古本屋通信

江田も中国もご都合主義の極み

古本屋通信   No 2609    2017年  06月11日

  

    江田五月も中国もご都合主義の極みである

 まあ平和なことだが、ここまでご都合主義だと半畳を入れたくなる。江田五月はいま日中友好会館のトップの職にあるらしい。引退した参院議長の名誉職だが、私に言わせると辞退して当然な職だ。まあヌケヌケとやるもんだ。中国側も過去の経緯から、江田なんか中国に招くべきではなかろう。こんな事やってるから資本主義の復活だと言われるんだ。

 中国革命以来、1960年代の末まで、ということは日中国交回復の直前まで、日本は国をあげて中国を敵と見做していた。ありとあらゆる悪罵と誹謗中傷を重ねてきた。ちょうどいま朝鮮民主主義人民共和国を敵視しているのとソックリだった。敵視していなかったのは日本共産党と、日中友好協会と、社会党最左派と、自民党の日中友好議員連盟議員だけだった。他は全て激しいアカ攻撃だった。民社党と社会党右派(江田派)は寧ろ自民党より激しい反共派だった。中国派社会党の黒田寿男とは犬猿の仲だった(江田五月の頁に絶対に登場しない人物を紹介しよう。4歳年下の弟と、黒田、和田、矢山ら旧社会党の岡山選出の国会議員。つまり三郎も五月も彼らに嫌われていた) 。

 すっかり忘れたふりをしての今回の江田五月の訪中である。江田は父親の言行録を消しているだろう。然し著書には残っているだろう。向坂協会のソ連べったりを批判する、その十倍の憎悪を籠めて新中国を罵ってきたのは江田三郎その人であった。(実はこの部分に自信がなかった。江田流構造改革論がイタリア共産党をモデルにして作られたのは1960年代初頭である。その時代三郎が中国よりはまだソ連に親和を懐いていた記憶はあるが、1970年代にそれが逆転したと言われればそうかもしれない。コレは中国の米中接近も関係あると思う。とにかくずっと反中国ではなかったという指摘を受けたので、この部分は取り消す。但し自分の訂正前の稿を残して棒線を引く。ご指摘の全文を最後尾に赤で掲載させて頂く。別に公開しても構わないだろうとの当方の判断に拠る。ありがとうございました) 。江田五月が江田三郎に批判の目を向けた事はなかった。変節漢といえばそれまでだが、人間には節度は要るだろう。

 ついでだが、対ソ連と対中国で自主派を誇っていた社革派の好並隆司先生も文革後の中国と仲よしになってしまった。コレも無節操の好サンプルだった。筋を通す当たり前のことができないオポチュニスト(御都合主義者、日和見ひよりみ主義者)は死んでしまえ。



10日、北京へ、長城、夕食会、自転車
投稿日: 2017年6月10日   江田五月
ホストファミリー訪中団の関西グループと
5時過ぎ起床で出国準備をし、6時過ぎのものレースで浜松町から羽田空港へ。諸手続きを終えて7時半前に搭乗口前まで来て一息つき、8時ころに中国国際航空の機内に乗り込み、8時半にゲートを離れて9時前に離陸しました。3時間半の飛行と1時間の時差で、11時半に北京国際空港に着陸し、諸手続きを済ませて13時過ぎにバスに乗り込みました。私たちは1号車で20数名、そのほかに関空から来る各20数名の2グループがあり、全体で70名ほどの「日本ホストファミリー訪中団」の団体行動です。

羽田空港で、 北京空港で
バスの中でサンドイッチの昼食を食べながら1時間強、高速道を走って、14時半前に万里の長城の一角である居庸関長城に着きました。昨日は気温が37度だったそうですが、今日はそこまで熱くなく、おおむね晴れで空気もきれいで、快適な旅が始まりました。ここは壮大な長城の一角で、急傾斜の階段を400段以上登り、まさに絶景を眺めて、何とか足をなだめながら下りました。途中に毛沢東の揮毫した「不到長城非好漢」という碑がたっていました。日本なら、「日光を見ずして結構と言うなかれ」でしょうか。

居庸関長城で、
毛沢東揮毫の碑前で王占起さんと
長城の頂上へ
15時半にバスに戻り、北京市内に戻りました。ほぼ半年ぶりの北京ですが、今日は交通渋滞もなく、さらに際立った変化は自転車が急増していることです。黄や青の同型の自転車があちこちに数多く見られ、聞いてみると、スマホで手続きをすれば格安に乗り降り自由に利用できるのだそうです。細かな問題はいろいろありそうですが、庶民の暮らしに密着した新しい試みだと思いました。17時にレストランに着き、3台のバスがすべて集合して、老壮青が総勢70余名勢揃いで北京家庭料理による大夕食会となりました。終了後、バスで移動して、19時半ころにホテルにチェックインしました。窓からの夜景が、実にきれいでした。


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 ご指摘の全文

江田三郎は70年代後半には訪中していましたね。70年代前半から既に中国よりソ連を敵視していたようです、正確にはいつから親中反ソになったのかわかりません。志賀義雄離党の際、社会党の部屋を借りたという話もありますね。これもよくわからない。社会党は選挙で志賀を推薦したりすれば面白かったのに。

古本屋通信 志賀は離党ではなく除名ですが、志賀からすると離党です。それと「日本のこえ」立ち上げの記者会見。これは国会内の社会党の部屋で行われたのは確かです。ただ私のイメージですが、江田は関係ないように思います。ここら辺が社会党の派閥が流動的で分らないところですが、志賀に近しい社会党の派閥はなかったのではないか、それでいて原水国民会議では社会党と一緒でした。原水自体も「いかなる国の・・反対」ですから、よく分りませんね。
  1. 2017/06/11(日) 07:25:36|
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