古本屋通信

学校教育私論の断片

古本屋通信   No 2487    2017年  03月25日

   学校教育私論の断片

 べつに石崎徹の「天皇退位私論」に当て付けた訳ではないが、ほんの私的な見解という意味で 「学校教育私論の断片」 と題した。たたき台に、先ほど寄せられた『京都民報』掲載の以下の記事を使わせていただく。


 卒業の夢かなえたよ 朱雀高校 若い仲間を励まし支え
 63歳の井筒かほるさん「心に決めて果たせなかった夢をかなえました」

 1年前の八幡市長選挙(16年2月)で「八幡市民の会」の候補者として奮闘した井筒かほるさん(63)が、府立朱雀高等学校(京都市中京区)普通科を卒業し、5日の式典では卒業証書を手に同級生と喜びを分かち合いました。同校通信制に学び、卒業資格単位を3年間で修得。今月には64歳の誕生日を迎え、同校81人の卒業生のうち最高齢です。

 八幡市長選挙に”高校生„で立候補 
 井筒さんは中学卒業後、同通信制の入学願書手にしたものの、西陣織刺しゅう加工会社の勤務を経て、民主商工会事務局で中小業者の営業とくらしを守る活動に従事してきました。退職を機に、念願だった高校進学を決意。数学の三角関数、英単語の習得には苦労し、「娘にも教えてもらいましたが、しんどかった」と明かします。想定外だったのは、候補者活動との両立。選挙上、”現役高校生„の立候補例は、「調査がなくわからない」(総務省)、「統計はないが珍しい」(京都府)とするまれなケースでした。そんな高校生活で、「孫に近い年齢の友達ができ、楽しかった」と目を細める井筒さん。スクーリングの日は一緒に食事に行き、課題レポートや試験の対策などを励まし合う仲間づくりを大切にしてきました。 2歳の娘をハグして「パパ、卒業できたわ」と伝えた大田大介さん(28)は3校目の挑戦でした。仕事の後の勉強は、くじけそうになりましたが、「声をかけ合うチームワークがあったから。”井筒チーム„のおかげ」と言います。北口海さん(19)は、「自学自習が基本ですが孤独にならず、同じような条件の人と仲良くなれたのは井筒さんがいてこそ」と振り返ります。 若者の働き方や経済格差が増すなか、「学びの場がみんなの権利として保障されなくてはいけない」と話す井筒さん。「卒業後も相談に乗れるつながりを大切にしたい」と抱負を語っています。




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 私は、この方は無所属で市長選に出馬されたが、旧くからの共産党員だと思うから、それを前提に最小限のコメントをして、後はこの方から離れて自論を書きたいと思う。

 色々の理由で義務教育だけ終えて就職した方がいる。私は上級の学校に進学するのがよいか否かは、一概に言えないと思う。行こうと思っても行けない場合もある。逆に行ける条件があっても、行きたくない場合もある。ただ働きながら学業を続けられる学校制度は昔からあった。定時制高校や通信教育や大学のⅡ部である。そこで学んだ人が本物だという場合は多い。そういう意味で拍手を惜しまない。

 ただ一点、別な事だが、一生涯の定年まで民商事務局員というのは無条件には支持できない。民商の職場の厳しさは倉敷民商弾圧事件を通じて知っているつもりだが、それでも無条件には支持できない。つまり「賃労働」でない労働は、この社会では例外的であるべきだというのが自論である。これは高松の市民劇場の崎山君の関連で書いたし、岡山の福木さんの民商専従40年にも疑問を持っている。この件では何回もエントリーを立て始めたのだが、いつも挫折した。微妙でむつかしい問題を孕んでいるからだ。私は議員、専従は短期で交代すべきだと思っているのだ。つまり組合専従がふつう数年で現場に戻るように。しかしそれは理想論だろう。


 以下が本論である。と言っても簡単に済ませる。たしかレーニンの 『青年同盟の任務』 だったと思う。青年同盟はマルクス主義を学ぶ学校だと規定していた。そしてマルクス主義は、既成の教条ではなく、人類のこれまでの科学遺産の全てのうちの優れたもの集大成である(但し個別科学に取って代わるものではない)。つまりマルクス主義は3つの源泉と3つの構成部分からなる、これがレーニン主義だったと記憶している。

