るだろう。編集部がたとえ日本共産党員で占められていようと、党員が党の主張を支持しない場合はある。その場合でも編集権の問題もあって党は即党規違反の処分はできないだろう。

 この問題は一般には馴染みが薄いかも知れないが、新日本文学会や民主主義文学会で検索すれば、ウィキペディアなどに多くの記述があるだろう。私自身の立場は、組織の分裂に関する限り基本的に党を支持する。針生一郎を支持しない。ただし個別には武井や花田清輝の論稿に支持できるものも多い。



◎ 南ベトナム  反政府運動の背景

激しく豊かな民族感情  僧侶、学生が指導的立場   

坂本徳松

都市部にも解放戦線の影響  カイライ政権の基本的矛盾  大乗仏教と先祖崇拝の習慣  僧侶、学生と人民との密着

 見出しを見れば内容は見当がつくだろう。ハノイ、ハイフォンの北爆によってベトナム戦争が本格化する前後の記事であろう。それは措いて、坂本はそのご中国の毛沢東派として党を除名される。そういう人物もけっこう執筆している。これは東京大学新聞の間口の広さだろう。この号には加藤一郎も書いているし、別の号には林健太郎も書いていた。
  1. 2017/07/07(金) 02:19:49|
  2. 未分類