古本屋通信

祖父のこと

古本屋通信  No 256 6月12日

 祖父のこと

 私の父が学校教員であったことは既に書いた。ところで、祖父もまた教員だった。その祖父の事を書く。といっても祖父(母の父)は母が満六歳のとき死んでいる。その母でさえ記憶は薄い。祖父は朝鮮総督府下の訓導だった。いわば日本の朝鮮侵略の尖兵、教育分野の戦争犯罪人だった。末端といえば末端だが、見方によってはそうでなかったかも知れない。日本の敗戦を俟たず病をえて帰国し、最後は医科大の書記官として死んだ。私はずっと祖父を追い、京城時代の日誌も持っている。もう10年程前に見つけたもので、昨日田舎から持って帰ったが、まことに読みづらい。とりあえず掲載は延期し、九州大学大学院稲葉教授の関係論文を貼る。この論文は現在の九州大学の研究所の立場もあって政治性は希薄だが、これを転載する私の意図は、実祖父に想いを致す事を通じて、日本のアジア侵略史(朝鮮近代史)の一端を切り取ることである。
 引用文はコピーの関係で、改行に難があり読み難いが、一部を改善した他はそのままにした。再編集の過程で欠損が生じる事をおそれたためである。


九州大学大学院教育学研究紀要,2002,第5号(通算第48号) 稲葉継雄
 京城日出小学校について
一嘗朝鮮「内地人」学校の事例研究 
 
  

はじめに
 谷川徹三ほか編の『同級生交歓』第3集(あすなろ社 1969年)には碓井益雄・東京教育大学教
授(当時)の「外地小学校でのめぐりあい(京城日出小学校)」と題する一文が収録されている。
京城日出小学校が,戦前数多く存在した「外地小学校」の代表格として取り上げられた格好である。
 京城日出小学校が潮雲の声をあげたのは1889年8月で,時期的には釜山(1877年5月)・元山
(1884年)・仁川(1885年10月)の各小学校よりも遅い。しかし,朝鮮のかつての首都京城にあった
だけに,朝鮮はもとより,日本の全「外地」における「内地人」小学校の代表と称されるまでになっ
たのである。
 1919年2月京城日出小学校に赴任した赤津基は,先輩教師にこう言われたという。
 君はこの学校を何と思ってをるか,中等教員の免状を有った而も一番二番で出た者しか採用しな
いんだ,女の先生は校長先生が見て顔が悪ければ採用しない。詰りこの学校は朝鮮一で,朝鮮の学
習院として自他共に許してをる。 本稿の狙いは,京城日出小学校の歴史を振り返り,同校が「朝鮮の学習院として自他共に許し」
たその要因を明らかにすることである。
 なお,京城日出小学校の校名は,後述のように複雑に変化したが,本文の記述に際しては以下,
基本的に「日出小学校」とする。