 で、ここからが肝腎なのだが、日本や欧米のように資本主義の発達した国では、資本家の要請によって、それなりに学校制度が発達している。問題はコレを利用するか否かである。この件では、私の大学民青の時代に、ずいぶん議論があった。結論はトコトン利用すべきとなった。これは蔵原惟人などが論じている。ぬやまひろし(西沢隆二)は、大学なんか行くのは高慢ちきな物識りをつくるだけだから行かないほうがよい、と公言していた。

 私は初めの大学は教育学部だった。つくづくイヤになるようなつまらない授業が多かった。何とか卒業単位をとって岡山大学に学士入学した。哲学科だった。哲学関係は簡単に入学が認められた。しかし教育学部では第二外国語の単位を取得していなかった。だから学士入学は認めるけれど、ドイツ語の単位を岡大で4単位取得せよ、という条件が付いた。私はそれを簡単に考えていた。あとで知ったが、岡大の文科関係のドイツ語はベラボウに厳しかった。教官によってはクラスで数人しか単位を与えず、大半は落第させるのだった。「鬼の中野、仏の何たら」というのは法文のクラスでは定着していた。中野の授業も必ず一回は受講しなければならなかった。岡大に留年が多いのはそのためだった。私は哲学科でカントの演習なんかもやったから、ドイツ語だけは一日10時間くらい勉強した。今では全くだめだが、半年くらいで普通の独文は辞書があれば読めるようになった。この時の勉強は学校制度がなければ絶対にできなかったろう。ドイツ語に限らず外国語の習得など、凡人は独習では無理である(ただし会話はこの限りではない)。この時のドイツ語は私のマルクス理解にも貢献しているだろう。

 それから私は学業を中途で放棄する人をトコトン嫌う。高校中退は思春期だから仕方ない。大学を中退して党の関連団体に入るのは半分は横着、半分はエリート主義である。止むに止まれぬ理由は殆どの場合ない。大半は横着である。中退人間はロクでもない。これは労働条件が厳しくて仕事を変わるのとはまるで違う。こういう人間に限って、労働者階級が分かっていない。その典型が宮本岳志だ。もうこれは軌道修正は効かない。骨の髄まで冒されている。潰すしかない。

 仕事の電話が入ったので中断する。

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   再録


   
古本屋通信  No 376  8月23日

   宮本岳志のこと 


 私が宮本岳志のことを、どうしようもない救いがたい不良党員だと思ったのは、以下に貼るかれの一文を読だ時だった。全文を転載し、問題個所を色文字に変換した。そのあとに私の短文を添える。こういう男が何処でどう間違えたか、国会議員になってしまった。


 故・森実一広同志のこと 宮本岳志 2006年02月20日
 2月15日は私にとって終生忘れられない日です。1998年2月15日、ともに青年運動に打ち込んできた、当時日本民主青年同盟中央委員長だった森実一広さんが委員長在職のまま亡くなられました。前年末から「風邪ひきをこじらせた」とは聞いておりましたが、突然の訃報に驚愕したことを昨日のことのように思い出します。

 森実さんがまだ民青京都府委員長をされていた時、私は大阪府委員長でした。民青同盟の中央委員会や都道府県委員長会議は伊豆にある青年学習会館で開催されるのですが、だいたい近畿圏の府県委員長は同じ部屋が割り当てられ、よくお互い深夜まで語り合ったものでした。若い時代ですから夜はずいぶん酒も飲みましたが、彼はそういう時でもあまり深酒はせず、気がつくとベッドで一人本を読んでいるというたいへんな勉強家でした。

 森実さんは京都大学卒業という秀才で、頭脳が明晰というだけでなく、青年運動にあくなき情熱を傾ける情熱家でもありました。当時、大阪の民青が京都よりさほど進んでいたというおぼえもないのですが、年齢的にも先輩に当たる私に、絶えずいろんなことを質問し、「京都もぜひ大阪に学んで」などとおっしゃるのです。こちらのほうが恥ずかしくなるときもありました。

