古本屋通信

或る対論(対話) 高原VS植田

古本屋通信   No 2460    2017年  03月03日


     或る対論(対話)  高原 VS 植田

 
以下の対論(対話)は石崎徹氏のブログで高原・植田両氏のあいだで交わされている議論なのだが、哲学上の議論に弱い私にはとうてい理解が及ばない。石崎氏もよく理解できないらしいが、私の読者はどうであらうかと思って貼ってみた。

 因みに私は理解しにくい論稿に出会ったら、日本語の場合は英語に訳してみる。哲学用語(単語)の訳語は仮に設定すればよい。私は文の構造を理解することに重点をおいて、とにかく原文のテクストを理解することに務める。自分の理解が正しいか、それとも、そもそも理解が不能なような文章なのか、それを考えつつ英文を構築してみる。ここまでは(単語はともかくとして)自信がある。別に論理学の素養は要らない。英語の能力というより日本語と英語の比較能力があればよいだろう。

 まあ他人様の書いた文章にレッテルは貼りたくないが、とうてい私の能力は及ばないようだ。いまのところ石崎氏のコメント欄で議論しているのはお二人だけである。石崎氏さえも後に引いているように見える。お二人だけだと、議論は閉塞しがちになる。もし討論に参加できる方が居られるなら、どうか議論に加わってあげてください。


 噛み合わない議論 メッセージ - 2017年03月06日 (月)   石崎徹
 コメント上で高原・植田両氏の議論が続いているが、はたから見ても噛み合っていない。なぜ噛み合わないかというと議論が抽象的だからである。議論対象が思考方法についてなのだ。思考方法というものは頭の中の問題で、各々別々だろう。むろん共通する部分もあるだろうが、それを見ている角度が違うし、それに与えている序列も違う。したがって名付け方も人それぞれで、言葉の意味するところがまったく違う。そういう場所でいくら議論しても噛み合うはずがない。
 具体的な我々の住むこの世界の、具体的な問題に引き戻してこなければ、議論というものは成り立つまい。
 だが、いま世界は混迷を深めていて、具体的な問題にどう対処すべきかというと戸惑うばかりなのだ。議論しようにもしようのない状況がある。
 おそらく、だから議論が抽象の世界にいってしまう。それはぼくには虚しく思える。
 現実世界との接点を手探りで探っていく、そういうことをぼくは求める。
 どこにも絶対的な解はない。希望の芽をどこにどういう条件付きでどの程度求めるか。そういう手探りなのだ。


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667:議論がかみ合わない by 植田 与志雄
on 2017/03/04 at 12:46:00 (コメント編集
)
高原さんは植田が粒度を理解していないから粒度に関して的外れな疑問を投げてくると考えて、植田の質問や疑問に答えるより、粒度を繰り返しあの手この手で説明してくれていると思います。

高原さんはこう嘆いています。
「単純なこの粒度がなぜ分かって
もらえないかは、自分でもまだよく分かっていません。粒度が今必要なことだと一人で力んでいる状態が十年以上続いています」

分からないのは粒度そのものではないのです。もちろん粒度はイマイチ分からないのですが、
分からないのは「粒度が正しくないとすべての議論、思考がNG」「マルクス主義者は粒度を全く理解せずに誤った議論をしている」とする高原さんの主張なのです。
理解できないのはここです。

高原さんは粒度について2つ述べています。
・粒度のご利益は高原さんがご自分の体験として語られているので間違いないのでしょう。
・これの反転として「粒度の扱いを誤るとすべての思考、議論、などがNG、誤る」との主張。
両者の間には大きな違いがあると思います。
問題は後者です。
私は後者への反証として、思考の全過程で粒度が必須なのかを問うたのです。

高原さんはこうも言ってます。
・マルクスやダーウインは、実質、粒度を自由に使って新しい発見をしました。
・石崎さんは、粒度という言葉を使わなくても、二つの語の比較で粒度を表現していた。
正しい議論では意識されていなくても粒度が正しく使われていた、粒度として抽出され精錬された概念としての理解はされてはいないけれど、正しい議論の中では必ず正しい粒度で対象が扱われている、粒度の扱いが議論や論理の正否を分かつリトマス試験紙となる、という主張に聞こえるのです。



