古本屋通信

キンピーサイト・コメントへのコメント

古本屋通信   No 2601    2017年  06月06日


    キンピーサイト・コメントへのコメント

 久しぶりにゴミスケの秦野真弓様がキンピーサイトで私の名前を出して下さった。 KM生様も的確なコメントを出されている。私はそれらを引いて、ここに若干のコメントを加えて新しいエントリーを立てることにした。毎度勝手な摘み食い引用で申し訳ありません。ブサヨ管理人様のご了解を乞う。


7. ゴミスケの秦野真弓
2017年06月06日 02:07
古本屋通信様って優れた方ですね。古本屋通信様ぐらい優秀な方だと、それこそ民青代表として、日本共産党の費用で、ドイツフランスの、≪世界共産主義会議≫とかに、出席された可能性が、濃厚です
私は、今回、ドイツフランスに渡航し、大成功しました
もちろん、パリは、治安よくありません
予約した美容室の、カット後
トモコさんに
トモコさん/≪あたし、地下鉄の、駅まで連れってあげるわ≫
私/≪ありがとうございます。私、ココが、どこかわからないのですトモコさんの、ご出身の、木津川駅とか、宇治駅とかは、乗りなれていますが≫
トモコさん≪ちょっと、お財布をポケットに入れるのやめて。あたし、とっちゃうわよ。あら、お財布の中に、地下鉄乗り放題の、チケットあるじゃん≫旨、とても楽しかったです。



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あとでKM生様が言われているように、世界の共産党・労働者党会議が曲りなりにも統一して開催されたのは1960年のモスクワ会議が最後でした。このときには玉虫色の 「81カ国モスクワ声明」 を出しています。そのまえが1957年の17カ国モスクワ宣言です。私は不勉強なため 「ドイツフランスの世界共産主義会議」 というのは知らないのですが、戦後コミュンフォルムが(コミンテルンの後継組織として)結成されましたから、情報交換の会議は開催されていたと思います。でもそれは何処だったでしょうか。東ドイツはあったでしょうが、フランスはどうでしょうか?



8. KM生@しんのまゆみ様
2017年06月06日 03:59
>古本屋通信様って優れた方ですね。古本屋通信様ぐらい優秀な方だと、それこそ民青代表として、日本共産党の費用で、ドイツフランスの、≪世界共産主義会議≫とかに、出席された可能性が、濃厚です

出鱈目言うのおよしなさい!古本屋通信氏は1945年生れ、1964年大学入学。第一「世界共産党労働者党会議」は、1960年を最後に(中ソ論争の勃発と共に)以後開催されていませんよ!「独仏で開催された」というのなら、開催年を示しなさい!


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私はKM生様おっしゃる通り1945年生れ、1964年香川大学教育学部入学、1968年岡山大学法文学部哲学科学士入学、1970年F書店入社です。この機会に正確に履歴を公表しておきます「下記に詳細」。
 それから、やはり独仏では開催されていないと思います。あとでユーゴを除名した会議を調べてみますが(下記参照)




9. KM生@三世様
2017年06月06日 04:10
1)1970年民青最盛期20万人。2000年2世世代23000人。以後同盟員数は公表されないが、2017年3世世代に至っては、実数1500人程度でせう。最早党員3世しか供給源なし。学生自治会・労組青年部活動は潰滅。しかも党は党で、老人クラブからの入党者しかなし。
2)むろんこんな高齢入党者は「どうせ残り少ない人生。(党員拡大と五月蠅く言われて)義理で入党申込書いただけ」だから、「如何に活動手抜きして、若いカモに押付けるか」しか考えない。当然青年党員民青は離党脱退する。
党民青の惨状=底なしのデフレスパイラルが目に浮ぶようです(^^)。


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私には第2世代、第3世代という感覚は薄かったのですが、振り返ってみて第2世代は岡山にも結構いますね。須増(石川)伸子さんは第2世代です。須増家は第3世代の唯ちゃんまでです。大抵は第2世代までですね。竹永さんも、田中のぞみちゃんもそうです。京美さんの夫君の垣内さんもそうです。でもコレ中核派も同じらしい。洞口さんも中核派第2世代らしい。



10. KM生@しんのまゆみ様(追伸)
2017年06月06日 04:15
因みに1965年文革前の日中両国共産党蜜月時代に、「日中友好青年の船」で、多数の日共党員学生が訪中した例はありますた。ある意味、日共党員学生が大挙旧社会主義国を訪れた最後の機会(70-80年代にも世界青年学生祭典に日共民青が参加した例はあったが)だったんでせうな。


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コレは思い出がありますので、このさい公表しておきます。
1965年文革直前に最後の日中友好青年交流行事がありました。香川県の青年を代表してT村さんが中国に行きました。このT村さんこそ香川大学の学生運動を率いてきたトップ活動家でした。私の民青と党への推薦人も彼でした。中国では毛沢東も歓迎の行事に顔を出したそうです。でもその時の雰囲気は微妙だった。写真撮影はなかったそうです。普通なら考えられないことです。近いうちに日中両党の決裂は間違いなく起こる、その予感は確実にあったそうです。コソコソと帰った見たいです。あとは袋だたきでしたね。
 T村さんは突出した活動家でしたから、民青の専従になり、民青高松地区委員長になり、民青香川県委員長になりました。1971年に何回か会っていますが、何時も文なしでした。1972年の事件のとき、3人の民青の専従は全員首を切られています。その後も党籍は保持していましたから、事情は公言しませんでした。やがて彼は東京に出ます。細君が東京で小学校の教員に採用され、自分も党と関係のない職を得ます。それはよいのですが、どうしたことか離婚します。細君は教育学部英語専攻の私の2級先輩でした。この離婚と同時に、我々夫婦との付き合いは途絶えます。以後の消息は知れませんが、現在党籍はないと思います。以上は私的なメモですが、当時T村さんといったら香川県の左翼筋では、誰も知らない人はいない超有名人でした。




