古本屋通信

自分のブログの届く範囲

 古本屋通信   No 2419    2017年  02月10日


   
自分のブログ(古本屋通信)の届く範囲

 久しぶりに自己省察してみたい。難しい話ではない。自分の記事がどれほど読まれているか、また、どれほど読まれていないかという話だ。まず本日の古本屋のランキングはこうだ。

   ブログ 353位 (昨日:311位) / 99701人中
   店長ブログ 9位 (昨日:11位) / 2847人中


 私は自分のランキングを連日のように冒頭に貼る。その意図だが、私のブログはこれくらい多くの読者はいるんだゾ、という誇示である。私は上側の「ブログ」は殆んど見ない。下側の「店長ブログ」だけを見る。といっても、店長たちは全て異業種だから、彼らと順位争いなどしていない。順位の上昇・下降だけを見る。此処は3年間、殆んど変化していない。敢て言えば3年前は15位前後だった。最近10位前後になった。この順位は、2日ほど更新しないと20位まで落ちる。然し、毎日何本も記事を書いても上昇しない。

 私は自分のブログにアクセスカウンターを付けていない。それには理由があるが、それは省略する。付けていないが、近くの順位の方のアクセスから割り出して、毎日150人前後の訪問客だろうと思う。固定読者を1週間に1度訪問する方までとしたら、その数は400~500人だろう。

 此処までは自分のブログが如何によく読まれているかという話だった。此処からは自分のブログが如何に狭い読者しか獲得していないかという話である。

 便宜的に他人のブログを引き合いに出す。岡山の共産党関係でもっとも多い読者を持っているのは、赤磐市議の福木京子さんで毎日100人の訪問者である。ついで倉敷市議の田辺昭夫さんで、毎日80人前後である。この2人は原則まいにちの更新である。かつて福山市議の河村ひろ子さんが毎日更新していた時代に150人だった。いまはカウンターをはずし更新は毎日ではない。しかし100人は訪問しているだろう。国会議員で全国的に名前を知られた吉良佳子のような党員をのぞくと、かれら3人はトップクラスの共産党地方議員だろう。参考までに出すと、前岡山市議の崎本敏子さんが毎日更新で30人前後である。特に少ないことはない、林潤君などもこの程度だろう。

 福木京子さん、田辺昭夫さん、河村ひろ子さんの訪問客の9割は地元の人だろう。広くて岡山県下、広島県下だ。いっぽう古本屋通信のお客さんに地元岡山の方は1割もいない。多くて10人だろう。福木さん、田辺さん、河村さんに完全に負けている。

 私の読者層は地域的には広いだろうが、その政治的特性は極めて偏っている。そして極めて狭い。実はこの点に就いてのみ本日は書きたいのだ。

 古本屋通信の読者は左翼運動に無関心な人は一人もいない。左翼に関心がない人は、まず寄り付かないだろう。読んでくれる訪問者はある程度の左翼通である。その内訳は日本共産党員、元日本共産党員、カルト的共産党員、新左翼関係、左翼周辺のリベラル、広い意味での左翼趣味者。そのパーセンテージは分からない。但し、いわゆるネット右翼(ネトウヨ)は一人もいないだろう。ネトウヨの定義にも依るが、彼らのブログを見れば、そのレヴェルは一目瞭然である。つまり古本屋通信が理解できないのである。ついでに。カルト共産党員、例えば林君や、崎本さんも、古本屋通信は面白くないから、読まないだろう。つまり自分の悪口を書いてあるから面白くないのではなく、チンプンだから面白くないのだ。

 ここからは真面目な自己洞察、つまり表題 「自分のブログ(古本屋通信)の届く範囲」 だが、私は極めて悲観的・絶望的なのだ。つまり左翼言語の届く範囲は、50年前に較べて100分の1になっているのではないか。つまり、今や古本屋通信の使用する言語は標準的な言語ではなくなっているのではないか。

 以前にもいちど書いたが、私は自分の中学・高校の旧友に、また旧職場の同僚に、必ず古本屋通信の宣伝をする。多くない年賀状の返事にも 「古本屋通信を宜しく」 と副える。その数は百人を超えている。たった一人からも、反応は届いていない。義理でも 「読んだぞ」 とくらい言いそうなものだが、それもない。みんな仲の悪くないフツウの旧友なのだ。なぜ反応がないか。読んだ者はいるだろう。私が突っ込んだら返事に困るから避けている。批判的なのではない。つまり読んでも理解できないのだ。

 断っておくが、私は知能と教養を持っている旧友に声を掛けている。一昨年、中高時代の才媛と書簡をやり取りする機会があった。彼女の手紙にこうあった「ごめんなさい。理解しようと思って何度も読んだのだけど、まったく書いていることが理解できないの。ホントにごめんなさい」。

 ある左翼通で私より10歳若い元小学校教諭はこう言った 「わたしはよく理解できますヨ。でも40歳台以下だと理解できないでしょうね。いや、政治の言葉がまるでダメというのではないのです。安倍さんの発言は分かるんです。ネトウヨの政治の言葉はシックリ来るんです。古本屋通信はダメ。「前進」も「解放」もだめ。まだ「赤旗」の方が分かるんじゃあ、ないかしら」。

  こういう反応に対して私は声が出ない。ただ漠然と、理性の復権という語が頭をよぎる。

  以下はいっけん全く無関係なように見える石崎徹氏のブログである。といっても槍玉に上げるのは石崎氏ではない。氏のブログのコメンターの高原さんという方である。あと私はツベコベ言わない。どうか最後まで読んでほしい。つまり高原さんの言語とネトウヨとの共通性が私の結論なのだ。ここにあるのは理性ではない。何を読み取るかは読者の問題である。とはいえ、これだけでは余りにも不親切、ひとつだけヒントを。吉本隆明って、いまで言うネトウヨだったのではないか。つまり古語が読めないで道元や源氏物語を語り、まったくドイツ語が読めずヘーゲルやマルクスを論じたつわもの。


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コメント

650: by 石崎徹 on 2017/02/09 at 16:30:51 (コメント編集)

高原文

 我々が、粒度を網羅することは不可能」に近いことである。
 しかし、我々が、自分の扱う話題と相手の扱っている話題の粒度を網羅して、両者の話題の位置と、その上での両者の同一点相違点を明らかにすることは議論や民主主義には欠くべからざることであるので、 とりあえず、今、高原は、我々が語るときに自分が語ることの粒度を意識し明確にしようと言っている。
 粒度とは、我々が扱う話題の空間時間範囲、扱う属性のことである。高原がこれ(つまり、粒度の定義)をここで言うだけで、我々は、粒度という言葉を理解さえしていないことが分かり、したがって、当然、我々は粒度を意識していないことが分かるだろう。

これを次のように言い換えることができますか。

 議論をする際は、扱う対象の「粒度」(空間的時間的範囲及び属性)を明らかにしたうえで行うべきであるというのが私の主張である。
 「だが誰も粒度という言葉の意味さえわかっていないし、わかっていないから当然意識できていない」ということが自覚できていますか。

1、「と言っている」というのが何通りにも解釈できる不明朗な言葉なのです。これは「それが私の主張です」という意味に解釈してよろしいですか。「ここで言うだけ」も同様の意味と考えてよいですか。
 そうであるならば、ここは繰り返しを避けて、「と言うのが私の主張である」と一本化します。

2、次の文章は二文とも、「我々は」のあとに動詞が二つぶら下がっているのです。
 「我々は」=「理解し」+「分かり」
 「我々は」=「意識し」+「分かる」

 問題はこの「分かる」の意味です。これをどういう意味だと考えてよいのか、判断に迷って上のように解釈してみました。つまり「自覚」を促しているというふうにです。ほかにもいろいろな意味にとれそうなのですが、どうも明確化できないあいまいな言葉です。

 文体には個性があって当然ですが、この1、2の二点はどうも日本語になりきれていない感じがします。主語述語がうまくつながってくれません。



649:粒度と認識  高原利生 by 高原利生 on 2017/02/08 at 23:23:07 (コメント編集)

コメント649
粒度と認識  高原利生
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-997.html#comment649
石崎さんの「肯定の肯定 続き 高原さんへ」
2017年02月07日 (火)
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-997.htmlへのご自身のコメント
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-997.html#comment648
についてのコメントです。