665:粒度再説  高原利生 by 高原利生 on 2017/03/02 at 15:09:52 (コメント編集)

コメント665:粒度再説  高原利生

 コメント662:諦め気味 by 植田 与志雄 on 2017/03/01
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-997.html#comment662
への返事です。
 コメント661:「自由な思考」の粒度:植田さんへの返事   高原利生
の補足でもあります。
 本稿を投稿してみたら新しい植田さんの664が来ていました。思考、議論に共通に粒度が必要です。ほとんどの議論では粒度の間違いが露わになるために、議論を強調しただけです。

 (前のコメント663の(コメント編集)欄 が、なくなっているので、新しく書き直します。コメント編集欄がないので削除もできません)

 一般的に、ある概念とは何かを説明し理解するときに必要なのは、定義と、それを網羅した分類の二つです。この二つを再説します。併せて、粒度の認識を妨げているのではないかと思う今まで書いてきた内容を二つ述べます。

1.粒度の定義
 レーニンやサルトルが、定義は物事を固定化するので嫌いだという意味のことを言っています。(何十年も前のことで、レーニンがどこでそう言ったか忘れました。探しましたが見つかりません)
 概念が様々な意味で使われている場合、自分の使う定義とそれを網羅した分類の二つを述べるのはやむを得ないことだが必ず必要なことと思います。そして定義を変更する必要があれば、変更すればよく、また変更しなければならない。古い定義になってしまう時は必ず来ます。
 オブジェクトの定義も、2004年の定義以来使ってきたものを、二、三年前に変えました。今は「オブジェクトは、事実から粒度によって切り取られ表現できる情報」です。

 粒度の定義を初めて書いたのは、2005年です。
 下記のページの下の方にある「学会等発表・研究ノート・技術ノート」の「論文集: 高原利生論文集: 『差異解消の理論』 (2003-2007): 論文集解題と論文14編 (高原利生)」の中の「オブジェクト再考3-視点と粒度-(情報科学技術フォーラム 2005)」です。
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/indexGen-Paper.html#paper0

 今の粒度の定義は、この時より単純化しています。単に、
 粒度は、「ぼやっとした事実から粒度によって具体的なオブジェクトを切り取る」そのような粒度です。
 再帰的だからわかりにくいとすれば、
 「ぼやっとした事実から具体的なオブジェクトを切り取るもの」です。
 目の前に膨大な(実世界と観念の)で事実が広がっている。その中から、今扱う対象である「オブジェクト」を特定しなければならない。特定するのが粒度です。
 粒度の定義を、短い論文でも必ず準備として必ず頭に載せています。
 概念を再定義する場合、従来のものの意味を含むように行っています。オブジェクト、矛盾、価値などもそうです。粒度は、ソフト分野で使われているものを借りました。

 単純なこの定義がなぜ分かってもらえないかは、自分でもまだよく分かっていません。粒度が今必要なことだと一人で力んでいる状態が十年以上続いています。

 自分が理解できた限りの「なぜ粒度が分かりにくいか」の理由を長々と論文の中で書いたこともあります。
 FIT2013「世界構造の中の方法と粒度についてのノート 」http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-2015-FIT2013/Takahara-FIT2013-150403.html
等です。(この論文で、ひとりでに筆が動き論理が自動的に進んでいく最初の経験をしました)

2.粒度、網羅、オブジェクトの同時認識
 粒度そのものは単純なので定義が分かっても、粒度が「正しい」ためには網羅された中から選ばれることが必要です。網羅は粒度があって可能なので、粒度と網羅は同時決定が必要な矛盾の項です。
 かつ、また上に述べたように、オブジェクトの定義も粒度が出てくるし、粒度の定義にもオブジェクトが出てきます。つまり、粒度、網羅、オブジェクトは、同時決定が必要な矛盾の項です。

 本質的に複数のものの同時認識、同時決定である矛盾そのものが、殆どの人に正しく理解されていないので、これも粒度の理解の妨げになります。この説明はTHPJ2015の三部作などで論じています。