 1994年4月の民青同盟第22回全国大会で私が民青同盟大阪府委員長を退任、民青を卒業し、1995年7月にたたかわれる参議院選挙の日本共産党比例代表予定候補となったその時に、森実さんは民青同盟中央副委員長として、京都から東京に赴任されたのです。当時、私は彼のような有能な人が民青中央を担ってくれるのなら本当に安心だと思ったものです。

 森実さんの死は、民青同盟にとっても、私たち同時期に青年運動に打ち込んできたものにとっても、簡単には受け止めきれない出来事でした。民青同盟にとっては、「亀戸事件」で関東大震災のさなか、官憲にとられられ虐殺された共産青年同盟初代委員長、川合義虎氏以来、二人めの委員長の在職死となりました。

 「最初は風邪ひきだったものを、無理をしてこじらせてしまった」ということを知ったとき、私は忘れることのできない彼の人柄をあらわすある出来事を思い出したのです。

 私たちが民青の活動をしていた頃、まだ「青年運動」という月刊誌があり、そこには「専従同盟員として生きる」というコーナーがあり、全国の専従者が順番に自分の思いを書くことになっていました。ある号に、森実京都府委員長の文章が掲載されたのです。彼は次のようなことを書いていたのです。

 自分の大学の同窓生は、ほとんどが銀行や一流商社などにつとめ、海外へ赴任したりビジネスの最前線で働いている。しかし今、そういう職場では大企業の儲けのために、際限のない長時間過密労働がまかりとおり、体がボロボロになるまで働かされている実態がある。しかし自分は、民青同盟の仲間たちとともに、生きがいを社会進歩に結んで生きる道を選んだことはたいへん幸せなことだと。

 私はここまで読んで、きっと彼は「確かに経済的には恵まれない仕事ではあるが、いくら裕福でも身体がボロボロになるまで働かされるより自分のほうがずっと幸せだ」というふうに論じるのだろうと思ったら、彼は違ったのです。そこには「だから、深夜まで煌々と灯りがともるオフィス街を見上げながら、そこに苦しめられている同窓生たちがいる、もっと自分はがんばらねばならないと決意を固めるのです」と結ばれていました。

 私は恥じました。われわれはこうでなくてはいけないと。感動した私は、当時大阪の専従者を集めてこの文章をみんなで回し読みし、自分の反省を述べたのを覚えています。しかし、そういう人だっただけにがんばりすぎたのだと思うと、「森実君、もういい、何もそこまでがんばらなくってもよかったんだ」という思いが次から次へとこみ上げてきて、涙が止まりませんでした。

 私が比例代表候補の任務を終え、大阪の地区委員会で赤旗の配達集金の仕事をはじめてまもなく彼が中央委員長に選出されたと聞きました。やっぱり日本を背負う人だ、将来は国会に出ても十分活躍できる人だとうれしくそのニュースを聞きました。それが、私が98年参議院選挙の大阪選挙区の予定候補となり大阪を駆けめぐる中での突然の訃報…「森実君、それはないだろう」との思いでした。

 私は彼の葬儀の日、彼の遺影の前で、きたる参議院選挙で必ず勝利すること、そして彼がなしえなかった、政治の革新をその遺志を継いで必ず成し遂げることを誓ったのを今でもはっきり覚えています。98年の参議院選挙は彼の遺志も背負ったたたかいでありました。それ以来私は、彼とともにたたかっているつもりです。

 毎年2月15日がやってきます。今年で8回目の命日でした。「去る人、日々にうとし」と言いますが、「森実一広」という名前は徐々に人々の記憶から薄れていくことは否定できません。日本民主青年同盟は青年の組織です。未来の組織です。若き担い手たちが次々と入れ替わっていくのは当然であり、それでこそ前進するのです。いつまでも過去を振り返り、涙するというようなことは青年同盟に負わせるべき仕事ではありません。

 だからこそ、私たちが。「森実一広」とともに若き時代、青年運動に情熱を傾け、ともに学びともにたたかった我々同時代に青年運動を担ったものが、彼の名前と業績、その稀有な能力と優れた人となりを一生背負って行ってやらなければならないと思っています。2008年は彼の没後10周年です。ぜひとも彼を偲ぶ関係者のつどいを開きたい。そして来年は彼とともに参議院選挙をたたかい、再び勝ち抜いてその日を迎えることを彼に誓いたいと思います。



