古本屋通信

宮本顕治の収監と無期懲役と釈放

 古本屋通信   No 2414    2017年  02月07日



 
宮本顕治の収監と、無期懲役の有罪判決と、釈放(出獄)。


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   更新日時 : 2017/02/07   06:43



  以下に、2点を資料として貼っておく。一つはウィキペディア記事の抜粋。宮本は無期懲役の有罪判決が確定であった。いかに極悪非道な天皇制権力といえども、党を崩壊に導いてくれたスパイに無期懲役を下すことはあり得ない。これだと二度とスパイは使えないからだ。
  もう一つは袴田里見が除名まえに赤旗に発表した「スパイ挑発との闘争と私の態度」の全文。これについて袴田は除名後に 「リンチ査問事件でのわたしの自己批判文書 『スパイ挑発との闘争と私の態度』 は常任委員会で強圧的に押し付けられたもので、自分は認めない」 と弁明している。古本屋通信のコメントはないが、コレが無理やり書かされた文かどうか。除名後に書いた文と何れがリアリティがあるか、読者の判断に委ねたい。





  ウィキペディア抜粋

収監
1934年(昭和9年)12月、市ヶ谷刑務所未決監に移監。 同月、百合子との婚姻届を届け出た。これは、事実婚では面会などに制限が加えられていたので、それを避けるという意味合いもあった。これによって、百合子との往復書簡のやりとりが可能になった。このやりとりを通じて、顕治は百合子に文学や生活についての意見を表明して、弾圧(百合子はこの時期に2度の執筆禁止の時期を経験している)や戦争の時代に、百合子の作家としての出処進退を一貫したものとするために助力した。また、百合子も、顕治に対して公判の維持のための資料の入手や作成に力を注ぎ、獄中での顕治を支えた。その点で、この夫婦は思想的に大きなぶれもなく戦後の時代を迎えた。
宮本の病気のため裁判の開始は遅れ、逮捕から7年後の1940年(昭和15年)に公判が開始された。第二次世界大戦末期の1944年(昭和19年)12月5日に、東京地方裁判所は殺意は否定したものの小畑の死因はリンチによる外傷性ショック死であるとして、治安維持法違反、不法監禁、傷害致死、死体遺棄などにより無期懲役の有罪判決を下した。1945年(昭和20年)5月に大審院で上告棄却され無期懲役の判決確定(戦時特例により控訴審は無し)。6月、網走刑務所に移され、8月に終戦となった。

復権
1945年(昭和20年)10月4日、GHQの指令「政治的市民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」が出され、これを受けて10月5日に司法省は政治犯の釈放を命じる。 政治犯釈放を翌日に控えた10月9日に出獄。




・・・・・・・・・・・・・



  袴田里見 「スパイ挑発との闘争と私の態度」

 赤旗 1976. 6. 10 


 

 選挙ごとの自民党の後退、ことに田中金脈裳最近のロッキード疑獄事件などにみるように、対米従属と独占資本奉仕の自民党政治は、国民の批判をうけて危機的な状況にある。自民党勢力は、その危機を回避して反動支配を維持しつづけようと革新統一戦線の旗を一貫して高くかかげてかかげて自民党政治ともっともするどく対決する日本共産党が前進していることを恐れ、これに打撃をあたえて孤立させるために、各種の反共攻撃を強化している。

 しかし、日本共産党の政治路線は、広い国民の支持と理解をうけつつあり、それにたいする反共攻撃は、自民党などの反動性をかえって浮きたたせることにもなっている。そこで反動勢力は、わが党にかかわる過去のいろいろの問題をもちだしての反共攻撃にいっそう大きな力を注いでいる。とくに、治安維持法や特高警察に代表される戦前・戦時の絶対主義的天皇制の暗黒政治のもとで、その暴圧に屈せずたたかうわが党が非合法活動を余儀なくされていた条件のもとで生じた問題を、その客観的条件から切りはなして、また、事実をゆがめてとりあげて、それを一定の民主主義のある今日の日本の条件下にそのまま引きうつして、日本共産党が暗い恐ろしいものででもあるかのように逆宣伝している。