 矛盾(と価値)は、三つの基本概念に次ぐ重要な概念です。
 矛盾の機能にはいくつかありますが、複数のものの同時認識も重要なものです。657:粒度認識発展の論理学:もう一度石崎さんの質問に答える  高原利生(再送 改) by 高原利生 on 2017/02/13
で述べたように、あるものは、それ単独ではよく分かりません。そのものの変化や他と比較などではじめてそのものが分かります。
 石崎さんが、「目的」と「動機」を対比させ「目的」より「動機」が広い、粗い概念ととらえているという意味のことを書かれていた。高原は、目的を、動機、潜在意識を規定する、より上位の概念ととらえている。
 粒度という言葉を使わなくても、石崎さんは粒度を表現していた。
 マルクスやダーウインは、実質、粒度を自由に使って新しい発見をしました。しかし、凡人は粒度を意識した方がいいと思います。
 FIT2013「世界構造の中の方法と粒度についてのノート 」で、ひとりでに筆が動き論理が自動的に進んでいったと書きました。2013年以降、高原の思考は、矛盾と、粒度管理のための根源的網羅思考のおかげで画期的に進みました。と言っても、その内容は、高原のような凡人では、論理の変更、新しい発見は、一日に一つあるかどうかでしたけど。一番の進歩は、解決できない個人の小さな問題も数千年にわたる大きな問題の解決も基本は同じだと分かったことです。その上で、小さな問題と大きな問題の扱いには違いがあります。今までの問題解決法や、発明の方法論は、一回きりの解が出れば解決する小さな問題です。3月の情報処理学会で「大きな問題」の定義をし解決の検討をします。

3.粒度の内部分類
 (663では、中川教授ホームページの高原論文をそのままコピーしたため読みにくいので、もう一度整理して載せます)

2012年の論文FIT2012の一部。
(http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2013Papers/TakaharaPapers-2008-2012/TakaharaBiblio-2-130228.htm
にリンクあり。)
3.1 粒度と網羅管理の対象
 粒度、網羅は、時間的空間的範囲と属性に関する。
 粒度は何かが分かるためには、時間的空間的範囲、属性とは何か、その対象は何かが分かる必要がある。

 1) 粒度とは何か
 粒度は扱うものの空間的時間的範囲と選択属性の抽象度、密度はそのきめ細かさである[FIT2005] [TS2007] 。事実、オブジェクト、価値について、思考、議論の粒度を 明示しておくことが重要である。明示されない粒度での 議論は必ず不毛に終わる[FIT2011]。

 時間的空間的範囲、属性のうち、時間的空間的範囲は比較的分かりやすい。これは、例えば、価値についての粒度は、誰のためのどのような時間範囲のどのようなものかということである。

 属性が分かりにくいのは、その粒度特定が、本来は、(後に述べる)価値、機能、属性の連鎖的関連を大局的根源的に判断して行われるからである。例えば、今の行為の目的は、価値を具体化したものになっているだけでなく、価値は無意識の行為の規定要因にもなっている。何かの意味は価値に規定されているように見える。機能は運動、行為の意味である。属性は機能に一対一に対応する客観である。今生きている生命は、長い歴史の中、想像を絶する困難さを生き抜いてきた奇蹟の存在である。生命が究極の 価値を規定する唯一のものである。これから他のより粒度の細かい価値が展開される。

 この階層は、価値→目的→機能→(単なる)意味→属性という(大きな)意味の階層の一部であり次第に意味が薄れていく。それぞれにも、究極の価値→より小さな価値といった階層、目的の階層、機能の階層がある。
 さらに、意図する私の機能と意味→1) 意図しない私の機能と意味→ その可能性の機能、属性→2) 他人の機能と意味→その可能性の機能、属性、という階層と相互規定があり、機能が属性に次第に展開されていく。
 もともとの意図する私の機能と意味から、意図しない私の機能と意味、さらに その可能性の機能と意味、属性、他人の機能と意味から その可能性の機能と意味、属性に展開され、その最大限が属性として定着する。
 人間にとっての属性が意味である。

 一方、究極の価値も日常の属性、意味の歴史を総括して得られるので、上の系列の矢印は逆向きでもある。
 価値←目的←機能←(単なる)意味←属性
 今の私の価値観と属性は相互規定の関係にある。一万年前、数千年前の、価値観、機能、物事の意味、属性は、 現在と異なっている。それらは、今も変化している。 (引用終わり、一部修正したが基本はもとのまま)