   古本屋通信

 青文字部分の要約からして、宮本流の捏造だろう。森実が「一流商社」などの語を使用する訳がない。すべてきれいごとだ。おまけに死者をダシにした、自分の立ち位置の正当化、合理化だ。アホらしくて書く気も失せるが。
 宮本は何も分かっていない。この資本主義社会を根本から変革していく力が、大企業で厳しい労働条件で働いている労働者、すなわち森実の旧同窓生たちの中にあることを。森実や宮本などの職業革命家の位置は、社会変革の事業にとって特殊な、いわば例外的な位置にあることを、宮本は全く分かっていない。言うまでもなく森実は分かっていた。だから旧同窓生に対しての優位性の意識などハナからない。
 私が宮本を許せないのは、かれが革命における労働者階級の役割を理解していないだけではなく、職業革命家と労働者を対立させ、前者の優位性に囚われていることだ。そのうえ許せないことには、自分の甲羅に似せて森実を描いているのだ。その根底には科学的社会主義についての、驚くべき無知がある。しかし、こういうマルクス思想の欠片もない男が、非常勤とはいえ、党附属社会科学研究所に在籍していたという事実。宮本の一文は、死んだ森実の冒瀆であるばかりでなく、日本の労働者にたいする決定的な裏切りを示すものだ。