 『文芸春秋』の立花論文や民社党春日氏の違憲質問をはじめ、各種の反共勢力が、一九三三年のスパイ調査問題をとりあげて反共デマ宣伝を展開しているのも、その一つである。そのさいかれらは、若干の雑誌などで、警察署の取調べや裁判所の予審での私の調書や、戦後の私の著書『党とともに歩んで』の一部分を恣(し)意的にもちだしている。最近は私の予審調書や一部の公判調書が出版されてもいる。この問題について、すでに私自身、一月三十一日付「赤旗」に談話を発表したが、最近の状況もあるので、あらためて、これらについて必要な反論もくわえつつ、若干のことをのべておく。

 

 一九三五年の検挙以来一九四二年の控訴審までの七年間における私の陳述にかんする記録は、警察の聴取書や予審調書のほか、一審公判や控訴審公判のもある。陳述の内容としても、当時の情勢と党の活動、治安維持法や特高警察による弾圧の不当性、特高警察のスパイ挑発政策、スパイ挑発者摘発の正当性とそれについての党の方針、党中央に潜入していた特高警察の二人のスパイ挑発者(大泉兼蔵、小畑達夫)にたいする査問の経過等々、多岐にわたっている。

 そこでは私は、共産主義と日本共産党の正しさ、それを治安維持法で弾圧することの不当さなどを主張するとともに、一九三三年の大泉、小畑の査問を「党内派閥の指導権争いによるリンチ殺人」に仕立てようとする特高警察の筋書きにたいしても、当然断固としてたたかっている。同時に、査問状況についての警察や予審での私の陳述記録にはいろいろ不正確な点があり、一審や控訴審の公判陳述でかなり訂正もしたが、根本的な是正にまではいたらなかっにことも否定できない。私の陳述のこうしに全体的特徴については、「赤旗」党史班の論文に引かれてもいるように、すでに私や他の関係被告の判決確定(一九四二年十二月)後に再開された公判で、宮本同志も指摘している。そして宮本同志は、自分の公判で私を証人に喚問することも要求したが、これは裁判所によって拒否された。

 

 私が検挙された一九三五年三月四日までにはスパイ調査問題の関係者はすべて検挙され、警察での取調べの手続きも終わり、起訴されて予審が開始されていた。特高警察は、スパイの大泉の報告をもとに「党内派閥の指導権争いによるリンチ殺人」というデマをねつ出して大々的に宣伝し、検事もその線で起訴していた。小畑の死因についても、警察べったりの裁判所医務嘱託の宮永学而らによって、頭部に斧などで強力な打撃をくわえにための脳震盪による即死だという、「殺害」なるものを裏付けるかのような、でたらめな鑑定が出されていた。さらに、宮本同志はハ完全黙秘でたたかっていたが、関係被告の多くは転向して、特高警察の創作した筋書きに迎合する陳述をおこなっていた。転向者の陳述は大泉や小畑へのスパイ容疑の根拠が薄弱だったかのようにのべたり、宮本や袴田には殺意があったかもしれぬというようなまったく荒唐無稽のことをのべるなど、自分らは非転向の宮本同志や私の意見に追随しただけであるかのように印象づけようとする傾向を多分にもつものだった。

 こうした状況だったので、私は自己の主張をのべるべく、取調べに応じた。私は、共産主義と日本共産党の正しさへの確信が微動だにしない態度を明確にして転向に毅然として反対した。同時に、スパイ調査問題については、当時の状況のもとで、私の陳述の力点は、いきおい、スパイ挑発にたいするわが党の闘争を根本的にゆがめる「指導権争い」とか「殺害を共謀」とかいう特高警察の作った虚構に反論することにおかれた。どうしても、これらの点だけは特高警察の虚構を打破しようという意図であった。同時に、その結果、「暴行」うんぬんといった式の特高の主張については、それをいちいち反論してただすという点はきわめて不十分となった。

