古本屋通信

「核問題を・・」は忘れているが・・

古本屋通信   No 2590    2017年  05月30日


  ちょうど1カ月前の 「核問題を・・」 はすっかり忘れているが・・

 ちょっと旧い記事なんだけど、続きを書いてくれないかという御要望があった。パソコンが壊れる直前に書き出したのだが、Enterキーが効かなくなると同時に全てはプッツンしてしまった。いま読み返してみても、自分の意図がなんだったのか記憶にない。でもいま見ると拍手がかなり付いている。

 で、当初の軽い書き出しを見ると、たぶんこうだったのではないか。原爆投下は第2次世界大戦終結に必ずしも必要なかったけれど、投下したアメリカを糾弾することが戦後の平和運動の出発ではなかった、従って核に対する嫌悪は当然としても、核廃絶イコール平和運動という絶対平和主義は歴史の経過からして、少し違うんじゃあないか。そういう考えがあったと思います。その地平のうえに1960年代の原水禁運動の対立と論争があったでしょう。そういう経過を、なかったものにして、今の党の路線がある、それは私が繰り返し批判してきたことです。

 でも私に記事の続きを書いてほしいと言われた方の問題意識は、それとはちょっと違っていて、核≒原子力問題ではないかと思います。現実の原発再稼働の問題が絡んできますが、そもそも原子力そのものは全面否定すべきではない、原子力の平和利用は当然あるとの見解があります。そもそも党は戦後そういう見解だった。過去の文献はあります。それが最近になって原発事故が起こって急に方針を変えたという批判があります。

 私は文献をトコトン検証している訳ではありませんが、いちおう党の現在の方針を認める立場です。党は自然科学の到達点を尊重しなければなりませんが、同時に現実に激動する社会情勢の中で政治活動をしています。遠い将来のことは別にして、当面はすべての原発再稼働に反対する、これが正しい運動方針だと思います。つまり原子力の平和利用を政治方針に織り込むような情勢ではないと云うことでしょう。

 ただし理論としての核(≒原子力) にたいする態度は厳密でなければならないでしょう。いつも悪い例で申し訳ないけれど、崎本敏子のように軽口 (「共産党は戦後一貫して原発に反対してきました」 の如くのデタラメ ) を叩くことは絶対に慎まなければなりません。私自身も不勉強ですが、戦後の優れた文献はたくさんあります。京大と名古屋大が双壁でしょう。私は武谷三男ですね (私は武谷を学生時代に読んでいますが、これは物理学(量子力学)としてではなく認識論の三段階論としてです。革マル派の黒田を批判するうえで彼の著作集は必読文献でした)。それから坂田昌一も。私なんか理系の知識が皆無なので、本当に分っているのか自信はないのですが ・・・。それにしても理系馬鹿というのはいますね。倉敷の小山さんは京大の理論物理学出身でしょう。

 かなりピント外れな稿になりました。何時か過去の(原子力関係の)党文献も示したいと思いますが、いまそれは緊急を要しないと思います。




  過去記事 再録

  
古本屋通信   No 2547    2017年  04月30日


    核問題を小学校から復習してみようか。

 歴史の復習なんだけど、細かい歴史的事実には余り頓着しないでアバウトな話にします。
 1945年第二次世界大戦の終わりの時期、広島と長崎に原爆が投下されました。戦争終結には原爆投下は必要なかったという意見もありますが、これが日本帝国主義の無条件降伏のダメ押しになったことは事実でしょう。これが今日に至るも日本が唯一の被爆国である根拠です。もう二度と戦争はイヤダだ、原爆はコリゴリだとの声の原体験です。然し、これは原爆を投下したアメリカを糾弾する声に結びつきませんでした。


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   武谷三男  ウィキペディア  (赤字変換は古本屋)


主な業績
三段階論及び技術論の提唱、がまん量(武谷説)の提唱、ブラジルにおける理論物理学への支援、

武谷 三男(たけたにみつお、1911年10月2日 - 2000年4月22日)は日本の理論物理学者。理学博士。三段階論、技術論で知られる。

経歴[編集]

福岡県生まれ。京都帝国大学理学部を卒業後、湯川秀樹、坂田昌一の共同研究者として、原子核・素粒子論の研究を進めた。その一方、中井正一、久野収らと共に、反ファシズムを標榜する雑誌『世界文化』『土曜日』に参加するなどしたため、2度にわたって検挙された。戦時下には理化学研究所を中心とする原子爆弾の開発(ニ号研究)にも関わっていた。1943年にロシア人医師ピニロピ(バルチック艦隊艦長の孫。後に武谷病院を開設)と結婚。

