古本屋通信

『女人随筆』(創刊号~第40号)

古本屋通信   No 2581    2017年  05月27日


     『女人随筆』 (創刊号~第40号)

 私は「通信 No 2573 詩誌 『日本主体派』」で 古紙業者さんから買った古雑誌の中に『女人随筆』(創刊号~第40号)あったことを書き、それは 「昭和43~55年にかけてのものである。創刊号から纏まって出るのはめずらしい。然し個人的には興味は薄い」と書いた。いずれ郷土雑誌として依頼出品する積りで、店の倉庫に納めていた。つまり個人的には何の魅力もないから早々に離したいと思っていた。

 それで今日、同業のY氏に会う機会があったので、この話を持出してみた。

 そのまえに私の予備検索の結果を書いておこう。岡山ローカルの小雑誌ゆえに、「日本の古本屋」と「アマゾン古本」のサイトでは殆んどヒットしなかった。これは本が存在しないからではなく、売れないから出品していないのだろう。で、肝心の県内図書館だが、コレは県内横断検索で一発で出た。不思議なことに、岡山県立図書館と岡山市立図書館に殆んどない。倉敷市立図書館がいちばん多い。その他では赤磐市立図書館などにある。そこで今度は在庫のある図書館のバックナンバーを調べた。今は第百号を超えている。ところが私が今回入手した創刊号~第40号は何所にもない。これにはとても驚いた。県立図書館と岡山市立にない点も含めて、資料価値がないから図書館が蒐集していないのだろうかもと思った。

 Y氏に戻る。彼はかつて高値で目録で売った経験があると言った。バラ売りである。数冊だけだったそうだ。注文主と売価は此処では書けないが、一冊ウン千円である。これにはびっくりした。私は精々一冊100~200円だと思っていた。

 次はオフレコである。Y氏の発言ではない。天の声である。「ハッキリ言って、そこらのオバサンが書いているゴミだろう。なんで売れるんか分らん。分らんがコッチは商売だから売れればよい。まあ物好きもいるんだろう」。

 この天の声に対する私の見解だが同感である。私は古本屋開店以来 『女人随筆』 を折にふれて見てきた。マトモに読んだことはない。2,3行読んで捨てた。ようこんな下らん文を書くな、女の暇人が鼻の穴を膨らませて書いたんだろう。しかもインテリぶって。箸にも棒にも懸からんワ。

 ここまで罵倒したからにはもう少し書こう。全ての人の文がカスだという訳ではない。たとえが井久保伊登子さんの文など(あったかな?)けっこう読ませる。然し 『女人随筆』 として束ねられると駄目である。そもそも随筆とかエッセイなど、それと意識して書くものではない。暇人の手なぐさみ、はっきり言って雑文なんだが、雑文は雑文で其々の目的があって書くのだ。例えば倉敷の大本さんや岡山エッセイストクラブのように書くものではない。

 珠玉のエッセイというのは確かに存在する。思い付いたのは丸山真男と古在由重だが、文学者や科学者に多い。全集や著作集の後半に収められた論考である。然し、これらはもともと随筆とかエッセイとして書かれた文ではない。ときどきの必要から、またッ出版社(者)や関係者からの求めに応じて書かれた文である。

 そもそも随筆という著作ジャンルはあり得ない。岡山県文学選奨なども、随筆というあり得ないジャンルは廃止すべきである。小説、俳句、短歌、童話、これらと並行するジャンルとして随筆がある訳がない。

 少し古本屋通信を例にとる。古本屋通信は通信であるからジャーナリズムである。然し間違いなく雑文である。この雑文の中から、比較的時事性の薄い文を抜粋して古本屋随筆(集)が編めるか? 出版社が編んでやるから刊行しないかと声を掛けたとする。私は即座にお断りである。日本共産党批判の随筆(エッセイ)集があってたまるか。そこまで落ちぶれていない。

 発表する文は日記ではない。書くことによって自分を磨くのでもない。生きるための戦いである。生きることの同時並行の営みとして書くのだ。だが世の中には文を書かない人の方が多い。書かない人のほうが(随筆と意識して)文を書く人よりずっと真人間である。飾る営みが醜い。

 この稿は何人かの 『女人随筆』 同人を意識して書いた。こういう文になったのはたぶん私に永瀬清子に対する憎しみがあるからだろう。私は戦後の永瀬の全仕事を無効と見做す。そのうえで井久保伊登子 『女性史の中の永瀬清子 戦前・戦中篇』 を評価する。
  1. 2017/05/27(土) 00:36:06|
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