一 学校沿革
 1889年8月,当時韓国京城に居留する日本人は300名に達していたが,子弟の教育機関はなかった。
これを遺憾とした山口太兵衛は,居留民役場の一室を借り受けて教室に充て,父兄を勧誘して児童
8~9名を得,自ら教鞭を執った。この学校開設をめぐって,次のようなエピソードが残されている。
小学校創立者の一人たる山口太兵衛翁の話によりますと,始めて学校を開いた当時には,七八名
の子供を集めるにも骨が折れたさうです。或時床屋さんに行って,お前処の子供を学校に出して呉
れないかと相談した処,床屋の親父さんの云ふのには「小僧でも只では遣はれませんよ,日当幾ら
呉れますか。内の仕事を手伝はすとこれでも存外手助けになりますからね」と云ったさうだ。温点
の教育をして呉れると云ふものに逆さまに日当を呉れでは驚くではありませんか。其処で山口翁は
内地には義務教育をせねばならぬ法律のあることやら,今の中に学校に遣っておかぬと大人になっ
て内地に帰ったとき小学校に行かねばならぬことやら,それでは大きな損であるなどと説き聞かし
てやっとで出さすことにしたさうです。此の話一つでも学校創立当時の文化程度や創立者の苦心の
程が分りませう。
 山口太兵衛は,学校創立者兼初代教師であったが,本来の仕事(商業)が忙しかったので,すぐ
に須田熊蔵をして教授に当たらせた。しかし,須田もほどなくして帰国した。そこで,山口らによっ
て東本願寺京城布教所の誘致が図られ,真宗僧侶に児童の教育が託されることになった。
 1890年10月,京城布教所が東本願寺釜山別院京城支院として開設され,赤松慶恵が初代輪番兼
「共立学舎」教師となった。学校を「共立学舎」としたのは,居留民会と東本願寺の「共立」の意
である。‘
 その後1年半,京城支院輪番が交替で教鞭を執っていたが,1892年5月,初の正教員として麻川
松次郎が招聰され,6月,東本願寺の嘱託を解いて学校は専ら居留民会誌で経営することとなった
(ただし,校舎は依然として寺院を借用)。ここに「共立学舎」の意味合いがなくなり,校名は「在
京城日本公立小学校」と改称,麻川が校長心得に任命された。
 1895年2月,早川清範を招聰して正式の校長とし,校名を「在韓国公立京城尋常高等小学校」と
改めた。
 同年11月,7月から工事を進めていた新校舎が完成,東本願寺支院内の学舎からここに移転し,
これを機に「大日本公立京城尋常高等小学校」と改称した。
 日露戦争勃発(1904年2月)を前後して居留民数が急増し,南山洞の校舎が手狭となったので,
学校の移転・新築が計画された。これに関して,当時の京城居留民会止長中井喜太郎(錦城)は次
のように語っている。
 京城の人口が段々増加するに従ひ,小学生徒の数が殖へて来て,学校新築の必要を感じた,自分       
は煉瓦造の説を主張し,京城は熱さ寒さが厳しいので,木造では狂を生じ易い,現に是迄の小学校
でも梁が八割れて鉄の輪で締付て置く様の事で,永年に亘て修繕費の事を算用したり,生徒の健康
を考へたりすれば,煉瓦造にするに限る,併し費用は千人の生徒を収容するものと見て,先づ五万
円は掛る,彼是完成迄には六万円余は要するのである,小学校一つの建築費に六七万円は少し過分
だが,実際の経済は此方が二方である,儘よ京城居留地の名誉の為に,一ツ六七万円掛けても,煉
瓦の小学校を造ろうではないかと,此説には初め反対があったが,遂に之に決定した。
 敷地は,要急(日本名日出町)の日本陸軍練兵場跡を陸軍から譲り受けた。こうして赤煉瓦2階
建の新校舎が1905年6月に着工され,1906年11月差落成したのである。『京城府史』には,「当時小学校々舎として練瓦造のものは全国になくスエズ海峡以東の学校舎と称せられた」(4)とある。
 日出町新校舎の完成に先立つ1906年8月,京城居留民団が設立され,学校も「京城居留民年立尋
常高等小学校」となった。
 1908年4月,在学児童数の激増に伴い新たに第二尋常高等小学校(後の南大門小学校)が設置さ
れ,同時に従来の学校は,「京城居留民団立第一尋常高等小学校」と改称された。第二小学校は,
京城居留民官立小学校の西部校区を割き,校長横山弥三が転任するという形で誕生した。いわば日
出小学校の最初の「子生み現象」であった。
 続いて1910年4月,第一小学校の通学区域の一部を割いて桜井尋常小学校が設立され,本体は
「京城居留民団遅日出尋常高等小学校」となった。
 韓国併合後,「朝鮮教育令」が施行された191三年11月には鍾路尋常高等小学校が増設され,日出
尋常高等小学校の高等科はここに移された。したがってこれ以降,「京城居留民団立日出尋常小学
校」となったのである。
 1912年4月,「朝鮮公立小学校官制」によって訓導は判任官とされ,金筋1本の制服を着用する
ことになった。同時に,「朝鮮公立小学校規則」にもとづいて京城居留民塗立日出尋常小学校は
「京城日出公立尋常小学校」と改称された。
 1915年11月,日出小学校に私立京城夜学校が併設されたが,この私立夜学校は翌1916年5月,京
城学校組合(1914年4月,京城居留民団を京城学校組合に改組)経営の京城公立簡易商業専修学校
となった。京城公立簡易商業専修学校が日出小学校にとって特に意味を持つのは,この学校が1922
年京城日出公立商業補習学校,1929年京城日出公立商業実修学校に格上げされ(簡易商業専修学校
の教員は訓導,商業補習学校・商業実修学校の教員は教諭),日出小学校の訓導が京城日出商業補
習学校・京城日出商業実修学校の教諭を兼務することによって奏任官への道が開かれたことである。
 1917年4月,京城東大門公立尋常小学校が設立された。東大門小学校の新設は,日出小学校の校
区改編と児童の転籍を伴うものであった。また,東大門小学校の初代校長には,かつて日出小学校
の訓導であった田島吉次郎が就任した。
 1923年4月,児童数の膨張に対応して日出小学校南山分教室が設置されたが,1年後の1924年4
月,この分教室を核として南山公立尋常小学校が開設された。南山小学校の開設は,結果的に日出
小学校の最後の細胞分裂であった。
 1935年8月,鉄筋コンクリート3階建の新館工事に着手,翌年8月落成した。
 1941年4月,内地での国民学校制度の発足に伴い,日出小学校は「京城日出公立国民学校」と改
められた。
 1943年12月10日,未明の不審火により旧校舎が全焼した。1906年以来日出校のシンボルであった
赤煉瓦の校舎が失われたのである。
 敗戦40日後の1945年9月24日,日本人の学校は閉鎖する旨の米軍政布告によって日出校は,他の
「内地人」学校ともども公式に終焉を迎えた。