前回647の引用前半:
 「我々が、粒度を網羅することは不可能」に近いことである。
しかし、我々が、自分の扱う話題と相手の扱っている話題の粒度を網羅して、両者の話題の位置と、その上での両者の同一点相違点を明らかにすることは議論や民主主義には欠くべからざることであるので、
とりあえず、今、高原は、我々が語るときに自分が語ることの粒度を意識し明確にしようと言っている。

前半の補足説明:
 三つの文に共通に、「我々」は、二つ目の文前半の「自分」と「相手」です。「両者」も同じです。
 二つ目の文後半の「自分」は「我々」の構成要素である語る「自分」と語る立場に立ったときの「相手」です。もう一度「我々」と繰り返した方が良かったかもしれません。二つ目の文後半は、高原が、自分を含めた「我々」に、粒度を意識しようと言っています。

前回647の引用後半:
(粒度とは、我々が扱う話題の空間時間範囲、扱う属性のことである。高原がこれ(つまり、粒度の定義)をここで言うだけで、粒度という言葉を理解さえしていないことが分かり、したがって、当然、我々は粒度を意識していないことが分かるだろう)」

後半の補足説明:
 高原が主語になっている以外の主語は、全て「我々」(自分と相手)です。補うと、つぎのとおり。太字が補ったところです。
(粒度とは、我々が扱う話題の空間時間範囲、扱う属性のことである。高原がこれ(つまり、粒度の定義)をここで言うだけで、我々は、粒度という言葉を理解さえしていないことが分かり、したがって、当然、我々は粒度を意識していないことが分かるだろう)」

 「我々」は少なくともここでは、議論する自分と多数の相手の集合です。文全体に共通に、すべての人への提案をしています。
 粒度には、粒のぎざぎざの程度という意味と、ソフト屋さんの使う意味の二種類あるが、そのソフト屋さんの使う意味を、拡張して定義しなおしたのが、高原だというところで、高原が割り込んでいるだけです。

 なお、コメント644での元の文章は、上の文に次の文が続きます。
 「これは「自分の領域からあなたの領域まで、どこまで手を伸ばすことが可能なのかという、そういう接近法になるだろう。」ということに近いが、その基礎になり、より一般的であると思う。」

 この644の最後の文を変更しています。
「これは「自分の領域からあなたの領域まで、どこまで手を伸ばすことが可能なのかという、そういう接近法になるだろう。」ということに近いが、その基礎になり、より一般的であると思う。」

 石崎さんの文章は、2017年2月6日「肯定の肯定」
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-995.htmlの最後の部分でした。
 「いまは相違点ではなく一致点を探すべきときなのだ。
 とは言いながら、ぼくもやはり違いばかりを気にしている。これはどうしたことだろうと考えてしまう。でもたぶん、こういうことなのだ。
 とりあえず違いは明確にせねばならない。そうしなければどこで一致できるのかもわからない。だが違いを明らかにするのは敵対するためではなく、どこが違うのかを知るためであり、知ってしまえば、そこが違うのだということを共通認識にして、その点を保留にして、そしてそこから先へ進むのである。
 まず、お互いを知る努力がいる。相違点をできるだけ明確に認識し、それを認め合うこと。自分の関心を持っているのはここまでで、ここから先のあなたの領分にはほとんど関心がない、ひるがえって、あなたが関心を持つことのできる領分はどこまでなのか、どこまでならぼくの領分へ入ってこれるのか――それが高原さんのいう粒度なのか、あるいは違うのかもしれないが――我々はどう転んでも根源的に網羅することは不可能なのだから、自分の領域からあなたの領域まで、どこまで手を伸ばすことが可能なのかという、そういう接近法になるだろう。」
この最後のところです。

 今の言の一つの粒度の確認さえ絶望的なのに、石崎さんのここの内容は、このままでは、さらにけた外れに絶望的で不可能です。お互いに相手を隅から隅まで知ることが必要ですから。
 そこまで行かず、相手の言っている二つのことが、整合的に相手の中で両立していることの認識さえ不可能に近いのではありませんか?それができないと、相手の意見の分からないことは、ごく自然に単純全否定になる。
 ついでに、もう一つ、偉そうに理想論を言います。この「相手の言っている二つのことの整合的な両立」が分かって初めて、相手の一つのことも分かるのではないでしょうか。同様に、現実と理想的価値が二つ分かって(正確には「追究して」ですが)初めて現実が分かる。

 ただ、ここで石崎さんの言われている全体は、重要な問題提起で、網羅的(時間空間範囲、属性の)粒度は、その基礎です。それで、とりあえず、上のように644の一部を削除しました。
 石崎さんがこういう問題意識を持つ人だと分かったことは、石崎さんの「動機」「心情」の意味を知ったのと並ぶ高原のもう一つの前進でした。
 この内容の深化と具体化は非常に難しいと思います。今の単純否定もよくないが、下手をすると野合になります。しかし、この内容の深化と具体化が、コメント626、633で述べた議論、民主主義の基礎だと思います。思考の基礎でもあると思います。

 ここの石崎さんの関心が、人の意見の把握、認識です。高原は、その基礎が粒度だと述べた。繰り返しで恐縮ですが、粒度は、人の意見の把握、認識の基礎であるだけでなく、認識一般、事実変更、価値の基礎です。


648: by 石崎徹 on 2017/02/08 at 16:58:00 (コメント編集)

 つまり主語は「石崎」ではなく、「高原」さんだということですか?
 それにしてもまだわかりません。文章間の因果関係が不明なのです。
 <とりあえず、今、高原は、我々が語るときに自分が語ることの粒度を意識し明確にしようと言っている。
(粒度とは、我々が扱う話題の空間時間範囲、扱う属性のことである。高原がこれ(つまり、粒度の定義)をここで言うだけで、粒度という言葉を理解さえしていないことが分かり、したがって、当然、我々は粒度を意識していないことが分かるだろう)>

 <自分は「粒度」を意識しようとしているのだが、実際には言葉の上だけで、結局その言葉の意味さえ理解できていないということがわかる。だから当然我々は「粒度」を意識していないということもわかるだろう>
 最初の「わかる」は高原さんが自覚しているという意味ですか?
 次の「我々」は誰ですか? 高原さんが自覚することがなぜ「我々」につながってくるのですか? 二つ目の「わかる」の主語は誰ですか?



647: by 高原利生 on 2017/02/08 at 14:55:21 (コメント編集)

石崎さんの「肯定の肯定 続き 高原さんへ」
2017年02月07日 (火)
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-997.htmlへのご自身のコメント
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-997.html#comment646
についてのコメントです。

 分からない点を訊いていただくのが、一番、改善に役立ちます。今までの石崎さんからの指摘は大変役に立っています。

 もともとの文は、次のとおりです。
 「「根源的に網羅することは不可能」に近いことである。しかし、議論や民主主義には欠くべからざることであるので、とりあえず、今、自分が語ることの粒度(扱う話題の空間時間範囲、扱う属性。これを言うだけで意識していないことが分かるだろう)を意識し明確にしようと言っている。」

 主語と目的語を、下線で示して入れます。元の文と二点変えています。
 かっこを外に出しました。ここで「根源的に」という特定が加わるのは間違いでしたので省いています。

 「我々が、粒度を網羅することは不可能」に近いことである。
しかし、我々が、自分の扱う話題と相手の扱っている話題の粒度を網羅して、両者の話題の位置と、その上での両者の同一点相違点を明らかにすることは議論や民主主義には欠くべからざることであるので、
とりあえず、今、高原は、我々が語るときに自分が語ることの粒度を意識し明確にしようと言っている。

(粒度とは、我々が扱う話題の空間時間範囲、扱う属性のことである。高原がこれ(つまり、粒度の定義)をここで言うだけで、粒度という言葉を理解さえしていないことが分かり、したがって、当然、我々は粒度を意識していないことが分かるだろう)」

 かっこは、「その時に言いたいことは全部言う」という悪い癖で、つい使ってしまいます。使うと結果として、論理が途切れて分かりにくくなります。別に文を作ればよかったのです。

 この後書いた原稿が一般論的感想と愚痴になったので、コメント644の後ろに移しました。


646:まだよくわかりません by 石崎徹 on 2017/02/07 at 21:23:36 (コメント編集)

 主語述語がはっきりしていないのです。「云々を石崎が意識していなかったということを石崎が理解する」という意味ですか?


