古本屋通信

藤森賢一先生私記

古本屋通信   No 2463    2017年  03月06日


        藤森賢一先生私記

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     更新日時: 2017/03/06   06:43  


 直前エントリーに10個も拍手がついて戸惑っている。まったく予期しなかった。それ以前に、自分では出来が悪い仕上がりだと思っていた。書いたあとで書き足りない思いが残った。しかし読んでくれた方があると知って、書き足すことにした。

  私の知っている藤森先生について書くが、その前に今回の図書館がらみについて、少し書き加えておく。あとになるほど山陽新聞の記事に腹が立ってくる。つまり図書館行政のド素人が、通俗的な市民感情に阿ねて、箸にも棒にも掛からないデタラメを書き散らすわけだ。知らない人が聞いたら、市教委と図書館が悪いように聞こえる。結果だけだと、寄贈本が長期に眠らされたすえ、廃棄寸前まで行ったのだから、市教委と図書館は遺憾の意を表明せざるを得ない。それが分かって書くから余計に始末が悪い。ブル新聞クソ糞新聞である。

  然し、これに似たことは倉敷市立図書館であった。例の玄石文庫「紛失」事件である。あのとき何の問題もないのに、共産党倉敷市議団が世紀のチョンボをやった。まさに低脳市議団であった。私はトコトン実証的に批判した。いまだに謝罪はない。つまり分かっていないド素人がエエカッコして口を挟むのは犯罪である。山陽新聞然りである。

 私は、藤森蔵書を引き受けたのは、形式的には市教委だが、判断は図書館司書だと思っている。市教委にも教員あがりも居るが、彼らも図書館のプロではない。司書こそがブロである。私は司書の目に狂いはないと思う。しかし本を見る目に狂いがなくても、状況判断には別の要素が加わる。高梁市独自の問題もある。藤森蔵書が図書館的に利用価値がなかったことは自明である。それをまるで利用価値があるかのような前提で議論したのでは、お話にならない。すべて図書館の判断が優先するのである。


 ちょっと横に反れるが、今朝つれあいから聞いた話では、高梁市立図書館は運営(経営)を民間委託に出したそうな。ツタヤの経営だという。アッと驚いたが、時の流れだそうな。私が賛否を言っても仕方がないが、反対である。図書館の合理化と効率化だろう。つまり回転率の悪い本を、片っ端から廃棄して、よく読まれる本だけを入れるのだ。購入先はツタヤだろう。私はこれを聞いて新刊屋のツタヤのような図書館をイメージした。或るいは古本屋のブックオフのような図書館をイメージした。今回の藤森寄贈本の廃棄決定も、そういう文脈の中だと、理解し易いだろう。然し、いくら何でもコレは困るのである。コレだとマトモな本は淘汰されるだろう。まあツタヤやブックオフの方が古本屋通信の店よりスバラシイのだから仕方がないか。


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   以下、本論。

  はじめて店にこられた時の確かな記憶はないが、開店直後に古本マニアとしての来店だったろう。左翼臭プンプンだったろう。一目でお気に入りとなって、左翼本というより左翼界隈の話になった。私は藤森賢一の名前は知らなかったが、倉敷青陵高校の長谷川グループだというのでピンと来た。共産党の元県議の立花一也さんと友達だった。必然的に共産党の話になった。支持者であると名乗ったが、党員ではなかった。一度も訊いたことはないが、確信である。共産党批判はしなかった。ベタ褒めもしなかった。ただ私と共通だったのは、決して党と自分を一体化せず、つねに自立した思考を留保していたことだろう。話は文学と政治のことが多く、具体的な書物を媒介にしての話が多かった。

  私はこれまで多くの高校教師に接してきた。仕事としてである。教科は全教科に及んでいる。私は藤森先生とも大学教授というより、高校教師として付き合った。その意味で対等な論者として付き合った。話した時間は百時間を越えているだろう。私にとって先生は唯一まともな国語教師だった。これまでロクな国語教師がいなかったのである。断っておきたいが、これは人間としてまともな国語教師が居なかったという意味ではない。社会認識において精確に社会と人間を捉える力量を持った国語教師に出会わなかったという意味である。もうひとつ断っておきたいが、私は他人にマルクス主義者を求めない。例えば藤森先生の師匠は岡大の森岡教授だが、私は思想的には相容れない森岡教授を尊敬している。


  国語教師というのはイッチョまえのクチを利いていても、社会認識がトコトン出鱈目である。悪い例で毎度申し訳ないが、石崎さんと鬼藤さんを引けば十分であろう。国語科はみんな石崎さん、鬼藤さんにソックリなのだ。私はお2人の文学を貶していない。つまり、マトモな社会認識だと文学作品は書けないのだろう。

  私は国文学者の藤森先生を知らない。専門書は貰って読んだ。私には分からないが、酷評していた人がいた。専門書以外も読んだ。飛び上がるほど上等ではなかったが、水準はクリアーしていた。つまり学者としてエンジンがかかるのが遅すぎた。

 先生が高梁でやっておられた無名塾のような試みがある。何回か誘われたが、興味がなかったから行ったことはない。先生のアイデンティティだった。批判はない。しかし左翼リベラルの限界のようなものを感じたから、行かなかったのだろう。また先生は古本屋アルル書店の小野田店主が主宰していた 「ラピス」 という小雑誌に寄稿されていた。私はコレに批判的だった。つまり主張もイデーもない雑炊雑誌だった。掲載論稿に、先生の「間野捷魯論」を除いてマトモなものはない。私は先生も器用貧乏だったと思っている。