二 教員の去就
 1.校長
 日出小学校には2代2年半の校長心得時代があり,その後正式校長は11代を数えた。初代校長心
得は麻川松次郎である。麻川は,いっからかは不明であるが,1892年5月共立学舎の教員として京
城に赴任するまで仁川小学校の訓導であった。京城初の正教員であったからこそ,京城居留民会は
彼に校長心得の職名を与えたものと思われる。在任2年にして病気のため辞職したが,韓国政府は
彼を放っておかず,すぐに学部顧問として雇い入れた。学部が1896年2月に発行した『新訂尋常小
学』の序文には,「ここに日本人補佐員高見亀・麻川松次郎とともに小学の教科書を編集した」と
ある。
 松崎高直の第2代校長心得は,1894年6月~1895年1月のショート・リリーフ的な役割で,松崎
は,その後1898年春まで訓導として勤続している。
 初代校長早川清範は,1895年2月に就任し,日清戦争の余波で荒れた施設・設備の再整備,南山
洞新校舎への移転など日出小学校の基礎を固めた。佐賀県人の故か,「教科書は多く佐賀県審査の
書目を用」いたという。対外的な活動も活発で,1895年5月の『教育時論』には「頃日京城日本
居留地小学校長早川清範,日本高等小学校位の程度にて,万国地誌歴史を編輯し,之を朝鮮諺文に
訳す」とあり,1900年には庚子記念京城幼稚園の創設に尽力している。1901年2月の校長辞任後
は実業家となった。1905年木浦新報社発行の『在韓人士名鑑』の早川清範の項は次のとおりである。
 君は佐賀県の人,夙に教育に志し,九州各地に教鞭を執れる中,京城公立小学校に湿せられ入り
て其校長となり,爾来熱心経営する処あり,今の京城小学校の盛なる基礎を為せるもの,君の大に
与って力ある所,打ち職を辞して実業界に投じ,京城貨幣交換所々員となり,傍ら佐賀県派遣留学
生を監督す,本年貨幣交換所の解散せらる・や,専ら諸般実業経営に努む。伽
 ちなみに「傍ら佐賀県派遣留学生を監督す」というくだりは,当時「熊本県派遣朝鮮語留学
生」と同じく佐賀県からも県費留学生が派遣されていたことを示す証拠である。
 第2代校長小森秀一郎については,在任期間が1901年3月から1903年2月までであったという以
上の情報を持ち合わせていない。
 第3代校長横山弥三は,1903年3月山ロ県の小学校長を辞して赴任した。在任5年にして転出し,
京城第二小学校(1908~09年度)・京城南大門小学校(1910~14年度)・京城西大門小学校(1915~
21年度)・寿松普通学校(1922~29年度)の各校長を歴任した。1910年の韓国併合直前すでに大校
長に列せられていたようで,当時の教育雑誌には次のような記事がある。
 韓国京城に於ける小学校教員は漸く待遇の度を高め訓導は校長給を除くの外は平均四十円余に及
べり。韓国京城南大門尋常高等小学校の横山校長の如きは月額百円の収入ありて内外の信用も頗る
厚しと云ふ。今様の一例を雪ぐれば統監の披露会に於ても総理大臣の宴遊会に於ても必ず招待を轟
くると云ふ。
 第4代校長河合精一郎の前職は,大分県速見郡視学であった。日出小学校長在任は1908年4月~
1919年7月の11年3ヶ月に及び,これは歴代校長中の最長記録である。この間1909年4月には京城
中学校が開設され,京城中学校への最大の入学者送り出し校として日出小学校の地位は一層高まっ
た。一方,河合校長時代の末期には大正デモクラシーの波が日出小学校にも及び,「京城の学習院」
の変質を促した。次は日出小学校旧職員座談会の一節である。
 京城の学習院だと河合さんが自認してをつたことに関連しますが,大工さんの子供が訓導に任命
された時,時の府サに校長が,「俺の学校は大工の子ぢゃ勤まらん。」と言った。私等もそれを応援
しましたが,教育はデモクラシーの時代だからと言ふので河合さんも納得してその訓導を入れたが,
それから後は学習院といふ看板は実質的に変りました。(10)
 在任期間が長かっただけに,河合校長の印象は多くの教え子たちに強く刻されたようであるが,
最も有名な語り草は,河合校長が判任官,実弟の河合操陸軍大将が勅任官,つまり制服の金筋が1
本と3本だったというものである。ある教え子は,河合校長に同情しながら次のように述べている。
 (前略)ところが,このえらい河合校長も「一本すじ」である。河合校長は,大分県の旧家の出
とかで,河合陸軍大将の実兄である。旧家で格式はあるが金はない。そんな場合には,子どもは金
のいらない師範学校か軍人の学校にいく。師範に行ったらいくら昇進しても判任官,軍人になった
方は将官にもなるという風で,いつしか兄弟で階級が大きくひらいている例はよくあるが,河合校
長もその例であろうか。同じ兄弟で,「一本すじ」と「三本すじ」
 河合精一郎は,1919年7月,日出小学校長を依願退職した。それは同時に,教育界の第一線から
の引退でもあった。
 第5代校長大山一夫の日出小学校長在任は1919年8月~1930年4月であるが,彼と韓国の縁は併
合前に遡る。1906年4月,東京の小学校訓導であった大山は,漢城(京城)の韓国官立養士洞小学
校教員として招聰されたのである。同年9月,小学校を改編した普通学校体制が発足,大山は海州
普通学校教員に任命された(1908年1月1日付で訓導兼山監)。1908年5月,鎮南浦普通学校訓導
兼教監に転任,併合後は同校校長となった。1914年4月京城府書記となり,1919年8月,直直学務
主任から日出小学校長となったのである。在任10年8ヶ月は河合精一郎には及ばないが,大山の足
跡は,歴代校長中最も高く評価されている。
 第6代校長石原清煕は,1905年5月,朝鮮でのキャリアを日出小学校訓導としてスタートさせた。
その後暫く(1908~11年)の経歴は確かめえないが,1912年以後は京城桜井小学校(~1914年度)・
京城南大門小学校(1915~21年度)・京城西大門小学校(1922~29年度)の各校長を歴任し,1930
年4月,日出小学校長となった。しかし,1年後には依願退職し,第一線を退いた。つまり,石原
にとって日出小学校は,朝鮮での教職生活の終着点でもあったのである。
 第7代校長小坂権太郎は,梅洞普通学校(1917~21年度)・校洞普通学校(1922~24年度)・京城
鍾路小学校(1925~30年度)と14年にわたって3校の校長を務めた後,1931年3月,日出小学校長
に就任した。そして,これを花道として1935年3月,依願退職した。
 第8代校長宮里貞徳は,日出小学校長となる前に京城元町小学校訓導(1927~29年度)・平沢普
通学校長(1930~32年度)・京畿道視学(1933~34年度)を経験していた。日出小学校長は4年間
務め,1939年3月,京城孝悌小学校長として転出した。1943年までの孝悌在任は確実であるが,そ
れ以降は不明である。
 第9代校長江藤良人は,朝鮮人初等学校(1937年度までは普通学校,1938~40年度は小学校)の
校長として14年のキャリアを持っていた。その勤務校は,いずれも京畿道内の南面普通学校(1925
~29年度)・長漏普通学校(1930~32年度)・鳥山普通学校(1933~36年度)・仁川昌栄普通学校
(1937年度)・仁川昌栄小学校(1938年度)である。1939年3月,日出小学校長に就任し,4年後,
京城府学務課長に転じた。
 第!0代校長岩崎清は,梅;洞普通学校長(1928~29年度)・漢洞普通学校長(1930~32年度)を経
て内地人教育に転じ,京城三坂小学校長(1933~36年度)・京城南大門小学校長(1937~40年度)・
京城南大門国民学校長(1941~42年度)を務めた後日出国民学校に赴任した。しかし,日出在任は
僅:か!年であった。1944年3月,依願退職して故郷長野へ帰ったが,同年末には病没した。文字ど
おり日出校で燃え尽きたとみてよい。
 最後の校長町田定治は,1944年4月に就任し,敗戦とともに日出校の最期を看取った。それ以前
の校長歴は,斎洞普通学校(1921~26年度)・孝昌普通学校(1927~28年度)・京城女子普通学校
(1929~32年度)・京城西大門小学校(1933~39年度)・京城校洞小学校(1940年度)・京城校洞国民
学校(1941~42年度)・京城西大門国民学校(1943年度)と実に23年に及んでいる。
 以上みたような校長たちの経歴は,日出小学校の「歴代の校長は教育界の元老格の人格者が就任
された」(12)という定評を裏付けるものである。「教育界の元老格の人格者」とは,彼らが日出小学
校長となる前にすでに豊かな教育経験を有していたことを意味する。日出小学校長のポストは,京
城の,したがって朝鮮の初等学校長の序列上トップに位置し,事実,大半の日出小学校長にとって
それは,教職生活のゴールだったのである。