645: by 高原利生 on 2017/02/07 at 18:27:16 (コメント編集)

 すみません。単に、
『粒度が「扱う話題の空間時間範囲、扱う属性」だという注を付けると、「扱う話題の空間時間範囲、扱う属性」など意識していなかったことが分かるだろう』
という意味です。持って回った言い方になりました。

 ジョーク云々ですが、最初は、石崎さんが誤解していると勘違いしていました。そうでないらしいので、元の稿の「誤解している」という表現を消しています。

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高原さんへの暫定的な回答

雑文 - 2017年02月05日 (日)

 今回、植田さんと高原さんとの間で交わされた言葉、それから去年10月頃にご両人の間で交わされた言葉(もちろんその中には高原さんからぼくへの批判も入っているのですが)を読んでの感想を少し書きます。(10月の文章もじつは今回初めて読んだのです。去年は他のことにかかりきりで、この問題をあつかう余裕がありませんでした)。
 最初にお断りしておきますが、ぼくは高原さんの主張の全体像をほとんど理解できておりません。高原さんの使われる特殊な用語の意味がつかめないのと、高原さんの日本語の言いまわしがあいまいに思えて、ぼくの日本語理解能力では、やはり真意がつかめないのです。
 だからここに書くのはぼくが高原さんの文章をこういうふうに受けとっている、という限りでの感想です。

 すべての思想は仮説である(このことは高原さん自身も言っておられたと思うのですが)。それは一時的、局地的、相対的であって、それ以上のものではない。
 したがって「根源的網羅思考」と高原さんが言われているのも、努力目標であってそれ以上のものではない。必要なのは「根源的網羅思考」の努力の結果何が生みだされたのか、思考の果実であって、努力目標を繰り返し力説されても、「ああ、そうですか」と言うしかない。
 <人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、それを続けることである>
 高原さんによると、これが人類の数千年にわたる歴史の現実であり、したがって今後も人類の歩いていく道である、ということになるらしい。
 ぼくがこの言葉を読んでまず感じたのは以下のことである。
 これは人類がこう生きてきたと言っているのか、それともこう生きるべきであると言っているのか、この文章からでは判断できない。
 それに対する高原さんの回答が、いま書いたとおり、「現実であって理想である」ということらしい。
 そう言われてしまうと、これもまた「ああ、そうですか」としか言いようがないのである。必要なのはこの言葉から生まれた果実を書くことであって、この言葉をなんべん書いてもそれはお題目でしかない。
 そもそも<人類>とは何なのか。それは人間なのか、そうでないのか、そうでないとしたら、どう違うのか。
 <人間はどう生きてきたか>という現実を語るとしたら、ぼくにも多少は言いたいことがある。
 <人間は欲望や情念やその他ありとあらゆる心的動機につき動かされて生きてきた>
 その動機は限りなく多様であり、だから我々は幾万の小説を必要とする。人間を要約できるなら小説なんか必要ない。
 だが、もちろんそれらの動機から普遍的なものを探し出していかないことには、我々は前へ進めない。
 だから<人類は>と問うことにも意味はある。しかしその場合にも我々が問うのは人類の<動機>であって、<目的>ではないだろう。
 <人類の目的>と言ってしまえば、目的が達成されれば、もはや人類は存在意義を失う。人類は<目的>を持っているから生きているのではなくて、<動機>を持っているから生きているのである。
 <目的>というのはお役所的、学校教育的、お題目的語感のぷんぷんする言葉である。
 <目的>があって生きるわけではない。<目的>のない人は生きていないのか。そんなことはない。人はまず生きている。これが出発点だ。そして生きている人は多様な動機を持っている。それはさまざまな欲望であり、情念であり、その他もろもろの心的動機である。これを達成するために人は目的を立てる。目的とは欲望達成のための手段である。
 <目的>を重視するのは技術者的発想である。たしかに技術者は目的達成のためにプランを練る。しかしより重要なのは、その目的は何のために立てられたのかと問うことだろう。
 橋を作るという目的のために人は設計図を書く。橋を作るのは人や物を渡らせる目的のための手段である。人や物を渡らせたいと思うのは、やはり何らかの人間的動機がそこにあるからだろう。
 高原さんは最終的には人類の目的を<自己の保存>と<種の保存>というところに持って行く。これに対しても、我々は結局「ああ。そうですか」としか言いようがない。
 高原さんはそれ以外に何を語っているだろうか。
 <利益第一主義に代わる新しい価値観>である。これを探し出すことが重要で、これが見つかれば人類は幸せになれる、と言っているように聞こえる。なんだか宗教じみて聞こえるのだ。
 <価値観が先か制度が先か>という植田さんの問いに<鶏が先か卵が先かと問うことには意味がない><原因結果という考え方は無意味である>と答えている。
 つまり<制度設計をしつつ価値観を変えていく。相互関係にある。これが弁証法である>ということらしい。
 だが、どのような価値観が利益第一主義に代わるのかという回答はいまだ示されないし、どのような制度変更が可能なのかに対しても、<社会主義ではダメだ>というところから一歩も進んでいるわけではない。
 もちろん高原さんの求めているものもおぼろげにはわかるのである。<愛>を力説される。マルクスは交換を前提して語ったが、むしろ交換そのものの発生の方が重要なのだと主張する。略奪から交換への変貌の中に未来の人類へのヒントがあるだろうと。
 この点ではぼくも<ボノボ>の例を挙げた。また、最近朝日新聞に載った例では、赤ちゃんも正義感を持っている、何世代にもわたって社会生活をしてきた人類の遺伝子には正義感も刻まれているのかもしれないという実験結果が報告されている(まだ確証のある話ではありません、念のため)。
 もちろん我々は人間のいろいろな可能性に対して心を開き、楽天的に様々な可能性を探っていくべきだ。だが、<愛>の力説からは、マルクスがフォイエルバッハに対して<愛! またしても愛!>と皮肉を込めて言った言葉が頭をかすめるのだ。
 これに対して植田さんは制度の変更が人間の価値観を変える可能性の方に目を向けている。もちろん植田さんだって相互関係の弁証法を認めないわけではないだろう。その程度のことはとっくに常識だ。要は比重の問題、そしてどちらを研究対象とするかという問題なのだ。
 植田さんが可能性を感じているのは、ITによって経済関係に画期的な変化が生まれてきつつあること、これが新しい制度を生みだし、新しい人間関係を生みだすかもしれないということについてである。これに関する大部のペーパーも去年受けとったが、まだ読めずにいる。読む前の予感としては疑問も生じてきそうだが、ともかくも何らかの具体性を持った探求の予感もある。
 そういう具体性は高原さんの文章からは残念ながら感じられないのである。

 なお高原さんのコメント632で<植田さんが改良しか認めないとあからさまに言われるのには驚きました>と書いているのは誤解です。植田さんの文章のこの部分は石崎説の紹介で、<石崎が改良主義に傾いている、従来の社会主義が説得力を失ったのでそういう考え方が出てくるのも理解できる>と言っているので、必ずしも植田氏の考えとして言っているわけではありません。(631の終わりのほう、「大きな物語としての社会の設計を重視するのか」に書かれているのがそれです。読み返してください。ここは植田さんの意見を言っているのではありません)。

 もう一点。
 632(高原)
 <どこに「一人一人の多様な個を確立し、その個の労働が新しい価値と事実の変更を続けていくこと」を目指した伝統的「マルクス主義」があったでしょうか?>
 ここも誤解です。ここは631(植田)の前項と同じ部分で、<伝統的なマルクス主義が目指していた理念とアプローチ、個の解放とそれを可能にする社会の設計、と同じではないでしょうか>と植田さんが言っているのは、当時のマルクス主義がそういう理想を掲げていたのに現実はまったく違うものになってしまったということなのです。理想を掲げることの危うさについて言っているのです。
 現実に、我々の青年時代にあってさえ、純情なマルクス主義青年の思いはそういうところにあったのです。これは歴史的現実です。

