古本屋通信

吉塚勤治の党籍

古本屋通信  No 262 6月17日

  吉塚勤治の党籍


 通信 No 259 『苅田アサノ 人と思い出』 の、吉塚勤治の追悼文をやっと入力し終えた。今日の記事で書きたい事は後回しにして、まず全文を貼っておく。この文は当然 No 259 に入れられるが、独立の詩人論、詩論としても読まれるべき内容をもっていると思う。もったいないないのでここに再録した。
 尚、吉塚文に限らず、本書の全文字がタイプ印刷で、校正ミスも所々にみられる。これは著者のミスというより、当時の出版事情からくる制約だろう。あきらかな誤植は訂正したものもあるが、基本的には原文のままとした。


 後半の「吉塚勤治の党籍」は、吉塚の本文とも、苅田の詩とも関係なく、私がこの期に便乗して提出したテーマである。関心のない方は読み跳ばしてほしい。(古本屋通信)

 
 白ばらの君    吉塚勤治

 苅田アサノと、私は戦後の岡山で昭和二十一年に逢うことになった。戦後の混乱期の、しばらくうじうじしていた私が、山陽新聞のグループに加わり、自分なりに覚悟をして、岡山の党に参加したのは、昭和二十一年はじめであったから、そのあと間なしのことにちがいあるまい。
 苅田アサノは、戦後間もなくだったりうと思うが、津山から岡山へ出てきて、上伊福絵図町の深見民市の二階に住むことになった。当時、深見民市は山陽新聞の校閲部におり、かれの奥さんも通信部にいたのである。そのころの苅田アサノはまだ若々しくずっと独身だったから、白薔薇の清潔な感じがあって、じじつかの女はしばしば「白薔薇」とあだ名を呼ばれていたのである。しかし、この白薔薇のきみ、苅田アサノが詩を書くことを知ったのは、知り合ってから、だいぶたってからのことであった。戦争中、津山の家にいたころから、かの女はネクラーツフの詩を訳しつづけてもいたのである。その一部分は「詩作」ではなく、久保文子、矢木明が中心になった「くるまざ」に発表されている。苅田アサノが「詩作」に参加したのは、第三集(昭和ニ三・三・二〇)の「朝」からで、第四集に「吉塚勤治に」第五集に「阿修羅」、第六集に「三月堂月光菩薩」を書いている。 「朝」は、女ひとりきりの生活のなかで、白髪のお母さんの顔を思いうかべながらわが部屋にしだいに朝の光がみちてくるひとときつつましい朝げのはしをとることをうたった、女らしい静かな詩である。いかにも白薔薇らしい清潔な詩であり、母への孝心をうたったものであろう。

  金箋花をいれた花がめのそばから/ 小さな化粧水の瓶をとって / ほのかな匂いのある水を掌にこぼす / それからフキンをかけた小瓶のまえにすわって/ お母さんおはようございますと / 北にむかってあいさつする / くるしみもかなしみも / またときには訪れたかもしれない歓びも / 影をとめないしづかなとしよりの瞳をした白髪の / おだやかな母の顔を思いうかべ / こころたりおちついて / ゆっくりと / ただ一人きりのつつましい朝げの箸をとる

 苅田アサノが「詩作」に発表した詩のなかでは第五集の「阿修羅」がすぐれていると思う。この白ばらのきみは仏像に強く惹かれるところがあったのであろう。そのことはかの女の抑制された内部生命のあこがれの表われであり、あるいは形にみえない、かの女の生命力の希求する造形を、仏像そのものの姿に見たのでもあったろう。
 苅田アサノは「少年の姿をした阿修羅」の「うでわのはまった蜘蛛のように細かくながい手」が「胸のあたりで折れんばかるにうち合わされ」「その手はたえかねた叫びのように」「のろのろと天はさし伸されている」ことに、ほとんど全心の共感を示し、この像を刻んだ天下の仏師のところへとさかのぼっているのである。
 いってみれば、「この半ぶん裸の下袴だけのかぼそい少年らしい体を」「おしたおそうとしている」「無法な熱い願い」「無法な切ないなやみ」は、苅田あさの自身のものであろう。苅田アサノ、この津山の豪家にうまれて女子大を卒業した才媛の美女が、ほかならぬ社会主義運動の道に進み出た道すじについて、私は一度も話しあったことはなかったが、その苅田アサノの心の底からは、「どんな無法な切ないなやみが」かの女自身を「おしたおそう」とばかりに湧きあがってきたのであったことは疑う余地のないところである。「阿修羅」という一篇の詩は、それまでの作者苅田アサノの女人像をしめしているかの女の革命的情熱の源を明らかにしているばかりか、女としてにんげんとしての隠微な心のぞめきのようなものまでのぞかせているようである。
 (筆者は岡山の詩人。吉塚氏が中心となって、昭和二十二年詩の雑誌「詩作」を発刊、苅田さんは第三集から参加した。ここにのせた文は吉塚氏の著書「茫々二十年」から、その一部を転載させていただいた。刊行委員会 )