 2。訓導
 『京城日出小学校百年誌』によれば,ごく短期間の勤務者を含めて日出小学校の旧教職員は総員
298名である。このうち歴代校長(心得)を除き,日出小学校訓導をステップとしてその後教育界
に雄飛した人々を題名か紹介しよう。(日出小学校着任順)
 京口さだは,もともと幼児教育の専門家で,庚子記念京城幼稚園の事実上の園長(1901~12年度)
として有名であったが,その初期の2年間(1901~02年度)は,形式上日出小学校の職員であった。
 大川岩市は,1905年11月,日出小学校訓導から龍山小学校初代校長となった。しかし,翌1906年
9月,新校長が就任して大川は平訓導に格下げとなる「不思議な人事」(13>が行なわれている。1914
年,龍山小学校から西大門小学校に移り,1916年,京畿道・安山普通学校で晴れて再び校長となっ
た(1924年度まで)。
 上野竹逸は,日出小学校訓導(1904~06年度)の後仁蜆普通学校(1907~09年度)と釜山普通学校
(1909~11年度)の訓導兼教監を務めた。当時の普通学校の日本人教監は,実質的には校長であった。
 岡田貢は、日出小学校(1904~08年度)・京城第二小学校(1909年度)・南大門小学校(1910~14
年度)の訓導としていずれも同県(山口県)人の横山弥三校長に仕えた。1915年校長に昇任し、仁
蜆(1915~18年度)・校洞(1919~21年度)・孝昌(1922~26年度)と京城府内普通学校の校長を歴
任した。
 波多江次雄は,日出小学校訓導(1906~10年度)から京畿道の普通学校教員となり,開城第一普
通学校訓導(1911~12年度)を経て加平普通学校長(1913~15年度)・始興普通学校長(1916年度)
を務めた。
 山本吉久は,日出小学校(1906~07年度)の直後の経歴を確かめえないが,1912年には南大門小
学校訓導であった。そして1913(大正2)年,全羅北道群山に赴いて群山小学校長となり,1917年
には龍山小学校長として京城に戻った。この人事は,「大正二年南大門校の教頭から群山へそれか
ら五年後京城龍山への捲土重来であった」(14)と評されている。続いて山本は南大門小学校長(1925
~30年度)・校洞普通学校長(1931~36年度)を歴任し,「半島教育界の第一人者であり稀に見る傑
物として高名を馳せた」という。
 **(私の祖父だが実名は伏せた) 伊三次も,山本吉久と同じく日出小学校訓導(1906~07年度)の後暫くの経歴が不明であるが,1912~13年度は京城愈々小学校訓導であった。その後,西大門小学校訓導(1914年度)を経て桜井小学校長(1915~18年度)となり,京城女子普通学校長(1921年度)も務めている
 貝原勇は,日出小・桜井小の訓導の後,1918年,往十里普通学校長となった。その在任は,1930
年まで12年間に及んだ。
 田島吉次郎も,日出小・桜井小の訓導の後校長街道を歩み始めた。1917年度の東大門小学校は校
長事務取扱であったが,以後は正式校長となる。その勤務校は昌信普通学校(1918年度)・水下心
普通学校(1919~22年度)・舟橋普通学校(1923~24年度)・南山小学校(1925~29年度)・南大門
小学校(1930~33年度)である。すでに1930年の時点で「氏は殆んど都市初等教育の元老にして功
績著し」とされている。
 河野卓爾は,日出小学校(1910~16年度)の次の血路小学校(1917~18年度)までが訓導で,そ
の後桜井小学校、(1919~21年度)・南大門小学校(1922~24年度)・校洞普通学校(1925年度)の校
長を務めた。
 片岡喜三郎は,日出小学校訓導(1911~13年度)から開城小学校長(1914~16年度)となった。
しかし,京城にUターンして龍山小学校では再び訓導に戻り(1917~19年度),次の鍾路小学校で
改めて校長となった(1920~24年度)。元町小学校長(1925~29年度)も務めた。
 加藤五三郎も,日出小学校訓導(1911~15年度)から校長となり,加平小学校(1916~18年度)・
南漢;山普通学校(1919年度)に勤務した。
 草野秋喜も,日出小学校訓導(1913~19年度)から永登浦普通学校長(1920~21年度)となった。
 吉村清は,日出小学校(1914~20年度)・南大門小学校(!921~32年度)・龍山小学校(1933~34
年度)の訓導を経て校長となり,仁川第二普通学校に勤務した(1935~36年度)。その後京城に戻っ
て三坂小学校長(1937~38年度)・光煕小学校長(1939~40年度)を歴任した。1943年の光煕国民
学校長在任までは確認できるが,44年以降は不明である。
 赤津基は,1919年2月に渡航して日出小学校に着任したが,結果的に朝鮮での平訓導は日出小学
校時代だけであった。1933年水原小学校長,1937年京城南山小学校長,1942年京城鍾岩国民学校長
となり,西大門国民学校長として敗戦を迎えた。
 武田一郭は,日出小学校勤務(1919~21年度)の後西大門小学校訓導(1922~24年度)を経て東
大門小学校長(1925~29年度)となった。その後京畿道視学(1930~32年度)として教育行政に携
わったが,再び学校に戻って京城男子高等小学校長(1933~38年度)を務めた。
 中尾豊は,1919年4月に渡航して日出小学校訓導となり,1922年5月,龍山小学校に転任した。
1925年9月校長に昇任,龍山普通学校長(1931年度まで)・舟橋普通学校長(1932年度)を務めた。
 柴崎直太は,日出小学校訓導(1919~22年度)の後鍾:路小学校訓導:(1923~28年度)を経て校長
となった。校長在任校は貞洞普通学校(1929~31年度)・水下洞普通学校(1932年度)・開城第二普
通学校(!933~34年度)・開城元町普通学校(1935~37年度)・開城元町小学校(1938~40年度)・
開城元町国民学校(1941~42年度)と数多いが,実は開城所在の4校は,校名が変わっただけの同
一校である。
 小川吉太郎は,日出小学校訓導(1920~26年度)を最後に内地人教育を離れ,以後は朝鮮人初等