 植田さんが危惧しているのは、高原さんが「理念と制度との相互弁証法だ、卵か鶏かではないのだ、原因結果ではないのだ」と言いながらじつは理念の方に重点が行き過ぎて、どういう社会を作るのか、現実のいまある社会がどういう経過を経てどういう社会に変わっていくことができるのかということへの考察が足りないのではないかということなのです。
 それもおそらく植田さんとしては高原さんへの批判としてよりも、それが高原さんの道、自分の道は違うということなのではないでしょうか。

 そしてぼくの道もまた違います。それぞれに違うので、違うというところで抽象的な言葉ばかりが躍っている感じがします。それがぼくらの現状です。実際には何をどうすればよいのかわからない、道を探しあぐねているというのがぼくらの現状ではないでしょうか。
 それはまたぼくらがすでに年を取りすぎて、新しいことを始めるだけの時間的な予想も、気力的な予想も立てがたいということでもあるのでしょうが。

 もう一点、これは別の問題になりますが、「存在と無」緒論における電気の問題。
 サルトルの名誉のために言っておきますが、サルトルは電気現象をもって物質が物質現象であることを証明しようとしたのでもなければ、結論づけたのでもありません。彼はデカルトからフッサールを通って、その認識論的存在論の中から存在とは究極的に存在現象なのだという結論を導き出し、そして緒論の最後で電気現象をわかりやすい例として挙げたのです。
 ぼくは緒論だけで本文を読んでいないので、そこから彼がどう論を展開したかは知りません。「例やたとえは人を過つ」と高原さんは言われますが、しかし電気現象はただわかりやすいというだけで、すべての物質が基本的に電気と変わりがないことはあきらかでしょう。そしてそれは単に物質がそうであるというだけではなく、すべての存在がそうなのではありませんか。
 もちろんこれについては異論があって当然だと思います。ここではただサルトルについての早まった結論を指摘したかったのです。

 植田さん、高原さん以外の方で、一連の経過に関心を持たれる方がおられましたら、「植田与志雄氏への手紙」で検索してください。そこへ8件のコメントがついています。最初のコメント637が非常に長いのですが、ずっと下へ走っていくと、631、632が出てきます。これが植田高原論争です。


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644:一体型矛盾と仮説設定についての補足他:石崎さんの二つの記事についてのコメント 高原利生 by 高原利生 on 2017/02/07 at 00:15:24 (コメント編集)

644 一体型矛盾と仮説設定についての補足他:石崎さんの二つの記事についてのコメント 高原利生
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-992.html#comment644

 石崎さんの2017年2月5日「高原さんへの暫定的な回答」http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-992.html
 石崎さんの2017年2月6日「肯定の肯定」http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-995.html
の二つの記事についてのコメントである。
 石崎徹氏のブログへのコメント626、633、637、638
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-925.html#comment626などの補足でもある。
 (2017年2月7,8日に、本稿に対し、石崎さんとの小さなやり取りがあった。そのやりとりは、高原の以下のある文の解釈についてだった。
「 肯定の肯定 続き」http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-997.html#comment645
 やり取りの中で考えた内容を最後に追加する。)

 石崎さんは2017年2月6日の「肯定の肯定」で、
 「我々はどう転んでも根源的に網羅することは不可能なのだから、自分の領域からあなたの領域まで、どこまで手を伸ばすことが可能なのかという、そういう接近法になるだろう。」と書いている。
 高原は可能なことと不可能なことは分けている。「根源的に網羅することは不可能」に近いことである。しかし、議論や民主主義には欠くべからざることであるので、とりあえず、今、自分が語ることの粒度(扱う話題の空間時間範囲、扱う属性。これを言うだけで意識していないことが分かるだろう)を意識し明確にしようと言っている。これは「自分の領域からあなたの領域まで、どこまで手を伸ばすことが可能なのかという、そういう接近法になるだろう。」ということに近いが、その基礎になり、より一般的であると思う。

 同じ記事で、石崎さんは「ヘーゲルの弁証法は「否定の否定」だが、いまわれわれに必要なのは「肯定の肯定」ではないだろうか。」と書いた。
 ヘーゲルの「否定の否定」は「肯定」である。否定の否定ならいいのだ。今は、否定の否定ではなく、つまりヘーゲルの弁証法的否定でなく、機械的否定という弁証法の単純否定になっていることが問題だ。

 それはここでは置き、高原の小さな成果は、従来の矛盾の解が、矛盾を構成する二者の「両立」「(ヘーゲルの)弁証法的否定」の二種だけでなく、三種あることを見つけたことである。三つめは、二者がお互いを条件にしあって肯定し続ける解を出す種類である。これがコメント633後半で触れている「一体型矛盾」である。(2010年にこれに気付いた。その後、歩みは遅いが毎年知見を発表している。)これは「肯定の肯定」と言えなくもない。これは継続する矛盾である。

 普通の「両立矛盾」の一つに、一回限りで解決する「機能と構造の矛盾」がある。多くの設計は「機能とそれを実現する構造の矛盾」の解を作ることである。マルクスの「生産力と生産関係の矛盾」も、一回限りで解決する普通の「機能と構造の矛盾」の一種である。
 一方「一体型矛盾」に属する「機能と構造の矛盾」がある。ダーウインの進化論は、生命の環境などに適応する「機能」とそれを実現する「構造」の矛盾の解をベースにしている。これは継続する矛盾である。「一体型矛盾」は、実は多いということが分かってきている。「両立矛盾」と「一体型矛盾」の関係も分かってきつつある。上の例のように、両立矛盾が一体型矛盾に変わることがある。
 これら「小さな成果」を述べたところで、石崎さんの「高原さんへの暫定的な回答」に移る。

 まず、「小さな成果」から。
 残念なことに、悪文のせいもあり、「高原さんへの暫定的な回答」では、石崎さんは、少しずつ曲げた高原の要約を並べて、高原の全体を正しくないと言っているように見える。これで誤解が広がるのは困るので主な点だけ述べておきたい。
 一つは次の文である。
 『「根源的網羅思考」と高原さんが言われているのも、努力目標であってそれ以上のものではない。必要なのは「根源的網羅思考」の努力の結果何が生みだされたのか、思考の果実であって、努力目標を繰り返し力説されても、「ああ、そうですか」と言うしかない。』

 「ああ、そうですか」というのは、間接的な非難の言だ。石崎さんは、ここで、具体的結果だけを重視され「努力目標」を述べることを非難される。『「根源的網羅思考」と高原さんが言われているのも、努力目標であってそれ以上のものではない』というのも正確な理解の表現ではない。
 これに限らないが、残念ながら、石崎さんが問題として言われていることの答えは、すでに全部書いた中にあると言いたくなる内容ばかりだ。
 用語については、書いたとおりやむを得ず、新しい意味を定義しながら使っている。後に出てくる「価値」も、その意味は書き過ぎるほど書いたつもりだった。悪文はすみませんと言うしかなかろう。すみません。読んでいただいたことに感謝します。

 高原の事実主義、矛盾、根源的網羅思考によって、確かに利益第一主義に変わる価値は何かという大きな答えは出ていない、要件を整理しただけと言っている。
 ここでも「小さな成果」はいくつか書いている。コメント626、633で「生産力と生産関係の矛盾」の解が「生産手段の社会的所有と管理」というのが間違いだというのもその一つである。

 二番目。サルトルが「電気現象をもって物質が物質現象であることを証明しようとした」「結論づけた」と、高原が述べたことはない。石崎さんは、ここでも存在は現象だと繰り返す。もう一度、高原のコメント638を読んでいただきたい。

 三番目。石崎さんの、次の文章で、動機と目的を分け、動機を目的の上に置いて考えていることが分かったのは前進だった。これは迂闊にも、今までのメールでも、分からなかった。これが大きな反感を生む要因だったと気づく。

