古本屋通信

こういうのをネトウヨという

 古本屋通信   No 2423    2017年  02月14日


 
こういう低脳をネトウヨと呼ぶ。たまたますばらしいサンプルを発見したから貼っておこう。

 先ほど朝日新聞のウェブ記事で、革マル派議長の本名が新田寛であると、警視庁公安部が発表したとあった。これ自体はネット2チャンで読んでいたから驚かなかった。デマだろう。新田寛が本名である筈がなく、黒田寛(一)をもじったデタラメであることは子供でも分かる。で、朝日の記事を追ったのだが、途中から有料に変わった。それで仕方なくネットを潜ったら、冒頭に以下のネトウヨ文がヒットした。私はネトウヨの記事など馬鹿にしきって読んだことも無い。いい機会だから転載して、いかに出鱈目かを示しておこう。

  この男が北大の出身だというのも、新聞記者だったというのも大うそだろう。この低脳のネトウヨが北大に入れる訳がない。ブル新聞の記者であった訳が無いのだ。低脳の白痴のネトウヨが。

  いったん全文を貼った後、再録して何時ものように赤でコメントを付す。多くは要らないだろうが、こういう低脳の文でも若い世代にとっては要注意だろう。


Mt.8 Blog(マウント・エイト・ブログ)
何か哀れを催す70歳革マル闘士
投稿日:2017/01/11 作成者: miyazaki

革マル派の関係先の捜索=葛飾区青戸3
賃貸住宅の更新の際に偽名で作った書類を提出したとして、警視庁と神奈川県警は10日、有印私文書偽造・同行使容疑で、革マル派の植田琢磨議長(70)が住民登録している神奈川県の団地の1室と、東京都葛飾区の関係先の計2カ所を家宅捜索した。
警視庁公安部は植田議長について、本名は「新田寛」と特定。植田議長は平成8年に黒田寛一前議長から引き継いで革マル派最高幹部となったが、実名が判明するのは初めて。

このニュースを聞いてブログ子は過激派にもとうとう高齢化の波が押し寄せたかと、ものの哀れを感じた。いまどき中核派だ革マル派だといっても世間に理解してもらえないだろう。人生のほとんどを「革命ごっこ」に費やす意味なんてあるわけはないが、党派間ゲバルトの犠牲者は113人、負傷者4600人(2005年時点)である。遊びの「ごっこ」の領域を超えているから深刻ではある。「新田寛」氏の、転向もしないでこの歳まで革命の夢を追い、本名を隠してアジトを転々とする人生を思うとどうしてもものの哀れを感じざるをえない。

ブログ子は60年安保世代である。当時は唐牛健太郎全学連委員長が率いていた。ブログ子は北大での同級生だった(向こうが年上だが彼がドッペってきた)。革マル派のヘルメットの「Z」は全学連からきているが、全学連が路線対立して分派が分派を呼んで、1963年に分裂した両派だが、..いつしか過激派になるのは70年安保あたりからである。査問、リンチから死者が出たことが発端となり、お互いのメンバーを殺し合うようになった.。

もともとは同じ根っこだったが、トロツキー派と、反スターリン派に分派、前者が中核派、後者が革マル派というモンスターに育った。トロッキーもスターリンも過去の彼方だが、「血が近いものほど憎みあう」の例え通り、殺し合いはすさまじかった。1973年から3年間ぐらいがピークで、新聞記事を探せば夥しい闘争史が出てくる。2003年ごろにはほぼ終息しているが、今でも時々、大学や郵便局に潜んでいる闘士の襲撃劇が新聞をにぎわしている。

新聞記者時代、中核派の「千早城」(豊島区千早町にあった)がたびたび警視庁から手入れされるのに立ち会ったが、取材記者でも両派の違いを説明できるものなど皆無だった。それくらいわけがわからぬほど分裂していったのである。

革マル派は正式には「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(略称:革共同・革マル派)という。対立する日本共産党からは「ニセ左翼暴力集団」、中核派からは「反革命ファシスト集団・カクマル」、社青同解放派からは「反革命革マル」などと呼ばれている。ちなみに中核派の正式名称は「革命的共産主義者同盟全国委員会」という。

革マル派は捜索を受けたことについて「警察権力による不当な捜索を弾劾する。不当性は明らかである。新田寛議長が植田琢磨議長というペンネームなどというのは、笑止千万の妄言である」とのコメントを出した。
「時代錯誤」の言葉しか浮かばない。



 再録

革マル派の関係先の捜索=葛飾区青戸3
賃貸住宅の更新の際に偽名で作った書類を提出したとして、警視庁と神奈川県警は10日、有印私文書偽造・同行使容疑で、革マル派の植田琢磨議長(70)が住民登録している神奈川県の団地の1室と、東京都葛飾区の関係先の計2カ所を家宅捜索した。
これはブログ主への批判ではないが、有印私文書偽造・同行使が本当でも、これは微罪である。これを口実にした家宅捜査など弾圧以外ではない。

