古本屋通信

民青におけるシンヒヨの位置付け

古本屋通信   No 2607    2017年  06月10日

  

  民青同盟史における新日和見主義事件(1972年)の位置付け

 いま民青同盟の中央委員会が開催されているというので、キンピーサイトにエントリーが立てられている。全体の流れはそちらを読んでほしいが、KM生さんがコメント欄で次のように述べておられるのに食指を動かされて、私も書く気になった。毎度の摘み食い引用をお許し頂くようブサヨさんにお願いします。

6. KM生
2017年06月10日 07:46
いつも思うんだけど、どうして「半世紀近くかけて長期低落の末に最盛期の100分の1以下にまで転落した組織」が、「青年に希望を与えられる」のか?如何に少子高齢化社会とはいえ、現在の青年人口はせいぜい団塊の世代の半分くらい。ということは、青年人口当りの民青比率は、最盛期の50分の1以下(^^)。こんな惨状で、どうして「青年に希望を与えられる」のか?「惨状の青年」からさえ、見向きもされないか、あるいは(たとえ加入しても)早々と見離されて脱退されるかしかないのが、現状なのだ!一般企業(団体)なら、とうの昔に解散だよ!

何故こんな惨状を招いた総括をしないのか?

何故「惨状を招いた党の指導責任」を追及しないのか?

何故「歴代民青指導患部の責任」を追及しないのか?




  古本屋通信

 上記の①、②、③は便宜的に私が打たせて貰った。先ずそれに対する私の回答だ。

① だが、惨状は(直接には)明らかに1972年の新日和見事件が原因だ。一にも二にもそうだ。それ以外ではない。そういう認識は党内外の常識になっている。だがそういう総括は党内では(公式にも非公式にも)一度もされていない。なぜなら出来る訳がないからだ。コレを認めたら以後の党史の全否定に通じる。

② は正式な責任者は宮本顕治である。但し宮本を押さえてシンヒヨ狩りを実際に推進したのは上田兄弟である。ブルジョア議会至上主義への転落である。代表的著作は上田の『先進国革命の理論』と不破の『人民的議会主義』である。

③ だが、当時の民青委員長は吉村金之助だ。彼はシンヒヨには行かなかったが、とうじ論陣を張った訳ではない。彼は辛うじて持ちこたえて後に群馬県委員長になった。事実上の左遷・潰しである。以後、民青中央幹部は全て党中央の忠実な子供だ。そういう意味では責任は無い。大幡も坂井希も責任は無い。学生戦線の全学連三役にも責任は無い。のちに松竹伸幸のようなスパイが出たのは荒れ果てた理論戦線がもたらした副産物であった。こいつは直接的な権力とのつながりがなくとも間違いなくスパイ挑発者である。零細出版社の社員編集者がかくの如く東西を暗躍出来る経済的条件は皆無である。怪しい金は必ず出ているだろう。


 以上、私はKM生さんのコメントに対する結論的な回答を書いたが、私が今回書きたいのは以下である。つまり民青同盟史における(ということは日本共産党史におけると言い替えてもよいが)、新日和見主義事件(以下ではシンヒヨ)の位置付けである。今までシンヒヨについては多く語られてきた。語り過ぎるくらい語られてきた。でも、位置付けは語られてきたとは言えない。オリジナル文献資料は油井が挙げている。但し私は実感だけで書く。

 もしシンヒヨがなかったら(この設定自体がおかしいのだが)、以後の民青と青年学生運動の圧倒的惨状は果してなかったのであろうか、否そもそもシンヒヨはなぜ発生し、且つなぜかくもアッサリと弾圧されて殆んど跡かたもなく霧散してしまったのかということである。


 まずシンヒヨの大きさを言う。事件そのものに連座して査問に至ったのは、中央委員の三分の一を含めて200人前後であろう。然しシンヒヨを契機に組織から離れたり、または未結集に至った数は民青20万の約半数だ。私自身は2年前に転籍の不首尾によって組織を離れていたが、もしそれがなかったら2年後離党していただろう。

 民青20万の約半数の10万が事実上組織から落ちた。これはかつてなかった事だ。学生戦線を振り返る。1950年代のトロツキスト発生の時代には、民青は今のかたちでは存在しなかった。民青は党61年綱領と共に組織の発展があった。構改派分派は一時全学連反支流派の全自連多数派を占めたが、民青とは殆んど関係なかった、60年代半ばの志賀分派「日本のこえ」に同調して民青を離れたのは京大、阪大など一部の同盟員だけだった。その数は百名にも満たなかっただろう。それらに較べてシンヒヨは最大級の遁走であった。