 「<人間は欲望や情念やその他ありとあらゆる心的動機につき動かされて生きてきた>
 その動機は限りなく多様であり、だから我々は幾万の小説を必要とする。人間を要約できるなら小説なんか必要ない。
 だが、もちろんそれらの動機から普遍的なものを探し出していかないことには、我々は前へ進めない。
 だから<人類は>と問うことにも意味はある。しかしその場合にも我々が問うのは人類の<動機>であって、<目的>ではないだろう。
 <人類の目的>と言ってしまえば、目的が達成されれば、もはや人類は存在意義を失う。人類は<目的>を持っているから生きているのではなくて、<動機>を持っているから生きているのである。
 <目的>というのはお役所的、学校教育的、お題目的語感のぷんぷんする言葉である。
 <目的>があって生きるわけではない。<目的>のない人は生きていないのか。そんなことはない。人はまず生きている。これが出発点だ。そして生きている人は多様な動機を持っている。それはさまざまな欲望であり、情念であり、その他もろもろの心的動機である。これを達成するために人は目的を立てる。目的とは欲望達成のための手段である。
 <目的>を重視するのは技術者的発想である。たしかに技術者は目的達成のためにプランを練る。しかしより重要なのは、その目的は何のために立てられたのかと問うことだろう。
 橋を作るという目的のために人は設計図を書く。橋を作るのは人や物を渡らせる目的のための手段である。人や物を渡らせたいと思うのは、やはり何らかの人間的動機がそこにあるからだろう。
 高原さんは最終的には人類の目的を<自己の保存>と<種の保存>というところに持って行く。これに対しても、我々は結局「ああ。そうですか」としか言いようがない。
 高原さんはそれ以外に何を語っているだろうか。
 <利益第一主義に代わる新しい価値観>である。これを探し出すことが重要で、これが見つかれば人類は幸せになれる、と言っているように聞こえる。なんだか宗教じみて聞こえるのだ。」

 (少しずつ高原の意味と違う要約である。繰り返しになるのでやめておく。「宗教じみて聞こえる」というのも保留しておこう。今は動機、目的の使い方の問題に限ろう)
 高原は、主観的動機、情念も、客観的に見れば目的であると考えて書いている。動機、目的の粒度を、一段階、粗くしたものが、単に価値であり、コメント626でまとめていくつか書いた内容でとらえている。繰り返しになるが、対象にしているのは「使用価値」や「交換価値」などの狭い意味ではない。
 意識していない価値も、場合によっては潜在意識として動機、情念を動かす。今はただ、この高原の意味、使い方を理解していただきたい。文学作品や音楽について、芸術についての意見が違えば、それは素人なので素直に聞きたい。感情の扱いは芸術に任せたい。
 石崎さんのブログをお借りして書かせていただいたコメント626、633、637、638と本稿は、あくまで、論理的思考の世界に限った意見を述べている。

 四番目。高原の中で、事実主義(従来の唯物論)、矛盾、根源的網羅思考の三つの要素がどれも欠かせない。このうち根源的網羅思考は、最も誕生が新しく、2008年から検討している。
 これは仮説設定の一種だと書いている。論理的に帰納を行う論理と言ってもいいかもしれない。この元祖は626で触れたパースである。マルクスと同年代の人だ。
 石崎さんのやり玉に何度も上がっている、
「人類が生きるとは、事実を認識し続け、目的(価値)と手段の仮説を立て、手段の課題を解決すること、その仮説を検証すること、新しい目的(価値)と手段の仮説を作ること、それを続けることである」
という文は、仮説設定(とそれに伴う検証)が、六千年ほど前からの、人の特徴であることを述べている。

 レーニンの有名な弁証法の命題を使って、歴史の本質的事実が理想にもなり得ることを悪文で説明した。その悪文は、どう書き直したらいいのかよく分からないのだが、2017年2月7日に少し修正はした。
 これを別にすると、石崎さんの疑問に答える内容は、申し訳ないが、すでに書いてあると思っている。

 以下、粒度、網羅についての石崎さんとやり取り原稿を追加する。
 粒度を初めて発表したのは、12年前、2005年のFITです。粒度が理解されない理由を、2012年に論文に書いたりもしました。
 人は、理解できていないことが一つだと、何とか理解できても、二つ理解できないことがあると、理解しにくい。
 その時の粒度と網羅は同時決定される「両立矛盾」なので、決めるときには両者を同時に決めないといけない。しかも、粒度と網羅は二つとも分からない。
 ーーこれで粒度の理解は絶望的です。粒度の決まった粒も粒度という「入れ子」もあるし。(今、入れ子の扱いが問題です)
 一方、文の粒度間の関係が論理なので、世の中の対話は、殆ど対話の論理が成立していない。自分と意見が合えば賛成、違えば全面否定です。自分を含めてですが、思考も殆ど論理が成立していない。

 また、やむを得ず、複数の用語を定義しなおして使っています。他の人と複数の用語の意味が少しづつ違うと、他の人には表現があいまいだと思われることもあります。悪文に見えることよりこちらのほうが重大です。

 2013年のFIT2013以降、高原は、時々は、粒度が意識できるようになりました。それで、画期的に思考が進むようになりました。この思考は、本質的にゼロベースで考え直すことを要求するので、同時期から、仕方なしにゼロベースで考え直しています。FIT2016以降がその結果です。
 しかし、そうすると「左翼」だけでなく全ての他人の意見と大きく異なるようになりました。
 高原の根源的網羅思考と矛盾のルーツの一つはTRIZです。TRIZは双方の意見をほどほどに取りれて妥協することを嫌うのです。矛盾として定式化して、双方の取り入れるところは100%取り入れた解を作ることを目指します。格好いいけどできるのかと言われます。2017年2月8日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

恩田陸からサルトル、そしてマルクス

雑文 - 2017年01月28日 (土)

 直木賞の恩田陸が朝日新聞で、自分の受賞作の場面から引用して次のように書いている。
 <少年は言う。音楽は活け花に似ている。再現性という点では活け花と同じく一瞬で、すぐに消えてしまう。しかし再現している時には永遠の一瞬を生きることができる>
 ふと「嘔吐」のロカンタンを思い出した。ロカンタンが存在に吐き気を催したのは、それが何か理解不可能なものとしてロカンタンの心に迫ってきたからだ。だが最後にジャズを聴くことを通して彼は何かを理解する。即ち存在とは音楽なのだということを。それはつまり現象なのだ。
 もちろん、プラトンにとっても存在とは現象だった。それは実在ではなかった。プラトンはその現象の背後にある実在=本質=イデアを求めた。
 だがロカンタンにとっての(そしてサルトルにとっても)現象とは、その背後に何ものも持たない現象そのものだ。いかなる実在も本質もイデアもない。あるのは現象だけである。
 存在は在る。音楽のように在る。
「存在と無」の緒論では、サルトルはこれを電気によって説明する。電気とは何か。それは一連の電気現象に対して与えられる名称である。電気というなにか固定的な物質が存在するわけではない。ある条件の下で電気という現象が発生する。
 そしてすべての物質が、我々の目には固定的に見えようとも、じつは原子核の周りを電子がぐるぐる回っており、この原子核の直径を一ミリと仮定すれば、電子の周回直径は百メートルにも及ぶほどに離れているということ、すべての物質が物質現象なのだ。
 存在は現象だ。現象がすべてであって、実在も本質もイデアもない。
 恩田陸が音楽と活け花を対比してそこに人生を見ようとしたとき、ロカンタンとの近似性が見えた。

 さらにマルクスを考えたら、どうだろう。マルクスが彼の経済学に「価値」という概念を用いたとき、彼はヘーゲルを通じてプラトンのすぐそばを歩いていたのだ。
 価値は価格ではない。価格には諸々の偶然的要素が影響する。それは現象なのだ。価値は価格の根本的源を問おうとする。それは価格の本質であり、イデアなのだ。商品価値から使用価値と交換価値を見いだし、剰余価値がどこから発生するかの考察から、交換価値と剰余価値の源としての労働時間という実体を見つけ出す、価値は商品価格と労働時間という実体と実体とを結びつけるための、いわば補助線だった。価値が存在するわけではない。存在するのは欲望という現象、交換という現象、そして労働という現象である。このつながりに合理的説明を見出すための数学理論の単位としてあるのが価値なのだ。
 つまり、一見マルクスはヘーゲルを受け継いだように見えるが、それはたぶん見かけだけだ。マルクスにとっても、存在に先立つ本質というものはありえなかった。彼は存在は現象であるとは言わなかったが、それでもほとんどその近くにいた。