4.粒度の具体化の定式化の困難さ
 粒度の具体化の論理を定式化しようとすると、粒度内部の空間、時間、属性の矛盾があるため困難にぶつかります。 
 3で「時間的空間的範囲は比較的分かりやすい。これは、例えば、価値についての粒度は、誰のためのどのような時間範囲のどのようなものかということである。」と書きました。
 価値の時間的空間的範囲が、「誰のためのどのような時間範囲」であるのは、実は、価値のどのような属性のものか、お金が多い方が良いのか、生きがいを得たいのかなどに依存しています。つまり、時間的空間的範囲と属性という粒度内部の要素にも相互規定があるのです。
 したがって、この過程を定式化しようとすると難しいのです。
 THPJ201501、同02でこれを試み、難しいので妥協案を書いています。「学会等発表・研究ノート・技術ノート」の「論文集: 高原利生論文集: 『差異解消の理論』3にあります。前に引いたリンクからたどれます。

 植田さんが書かれた比喩はもちろん違っています。違っている理由がここに書いたことで分かるといいのですが。

 なお、2013年以来、論文を書く定型にあえて反し、何が分かっていないか、何が分かりかけているかということを書くようにし、また、事実と価値の両方を変え続けないといけないことを書き続けています。
 何かが分かってしまい、定式化ができてしまうと、それは易々と人工知能になってしまう。(FIT2013「世界構造の中の方法と粒度についてのノート 」に書いたことですが、粒度、網羅、オブジェクトと、これによる矛盾は、コンピュータで実現しやすいのです。)
 人は人工知能に勝ち続ける必要がある。そのためのキーが、粒度、網羅、オブジェクト、矛盾、粒度を管理する根源的網羅思考の理解、この「何が分かっていないか、何が分かりかけているかということの追究と、事実と価値の両方を変え続けないといけない」ことです。

 「638:比喩,現象と価値,「補助線」:石崎徹氏ブログ「恩田陸からサルトル、そしてマルクス」についてのコメント   高原利生 by 高原利生 on 2017/01/28」
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-989.html#comment638の後半で落合陽一さんという筑波大助教でアーティストの問題意識に共感しました。
 人工知能への対応はコメント633『ポスト資本主義』2016/10/31 でも述べました。
 人工知能への対応、ポスト資本主義を作ること、新しいエネルギーの確立の三つが今の課題です。


664:再質問 by 植田 与志雄 on 2017/03/02 at 14:40:16 (コメント編集)

私は思考の全過程で粒度が必須なのかを問うています

上記の高原主張では議論や世界認識での粒度の重要さを述べています。
私も粒度は理解できないけれど、議論や認識を整理して進めるために粒度が役立つことは分かるのです。
そしてここに関しては粒度を悪者扱いしてはいないのです。
論理的道筋に従う思考過程では粒度は必要、は分かるのです。
論理的道筋に従うとは前メールで高原さんが私的したような「演繹」に限らず、相手と問題を共有して議論したり意見交換する場面などを想定しています。
これの逆として「論理的道筋に従わない思考過程では粒度に縛られることはない」と言いたいのです。

相手がいない内面での思考過程、包括的な認識以前の混沌とした思考過程、でも粒度が必須ですかと問うたのです。これに対して高原さんの答えは「論理的道筋に従わない思考過程こそ、議論と同様、しんどいですが粒度が必要です」

でも上記では、議論や世界認識での粒度の重要さを述べていて、私の問うている、相手がいない内面での思考過程、包括的な認識以前の混沌とした思考過程、については言及がありません。