警視庁公安部は植田議長について、本名は「新田寛」と特定。植田議長は平成8年に黒田寛一前議長から引き継いで革マル派最高幹部となったが、実名が判明するのは初めて。
笑止千万の妄言というより、お笑いである。「新田寛」が本名であるなら黒田寛とどいう関係なのか。

このニュースを聞いてブログ子は過激派にもとうとう高齢化の波が押し寄せたかと、ものの哀れを感じた。いまどき中核派だ革マル派だといっても世間に理解してもらえないだろう。人生のほとんどを「革命ごっこ」に費やす意味なんてあるわけはないが、党派間ゲバルトの犠牲者は113人、負傷者4600人(2005年時点)である。遊びの「ごっこ」の領域を超えているから深刻ではある。「新田寛」氏の、転向もしないでこの歳まで革命の夢を追い、本名を隠してアジトを転々とする人生を思うとどうしてもものの哀れを感じざるをえない。
こういう感性がネトウヨなんだな。世間の通俗に迎合することだけ。「ものの哀れ」ねえ。「革命ごっこ」だとは思わぬが、かりに革命闘争として誤っているとして、この低脳はいかなる未来社会をイメージしているのか。反共だけの、権力の比護の下、おこぼれを頂戴していきていくサイテイの人生でしかなかろうが。

ブログ子は60年安保世代である。当時は唐牛健太郎全学連委員長が率いていた別に率いてはいなかったゾ。唐牛はたしかに安保全学連の委員長だったが、中心は寧ろ社学同とブントのメンバーだった。ブログ子は北大での同級生だった(向こうが年上だが彼がドッペってきた)。ウソを言うな。革マル派のヘルメットの「Z」は全学連からきているが、安保全学連はヘルメットを使っていなかった。「Z」印ヘルの使用は60年代中葉以後である。私の記憶ではもっと後だったかも、全学連が路線対立して分派が分派を呼んで分派は党派に使う、全学連に分派などありえない。アホか低脳、1963年に分裂した両派だが、..いつしか過激派になるのは70年安保あたりからである公安警察の手先なんだから、その認定くらい知っとけよ。公安は60年代の遅くとも革共同の3次分裂以後は過激派認定だった。査問、リンチから死者が出たこと査問もリンチも党派内部の出来事である。これは1972年の連合赤軍が初めてだろう。革マル派関連では早稲田の海老原死亡が最初だが、これは偶発的な出来事だったろう。こう言えば革マル派は怒るだろうがが発端となり、お互いのメンバーを殺し合うようになった.。

もともとは同じ根っこだったが、トロツキー派と、反スターリン派に分派もう究極の白痴だな、前者が中核派、後者が革マル派というモンスターに育った嗤われるぞ、低脳。こういう偏差値30が新聞記者になれる可能性はゼロである。トロッキーもスターリンも過去の彼方共に生きているんだだが、「血が近いものトロツキーとスターリンは近いんだな?ほど憎みあう」の例え通り、殺し合いはすさまじかった。1973年から3年間ぐらいがピークでいや、もう少し長かった、新聞記事を探せば夥しい闘争史闘争史とは誰も言わないんだがねが出てくる。2003年ごろにはほぼ終息しているが、今でも時々、大学や郵便局に潜んでいる闘士の襲撃劇が新聞をにぎわしている知らないなあ

新聞記者時代、中核派の「千早城」(豊島区千早町にあった)がたびたび警視庁から手入れされるのに立ち会ったが大うそだろう。ボロが出るねえ。警察の手入れで新聞記者が立ち会うのかねえ?勝手に取材するんだろうが、現場にはしばしば立ち入りを禁止された筈だ、ニセ新聞記者さんよ、それにこうまでの阿呆は新聞記者にはなれまい、取材記者でも両派の違いを説明できるものなど皆無だった新聞記者で両派の違いを説明できない人間はひとりもいなかった。できなかったとすれば果てしなく分裂を繰り返すブント各派についてだったろう。それくらいわけがわからぬほど分裂していったのである革共同両派は1963年の第3次分裂以後は基本的に分裂していない

革マル派は正式には「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(略称:革共同・革マル派)という。対立する日本共産党からは「ニセ左翼暴力集団」、中核派からは「反革命ファシスト集団・カクマル」、社青同解放派からは「反革命革マル」などと呼ばれている。ちなみに中核派の正式名称は「革命的共産主義者同盟全国委員会」という。

革マル派は捜索を受けたことについて「警察権力による不当な捜索を弾劾する。不当性は明らかである。新田寛議長が植田琢磨議長というペンネームなどというのは、笑止千万の妄言である」とのコメントを出したとうぜんなコメントである
「時代錯誤」の言葉しか浮かばない終始一貫ピントはずれな低脳文という言葉しか浮かばない
  1. 2017/02/14(火) 14:51:06|
  2. 未分類