古本屋通信

鬼藤千春と石崎徹、二人の終焉。

古本屋通信   No 2544    2017年  04月29日


     鬼藤千春と石崎徹。二人の終焉。

    
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     更新日時 : 2017/04/29    06:4



 石崎徹(昭和21年生れ)がブログの休止通知(町内会で振りまわされて、記事を書く余裕がない。当分ブログを休止します)を4月23日に出した。鬼藤千春(昭和22年生れ)はすでに昨年10月末にブログを終了している。私は2人のブログ粉砕を目指していた訳ではないが、こういうデタラメな文章はマッピラだから、消えて清々している。少しだけ「総括」することにした。

 予め結論を書いておくが、石崎は人間がメゲている訳ではない。人間がメゲているなら町内会長は務まらない。文章がメゲている。文芸時評以外の全ての文が出鱈目である。一方の鬼藤は文章は稚拙ながら、マトモである。ところが人間がメゲている。だが私は鬼藤の人間性について論難していない。なぜなら彼は自分で精神病薬を服用していると公言している。だが今回は必要最小限のことは書いておきたい。

 石崎のブログを実質的に閉鎖に追いやったのは古本屋通信である。鬼藤のブログを閉鎖に追いやったのは私ではない。他の誰でもない。鬼藤が鬼藤らしく自分で勝手に自滅したのである。




  鬼藤千春

 鬼藤が私との関わりにおいて、傲慢で社会的認識が著しく劣等なことは、「通信 No 2533 社会認識のレヴェルとプライバシー」 で書いた。鬼藤が民文を脱退した経緯については、まがね文学会HPに鬼藤の投稿が残っている。

曇った眼!
非正規労働者の増大とセクハラの増加は、三つの資料によっても明らかである。まだ、他の資料を当たればより一層明確になる筈である。仮にも労働組合の委員長をしている人間が、この関係性が理解できないということはどういうことか。事物の本質が見えない、曇った眼というほかない。こういう現象がなぜ起こるか。それは、階級闘争の変革する立場が欠落しているためである。石崎のような、党の支持者を名乗りつつ、反共の立場に立つ、党からの脱落者に迎合する笹本も「同じ穴のむじな」である。石崎は、日本社会の変革の展望を失っている。文学でも然りである。彼がいうには、現代文学は現実を描かなければならない、といいながら、未来への展望を語ることができない。まさに、「敗北の文学」である。そういう男の「セクハラ論」にすり寄る笹本もまた、同類といわざるを得ない。「犬は吠えても歴史はすすむ」。もう一切君たちのようなものと関わりたくない。ブログへの訪問、メールなど、断固拒否する。鬼藤千春の小説 URL 2014年09月20日 00:59

「民主文学会岡山支部」はどこへ向かうか
「まがね文学会」は、日本民主主義文学会の支部である。「民主文学会」は大会方針で、「文学の創造・批評を通じて、文学と芸術の民主的発展に寄与する」ことをめざしている。非正規労働者のおかれた厳しい現実を告発し、展望を指し示すような文学もまた求められている。望月笑子の「無機質な腐敗」も、そういう観点で書かれている。非正規労働者の増大とセクハラの関係をきちんと位置づけている。「無機質な腐敗」は、その典型として描出されているのである。君たちは、それが読み取れないのか。20年前、あるいはそれ以前のことを持ち出して論じている。どこにその根拠があるのか、それを示せるというのか。人の発言を批判する場合、その根拠を説得的に示さなければならない。20年前と現代は激変している。現代は若者・女性の2人に1人が非正規労働者である。もちろん欠点のある「無機質な腐敗」という作品であるが、しかし、民主文学のめざす方向にかなった作品である。私は現代の非正規労働者とセクハラの問題を作品化したことを評価しての発言だった。岡山支部はどこへ向かおうとしているのか。大会の方針を堅持して、運営していっているのか。事務局長が、こういう認識で果たしていいのか。岡山支部は変質したのか。反共主義にまみれた共産党くずれの石崎に迎合する事務局長。それで、「文学・批評を通じて、文学と芸術の民主的発展に寄与する」という方針に基づく活動ができるのか。「木をみて森を見ない」非正規労働者の増大とセクハラの増加問題の認識。それで、よく事務局長が、また、仮にも労組の委員長が務まるものだ。「ノミが跳んでいるのは見えるけれど、馬が跳んでいるのは見えない」類いの認識でしかない。本当に事務局長の任務と果たす役割が解っているのか。岡山支部は、いま、思想的な危機に陥っている。その変質を許してはならない。反共主義への迎合・すり寄り、それは、日本の民主的変革への展望を失った男・石崎への迎合・すり寄り・太鼓もちでしかない。鬼藤千春の小説 URL 2014年09月20日 04:06