 もちろん、われわれはしばしば本質という言葉を使うが、それはその言葉が便利だからであって、あくまで便宜的意味で使っているだけで、その言葉に古典的な、プラトン的な、あるいはヘーゲル的な意味を持たせようとしているわけではない。

 さてマルクスが経済的意味でしか使わなかった「価値」という言葉を、マルクス主義者たちはどういうわけか、道徳的意味でも使おうとする。思えば道徳もまたマルクスにとっては支配者たちが人民をだます道具に過ぎなかったが、マルクス主義者たちが権力を握ると、それはまた彼らの権力の道具にもなる。
 人々は補助線を本質と勘違いし、イデアと勘違いしている。「価値」という言葉を使うなとは言わない。しかし人はそれが補助線に過ぎないことを理解すべきだし、その補助線によって証明しようとする諸現象のつながりのほうにより大きな関心を払うべきなのだ。


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641:管理人のみ閲覧できます by on 2017/02/03 at 03:12:30

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640:一瞬の現象とマルクスの「価値」 by 植田 与志雄 on 2017/02/02 at 16:02:50 (コメント編集)

興味を引かれたので、少し書きます。
でも高原さんのコメントの後に非論理的で飛躍と類推、比喩がたっぷりの論を書くのは気が引けますが、、、。
◆一瞬の現象:
*音楽、生け花は一瞬の現象、確かにそうですが、では個に宿る自我も同列の一瞬の現象に過ぎないのか。
個は40億年の生命の営みの到達点での現象、DNAと文明に蓄積された情報が詰まっている。
個は40億年の営みを背後に持っていると言いたくなる。
音楽、生け花と生命は現象といえば同じだけれど、どこが違うと言えるのか。

*音楽、生け花は人間の活動(労働)のアウトプットで他者の脳に何らかの痕跡、感動、高揚、アイディア、を残す。つまり、人間⇒音楽、生け花など現象⇒人間、となっていて音楽、生け花はそれだけで終わる現象ではなく循環的な非物質的代謝系を構成する一つの要素である。
マルクスに関連付ければ、人間を含む代謝系の要素は使用価値があると言えるのだろう。
人間活動のアウトプットが現象でなく衣食住などのモノであれば、人間⇒モノ⇒人間、となって物質的代謝系となり、このときのモノも使用価値を持つと言えるだろう。

*人間⇒生産物⇒人間、この代謝系は個々の要素は一瞬の現象だけれど、営みの連鎖の中にあって孤立した一瞬の現象ではないように思える。

◆マルクスの価値:
は石崎さんが云うように本質というほどのものではなく
引力があるからモノは落ちる、というときの引力に近いと思う。
地上でモノを落とすとモノの重さに無関係に1秒後には4.9m落ちて、その時の速度は9.8m/sになる。
これは風など空気とモノの姿かたちの影響は受けるけれど、引力f=m1m2/r2で引き起こされた現象である。
5h働いて財Aを、10h働いて財Bを生産するとき、Bの価格はAの2倍となる。実際はこうはならないけれど、価格(交換比率)を決めるのは基本的には需給や効用ではなく労働時間である。
投下された労働時間こそが価格や利潤や生産全般での諸量を決める元にある基底的な物理量だと発見して、これを交換価値と名付けた。具体的な物理的実体的量であって、実在しない便宜的な、説明のための補助線とは言えないのではないか。

「生きる価値」などと言ったときは価値≒本質となって、その価値は量がなく計数不可であるが、マルクスの(交換)価値は上記のような労働時間に換算された計数できる具体的な物理的量だろう。

マルクスのもう一つの価値、使用価値は交換価値と区別する「役立ち」として用意され、人間―自然系での物理的代謝を媒介する要素で、交換価値が経済的代謝を媒介するのと対照的。
使用価値は「役立ち]だから生まれ(労働)と切り離されて、量と質だけを持つがどちらも具体的である。
・リンゴ2個の使用価値はリンゴ1個の倍と言える。
・リンゴと音楽の使用価値は簡単には比べられないけれど深く調べれば比較できるまで分析できるかもしれない。
・その延長上に単独のモノ、コトの効用としての使用価値から集団内の互恵などに拡張した使用価値も論じられるだろう。
・ソフトウエアも含めて、今後はマルクス時代には存在していなかった使用価値の探究が重要になるだろう。
物質的代謝ベースで組み立てられているマルクス経済学の再検討に行き着くのではないか。

脱線したので、ここで終わります。
以上



639:高原さんへ by 石崎徹 on 2017/01/29 at 16:57:33 (コメント編集)

 たしかにあまり論理的じゃなかったですね。論理としては抜け穴と飛躍だらけです。あくまで感覚的発想です。いただいた指摘は参考になります。


638:比喩,現象と価値,「補助線」:石崎徹氏ブログ「恩田陸からサルトル、そしてマルクス」についてのコメント   高原利生 by 高原利生 on 2017/01/28 at 17:34:47 (コメント編集)

638 比喩,現象と価値,「補助線」:石崎徹氏ブログ「恩田陸からサルトル、そしてマルクス」についてのコメント  高原利生
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-989.html#comment638
石崎徹さんブログ「恩田陸からサルトル、そしてマルクス」についてのコメント。

 石崎徹氏のブログへのコメント626、633、637
http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-925.html#comment626などの補足でもある。粒度、価値について、コメント626の補足、AIについてコメント633の補足になった。

 (吉本の文に記憶違いがあったような気がするので、追記しておく。比喩と価値と現象についても少し追加した。順序も少し変えたところがある。2017.01.30,31
 本コメントに、2017年2月6日石崎さんから応答、コメント639 http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-989.html#comment639をいただいた。この応答後に追加、修正したところがある。
 石崎さんの
 「あるのは現象だけである。
 存在は在る。音楽のように在る。
「存在と無」の緒論では、サルトルはこれを電気によって説明する。電気とは何か。それは一連の電気現象に対して与えられる名称である。電気というなにか固定的な物質が存在するわけではない。ある条件の下で電気という現象が発生する。
 そしてすべての物質が、我々の目には固定的に見えようとも、じつは原子核の周りを電子がぐるぐる回っており、この原子核の直径を一ミリと仮定すれば、電子の周回直径は百メートルにも及ぶほどに離れているということ、すべての物質が物質現象なのだ。
 存在は現象だ。現象がすべてであって、実在も本質もイデアもない。」
という断定は、「あまり、論理的ではなかった。感覚的感想です」というコメント639で改められるとは、思えない。問題は、石崎さんが、芸術分野だけでなく思考の論理の領域を含む全体についてこれを述べている点である。
 いくら書いても、石崎さんは意見を変えないだろうと思う。
 高原は、全てのものは、固定的でなく、関連しながら変化しているという弁証法的世界を、いかに単純なモデルで近似するかを、述べ続けてきたのに通じなかった。そういうモデルが必要な論理的領域があることは理解してもらいたい(それは理解していると、一応石崎さんは言われるだろう)ことと、自分の整理のために書く。
 もう一つ、自分の論文でも例は挙げているし、例と比喩の絶大な効果は何だろうか?と思い落ち着かない。例と比喩で論理は作れないが、全体像を把握しやすくする効果はあることを付記しておきたい。
 この二点を追加して書きたい。2017年2月3,4日)

 前半で二点、後半で一点コメントを述べる。初歩的な「説教」のようで恐縮である。

 亡き吉本隆明が、「言語にとって美とは何か」の序文で、うろ覚えだが「何かを語るには巨匠のように語るか論理的に語るかしかない、私はまだ若く、巨匠のように語ることはできない、したがって論理的に語るしかないのだ」と書いた。「小説を書くことは、XXのようなものだよ」と比喩で語るのは、巨匠のように語ることである。人は、巨匠の権威で発言を補完してありがたがる。

 (吉本の文の、「論理的に語る」は「体系的に語る」の記憶違いだったような気がする。体系的に語るには、網羅的にかつ論理的に語らねばならない。「正しい」「体系的に」は「論理的に」を含み、それより広い。2017.01.30追記)

 (石崎さんの引用するサルトルが、「存在と無」緒論において、電気現象の比喩から、存在は現象だという結論を出しているとすれば、それはサルトルが、ここでは単に思想家として失格であることを意味する。これは、今は置いておく。)