終戦後は、鶴見俊輔らと『思想の科学』を創刊。思想の科学研究会メンバーとして、科学史、技術論などの分野で論文を多く発表した。原子力問題でも積極的に発言し、アメリカの水爆実験を批判し、その一方で社会主義国による核保有を肯定した。広島や長崎への原爆投下については「反ファッショ」の「人道的行為」としてこれを礼賛した。安全性に関する理論は公害反対運動などにも大きな影響を与えた。1953年から1969年まで立教大学教授を務めた。

ピニロピとの間に生まれた息子の武谷光はジャズピアニストから作曲家を経て、現在は医事経済評論家。講談師の神田香織は義理の娘。

1972年原子力安全問題研究会を立ち上げた。 1976年原子力資料情報局が発足し代表になる。

業績[編集]

武谷理論[編集]

武谷理論とは武谷三男によって形成され、提起された科学論・科学方法論を言う[1]。主として三段階論と技術論からなる。

三段階論[編集]

三段階論とは、量子力学の認識論的問題、すなわち量子力学の測定問題及び解釈問題を解決する実用的な理論形成手法として提唱された方法論である。唯物弁証論的な実体論的方法の明確化が革新的であった。
1 現象論的段階 量子力学の範疇に入る現象で測定にかかるものをそのまま記述する段階 2 実体論的段階 上記現象の方程式を作る前に、現象論的段階に出てこない実体(模型[2]、粒子など)を知る(場合によっては新たに導入する)段階 3 本質論的段階 現象論的段階で記述される現象を、実体論的段階で導入した実体も含めて、方程式など主として数学的手法で記述する段階
技術論[編集]

「技術とは客観的自然法則の意識的適用である」と捉える新しい技術論を開いた。

原子力平和利用の三原則の草案作成[編集]

原子力平和利用の三原則として「自主・公開・民主」の草案にあたるものを提唱した。原子力基本法に書いてあるものの、公開しないので批判していた。

放射線被曝におけるがまん量としての許容量の考え方(武谷説)[編集]

1954年3月1日に、ビキニ環礁での米国による第一回目の水爆実験(キャッスル作戦)に巻き込まれる形で日本の第五福竜丸が被曝したが、これを契機として原水爆実験を原因とする死の灰(放射性降下物)の影響というものが世界的に大きな問題として浮かび上がることとなった[3]。

被爆国である日本においては放射線被曝の人体許容量に国民の関心が集まった[4]。それに答える形で、原水爆の死の灰による放射線は米国で用いられている許容線量[5]よりも低い線量なので安全であるという主張が、実験実施国である米国側から[6]も、またそれに追従する日本の科学者からも言われた[7]。

急性の放射線障害といった確定的影響(deterministic effects)であれば、ある程度大きな(閾線量を超える)線量被曝を受けなければその害はあらわれない。ところが、ガンの発生及び後の世代に現れる遺伝的影響といった現代で言うところの確率的影響(stochastic effects)については、当時(1950年代中頃)においても、閾値が存在せずかつ障害発生の確率がそれまでに受けた被曝線量の総和に比例している(すなわち、放射線被曝は微量でも有害)と考える説[8]が世界の専門学者らによって大体認められてきていた[9]。

米国側などが主張した無害な量を意味した『許容量』の科学的根拠が失われていることを見抜いていた立教大学教授であった武谷は、放射線防護のための新しい考え方として、1957年に岩波新書『原水爆実験』において、
『許容量』とは安全を保証する自然科学的な概念ではなく、放射線利用の利益・便益とそれに伴う被曝の有害さ・リスクを比較して決まる社会的な概念であって、”がまん量”とでも呼ぶべきものである[10]
という主旨の説を提唱した(武谷説)[11]。