 まあよくもこのような低脳文が書けるな。国語的にではない、内容に於いてだ。非正規労働者とセクハラの関係などどっちでもよい。その意見の違いで、他人を上記のように攻撃し、挙句に組織から脱退する鬼藤の人間性とは? たぶん病気なんだろう。しかし病気にしても、公開された文章については、誰であろうと意見を述べる権利がある。私は鬼藤の小説を読んだことがないから、小説については触れない。しかし批評文や雑文に就いては、中学生ナミ、それも綺麗ごとだ。石崎の作品批評の足もとにも及ばない。私はそういう鬼藤が一時的にせよ、まがね文学会の代表だったのが不思議でたまらない。

 鬼藤の歩んできた道は一路狂気の歩みであったろう。まがね文学会脱退前後だが、なりふりかまわぬ他人の権威の利用と、それによる自分の権威づけがあった。御し易いと彼が見做したら、さかんに褒めるのである。坪井宗康、坪井あき子、東田一雄、浜野博、有坂初江、実盛和子、妹尾倫良、三宅陽介などなど。だが決して石崎徹は登場しない。基準は『民主文学』に作品が掲載されたか否かである。鬼藤は掲載されたそうだ。

 上記の鬼藤文は自分が日本共産党員であることを公言している文だ。その立場から彼は倉敷民商事件にコミットした。そのやり方が当事者にとって迷惑だった。私は批判したが、かれは当事者の迷惑など考える想像力はないのである。つまり自分だけ。

 民文脱会後に彼は短歌ジャンルに移った。新日本歌人協会である。岡山支部の「たたら」にも加入したらしい。おとなしく作歌してブログに短歌を掲載すればよかった。ところが彼は数百人のブロガーに自分の作品をネットで送り付け、相互リンクを目指した。それ自体はルール違反ではないが、彼は先方の記事など読んでいなかった。利用主義そのものだった。この稚拙なやり口は先方から非難ゴーゴーだった。鬼藤のブログはたちまち炎上した。オマケに悪いことに、先方の中に民主文学会員がいた。鬼藤の所業は全文学会員の知るところとなった。それが新日本歌人協会に伝染しない訳がない。彼が最終的に新日本歌人協会から追放されたという話は聞かない。聞かないが民文から追放された者が歌人協会の中心に坐れる訳がない。鬼藤は岡山の保守歌壇「龍短歌会」に最後の拠り所を求めたのである。服部忠志大先生の主宰である。鬼藤なんかが受け入れられる訳がない。かくして御本人から通知があった。それに拠ると彼はいまも新日本歌人協会の岡山・水島と全国の幹事だという。私は単に自分の感想を述べただけだが、本人が今でも中心にいると言うのだから、取り消そう。龍短歌会については、私は彼が投稿したと言うのを確かに読んだ。しかし所属したか否かは明らかではないので、ついでに取り消す。だが私がそう見做してもおかしくない前後関係はあった)。彼は10月31日、自分のブログを最終的に閉鎖したのであった。





  石崎徹

 石崎については、その都度批判してきたので今更言うべきことはない。最終にトドメを刺した一文を貼っておく。この文には現在拍手が56個付いている。石崎オリジナルには拍手ゼロである。