 我々は若くもなく巨匠でもないので、思想は論理によって語らねばならない。
 高原の2016年9月の石崎さんブログ「植田与志雄氏への手紙」へのコメント626 http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-925.html#comment626で、粒度管理の原則を述べ、その中に「一連の議論、思考の中では、粒度を変えてはならない[FIT2015]」という初歩的で単純な原則を書いている。粒度そのものを意識していない人が多いので、この原則は守られず、現在の思考、議論の混乱をもたらす最大の要因になっている。

 ここで「粒度を変えてはならない」と書いたが、もっと厳密に言い直す必要がある。扱う領域の時間空間が異なると、別の論理が働くので、粒度のうち、扱う領域の時間空間は同じという前提で思考、議論はしなければならない。そもそも、扱う領域の時間空間粒度別に、個別科学がある。物理学にはミクロからマクロにいたる様々な個別物理学があり、別の法則が成り立っている。従って、粒度のうち、時間・空間粒度の異なる領域を飛び越える思考や議論は、無効である。この同一性の下で、粒度のうち属性を変えることはある。変えるときは、網羅した属性の変更を、論理的に行う必要がある。コメント633で書いたが、これは理想的だが極めて困難である。(2017年2月3日追加)

 この原則に反する極端な場合が、扱う領域の時間空間の異なる例や比喩で証明の代わりにしてしまうことである。言いたいことに当てはまる例や比喩も、当てはまらない例や比喩も、ともに豊富にあるので、結果として騙し騙される事態が横行する。
 電気現象の全く粒度の異なるミクロ世界のモデルは、人の行動の粒度に適用できない。適用するとしたら厳密な論証過程が必要だ。比喩の場合、正しい論証が行われる可能性はあるかもしれない。しかし、直接、命題を証明する方がはるかに楽だろう。例を論証の代わりにすることはそれ自体、論理が偽である。
 例や比喩による、空間・時間、抽象度の異なる「類似」で安易に結論を出すことは「効果」絶大なので、粒度を意識していないと「一連の議論,思考の中で時間空間粒度を変えない」ことは実際に難しい。しかしこの原則は、思考、議論、民主主義のためには必要だ。コメント626は、その方法も書いている。実現は不可能と思われるくらい困難だという思いも書いている。

 比喩や類似は、文学には意味があるだろうが、哲学や思想を語るには不適当である。
 これが前半の第一点。

 前半のもう一点は、石崎さんの「現象」についてである。(石崎さんは、比喩や類似と、現象を一緒に扱って結論を出してしまう。分けて考えよう。)この周りの事情を高原がどう扱っているかを、石崎さんには初歩的繰り返しが多くなり恐縮だが述べておく。

 「現象」「本質」に限らず、言葉が様々な意味で使われているので、基本的概念について、やむを得ず今までの意味を含むように拡張した「定義」を述べてから使っている。高原の使う基本的概念の一つが「オブジェクト」である。基本的概念は「何々は、、、である」という内容定義と、その内容が網羅された分類の二つがあるとうまく論理を展開できることに、最近、気が付いた。

 高原のオブジェクトの定義は、単純化すると「事実からある粒度で切り取った,知覚でき表現できる情報である」。知覚できるものの中に操作できるものがあるという前提である。闇夜に刀を振り回さない。
 分類について、存在と運動(関係)の二つ(「についての情報」の意味である。以下略)がある。
 存在は「もの」と固定的「観念」に分かれる。
 運動は、過程、作用、変化、関係とほぼ同じものだ。詳細は高原の各論文を参照されたい。コメント626などでも書いている。
 
 石崎さんの挙げられる「現象」は、単に、高原の、運動、過程、作用に見える。見る、聞くだけの作用ならこれでよいが、これでは操作ができない。感覚だけの世界ではなく、人の操作可能な粒度(時間、空間、属性)の世界においては、存在と、運動,過程,作用,変化,関係があり、どれも認識、変更の対象になる。これで生きるモデルを作り、世界を変える提案をしてきた。
 石崎さんには、存在がなく現象だけが世界である。音楽を聴き、小説は作るが、高原の言を理解せずに反発するだけになるのは当然だと思う。

 石崎さんの
 「あるのは現象だけである。
 存在は在る。音楽のように在る。
「存在と無」の緒論では、サルトルはこれを電気によって説明する。電気とは何か。それは一連の電気現象に対して与えられる名称である。電気というなにか固定的な物質が存在するわけではない。ある条件の下で電気という現象が発生する。
 そしてすべての物質が、我々の目には固定的に見えようとも、じつは原子核の周りを電子がぐるぐる回っており、この原子核の直径を一ミリと仮定すれば、電子の周回直径は百メートルにも及ぶほどに離れているということ、すべての物質が物質現象なのだ。
 存在は現象だ。現象がすべてであって、実在も本質もイデアもない。」
という文章を検討する。

 高原の扱うのは、人が認識でき操作できるものでありそれに限る。認識、操作は、今ではほとんど技術手段を介して行われ、その範囲は拡大し続けている。
 前に述べられている電気「現象」には、様々なものがある。
 電荷をもつふたつの「もの」の間には、電場(電界)を介してクーロンの法則による力が働く運動が生ずる。「電荷A-電場(電界)を介したクーロンの法則による力が働く運動(=関係)-電荷B]である。
 電気を作るものと使うものの間には電流が流れる運動が生ずる。「電気を作るものー電流が流れる運動ー電気を使うもの」
 後の原子核と電子の運動も、そのまま、「原子核ー運動(=関係)-電子」である。人は、技術手段の媒介なしに、原子核、電子、その間の運動(=関係)を知覚できないが、操作するときには上とは別のモデル、別の技術手段を介して行う。
 コメント626で、事実主義(従来の唯物論)の立場としてエンゲルスの「世界は過程(運動)の集合体」という表現に全面的に賛成した。それを表すモデルのもっとも単純なものが「項1-運動(=関係)-項2」という矛盾モデルである。矛盾だけでは世界を認識も操作もできない。項と運動を特定する粒度がいる。矛盾と粒度の管理で最小の世界モデルを作るのが最も有効で簡単である、というのが、今、提案していることだ。
 ロカンタンが、ジャズを聴いて何かを理解するのは、その時の彼の状態とそれに共鳴した具体的なジャズの内容だろう。それを「存在とは音楽なのだ」とか「存在は現象なのだ」という一般化は、サルトルなのか石崎さんなのか知らないが、余りに禅問答的飛躍が過ぎる。

 学生時代に何冊か読んだフィリップ・ソレルスの小説の一つに、薬物中毒になった人に、外界が見知らぬ無機的な細かな存在の集積体に見える話があった。
 無機的だから何も感じないのではない。彼には周りすべてが新しい世界であり、部屋から外に出るまで、存在に一瞬一瞬感動しながら移動する(自分が、存在を通過する運動をする)ので一日かかる。彼は、ロカンタンと違い、作用、関係、運動の「現象」に感動するのでなく、存在という「現象」に感動する。

 おそらく、生命は、生きて行くために、まず作用、それによる変化、さらに運動、さらに関係という順番に知覚できるようになり、存在は一番後に認識できるようになった。(何が点滅しているか分からないが点滅している運動は分かる)ついに、我々は、存在に棚とか机という名前を付けた共同固定観念を持ってしまった[FIT2016]。今、我々が、解体、再構築しないといけないのは、机でなく、もっと大きな制度、技術の固定観念とその実体である。しかしそれをする人も集団もどこにもいない。

 固定観念を解体し、物事を新たに新鮮に見直すなら、見直すきっかけは、おそらく、存在でも運動でも現象でもいい。何かに感動するのも、風景や作品の具体的現象が少なくともきっかけだろう。何を表現しているのか分からなかったものがある日、全体構造を理解できたために深い(と自分で感じる)感動を覚えたという経験も数回ある。感動にも「項1-運動(=関係)-項2」の集合体がいる場合もある。そして認識と操作のための思考には、認識と操作が可能なモデルが必ず必要である。(2017年2月4日追記)

 後半について。
 (マルクスが、単に「大事なこと」を表す一般的な用語である「価値」を、交換価値の意味で使ったのはミスだった。それが石崎さんの混乱をもたらした。このマルクスのミスは、今は置いておく。