ここを聞きたいのです。

前々から一つ疑問に思っていたのはこのことだけなのです。粒度そのものをなくてもいいもの、などと言いたいわけだはないのです。


663: by 高原利生 on 2017/03/01 at 21:52:24

参考までに過去の発表論文の一部を引用します。

2012年の論文の一部。

FIT2012
(http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2013Papers/TakaharaPapers-2008-2012/TakaharaBiblio-2-130228.htm
にリンクあり。)
3.1 粒度と網羅管理の対象 粒度、網羅は、時間的空間的範囲と属性に関する。粒 度は何か分かるためには、時間的空間的範囲、属性とは 何か、その対象は何かが分かる必要がある。
1) 粒度とは何か 粒度は扱うものの空間的時間的範囲と選択属性の抽象 度、密度はそのきめ細かさである[FIT2005] [TS2007] 。事 実、オブジェクト、価値について、思考、議論の粒度を 明示しておくことが重要である。明示されない粒度での 議論は必ず不毛に終わる[FIT2011]。 時間的空間的範囲、属性のうち、時間的空間的範囲は 比較的分かりやすい。これは、例えば、価値についての 粒度は、誰のためのどのような時間範囲のどのようなも のかということである。 属性が分かりにくいのは、その粒度特定は、本来は、 価値、機能、属性の連鎖的関連を大局的根源的に判断して 行われるからである。 今の行為の目的は、価値を具体化したものになってい るだけでなく、価値は無意識の行為の規定要因にもなっ ている。何かの意味は価値に規定されているように見え る。機能は運動、行為の意味である。属性は機能に一対 一に対応する客観である。 今生きている生命は、長い歴史の中、想像を絶する困 難さを生き抜いてきた奇蹟の存在である。生命が究極の 価値を規定する唯一のものである。これから他のより粒 度の細かい価値が展開される[TKHR]。 この階層は、価値→目的→機能→(単なる)意味→属性と いう(大きな)意味の階層の一部であり次第に意味が薄れて いく。それぞれにも、究極の価値→より小さな価値とい った階層、目的の階層、機能の階層がある。さらに、意 図する私の機能と意味→1) 意図しない私の機能と意味→ その可能性の機能、属性→2) 他人の機能と意味→その可 能性の機能、属性、という階層と相互規定があり、機能 が属性に次第に展開されていく。もともとの意図する私 の機能と意味から、意図しない私の機能と意味、さらに その可能性の機能と意味、属性、他人の機能と意味から その可能性の機能と意味、属性に展開され、その最大限 が属性である。人間にとっての属性が意味である。 一方、究極の価値も日常の属性、意味の歴史を総括し て得られるので、上の系列の矢印は逆向きでもある。 価値←目的←機能←(単なる)意味←属性 今の私の価値観と属性は相互規定の関係にある。一万 年前、数千年前の、価値観、機能、物事の意味、属性は、 現在と異なっている。それらは、今も変化している。

(後で編集、追加します)


662:諦め気味 by 植田 与志雄 on 2017/03/01 at 13:09:53 (コメント編集)

高原さんは出来の悪い生徒を相手にしているような気分でいるのではないかなと思っています。
高原さん:
・固定観念を壊す自由を与えるのが粒度と粒度の管理です。
・一見「論理的道筋に従わない思考過程」こそ、議論と同様、しんどいですが粒度が必要。
・連想、類推も、粒度の中の空間、時間、属性を変更することです。
やはりそうなのですね、ここを確認したかったのです。

粒度を理解できていない私からみれば
粒度を理解するか、粒度フリーな場を探すしかないと思うのです。
「論理的道筋に従わない思考過程」なら粒度フリーでいけるのかなと思ったのですが、
やはり粒度を理解できていない思考は根本的にすべてダメということなのですよね。

粒度は何度読んでも、私にとって「つぶつぶの程度」以上の認識に至らないのです。
だから、粒度はこれを理解できていない思考は根本的にすべてダメと言われるほどの根本概念なのか、が分からないのです。

そこで粒度理解を諦めて粒度フリーな場を探そうとすると、
「粒度が自由な思考を縛る悪者と言われている気がします」
と言われるので、進退窮まりました。

相対論を理解しなければこの世界の真の姿はわからないのですよ。
と言われているようですが、この比喩は大体のところ合っていますか。


661:「自由な思考」の粒度:植田さんへの返事   高原利生 by 高原利生 on 2017/02/28 at 23:55:29 (コメント編集)

コメント661:「自由な思考」の粒度:植田さんへの返事   高原利生
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-997.html#comment661

 コメント660:疑問と質問 by 植田 与志雄 on 2017/02/27
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-997.html#comment660
に対する答え