   
古本屋通信   No 2484    2017年  03月18日


   石崎徹天皇退位私論批判

 よくも、こういう支離滅裂な低脳文が書けるな。文学者(作家、小説家、文芸評論家)とはいい気なもんよなあ。詐欺だなあ。

 石崎徹が超デタラメ文を披露している。以下で、その全文を掲載し、さらに再録した上で、私の批判を随所にで加える。いつものパターンである。石崎文は天皇論である。
  これを批判する私の立ち居地を予め書いておこう。私は現日本国憲法の天皇条項(第1条、2条)に反対だが、ここはそれを論じる場ではないから、いちおう天皇の象徴(シンボル)規定を是認したうえで論じる。そして、その象徴規定の天皇とは、そもそも日本国憲法のいう「国民」ではない。これは「国民」の全てが有する権利・義務を天皇が有しないこと、この一点で明らかである。これだけで、石崎論の正当性は吹きとんでしまう。
 私は議論(新聞で報道される天皇退位にまつわる法制度の整備議論)に興味がないから、いっさい読んでいない。ただ一度だけ、退位に賛成だと書いた。それはたとえ象徴(シンボル)としての天皇であろうと、生身の生き物である天皇本人が体力的限界を感じて悲鳴をあげている。だったらその生命を救うのは当然である。後は法的手続きだけである。国会議員諸君、よきに計らえ。まあ早くしてほしい。後は頓着しない。それが私の立場である。



 天皇退位私論
 雑文 - 2017年03月18日 (土)   石崎徹
 政治学者、原武史が天皇退位にまつわる動きを批判している。憲法第4条で「国政に関する権能を有しない」とされているのに、明仁天皇がひとこと言うと政治が動いた。これはあきらかに憲法に違反している、と。きょうの朝日新聞である。
 原氏が言っているのは明仁は退位してはならないということではない。明仁の言葉で政治が動くのはおかしいということである。退位に関する法整備が必要なら、それは国会が自主的に行うべきであった。権能を有しないはずの人によって政治が動かされるのは危険であるということなのだ。
 <もし国民の誰かが「陛下ももうお年なのだから、そろそろ皇位を皇太子にお譲りになって引退されたら」などと言おうものなら、それこそ「身のほどをわきまえない無礼者」とのそしりを受けた><ところが、いったん天皇からその意思が示されるや、圧倒的多数の国民が受け入れました。これが天皇と国民との関係です。この点で、45年8月と現在は変わっていません>
 原氏の危惧はよくわかる。日本人の精神がいまだに天皇神話に縛られており、天皇の一言で政治が動きかねない(現に動いた)ことを危ぶんでいる。
 しかし、ぼくはこの問題では違う意見を持っている。
 この問題では、ぼくはしりあがり寿氏の見解を支持している。この問題が出たときしりあがり寿はただちに、「そうか、天皇には人権はなかったのか」と書いた。それがすべてだとぼくは思う。
 憲法14条は、「すべて国民は、法の下に平等であって……門地により……差別されない」と書いてある。22条には、「何人も……職業選択の自由を有する」。18条には、「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない……その意に反する苦役に服させられない」と書いてある。
 つまり、天皇をいつ辞めようとその人の勝手であって、これを強制する権利はいかなる権力も持っていない。
 もちろん憲法2条が「皇位は、世襲のものであって」と書いた時点で、14条と矛盾してしまっているのだが、だが、皇室典範に書いてあるのは皇位継承の順序だけであって、皇位を拒否することができないとも、天皇は辞めることができないとも書いてない。
 つまりいまさら、天皇退位法など作る必要はない。誰にでも職業を辞める権利はいつなんときでもある。そして天皇も実質上ひとつの職業であって、それ以上のなにものでもない。
 そしてこれを否定するとしたら、天皇は日本国民ではないのだ、だから憲法は適用されないし、人権は存在しないのだ、という結論に導かれる。
 しかし、人権とは単なる法律上のものではないだろう。それは法律以前に自然法として、すべての人間に与えられているものだ。この自然法に反する法律が存在するとしたら、その法律が間違っているのである。
 その点、「皇位は世襲のものであって」という条項は限りなく怪しいが、だが、天皇の退位を否定する条項がどこにもない以上、明仁は自らの意思で天皇を辞めることができる。それはいささかも国政に関することではない。何故なら天皇は国政に関与しないのだから、国政に関与しない人間が国政に関与しない地位から降りることが国政に関与するはずがないのである