 私が、大泉や小畑にたいするスパイ容疑が多くのたしかな根拠にもとづくもので、査問によってそれが明白となって大泉と小畑も特高警察のスパイだったことを自認したことを明らかにし、スパイ挑発者の摘発の正当性を主張したことは、私の陳述記録をみてもわかる。また、査問にのぞむにあたっての基本方針として、党中央委員会が、スパイ挑発者にたいする党の最高の処分は党からの除名であって「殺害」などははんら党の方針ではないこと、大泉と小畑がスパイ挑発者であることを明確にしたうえで特高警察のスパイ挑発政策の実態を把握すること、査問を安全におこない、スパイ挑発者と連絡をもっていた党組織や党員を弾圧から避難させるために、一定期間スパイ挑発者を拘束するが、その後は釈放すること、を確認していたことも私は主張した。さらに私は、小畑が急死するときの実際の状況も、小畑の逃亡をとりおさえようとしただけであって、脳震盪をおこすよう事態ではなかったことを強調した。私の一審公判の記録をみれば、特高警察の言うままのでたらめな鑑定をした耗判所医務嘱託の宮永が私たちの反対尋問になんらまともな答えができなかった状態もわかる。

 私のこれらの主張点は、結社の自由にもとづく日本共産党の存在自体を治安維持法で禁圧し、特高警察が卑劣なスパイ挑発政策をもちいて迫害をくわえるようなことこそ、許しがにい犯罪だとする今日の民主的常識からみれば、きわめて当然のものであった。こうして、裁判の独立がない当時の反動的な暗黒裁判でさえ、査問を「指導権争い」として描くことはできず、「殺人」 「殺人未遂」といった特高警察の主張をしりぞけざるをえなかったし、私たちの主張をいれて古畑種基氏による再鑑定もおこなわれた。

 

 戦前の刑事訴訟法手続きでは、警察の取調べの記録である聴取書をもとに裁判所の予審がなされ、その予審調書を基礎に公判が進められた。また、裁判官人事も司法省が握るなど、事実上裁判の独立もなく、予審判事らは特高警察や思想検事の判断に依拠した。

 警察の聴取書は、一般的には、拷問、脅迫、長期の警察拘留による精神的肉体的衰弱につけこんで、被疑者や「共犯者」なるものに「自白」させ、それらをもとに警察が、どういう事件として送検するか、なにをその被疑者の「犯罪事実」とするかについての“構想”をまとめてから、それに合わせた尋問をして作られていく。関係者の検挙の約一年後に検挙された私の場合には、スパイの大泉の報告や他の関係者の陳述をもとに事件の筋書きがすでに作られていた。私は、前述のような意図から、取調べに応じた。

 裁判所の予審では、予審判事が聴取書をもとに尋問し、裁判所書記に調書を書かせていく。警察の取調べはもちろん、予審尋問でも、弁護人はつかず、「共犯者」なるものや証人を出席させて被告人からの反対尋問にさらすこともなく、予審判事が自分の都合に応じて、〝だれそれはこういっているがどうか″といった質問をするだけである。当時は公判も、予審調書をもとに裁判長が被告人を尋問する形ですすめられ、被告人の陳述もどうしても予審調書によって制約される。

 その結果、特高が作った事件の構想にもとづく尋問の内容の記録が、訴訟全体の出発点となり、また、密室の審理である予審の調書が、決定的意味をもった。こういう密室の審理では、取調べ側の主張が全体の基調となり、取調べ側の主張の矛盾の追求とか被告人に有利な事実や主張の解明とかはほとんど不可能である。その暗黒性は、治安維持法裁判ではとくにはなはだしい。

 査問状況にかんする私の不正確な陳述は、警察の取調べや予審という密室の審理のもとで生まれたものである。転向者への反発や、「指導権争い」とか「殺意」なるものの否定ということに主な力点をおいた陳述が、取調べ側の構想による問答の流れのなかで、結局、系統的は「暴行」なるものを自認するかのよう陳述になった。そして、公判での陳述も、以前の陳述をかなり訂正はしにものの、密室のなかでの予審調書による制約をまめがれなかった。エンゲルスは「予審では、いっさいの調書は被告の陳述をすりかえ、いろんに手管をもちいて被告を説得し、署名させるようにつくられるものだ」とのべたことがあるし、宮本同志は、警察の取調べや予審におけるいっさいの陳述を拒否してたたかった。

 私は、転向に反対し、スパイや転向者の供述をもとに特高警察が作りあげた「指導権争い」 「殺人」といった主張に反論する意図から、警察の取調べや予審に応じたのだったが、不正確な陳述を必然的にともなう密室の審理に応じたことは誤りであり、私はその教訓を明確かつ厳正にうけとめている。四十年前のことではあるが、私が非転向であったことも逆用しつつ、私の調書の一部が現に反共宣伝に使われてもいるので、私の反省を明確にしておくものである。