11. ゴミスケの秦野真弓
2017年06月06日 04:32
KM生様!まちがった投稿を、してしまい、深くお詫び申し上げます。それにしても、このような,お時間に、投稿させていただく理由は、ドイツフランスからの時差に、なかなか慣れないためでございます→それって言い訳に、なりませんよね
今は、KM生様や、古本屋通信様の、ご健勝、ひたすら願っております。おっと、!只今、夜があけました。夜明け程、



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以後も宜しくお願い致します。
1945年岡山市生れ
1964年香川大学教育学部入学
1965年同学部学生自治会委員長
1966年同大学民青総班キャップ
1966年民青同盟高松地区委員
1967年同大学党学生総細胞委員
1968年岡山大学哲学科学士入学
1970年株式会社F書店入社
1970年党岡山地区委員会に拠る
転籍の握り潰しにより党籍を失う



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 世界史用語解説 授業と学習のヒント appendix list

  コミンフォルムのユーゴスラヴィア除名

 1948年、独自の社会主義路線をとるユーゴスラヴィアがコミンフォルム(共産党情報局)から除名された。

 ユーゴスラヴィア連邦共和国は1947年に結成されたコミンフォルムの主要メンバーとなったが、次第にティトーの独自路線がソ連共産党と対立するようになり、はやくも翌1948年には民族主義的偏向があるとしてその年のコミンフォルム第2回大会で除名された。さらに1949年のコミンフォルム大会はユーゴスラヴィアを「人殺しとスパイに支配されるユーゴスラヴィア共産党」と非難した。ソ連共産党スターリンの絶対的権威のもと、「ティトー主義者」は他の共産党でも摘発され、追放された。

 コミンフォルム除名の理由
 ソ連共産党とユーゴスラヴィア共産党の対立の契機は次のように説明されている。
(引用)ユーゴのチトーとブルガリアのディミトロフがソ連のスターリンに知らせず、勝手にドナウ諸国関税同盟構想を推進したことだとされている。48年2月、両国の代表がモスクワに呼びつけられ、ドナウ諸国関税同盟ではなく、ユーゴとブルガリアによる南スラヴ連邦を即座に形成するよう指示された。1913年の第2次バルカン戦争後、ギリシア・ブルガリア・セルビア(ユーゴ)の三国に分割されていたマケドニア地方の統合問題の解決策として、ユーゴは44年11月からブルガリアに呼びかけて南スラヴ連邦を形成する試みを行っていた。しかし、この時点で即座に連邦を作るのは困難だとの判断から、ソ連の提案を拒否した。<柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』1996 岩波新書 p.114>
 このようにソ連とユーゴの提案は決定的に対立していたわけではなく、結局、ティトーがスターリンの面子を汚したということであろう。スターリンとしては社会主義国家建設において本家ソ連の指示を受けずに独自路線をとろうとするユーゴスラヴィアを許せなかった。

 ユーゴスラヴィア除名後のソ連・東欧圏
 ユーゴスラヴィアのコミンフォルム除名によって、ソ連・東欧圏では「人民民主主義」の概念が再検討され、各国共産党による独自の社会主義への道といった路線は退けられ、ソ連による「与えられた社会主義」の建設が始まった。こうして「ソ連・東欧圏」が確立し、東欧諸国では反ソ的、反スターリン的な指導者は「ティトー主義者」として粛清されていった。一方のユーゴスラヴィアでは、ユーゴ共産党内部の厳しい引き締めが行われ、党員にはティトーを選ぶかスターリンを選ぶかの二者択一が突きつけられ、親ソ派(コミンフォルミストと言われた)は逮捕され、アドリア海の「ゴリ・オトク(裸の島)に送られた。<柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』1996 岩波新書 p.116>
 ソ連型社会主義からの脱却を目指すユーゴスラヴィアが選んだのは、自主管理社会主義という独自路線であった。それもティトーの強力な指導力で路線化されたものであった。

 ソ連とユーゴスラヴィアの和解
 スターリンの死(53年)後、ソ連との関係改善が図られ、55年にはフルシチョフらがベオグラードを訪問、ティトーと会談し「ベオグラード宣言」を発表してティトー主義批判を撤回した。56年にはフルシチョフがスターリン批判を展開し、ユーゴスラヴィアとの関係はさらに改善された。しかし一方でそれに反発した中国とアルバニアは、ソ連とユーゴスラヴィアを激しく非難するようになる。

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引用 ティトーとスターリンとの不和は、すでに終戦の年から起こり始めていた。不和の原因はトリエステ問題をめぐってであり、ティトーは、ソ連が適切な支持を与えてくれないことに不満をいだいた。しかもティトーが、ユーゴ共産党の独立性を守り通そうとするにつれて、両者の不和は拡大していった。ついに一九四八年春、ソ連側が軍事・技術顧問を本国に引き揚げ、ティトーとその一党を、理論的誤謬とソ連への敵対行為という理由でコミンフォルムから除名するにおよんで、不和は公然たる衝突となった。そしてこれに続いて、ソ連とユーゴとのいっさいの経済的・軍事的紐帯が切断された。
今津晃 「概説現代史」  P.334この本を入手※ 「クリック20世紀」では、引用部分


  1. 2017/06/06(火) 10:58:17|
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