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 石崎は朝日新聞紙上の原武史しりあがり寿を引いて書いている。私はいかなる論でも、朝日に掲載された論を小馬鹿にするが、こと天皇制に関する議論では、朝日にラディカルな論は絶対に掲載されない。然し、それを言いはじめたら議論にならないだろう。いちおう各人を尊重する。それと原武史の議論は石崎の纏めを是として批判する。

 政治学者、原武史が天皇退位にまつわる動きを批判している。憲法第4条で「国政に関する権能を有しない」とされているのに、明仁天皇がひとこと言うと政治が動いた。これはあきらかに憲法に違反している、と。きょうの朝日新聞である。
 原氏が言っているのは明仁は退位してはならないということではない。明仁の言葉で政治が動くのはおかしいということである。退位に関する法整備が必要なら、それは国会が自主的に行うべきであった。権能を有しないはずの人によって政治が動かされるのは危険であるということなのだ。
 <もし国民の誰かが「陛下ももうお年なのだから、そろそろ皇位を皇太子にお譲りになって引退されたら」などと言おうものなら、それこそ「身のほどをわきまえない無礼者」とのそしりを受けた><ところが、いったん天皇からその意思が示されるや、圧倒的多数の国民が受け入れました。これが天皇と国民との関係です。この点で、45年8月と現在は変わっていません>
 原氏の危惧はよくわかる。日本人の精神がいまだに天皇神話に縛られており、天皇の一言で政治が動きかねない(現に動いた)ことを危ぶんでいる。

 原武史の言っていることは原稿料稼ぎの小理屈である。それが言い過ぎなら、事態を後追いした形式的な議論である。生きた議論ではない。
 議論の出発は明仁氏がアゴを出した事に始まる。一言であろうと二言であろうと、生き物としての人間が黄信号を出した。だったら、天皇の場合、それに対応するのは現実政治しかない。いやおうなく天皇退位に向けて政治的対応をしなければならない。さもなくば明仁氏は死んでしまう。
 そこには(その空間には)原武史の言うような憲法議論の入る余地は全くない。繰り返すが明仁氏がしんどいと言った。だったら政治は退位を認めることが絶対条件になる。コレ「明仁の言葉で政治が動」いたのである。おかしいもクソもあるもんか。憲法違反もクソもあるもんか。生き物としての人間を殺すつもりか。ぬくぬくと研究室で碌でもない原稿を書きなさんな。
 最後の2行だが、なぜ石崎は原に理解を示すのか? 後半で石崎が書いていることからは、あり得ないだろう。

 しかし、ぼくはこの問題では違う意見を持っている。
 この問題では、ぼくはしりあがり寿氏の見解を支持している。この問題が出たときしりあがり寿はただちに、「そうか、天皇には人権はなかったのか」と書いた。それがすべてだとぼくは思う。

 そうか。私も天皇には人権はないと思う。別にしりあがり寿、石崎、古本屋通信でなくても、天皇には選挙権も被選挙権もないのだから人権はない。いまさら指摘しなくても、分かり切ったことである、天皇は日本国民ではなく、日本国民統合の象徴シンボルである。

 憲法14条は、「すべて国民は、法の下に平等であって……門地により……差別されない」と書いてある。22条には、「何人も……[職業選択の自由を有する」。18条には、「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない……その意に反する苦役に服させられない」と書いてある。
 つまり、天皇をいつ辞めようとその人の勝手であって、これを強制する権利はいかなる権力も持っていない。