 

 スパイ調査問題の事実問題についての私の見地は、一九四六年一月に宮本同志と連名で発表した「われらは抗議す」や、一九四七年一月に東京地方検察庁に資格回復措置を宮本同志とともに要求したさいの「申請理由」などにしめされている。そこでは、「官憲が捏造的に発表した『私刑(リンチ)行為』なるものは基本的において秘密警察の悪意の創作にすぎない」(「われらは抗議す」)、「小畑は殺害されたものではなく、特異体質にもとづく死あるいは心臓死によって予期されない死亡を遂げたものである。政治犯人に何等の好意を持たない鑑定医さえ、脳震盪を起こすよう損傷も打撃もないと証明してショック死と推定した。われわれは、むしろ心臓麻痺と推定する方が妥当だと公判廷で主張したのである」 「この事件は治安維持法のほか、不法監禁その他幾つかの罪名をつけられたが、これらは共産党の活動そのものが非合法であり不法であるという前提に立ったものである」 「『傷害致死』という罪名について見るに・・・・・・とくに重大な損傷のなかったことは鑑定書さえ証明したのであるから、この罪名も結局、変節者の陳述によって推定的に加えられたものに過ぎない」(「申請理由」)等々のことがのべられている。

 私の陳述記録をもちだして「リンチ」なるむのをうんぬんしても、それは、スパイ調査問題の真実をゆがめての反共宣伝であり、戦前・戦時の暗黒政治の背骨の重要な構成部分であ治安維持法と特高警察、不公正な司法制度に無批判な点でも、論者の反民主主義的姿勢をしめすにすぎない。

 

 一部の反共分子たちは、私の著書『党とともに歩んで』から、大泉や小畑の査問状況についてのべた部分や、解剖検査記録や古畑再鑑定についてのべている点などを恣意的に引用することもやっている。

 しかし、これらの点についての私の著書の叙述には不正確な点もあるが、論者たちの手法は、主に、自分の主張に好都合とみえるところだけを恣意的にとりだしただけである。このことは、すでに「赤旗」党史班の論文「反論を避けた『反論』」(「赤旗」一月十一~十六日付)でも指摘しているとおりなのでくりかえさない。

 戦後、宮本同志や私が釈放されたときの経過についての私の著書の著述の一部をひきあいに出すものもある。この点についても、すでに一月三十日の私の談話(「赤旗」一月三十一日付)で明らかにしている。最近発表された当時の連合軍文書によって、政治犯釈放などにかんする一九四五年十月四日の連合軍覚書が、治安維持法違反のほかに刑法上の罪名があれは釈放しない趣旨だったという議論がまったく誤っており、宮本同志や私につけられた刑法上の罪名が治安維持法を前提にして付随的につけられたもので、二人とも連合軍覚書で釈放すべき政治犯として釈放されたという経過が、いっそう明かになった。

 なお、私のこの著書のなかで事実問題などでの不正確な個所はいずれ適当な是正をするつもりであることも、一月三十日の談話でのべておいたとおりである。

 

 民社党春日氏や稲葉法相らの、治安維持法や特高警察を擁護する一連の発言などによって、一九三三年のスパイ調査問題や私たち戦後の釈放と復権をめぐるかれらの議論が、真実の究明などとはまっにく無縁で、反共の党利党略に立って、治安維持法や特高警察やそれらによる暗黒裁判を「復権」させようとするものであり、日本型ファシズムヘの道をすすむ意図に結びついたものであることは、今日ではいよいよ明白となっている。反動勢力やそれに呼応する民社党春日氏らのこうした危険な陰謀にたいして、われわれは今後とも断固としてたたかわなければならない。

 一九三三年のスパイ調査問題の直接の当事者で現在も党員として健在なのは、宮本同志と私の二人であり、この問題をめぐる今日の闘争で私がもつ責任は当然大きい。暗黒政治の復活を許さないために、私は、これにたいして今後ともいっそう断固としてたたかっていくものである。
  1. 2017/02/07(火) 00:07:46|
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