 植田さんの「思考の流れを自由にして連合、連関、を追うために、連想、類推、結合によって互いに無関係と思われていたことを結びつける、発見的思考」の方法を追及している「問題解決」や「発明」の方法論はたくさんあります。水平思考とか等価変換法とか。
 TRIZもその一つです。内容はどれも似たようなものです。どの「思考の流れを自由にして連合、連関、を追うために、連想、類推、結合によって互いに無関係と思われていたことを結びつける、発見的思考」の要素は、分割、結合、媒介などです。そしてどの方法もその基本は粒度です。連想、類推も、粒度の中の空間、時間、属性を変更することです。TRIZにも連想、類推の手法はたくさんあります。

 TRIZの方法の分類はFIT2008(下のURLページの下にリンクがあります。高原論文集2の中です)からやっており、その分類をしています。最新の分類はhttp://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Takahara-2015-NotesABC/Takahara-NoteB-151013.html
にあります。TRIZの「40の発明原理」を前提にしているところがあるので分かりにくいかもしれません。粒度と思考方法の関係も書いていますのでご覧ください。
 この中で、主な発明原理の提案をしています。
+: プラス
   ・オブジェクトの追加
   ・分割
   ・既存の二項または分割した二項の運動の生成
×: 究極のプラス(新しい機能と新しい構造)
1. 新しい機能:
   ・転用 「一つの機能を他領域で使用」
   ・汎用性 「一つの属性が複数の機能を実現」
   ・セルフサービス 「それ自体で必要な機能を実現」
2. 新しい構造:
   ・入れ子 「同じか同じ形式の、もの、情報が、もう片方の中に入る」
   ・仲介(媒介、間接化)

 「論理的道筋に従わない思考過程では粒度の縛りから自由にする局面があってもいいのでは」と言われると、粒度が自由な思考を縛る悪者と言われている気がします。「自由」と言う言葉のとらえ方も僕と違いますね。
 「論理的道筋に従う思考過程」というのは演繹を指しているのでしょうか?演繹ではたいした結果は出ません。帰納、仮説設定を有効に行うには固定観念を壊すことが必要で「発明」という仮説設定の難しさは固定観念を壊す難しさです。固定観念を壊す自由を与えるのが粒度と粒度の管理です。

 シカフスという人の「夢想ヒューリスティックスを用いた潜在意識問題解決」
http://www.osaka-gu.ac.jp/php/nakagawa/TRIZ/jpapers/2015Papers/Sickafus-ICSI2014/Sickafus-ICSI2014-Subconcious-150721.html
の翻訳をお手伝いしました。
 シカフスはその中で「われわれの意識が問題を解くのではなく、潜在意識が解いている」と書いています。
 粒度を意識することは難しい。粒度を意識しようとしていると、半ば問題の粒度が潜在意識化して、独りでに筆が進んで行くことがあります。その最初の成果がFIT2013でした。
 潜在意識に頼らねばならないほど、新しい思考を展開し、思考や議論の中で意見を変えることは難しいか?難しいのではないでしょうか。
 世界観→ 潜在意識→ 感情→ 態度→ 粒度決定、という流れがコメント633の後半でした。  

 要するに、一見「論理的道筋に従わない思考過程」こそ、議論と同様、しんどいですが粒度が必要です。

 コメント638も書き直しているのでご覧ください。
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-989.html#comment638


660:疑問と質問 by 植田 与志雄 on 2017/02/27 at 16:23:15 (コメント編集)

植田です。
文字色難しい議論が続いているので入れないでいるのですが、
一つ前々から疑問に思っていることがあるのです。
高原さんはいつも「議論に当たっては粒度を意識して、特定して進めなくてはならない」
と警告しています。
論理的道筋に従う思考過程ではたしかにそうかもしれないとは思うのですが、
そうではない思考過程、思考の流れを自由にして連合、連関、を追うために、連想、類推、結合によって互いに無関係と思われていたことを結びつける、発見的思考もあると思うのです。こんなこと、高原さんにいうのは釈迦に説法と思うのですが。論理的道筋に従わない思考過程では粒度の縛りから自由にする局面があってもいいのではとも思うのですが。
どうなんでしょうか?
  1. 2017/03/03(金) 10:18:31|
  2. 未分類