 知り合って3年目だったろうか。自宅に先生から電話が掛かってきた。初めてだったので驚いた。要件は差し迫った岡山市議選挙の投票依頼だった。先生「選挙のお願いがあって電話しました」。私「ハッ? 選挙って、共産党ですか?」。先生「いや、共産党ではないんです。横田悦子をお願いします」。私「・・・・・?」。これは結果論であって、先生に頼まれたからではないが、私は以後、崎本とし子から横田悦子に乗り換える。今も書いているとおり、崎本の出鱈目に忍耐の緒が切れたのだ。なぜ先生が横田悦子の票読みをしたか、その後すぐ判明した。先生は横田の筆頭後援者の好並隆司教授と友人だったのだ。つまり新制岡山大学法文学部文科の第一期生だった。この人脈は生きていたのである。

  先生が心の病気と苦闘された話は書いた。かなり専門的なことも聞いたが、私に医学知識がゼロだから、具体的な事は書けない。ただ2点記憶に残っている。病気の原因はひとえに悪妻(一人目の細君)にアルということ。それから病気の快癒には自分に適した精神科医を見つけること、だそうな。先生は最良の主治医に出会ったそうな。悪妻の話は説得力があった。

 思い出すままに書いている。先生は古本マニアだから岡山の古本屋はよくご存知だ。それはよいのだが、ピント外れもあった。裁判所の前に隠書泊があった。たぶん左翼本が置いてあった。先生は置いている本を見て、店主を左翼と早とちりしてしまった。けど実際は難しいだろう。私の店や京都の梁山泊を見て、店主が左翼人士だと思うのは当っている。しかし隠書泊はどうなんだろうねえ。

  何時だったか朝鮮の話になった。昭和30年頃の祖国帰還運動について、先生はいきなり言い放った「帰還運動は大賛成、是非とも日本から出て行ってもらいましょう」。これにはブッタマゲてしまった。

  あと思い出したら書き加えていく積りである。

 よく語られるが、旧制六高から新制岡大法文に変わる前後には優秀な学生が多かったそうな。教授も六高からの移籍組が多かった。藤森先生はよく「好並君が、好並君が、・・・・」 と言っておられた。のちに政治的に袂を別っても友情は続いていた。然しこれが先生が党員でない証左である。それから先生は「川端君」 もよく言われていた。彼は川崎医大の創立者の息子だったが、好並先生の東洋史の後輩で、典型的な左翼学生だった。私は彼が大安寺高校教諭だったころ編集者として付き合った。すでに左翼臭は消えていたが、良い先生だった。F書店時代の後輩のMさんも川端先生に可愛がられている。

 それから少し下品になるが、思想と肉体に係わる問題なので書いておこう。女の中にも変わったのがいて、大学教授と性交を持ちたがる人がいたそうな。具体的な話は聞けなかったが、その女性はある巨大な新興宗教の信者だった。先生曰く 「僕は絶対ダメですねえ、Sと知った途端に息子が言うことを聞かなくなる」。これはラディカルな問題を含んでいる。でも一度も討論されたことがない。少なくとも私は先生と同類である。つまり思想が血肉化されている。逆に言えば、平気でSと性交できる左翼は偽者? まあ女は受身だから平気なのか?

 先生が文学の人か、それとも社会科学の人か、と訊かれれば、もちろん前者である。それを強く思ったのは、先生の「鴎外逍遥」なる一文を読んだ時だった。たぶん 『ラピス』 に投稿した論稿だった。この場合の「逍遥」はもちろん坪内逍遥ではない。単に森鴎外を称えた文である。なぜか国文関係には漱石よりも鴎外ファンだ多い。

 やはり森岡教授の高弟に赤羽学という文芸学の教授がいた。この岡大教授も森鴎外のファンだった。私は藤森先生から、赤羽学・淑夫妻の恋愛と結婚の秘話もよく聞かされた。ともに東北帝大の出身である。森岡教授も東北帝大出身である。この帝大は戦前に唯一女人禁制ではなかった。赤羽淑は生活費を学のためにアルバイトで稼いで、後に研究者になった。後の清心女子大教授である。私は夫妻の住まいである岡大官舎に通った時代がある(各務支考『芭蕉翁追善之日記』責任編集 福武書店 岡山大学国文学資料叢書 1974、松永貞徳『校注俳諧御傘』編著 福武書店 1980)。研究と研究書以外に何の興味もない学先生だった。二人ともご存命である。

 藤森先生の高野山大学への就職については具体的には何も知らないが、中年を過ぎた高校教員に私立大学とは言えクチがあったのは、やはり森岡教授のうしろだてだったろう。それくらい国文学の東北大は強力だった。岡大関係はおしなべて東北大の出身者で独占していた。そういえば藤森先生は「工藤君・・」 ともよく言っていた。工藤進思郎岡大教授は先生の岡大文学部の後輩で、後に東北大大学院修士を経て、森岡教授によって岡大に呼び戻された。私は学閥に否定的ではない。公募などはタテマエである。誰ひとり信じていない。

 そういえば就実大学に西嶋文庫というのがある。岡山出身の元東大教授の蔵書を貰った文庫である。西嶋先生自身も東大退官後に就実女子大に赴任されていた。東洋古代史の権威である。好並先生と付き合いが深かった。岡大東洋史に石田米子先生を引っぱってきた功績は好並先生だが、そのかげには西嶋先生がいた。すべて人脈だが、私は肯定的である。石田先生はいまも健在で、先日の県議補選の応援をされていた。

 話が脇道に逸れ過ぎた。これまでにしよう。
  1. 2017/03/06(月) 13:04:35|
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