 (あまり多くは読んでいないので大きなことは言えないが、エンゲルスが傾向として一般化し過ぎなのに対して、マルクスは一般化は足りない、もう少し一般化して言った方が良いのではないかと感じるところがいくつかある。その一つが、資本論第一部第一章の初めで、商品に限定して(使用価値を生む)属性の発見は歴史的行為だ、というところである。これはオブジェクト全体に言えることである。(なお、本稿は、使用価値という小さな問題は一切扱わない。)
 それなのに、このマルクスの「価値」は間違った一般化をした結果である。)

 大事なことである価値は、「(理想的)価値ー目的ー属性」という数百年をかけて歴史的に動いている双方向の系列があり、価値、目的、属性毎に、おおざっぱに「大きな共通の価値ー個人の価値」という粒度の差がある。どの粒度の価値であるかに気を付けなければならない。使用価値はそのうちの一つに過ぎない。ここでの価値は、普通に「大事なもの」という抽象化された概念である。)

 「人々は補助線を本質と勘違いし、イデアと勘違いしている。「価値」という言葉を使うなとは言わない。しかし人はそれが補助線に過ぎないことを理解すべきだし、その補助線によって証明しようとする諸現象のつながりのほうにより大きな関心を払うべきなのだ。」(石崎氏)
 「補助線によって証明しようとする諸現象のつながりのほうにより大きな関心を払うべき」と石崎氏は言う。

 言うまでもないことだと思ってきたが、「諸現象のつながりに大きな関心を払う」ために、やむを得ず、新たな概念と言う「補助線」を使っている。
 一般的に言えば、「補助線」と「諸現象」は、対等に「諸現象のつながり」の認識に貢献する。
 「諸現象のつながり」の把握のためには、今は、ヘーゲル、サルトル、マルクスのものを含むキーになる概念、「補助線」そのものの見直しが必須である。
 今までの概念、「補助線」ではうまくいかない。

 石崎さんの思っておられるような、単純な演繹deduction、帰納inductionという一方向の形式論理や比喩では、論理は進んでいかない。価値実現のためには、何か仮説を作り、検証し、違っていたら新たな仮説を作り、という「仮説設定」abductionサイクルが必要で、根本的な仮説のためには新たな概念、新たな「補助線」が必須である。「その補助線によって証明しようとする諸現象のつながりのほうにより大きな関心を払うべきなのだ。」というなら、新たな概念、「補助線」によらずにどのように「諸現象のつながり」をとらえることが可能か示してほしい。
 この必要性を理解できないと、ヘーゲル、サルトル、マルクスが、以前と比べて当時、どう新しかったのか、彼らの問題は何かという把握ができない。彼らを含むすべての人の論理も理解できない。「諸現象のつながり」の把握もできない。
 (石崎さんが書かれているヘーゲルとマルクスの関係は違っていると思うが、よく意味が理解できないので、ここでは置いておく。)

 高原は、高原利生の2016年9月―2017年1月のコメント626、633、637で「価値」という言葉も使っている。
 「価値」概念の見直しは、特別な意味がある。「諸現象のつながり」の把握のキーでもあり、生きる目的が、「価値」の実現であるから、政治、経済の目的であるはずであるが、今は、「価値」が「お金」である時代である。それを変えて、お金に代わる新しい「価値」を急いで作らなければならない。新しい「価値」概念を作り、その実現方法を作らねばならない。
 この意味では新しい「価値」は「補助線」でなく目的である。新しい「価値」が未来の「諸現象のつながり」の中心である。「諸現象のつながり」の変更も目的である。また石崎さんから、「理念」先行を非難されそうだが、新しい「価値」と「諸現象のつながり」の変更は同時に実現されるはずだ。そのための操作可能なモデルを述べている。これがサルトルが述べただけで実現しなかった客観と主観の「全体化」を可能にする。
(今ある価値についての共通認識が生産関係を作っているということは、コメント633http://maganetoru.blog.fc2.com/blog-entry-925.html#comment633 を書いていて気が付いたことである。言葉は多様な意味と他との関係をもっていて、他の言葉の意味と入れ子に成り合っている。2017.01.30追記)
 「価値」の内容は、まだ分からないので述べていない。新たな「価値」が満たさねばならない要件を述べているだけである。かつ常に作り続けることが必要ということも述べている。

 今(2017年2月3日)、ソフトウエアジャパン2017「データとAIが創り出す新たな価値」という公開フォ-ラムの基調講演生中継をとぎれとぎれだが観た。講師は、総務省「AIネットワーク化検討会議」の座長をされている須藤修教授である。須藤修教授はAIの専門家だが、もともと経済学出身の方である。
 
 第三次AI革命といわれ、コメント633で触れたAIの状況予測がすごいことになりそうである。AIは利点が大きいが、AIが価値を作り属性が勝手に変わっていく世の中になっていく恐れがある。コメント633でも書いたが、「格差」拡大より根本的に重大な問題である。もちろんAIは大きな可能性を持ている。(数十年近く前の話であるが、高原の大学卒業論文のテーマは、パターン認識を学習理論で改良していくものだった)
 今、日本はAI研究では最先進国ではない。大前研一さんの記事によると、国際学会のある時期のAI発表件数は、アメリカ500件、次いで中国140件、(内数か外数か忘れたが)米中共同発表が80件に対し、日本は20件である。(スーパーコンピュータでもAIでも、日本は中国に差をつけられている。)しかし、企業では(大企業中心だが)AI活用が進んでいる。
 ネットワークによって(これが総務省の検討会の理由)、各分野のAIが結びつけられると、個人が個々の癌で死ぬ確率などが出る。その対策がとれるだけでなく、生命保険、社会保障の在り方などが変わってしまう。肉体労働だけでなく知的労働も速い速度でなくなっていく。
 つい最近、スイスでは社会保障をなくし「国民」に25万円を一律に支給し、働きたい人は働く制度の是非を問う国民投票が行われた。否決はされたが、実現可能性があるということである。

 このままでは、既存の価値は変わらないまま、事実が変わっていく時代が始まる。事実が変われば、あとから価値も変わる。お金という大きな価値は変わらないままで。
 このフォーラムのテーマ自体が、データとAIが新たな価値を創ると豪語している。かつ、世界のAIは、お金という価値を変える意図はない。

 今のAIは、全て過去の論理的連続な延長上に(講演内容では、僕には理解できない甘利氏の幾何モデルでの変換さえ行うらしいが)新しい属性を作る。
 今、高原は、不連続な大きな価値の変更を論理的に行おうとしている。
 その上で、小さな価値については、国、地域、集団によって多様な世界ができるのが良い。その多様な世界を列車に乗って旅をしている夢を今日(2017年2月4日)見た。建物の外形が遠くに見えた。ものとエネルギーはなるべく小さくローカルで閉じていたほうが良い。この多様性の単位の大きさはよく分からない。(2017年2月4日追記)

 左翼、石崎さんは、実質、価値を変更することに反対しているようにしか見えない。高原は、お金に代わる価値の検討をしている。2017年1月31日、2月3、4日追記)

 高原は、今は、ヘーゲル、サルトル、マルクスの概念、「補助線」の批判的見直しと彼らがやれなかった彼らの意図の実現方法の検討が必要だと思っている。「価値」についても同様である。これらを述べたのが、高原利生の2016年9月―2017年1月の石崎徹さんブログへのコメント626、633、637などであった。
 新しいことを語ること自体を好まない保守的な人は、高原利生のこれらコメント626、633、637、638は、おそらくまったく理解できない。
 また、石崎さんにご迷惑だったようで、コメント626、633を書いたことを後悔している。全体の位置が分かるようにすれば理解してもらえるのではないかと思ったのが間違いだったようだ。でも、多くの問題がある中で、このコメントを書き直しているということは、ここでの余りにも初歩的問題についてもまだあきらめずみじめにあがいているらしい。初歩的ということと根本的ということは同じなので。
 疑問が二つ。新しい知見があった。その,世界にとっての意味?他の問題にとっての意味?二つ目。全体はとっくに得ている、それでよくて後は余計なお世話なのか?他の全体化がないと全体化でないのか? (2017年2月4,5日追記)
  1. 2017/02/10(金) 19:00:23|
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