学校の訓導~校長として一貫した。訓導としての勤務校は京城の斎洞普通学校(1927年度)・於義
洞普通学校(1928~29年度),校長としての勤務校は京畿道の竹添普通学校(1930~34年度)・金良
場普通学校(1935年度)・龍仁普通学校(1936~37年度)・金良小学校(1938年度)・城湖小学校
(1939~40年度)・水原城湖国民学校(1941~42年度)・品川中央国民学校(1943~?)であった。
 土生米作は,日出小学校(192!~28年度)・西大門小学校(1929年度)・於義洞普通学校(1930年
度)の訓導の後校長となり,梅洞普通学校長(1931~35年度)・元町小学校長(1936~40年度)・京
城元町国民学校長(1941年度)を務めた。
 山中千代二は,1921年から12年間日出小学校の訓導であった。その後1933~34年度の消息は明ら
かにしえないが,1935年から庚子記念京城幼稚園の園長となった(1940年以降は不明)。
 中村多門は,日出小学校訓導(1922~23年度)から三坂小学校長(1924~29年度〉となった。初
めて校長となった中村は,権力には屈しない,受験勉強は必要ないという信念を貫いたようである。
三坂小学校のある部下教員は,教育者中村多門の姿勢を次のように語っている。
 権力に屈しない。私はそれをあの人から受け継ぎました。私は別に,あの人の授業を見たことも
ないし,教育の方針を聞いたこともない。わずかな期間でしたからね。しかし,権力に屈しない絶
対の強さは見事でしたね。あの当時,父兄から,やいのやいの,と受験勉強をさせてくれという陳
情が学校へ来る,視学の方でも,建前として表には出さないけれども,少しは受験勉強に熱を入れ
てほしいという考えもあったが,ガンとして自分の一念を通しましたね。(17)
 三坂小学校に続いて中村が校長を務めた学校は桜井小学校(1930年度)・於義洞普通学校(1931
~37年度)・孝悌小学校(1938年度)・校洞小学校(1939年度)・西大門小学校(1940年度)・西大門
国民学校(194ユ年度)・京城男子国民学校(1942~?)で,その校長歴は20年に及ぶ。
 前村源松は,日出小学校(1922~26年度)の後朝鮮人教育に転じた。訓導として3つの普通学校
(西大門・舟橋・貞洞)に1年ずつの在任を経て校長となり,仏前普通学校(1930~32年度)・松披
普通学校(1933~34年度)・舟橋普通学校(1935~37年度)・一項小学校(1938~40年度)・輪西国
民学校(1941~?)の校長を歴任した。
 佐藤穂三郎は,日出小学校の訓導(1922~28年度)から普通学校の校長となり,斎洞普通学校
(1929年度)・金良場普通学校(1930~32年度)に勤めた。
 岡本友一は,13年(1922~34年度)の長きにわたって日出小学校訓導を務め,水原普通学校訓導
(1935~36年度)を経て校長となった。校長在任校は広島普通学校(1937年度)・龍門小学校(1938
~39年度)・知道小学校(1940年度)・知道国民学校(1941年度〉で,いずれも朝鮮人学校である。
 沢田稔は,岡本友一よりさらに長く15年間(1922~36年度)日出小学校に勤め,3つの朝鮮人学
校(平沢普通学校・平沢城東小学校・仁川昌栄小学校)を転々とした後1941年,仁川旭国民学校の
校長となった(1944年以降は不明)。
 彦崎鉄太郎は,日出小学校訓導(1923~24年度)・龍山小学校訓導(1925~28年度)を経て楊平
小学校長(1929~30年度)となった。
 井沢宇三郎は,全羅北道で群山小学校長(1918~19年度)の経験がありながら,朝鮮の中心地京
城では格下げとなっている。すなわち東大門小学校訓導(1919~23年度)・日出小学校訓導(1924
年度)がそれである。その後開城女子普通学校長(1924~30年度)となり,京城でも桜井小学校長
(1931~41年度)を務めた。
 柘植滋は,日出小学校訓導(1925~29年度〉から京畿道・安城小学校の校長(1930~31年度)に
栄転した。
 山下義雄は,日出小学校(1925~32年度)に続いて元町小学校・昌信普通学校・南山小学校の訓
導を2年ずつ務めた後,1939年京城昌慶小学校長,1941年京城昌慶国民学校長となった(44年以後
は不明)。
 野田九八は,日出小学校訓導(1926~39年度)の直後2年間の経歴が明らかでないが,「奏任官
ノ待遇ヲ受クル国民学校訓導(学校長)」として1942年と1943年の「朝鮮総督府職員録」に登場す
る。勤務校は京城清涼国民学校であった。
 大沢武雄は,日出小学校に赴任する前に南大門小学校訓導(1917~18年度)・三坂小学校訓導
(1919~27年度)の経歴があり,日出小学校教頭(1928~29年度)から西大門小学校長(1930~32
年度),さらに京城女子普通学校長(1933年度)となった。
 以上みたように日出小学校訓導の直後に,あるいは数年後に他校の校長となった例は数多い。こ
れは,教員人事に際して優秀な人材が集められ,結果的に日出小学校が,いわば校長の養成所とし
て機i能したことを物語る。女性教師や若手教師に関しても,「当時(1922年当時一二旧註)の日
出の女先生は,何れも京城女教員中の年長組であった」(18),「また若い先生方にしてもそれぞれ特
技を持った,一般の学校では見られない職員組織だったようです」(19)という証言がある。
 このように教員のプレスティージが高く,まして京城一の伝統と格式を誇る日出小学校であって
みれば,在職教師たちは自ずから誇り高かった。したがって,日出からの転出が左遷と感じられる
こともあったのである。1919年4月,日出から三坂に移った西館善平は次のように回想している。
 三坂小学校に転勤を命ぜられたのは,大正八年の四月,京城中学の教員養成所を卒業して五年目
であった。それまでは朝鮮一の古い歴史のある日の出小学校に勤務していた。歴史のある学校,赤
二二の堂々たる校舎に勤務していれば,それだけでも何となく誇らしく感じていたのである。それ
が京城の場末の新開地三坂の教員に。それは左遷されたようにも見える。