 以下が、今回古本屋通信がテーマとする「吉塚勤治の党籍」についてである。全文が古本屋通信の地の文である。

 党籍問題というのは難しい。私の党籍など世間になんの影響もないが、名だたる作家・詩人の党籍はそうはいくまい。それは彼らの生み出す作品との関係でいえば、関係ないことも「多い」が、関係あることも「多い」はずだ。
 ところが、厄介なことにすべての作家・詩人が自分の党籍を公表している訳ではない。そこに色々な推測、誤解、軋轢などが生じる。ふつう確かでない事は書かない。いまの社会では、共産党員だということをもって不当に差別されることもあろうし、それでなくても周囲と不必要な摩擦を起こさないために隠す場合が多い。「あなた、共産党員?」 などとふつう訊かないし、訊いても 「ええ、そうよ」 などと応える場合は少ないだろう。しかし、お互いの会話では 「あいつ、党員だろう」 とか 「あの作家、いつ除名になったの」 などの話になる事は多い。

 前置きは措いて、吉塚勤治の党籍。
 追悼文の冒頭に「戦後の混乱期の、しばらくうじうじしていた私が、山陽新聞のグループに加わり、自分なりに覚悟をして、岡山の党に参加した」とある。吉塚は昭和21年はじめに「再入党」した。「山陽新聞のグループに加わり」は山陽新聞社に職を得たことを意味するが、山陽新聞細胞に加わったと読んでいいだろう。もうひとつ大事な事は「戦後の混乱期の、しばらくうじうじしていた私が・・」とあることだ。ここで「うじうじしていた」とは党籍が宙に浮いて、再入党をのびのびにしていた事を意味する。つまり彼は戦前に党員だったのだ。

 これについて、私は近親者(たぶん姪)の証言を得ている。古本屋を始めて間もないころ、市内門田文化町、東山の山頂の家で老婦人から本を分けて貰った。量は多くなく、自転車の荷台に積める位だった。その大半は吉塚関係の本だった。特に高価なものはなかったから、私はその場で金を支払おうとした。老婦人は固辞した。どうしても受け取ろうとしなかった。私は諦めて本を頂戴した。後にも先にも、金を払わないで本をもらった唯一のケースだった。もうお亡くなりになっているだろう。当時九十歳だった。あれから十五年経っている。

 かの女は初対面の私によく喋ってくれた。これはかの女が私に左翼の片鱗をかぎ取ってくれたからだろう。約30分間、戦前に特高が訪ねて来て怖くて押入れに隠れていたことなどを、生きいきと話してくれた。私はかの女が知識人だと思った。最後に、もっとも知りたかった事をズバリ訊いてみた。

「ところで、吉塚さんは除名になったんかな」

「除名されたんよ」

「それは何時だったのですか」

「はっきりしたことは憶えとらんけど、安保のあとだったと思うよ」

「いろんな組織ができていた頃だけど、その関係は分りませんか」

「それが分らんのよなあ、私がボケてきて忘れたんじゃあのうて、当時も分らなんだ。しかし市会議員の河合徹さんなんかと一緒じゃったと思うよ」

このあと、かの女は自分はずっと党だったから、吉塚は組織関係は隠したのだろうと推測を加えた。しかし、私の資料には吉塚も河合徹も社革(社会主義革新運動)関係に名前がない。除名はされたが新組織には加わらなかったのだろう。

 吉塚の追悼文の最後に付された刊行委員会の注記に注目されたい。本書が刊行された1976年には、吉塚は既に死んでいる。もう一度調べてみるが、1972年に死んだはずだ。これは苅田アサノの死「1973年4月代々木病院に再三の入院になり、8月5日朝永眠」(本書所収の「苅田アサノさんの経歴」)より1年まえだ。したがってこれは正確には追悼文ではない。その辺のことも本文を読むとき、若干考慮に入れて読まれたらよかろう。

 あとは党を除名されたのちの吉塚の後半生だ。なぜ被除名者で死者の文がわざわざ本書に加えられたのか。私は推測を逞しくして書く予定だった。然し紙幅も尽きた。いやパソコンだから紙幅などないが、これから店に行かねばならない。店にもパソコンはあるが、光ファイバーでないから字句の修正くらいしかできない。続きは暫くあとに「被除名者は追悼文集に参加できるか」「党員は被除名者の葬儀に参加できるか、またその追悼文集に文を寄せる事ができるか」みたいなことを、古在由重の葬儀の事例などを引いて書くつもりだ。共産党は嫌うだろうが仕方がない。では、ひとまず打ち切ります。



参考資料 [吉備路文学館の資料] より

吉塚勤治  よしつか きんじ

明治42年(1909)~昭和47年(1972)   詩人   岡山市
第6高等学校在学中から、詩のグループ「窓」に所属し、詩作をはじめる。京都帝国大学に入学したが、社会科学研究会に所属していたため、検挙され中退。上京し、出版社勤務を転々とした後、総合雑誌「日本評論」の編集に携わっていたが、病気のため帰郷。昭和20年、合同新聞社(山陽新聞社の前身)に入社、論説委員を務める。戦後、詩誌「詩作」を創刊。地元の詩作活動に活力を与えた。
のちに日本文教出版社に入り、岡山文庫を企画した。昭和20年刊行の詩集『あかまんまの歌』をはじめ、『鉛筆詩抄』、『日本組曲』、『頑是ない歌』がある。『茫々二十年』は遺作となり、没後『よしつかきんじ詩抄』が発刊され、昭和49年には遺稿集『あしうら』が刊行された。
  1. 2013/06/17(月) 03:34:13|
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