 だが事件以前に、シンヒヨは1960年代全般を通じて(61年綱領の実践過程で)明らかにそして確実に醸成されていた。私が同盟と党に加わった1965年以後は特にそうである。それは党と同盟内において、大衆闘争を優先するかそれとも組織拡大を優先するかという問題として常に顕われていた。それは早くも志賀派との論争というかたちでも存在していた。私たち学生戦線前線とりわけ学生自治会活動家は大衆闘争優先だった。一方党専従は組織拡大をイヤになるほど強調した。学生はともすれば一揆主義に走るから組織建設も大切だった。だが当時の党専従には大衆運動を指導する力はなかったので拡大一辺倒に見えた。私は党高松東讃地区委員長・土倉敬の指導をを嫌った。学生総細胞はあからさまに土倉を敬遠し、「指導は千年さん(石田千年県委員会副委員長)をお願いします」と申し入れた。土倉も私たちを嫌ってあからさまに学生の小ブル急進主義を非難した。そういう文脈の延長としてシンヒヨはあっただろう。

 1972年当時党がシンヒヨを論難した論点は全て破産している。つまり党のシンヒヨ批判自体が完全に破産している。年齢制限然り、「学ぶ同盟」重視然り。「先輩の援助」批判なんてのはお笑いである。25歳を超えた同盟員(特例でも30歳までしか同盟に留まれない)は若い同盟員の邪魔になるからサッサと消えろという論だった。今日の民青には25歳以下の青年は何%いるのだろうか。これは早くも数年後の1975年ごろには事実上破産して撤回している。その際は見事にダンマリを決め込んでいた。岡山で云うと須増伸子さんの民青県委員長時代ではなかったか。

 で、ここでもしシンヒヨが起こらなく、また起きても党がシンヒヨを潰さなかったら、民青は今日のような惨状にはならず、20万同盟を維持し、更に数十万の同盟建設に成功していただろうか。この問題について私は思う。民青は惨状には至っていないが、今日ある党の姿はずい分違っていたと思う。議会勢力は殆んど1960年代のままで増加しなかっただろう。それと同根の別の顕われだが、党組織(県委員会と地区委員会の専従体制)は今日のようには確立されていなかっただろう。つまり結果だけ言えば党(親)は党(親)が飯を食うために、民青同盟(息子と娘)を切り捨てたのである。一度殺した子供がそう簡単に生き返る訳がない。それを必死になって蘇生させようとしているが今の党である。だがシンヒヨの総括無くして絶対に出来ない相談である。

 それと、社会の変化とりわけ高度経済成長期における青年の意識の変化がある。私もだが、「戦わないから潰れかかっている」と非難する。コレは間違いではないが戦う条件が社会全般に無くなった。一例だが、かつて4ケタの同盟員を誇った立命館大学。ここでは大学執行部である党員たちが、資本主義大学の例に漏れず学生運動の抑圧者となっている。立命館大学学生が資本と戦うには先ず共産党理事(大学当局)と戦わねばならなくなった。戦える訳がなかった。もはや4ケタの同盟員などありえなかった。

 一気に私の結論だが、実は私はシンヒヨに未練がないのだ。あの事件さえ起こっていなかったら、などとツユ程も思わない。つまり事件直後に早くもシンヒヨを相対化出来た。これは川上徹さんら、事件に連座した圧倒的多数もそうだったろう。油井だけが悶々としていた。なぜ相対化できたかを書けば長くなるが、その時点で党の物神崇拝が無かったからだ。また私に関しては無かったからこのブログ記事が書ける。

 当時の党中央が、大衆運動において先進的な部分に恐怖を感じて切り捨てたとは言えるだろう。特に不破がそうだった。不破はもともと大衆運動と無縁な理論官僚だった。労働貴族の変種である。然しその不破が50年遅れのトロツキストになったとは今でも信じられない。スターリン批判が専売特許の不破の口からトロ批判を聞いたことはない。そう言えば最近の志位ーー小池執行部に革共同批判はないナ。

 夜間だが、仕事の電話が入ったので中止する。然し続きは書けないかも知れない。
  1. 2017/06/10(土) 17:24:11|
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