三.日出小学校の「学校文化」
 日出小学校の校舎は,その前身時代何度も移転したが,日出町に落ち着いてからは京城の政治・
経済の中心に位置することになった。統監府(およびこれを引き継いだ総督府)をはじめとする官
庁・官舎や日本人商店街として賑わった本町などが校区内にあったからである。後発の小学校が新
設されるたびに校区の周辺部を割譲し,ますます京城の中心としての性格を強くしていった。
 校区内に官庁や会社が多いということは,転勤する保護者が多く,したがって児童の転入・転出
も頻繁なことを意味した。日出小学校では「定住組」「渡来組」という用語も流布した。
 官僚社会の階級制度は,日出小学校教員(判任官で制服の金筋は1本)の威信にも関わることが
あった。「児童生徒の父親には,二本筋もあれば三本筋もありで,先生の面目も威信も台なしの丸
つぶれという場面がしばしば」あったという。
 しかし,教員にとってのデメリットの一方で,学校が統監(総督)の足元に位置することは,多
くの児童にとって自慢の種だったようである。明治時代の卒業生の回想記に,「年々統監邸へ招ば
れることが,当時に於ける何よりの自慢であった。日本人生徒だから招ばれるのである。日出学校
児童だから骨ばれるのである」(22}とある。このような一種のプライドはやがて,「日出は京城で一番古
く,一番良い学校です。日出の生徒は京城中の小学生のお手本にならなくてはなりません」という意識に転化する。
 日出小学校の教育目標は校訓に集約されている。校訓は次の5条から成るが,「第四,第五条の
二条は居留地教育の特色として殊に重きを置く所」であった。
第一条
第二条
第三条
第四条
第五条
教育勅語を奉体して忠孝の道に心掛くべし。
教師の教を守りて徳性を養ひ学業を励むべし。
身体を健全にして進取の精神と堅忍の気力とを奮起すべし。
内外国人に対しては公徳を重んじ我国民の品位を保持すべし。
我等の祖先が昔時東亜大陸に於て活動せしことを忘るべからず。
 校訓の趣旨を受けて制定された校歌は次のとおりである。とくに校訓第五条が「勇気に満ちし健
児等は 母国を後に西東 今や宇内に展ぴんとす」「祖先の遺せし業なる 東亜大陸活動の 基を
作り造らなん 奮へ諸人諸共に 勇め諸人諸共に」といった歌詞に反映されている。
一.悠々二千五百年
  皇統連綿絶え間なく
  一指を染めし敵はなし
  情は親子のあつきあり
  宇内に嘗て類なき
二.国土は肥えて五雨十風
  国民常に勤勉に
  平和の薫り地に満ちぬ
  大八洲に横溢し
  母国を後に西東
三.あ・列聖の恩に浴び
我等のつとめは単なるぞ
  学と徳とを修養し
  堅忍不挑の精神と
  高き聖恩報いなん
四.漢江の岸南山の
  建てる京城小学校
  互にはげみいそしみて
  東亜大陸活動の
  奮へ諸人諸共に
開国紀元の始めより
国運日々に隆興し
君臣の分明かに
しかも山河は明媚にて
国てふ国は此国ぞ
穀物豊かに実りして
希望の光り天に照り
されば国力日に月に
勇気に満ちし健児等は
今や宇内に展ぴんとす
祖先の威光に生ひ立ちし
畏き勅語を奉体し
又身体を鍛錬し
進取の意気とを奮起して
深き国恩報いなん
麓に栄ゆる居留地に
学ぶ数百の学友よ
祖先の遺せし業なる
基を作り造らなん
勇め諸人諸共に
 日出小学校関係者のプライドを実質的に支えていたのは児童の学業成績,なかんずく中学校・高
等女学校への進学競争における好成績であった。朝鮮に中学校がなかった1904年当時から卒業生の
「過半数は中学校に入り」といわれるほど日出小学校の進学熱は高かったが,1908年に京城高等
女学校,1909年に京城中学校が創設されてからはこの両校に主力が注がれ,日出小学校は,朝鮮に
おける名門男・女中等学校の双壁である京城中学校・京城(第一)高等女学校への進学者数におい
て常にトップであった。京城第一高等女学校(京城高等女学校の後身,1922年改編)では次のよう
なエピソードがあったという。
 第一高女に入った時,地方から来た人に,「日出は人数が多くて威張ってるわね」と言われた。
何しろ一クラスから二十人も入っているので,どこを向いても日出の人がいて,全然緊張しなかっ
たから,そう見えたのだろう。
 そもそも入学時から,日出小児童の質は高かった。1919~21年度日出小学校に勤務した武田知星
は,「東京の青山師範の卒業で,東京の良いところの先生をしていたのだそうだが,日出小学校に
きて,子どもの質の良さには一驚したとよくいっていた」という。加えて,徹底した受験指導が
子どもたちの成績を向上させた。1937年から5年間日出小学校の高学年のみを担任した竹ノ内一郎
は,「子どもの心を無視した受験教育」を次のように俄悔している。
 六年生になりますと二学期中に教科書を終わり,あとは受験に備える日々でした。暗くなると,
文章とその解釈の暗訥でした。
 朝から四時間続けて算数をすることもたびたびでした。テストをするとその場で採点し成績のよ
い順にならばせたり,点数の悪い子はうしろに立たせたり,体罰を加えることもしばしばでした。
子どもの心を無視した受験教育で今なら即刻退職させられる人間味のない教育でした。子どもたち
はつらかったと思います。それでもだまってついてきてくれました。
 「六年生では,教科書は一学期ですべて終り,二学期からは模擬テストー本槍」という証言も
あり,受験体制の開始時期は,時代により,あるいは担任教師によって一定しなかったようである
が,いずれにせよスパルタ式の受験教育が行なわれたのである。進学競争が過熱する日出小学校区
ならではの理由もあった。ある下級官僚の息子は次のように述懐している。
 初代長官の家には「ペス」というよく吠える洋種の犬がいた。母がコロッケを作るべく,肉ダン
ゴを台所に並べておいたら,この「ペス」があがりこんでみな食べてしまったが文句もいえない。
犬まで長官の犬だと特別扱い。こんな絶対権力下の植民地の官吏の社会では,大学を出ない父など
はずいぶん損をしたようである。これが好むと好まざるとにかかわらず,私の兄弟が大学に進まさ
れた根拠になった。
 日出小学校の卒業生は,実質7,257名である(尋常科・高等科の卒業生総計から重複者等を除く)。
この中から多くの人材が輩出しており,「はじめに」に示した碓井益雄の一文にも野々たるメンバー
が紹介されている。彼らの多くは,日出小学校から京城中学校(あるいは龍山中学校)→内地の旧
制高校→帝国大学と進んだ人々である。