 あんまり否定的な評価ばかりでは気が滅入るので、もうひとつ森実に関する追悼文を貼っておこう。こっちはマトモだ。執筆時がちょっと分からない。現在もHPが生きている。



 森実一広さんの思い出 植田謙一
 1998年2月15日、当時の日本民主青年同盟中央委員長だった森実一広( もりざねかずひろ)さんが亡くなった。その第一報を聞いたとき、僕は言いようのないショックを受けた。民青同盟委員長としては、これからが本領発揮だと期待していたこともあったが、他方で病気療養中だと聞いていて回復を願っていたところでもあった。死因は「ヘルペス脳炎」だという。医学は門外漢だが、事実上の過労死だと受け止めた。われわれの運動の至らなさが森実さんを殺したような気がしてならなかった。
 森実さんについては、宮本たけしさんが ブログで思い出を書いておられる。宮本さんが民青同盟大阪府委員長だったときに、森実さんが同京都府委員長だったそうで、その頃の思い出が中心だ。僕は、学生時代にもっと密着して指導を受けた立場から思い出を語ってみたい。
 1987年に僕は大学に入学しているが、そのときの京大学生党委員長が森実さんだった。森実さんはすでに大学を卒業し専従活動家となっていたが、僕が法学部の直接の後輩に当たる、ということもあって、折にふれて大変身近にお世話になった。
 僕は、政治的に早熟で、小学校高学年の頃にはすでに「主義者」気取りだった。僕はそういうところをプライドにしてきたところがあったが、森実さんはレーニンの社会主義イデオロギーの外部注入論を紹介し、僕の経験は運動にとっては教訓化できないことを説き、僕の慢心を諫めてくれた。僕はレーニン理論の基礎を森実さんに教わったと思っている。僕の社会科学の基礎は、森実さんと学生学術サークルである社会科学研究会が固めてくれたと思っている。
 印象に残っているのは、森実さんの指導の温かさである。僕が入学する前は、下回生の日和見的な発言を聞くと血相を変えるような人だったらしいが、僕が入学した頃にはそういうことはなく(おそらく相当の努力をしたのだろう)、努めて温和に指導をしようとしていたようだ。運動がなかなかうまくいかないときでも、われわれの運動にありがちな精神主義的にあおる、ということはせず、状況を分析的にとらえることで、事態を打開しようとする姿勢が見られた。「運動が進まないといっても、活動家がサボっていてそうなっているわけではないのだから、そこはよく考えてことを進める必要がある」といった趣旨の発言をしていたのが印象に残っている。これは、僕にとってはわれわれの運動の現段階を見るときの視点として、重要な意味を持っている。
 僕は2回生のときに、所属大学を離れた活動上の任務を負っていたが、その任務を長期にわたって放棄をするという問題を起こし、所属大学での任務に復帰する、ということがあった。所属大学の活動家たちは割と僕に同情的だったが、当時民青同盟京大地区委員長だった森実さんはそこに釘を刺すことを忘れなかった。「問題を起こして帰ってきているのだから、大学の組織としては君を『歓迎』する、ということにはならない」と。厳しい言葉だったが、筋論だった。そういう筋を通す姿勢が、その温和な人柄とともに印象的な人だった。
 僕は活動上の困難があると寝込む、ということがときどきあったのだが、そういうときも根気強く話を聞いてくれて、打開のあり方を一緒に考えてくれた。
 プライベートでもお世話になることがあった。2回生の後期に僕は他大学の女性活動家と付き合っていたのだが、彼女は前の彼氏との関係を整理できず動揺を繰り返し、僕を振り回すことになり、僕はそれなりに苦労を強いられた。ことの経緯を知った森実さんは、率直に彼女の人格上の問題点を指摘し、僕に別れた方がいい、とアドバイスしてくれた。「恋愛は理性でするものではない」と即答を避けた僕だったが、そのことを彼女に告げ、「反論できなかった」と僕が言ったことが、別れの直接のきっかけとなった。反発した彼女は「じゃあ、別れよう」と売り言葉に買い言葉のつもりで、言ったが、僕はそれを機に本当に別れることにした。僕が本気で別れる決心をしたことに彼女はあわてたようだったが、僕の決心は固まってしまった。当時の彼女は恋愛をするには、人格上の問題点が大きすぎた。彼女に執着した僕にはそれは見えなかった。そこのところを森実さんは指摘してくれたのだった。この点では、僕は森実さんに感謝してもしきれないという思いを持っている。
 3回生の時から、僕の森実さんについての記憶は途切れる。当時の学生組織は、教養部(これ自体がもはや「懐かしい」概念だが)対策が中心だったため、3回生の僕を直接指導する機会が減ったのだろう。3回生以降、僕は苦悩をむしろ深めていくのだが、そのとき森実さんに相談ができていいれば、何かが変わっただろうか?
 その後、森実さんは民青同盟京都府常任委員、京都府委員長、中央副委員長、中央委員長と民青同盟での「出世」の階段を登っていく。森実さんの親しい指導を受けた身からすれば、それは自慢だった。
 最後に森実さんに会ったのは、1997年の中央赤旗まつりのときだった。ややお疲れの様子が気になったが、中央委員長ともなると大変だな、と思っていた。その後、森実さんは病に倒れ、逝ってしまうのである。
 僕は、民青同盟の方針に不確信を持つことも多く、森実さんが中央委員長だったときにもそれが払拭されたわけではないが、森実さんなら今後、なんとかしてくれるだろう、という希望を持てたのも事実だ。その希望が、森実さんの死によって断ち切られる、というのは何とも悲しかった。
 その後、民青同盟中央は、90年代後半の日本共産党の前進という情勢の中で、許しがたい路線をとることもあった。青年組織というのは構成員が若いため、どうしてもある程度の動揺が出てしまうものであるが、そんなとき、「森実さんが生きていたら」と思うこともあった。森実さんが健在であったら、本当に民青同盟の方針がまともなものになっていたかはわからない。しかし、森実さんは僕の希望の星だった。生きていたら、それこそ日本共産党を背負う人材になっていたに違いない、という思いもある。
 日本共産党と民青同盟の前途を考えるとき、森実さんの死はあまりにも大きな損失だったのではないか、という思いが僕にはある。それは、僕の森実さんへの個人的な尊敬とはまた別の問題であるが。
 厳密に言えば、唯物論者に「冥福」はない。森実さんの生きた証は、われわれ遺された者の中にしかない。森実さんの遺志をどう受け継ぐか、が問われている。しかし、ストレスにあまりにも弱い僕には、できることが少なすぎる。そのことの歯痒さを、森実さんならどう受け止めてくれるだろうか。
  1. 2017/03/25(土) 12:23:28|
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