その後、武谷説は世界的に認められ[12]、ICRPの国際勧告においても放射線防護体系という形で反映されている。

「被曝#放射線防護策の選定と実施」も参照

著作[編集]
博士論文 『量子力学の形成と論理(理学博士)』 名古屋大学、1949年。
主著 『弁証法の諸問題』 理論社・勁草書房、1954年。
『続弁証法の諸問題』 理論社・勁草書房、1955年。
『原水爆実験』 岩波書店〈岩波新書〉、1957年。
『安全性の考え方』 岩波書店〈岩波新書〉、1967年。
『現代の理論的諸問題』 岩波書店、1968年。
『科学入門 科学的なものの考え方』、1970年。
『1原子模型の形成』 勁草書房〈量子力学の形成と論理〉、1972年。
『危ない科学技術』 青春出版社、2000年。
著作集 『武谷三男 著作集(全六巻)』 勁草書房。 『弁証法の諸問題』1、1968年6月。 『原子力と科学者』2、1968年8月。 『戦争と科学』3、1968年11月。 『科学と技術』4、1969年4月。 『自然科学と社会科学』5、1970年2月。 『文化論』6、1969年6月。 『武谷三男 現代論集(全七巻)』 勁草書房。
『原子力』1、1974年1月。 『核時代』2、1974年1月。 『技術と科学技術政策』3、1976年1月。 『思想・科学・哲学』4、1977年1月。 『安全性と公害』5、1976年1月。 『市民と政治』6、1975年1月。 『芸術と教育』7、1977年1月。 共著 湯川 秀樹, 坂田 昌一 『素粒子の探求』 勁草書房〈科学論・技術論双書〉、1965年。
湯川 秀樹, 坂田 昌一 『現代学問論』 勁草書房、1970年。
長崎 正幸 『2量子力学への道』 勁草書房〈量子力学の形成と論理〉、1991年。
長崎 正幸 『3量子力学の成立とその論理』 勁草書房〈量子力学の形成と論理〉、1992年。
編著 『死の灰』 岩波書店〈岩波新書〉、1954年。
『自然科学概論(第一巻)—科学技術と日本社会—』 勁草書房、1957年、改訂版(1962)。
『自然科学概論(第二巻)—現代科学と科学論—』 勁草書房、1960年。
『自然科学概論(第三巻) —科学者・技術者の組織論—』 勁草書房、1963年。
『宇宙線研究』 岩波書店、1970年。
『原子力発電』 岩波書店〈岩波新書〉、1976年。
訳書 クラーク・グッドマン 『原子炉入門―立教大学における講義にもとづく』 豊田 利幸, 小川 岩雄 (共訳)、岩波書店、1956年。

脚注[編集]
1.^ 自然科学概論2(1960) p.171
2.^ 良く知られているように、量子力学の問題はその現象のハミルトニアンがわからなければ定式化できない。しかしながら、そのハミルトニアンは大抵、古典力学的模型を一旦考え、それを量子力学的な対応をつけて作成することとなる。したがって、古典力学的模型が見当たらない現象については定式化できないか、または新しい模型を提案しなくてはならない。
3.^ 原水爆実験 p.15
4.^ 原水爆実験 p.17 特に、カツオの放射能汚染を受けて『人間の体に入る放射能はどの程度まで安全か』という内部被曝量に注目が集まった。
5.^ 米国では許容線量として職業人に一週間に300ミリレム、一般人はその十分の一の30ミリレムを採用していた。1 Svは100 rem、300ミリレム(mrem)は3mSvに換算される。
6.^ 米原子力委員会は同年11月に日本を訪れ、日米放射能会議の開催及び日米共同宣言を発表するなどした。
7.^ 原子力発電 p.69
8.^ 武谷らは『比例説』と呼んだ。現代での名称は、LNT仮説(閾線量無しの比例仮説)である。
9.^ 原子力発電 pp.69-70、原水爆実験 p.28
10.^ 原子力発電 p.71 の記述をやや変更及び強調を加えた。
11.^ 参考
放射線の許容量について、日本学術会議のシンポジウムの席上における、武谷の発言は以下である。 「放射線というものは、どんなに微量であっても、人体に悪い影響をあたえる。しかし一方では、これを使うことによって有利なこともあり、また使わざるを得ないということもある。その例としてレントゲン検査を考えれば、それによって何らかの影響はあるかも知れないが、同時に結核を早く発見することもできるというプラスもある。そこで、有害さとひきかえに有利さを得るバランスを考えて、〝どこまで有害さをがまんするかの量〟が、許容量というものである。つまり許容量とは、利益と不利益とのバランスをはかる社会的な概念なのである。」(岩波新書 『安全性の考え方』 p.123)
12.^ 原子力発電 p.71
  1. 2017/05/30(火) 13:33:35|
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