四.朝鮮社会との関連
 日出小学校の旧教職員298名の中には3名の韓国人教師がいた。その氏名と在任時期は,権薦挙
(1891~96年度)・姜環礁(1897~1904年度)・朴成圭(1905年度)である。日出小学校では,前身
の「共立学舎」時代から現地人教師による正規の朝鮮語教育が行なわれたとみることができる。
 日出小の語学教育関係の資料として最も古いものは1895年3月の『教育時論』で,日清戦争のた
め「昨年来休校したる京城の我高等尋常小学校は,近頃より本願寺別院に於て開校したり。生徒の
数目下四十六名なるが,是迄高等科には,英語を授けたるが,這度之を止めて,韓語に換へたりと
云ふ」とある。これによって,高等科の朝鮮語(韓語)教育は1895年からだったことがわかる。
 『京城府史』によれば,1895年の項に「当時学校の設備及教授の方法は小学校令に準じ教科書に
検定済のものを使用した。卒業者は直ちに商業に従事するものが多かったから尋常四学年より随意
科として朝鮮語を課した」(32)とある。一方,『京城日出小学校百年誌』では1900年4月,「本年度ヨ
リ尋常郷軍三学年ノ韓語科ヲ廃ス」(33)とされており,朝鮮語教育が実施された尋常科の学年が一致
しないが,いずれにせよ1900年当時,尋常科・高等科ともに朝鮮語が課されていたことになる。
 1903年ごろの在校生と教師はそれぞれ,「当時朝鮮語も学科の一つで姜環煕先生に教はった」,
「当時は朝鮮語の外に朝鮮歴史を教へ,女子には薙刀体操を教へた」と述べている。しかし,
1904年3月,日出小学校の「韓語科」は全廃された。韓国併合直前の1910年4月,再び随意科とし
て復活したが,韓語科はもはや実質的な意味を有しなかった。
 次に日出小学校の朝鮮人児童についてみると,1895年11月南山不明校舎の完成と同時に,「朝鮮
国民軍斑以上王族に至る,中等以上の種族にして,帝国京城領事の認可を経たるものに限り入学を
許すこととし」た。そこには,「朝鮮人との融和をも計り生徒も鮮語に熟達せしむる」という
狙いもあった。1898年4月,日出小学校の過密化のため朝鮮人の入学は公式的には拒絶されたが,
少数の入学はその後も続いた。『京城日出小学校百年誌』には,元ソウル大学総長サ日善(1910年
卒)・元韓国商工部長官具錯書(1913年卒)・李王殿下第一王女徳恵姫(1925年東京の女子学習院に
転学)などの名が見える。
 そもそも日出小学校は内地人町の中央にあり,朝鮮人社会と接する機会が少なかった。対人関係
があるとすれば,主として各家庭の使用人とのそれであった。「幼少の頃は年輩のオモニーが母親
を助けて家事をよく世話してくれ,成長すると若い女の子がよく手伝いに来てくれていたことなど,
いまだに強く印象に残っています」という1939年卒業生(女性)の回想記が残されている。彼女
が「オモニー」を本来の「お母さん」でなく「家政婦」の意味で用いたように,内地人町でもいく
つかの朝鮮語単語が通用したが,その多くは独特の意味合いで日本語化されたものであった。内地
人がほとんどいない田舎で育ち,日常朝鮮語には不自由しない状態で日出小学校に入学する者もた
まにはいた。しかし,彼らも,数年のうちに朝鮮語をきれいに忘れてしまうのが普通であった。