 ありゃりゃ?? まあ腰が抜けるほどビックリした。天皇は何時から日本国憲法の言う国民の一員になったのだ? 天皇規定は憲法1条、2条だったな。石崎に拠ると天皇は憲法14条、22条の国民の一員なんだな? だから何時辞めても、職業選択の自由なんだな? まあこういう低脳文がよく書けるな? そもそもこの議論は、天皇が自由に退位の選択ができない仕組みになっているから、起こっているんだ。それを「天皇をいつ辞めようとその人の勝手であって、これを強制する権利はいかなる権力も持っていない」なんて、私、腰が抜けたよ。

 もちろん憲法2条が「皇位は、世襲のものであって」と書いた時点で、14条と矛盾してしまっているのだが、

 別に天皇の地位規定としては矛盾していないでしょう。14条のいう国民には天皇は含まれていませんから。

 
だが、皇室典範に書いてあるのは皇位継承の順序だけであって、皇位を拒否することができないとも、天皇は辞めることができないとも書いてない。

 当たり前だ。アホウか。そんなことを書く法文がどこの世界にあるか。ないからこそ(できないと書いてなくても、できない規定になっているからこそ)退位が問題になっているのだ。いいなあアホ石崎は呑気で羨ましいよ。

 つまりいまさら、天皇退位法など作る必要はない。誰にでも職業を辞める権利はいつなんときでもある。そして天皇も実質上ひとつの職業であって、それ以上のなにものでもない。

 ??? 天皇は職業じゃありません。小学生に訊いてみな。人はみんな職業選択の自由があるのですが、キミは将来天皇になりたいですか、と。小学生は言いました「ボク総理大臣になりたい。でも天皇は生まれつきだから無理だと思う」。正解でした。

 そしてこれを否定するとしたら、天皇は日本国民ではないのだ、だから憲法は適用されないし、人権は存在しないのだ、という結論に導かれる。

 当然そうなります。小学校の教科書を勉強し直して来い。憲法の規定全てが適用されないのではありません。適用されるのは1条、2条以下数条です。それでオシマイです。例えば天皇家に24条の婚姻の自由がありますか? ある訳ないじゃん。石崎は女性週刊誌の影響で、皇室の面々が自由に結婚していると思っているのでしょう。婚姻の自由とは、結婚が「両性の選択の自由」(両性の合意)のみによってのみ、最終的に可能な婚姻の形態です。つまり双方の出自(出身家庭)から離れて結婚生活を営む自由があるという意味です。ある訳ないじゃん。

 しかし、人権とは単なる法律上のものではないだろう。それは法律以前に自然法として、すべての人間に与えられているものだ。この自然法に反する法律が存在するとしたら、その法律が間違っているのである。

 またまた自然法思想ですか。こういうのを味噌も糞もいっしょ・・と言いますね。しかしスゴイですね。これ一歩間違えたら天皇にスーパーマンを認める戦前回帰ですよ。まあ意識しないアホウだから、そこまでは言いませんけどネ。国家元首には法律以前に絶対神としての「権利」があるというニーチェもどきにも通じる思想です。

 その点、「皇位は世襲のものであって」という条項は限りなく怪しいが、だが、天皇の退位を否定する条項がどこにもない以上、明仁は自らの意思で天皇を辞めることができる。

 「天皇の退位を否定する条項がどこにもない」 のだけれど、明仁氏が老齢で退位せざるを得なくなった。でも 「明仁は自らの意思で天皇を辞めることができ」 ない。だからみなさん苦労して、そのための法整備をしているのです。でも石崎はいいなあ。テニオハを欠いても文学の文が書けるから。

それはいささかも国政に関することではない。何故なら天皇は国政に関与しないのだから、国政に関与しない人間が国政に関与しない地位から降りることが国政に関与するはずがないのである。

 ??? 参った。おおむかしギリシャの哲学者で、たしか詭弁のソフィストといったかな。まあ後は自分で読みんさい。論争術だけど評判悪かった。哲学史にはギリシャ哲学の異端としてしか残らなかったナ。
  1. 2017/04/29(土) 04:15:16|
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