おわりに
 日出小学校出身者のプライドは,第一義的に,母校の伝統に根差していた。冒頭に紹介した碓井益雄の長兄忠平はこれを,「校舎の堂々たること,京城で一番古い歴史を持つた学校であることは吾々の誇だつた。殊に新設の学校が分立する毎に,自分等は宗家の様な気がして優越感を感じたものだった」と率直に披渥している。
また,日出小学校が統監・総督のお膝元に位置し,植民支配機構の高官や朝鮮貴紳の子弟が入学したこと,日本皇族が訪朝して学校を視察する際には日出小学校が対象から漏れることはまずなかったことなども,関係者が誇「朝鮮の学習院」の要因であった。しかし,筆者が本稿で追究したかったのは,教員の人事や児童の動向であるその結果,日出小学校の歴代校長は,すでに校長としてもベテランの域に達した人物が就任し,多くの場合,日出小学を教職歴のゴールとしたこと,訓導にとって日出小学校は,一種の登龍門的な機能を果たしたこと,卒業生たちは,受験競争を勝ち抜いて母校を朝鮮随一の進学の名門校たらしめたこと,などが明らかになった。これらの事実こそが,「朝鮮の学習院」を実質的に裏打ちしたのである。
 『京城日出小学校百年誌』には,京城時代に関する多くの関係の述懐が収録されているが,朝鮮認識を敢えてふたつにグルーピングすれば,植民地政策を皮相的に見ているもと,支配者側としての反省にまで至っているものに大別される。その代表例をひとつずつ紹介しておこう。日出小学校関係者のみならず,かつての「内地人」の間には,このような認識が併存しているとみることができる。
 
 そういえば,日本人の子弟は立派な校舎の小学校,中学校に通学ていましたが,当時朝鮮の人達の子弟には義務教育は行なわれておらず,寺小屋に通っているのをよく見かけたもです。これも植民地政策の一つの姿だったのだと思います。
ふり返ってみますと,私達京城に育った日本人はその少年少女時代を何不自由なく楽しく幸せに過ごしました。日出小学校の思い出は,どれをとってみても涙が出る程懐しく,美しい珠玉のようなものばかりです。然し,その幸せが多くの場合朝鮮の人たちの涙と犠牲の上に成立っていたとは……。知らなかったとは言え,本当に申し訳ないことをしたと思う気持でいっぱいです

                
        
          
  1. 2013/06/12(水) 01:34:22|
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