古本屋通信

崎山征二郎君

 古本屋通信   No 2411    2017年  02月04日


        崎山征二郎君

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     更新日時 : 2017/02/04    06:40


 自宅の2 階でパソコンを叩いていたら、階下のつれあいから声が掛かった「ちょっと来て、これ崎山さんじゃないの?」。見ると、今日の赤旗日刊紙の西日本のページ 「土曜 人(ひと)とき」欄。「市民劇場の運営に50年近く携わる高松市在住の崎山征二郎さん(71)」 とある。顔写真が大きく掲載されている。ほぼ 50年ぶりに見るが、変わっていない。

  むかしの労演、いまの市民劇場そのものには、私は興味がないから、記事の転載はしないが、この機会に崎山君のことを少し書いておきたい。

  そのまえに私が失念していたこと2点、名前の征二郎と、出身の福岡県。これはすっかり忘れていたが、その他の記憶は鮮明である。

 崎山君は私と同学年で、香川大学在籍は1964~68年だった。私は68年に香川を去ったが、かれは留年していないと思う。今回の記事では「卒業とともに就職」さらに「1969年から事務局長」となっている。けれど在学中の1967年には学生のまま労演の半専従をやっていた。でも 50年近く専従というのは驚きだ。

 崎山君は大学入学から卒業までずっと演劇部だった。芝居が上手だった。その演劇部だが、民青の拠点中の拠点だった。私の時代には部員の殆んどが民青だったのではないか。そしてみんなが政治活動家であった。然し演劇活動もハンパじゃなかった。いま思い出すだけでも、十数人の名前が上がる。2,3人挙げておこう。関西大学教員になった森岡(佐藤)孝ニさん、小学校教員から詩人になった佐伯さん、新劇の役者になった山岡さん。私は卒業以来、彼らに会っていない。

 崎山君は経済学部だった。私は教育学部だった。私が教育学部の自治会執行部だったとき、経済学部の委員長は同じく演劇部の河野君だった。崎山君は河野君のあとの経済学部委員長だった。実はこの時の委員長が問題だったのだ。1966年だったろう。このとき、経済学部自治会は(幸か不幸か)全学連中執を引き受けざるを得なかった。崎山君が中執に就いた。つまりコレでまともな就職はの目は消えた。

  信じるも信じないも自由だが、全学連中執だと絶対に一般企業に就職できなかったのだ。それほど全学連は恐れられていた。また当時の民青共産党では学生上がりを民主団体の専従することなどあり得なかった。タブー中のタブーだった。党が認めるはずがなかったのである。しかし全学連中執の彼は例外として認められた。

 実はその 2年まえ、同じ香川大学経済学在学中から「自主上映」の運動に係わって、卒業後に専従になった Fさんという人がいた。この人は党組織(県委員会)の関知しないところで勝手に専従になったのだった。彼が病気になって入院した。このときの党の対応は冷淡だった。いっさい関知せずだった。けっきょく彼は生活できなくなり、専従を辞任して、「自主上映」は潰れた。就職先は自分で探してフランスベットのセールスマンになった。私は当時、Fさんから党に対する怨みごとをさんざん聞かされた。「自分は文化運動を自分の党員任務としてやっていたのに、何の援助もないだけでなく、病気になったら簡単に斬り捨てられてしまった」 と。しかし今から考えると、Fさんの勝手な言い分だったように思える。党員任務は自分が決めるものではない。党が決めるものだ。まして文化運動の専従は党専従と変わらない。学生上がりの傲慢だったろう。

 50年間の専従というのは党の庇護がないとあり得ないだろう。私は良いとも悪いとも言わないが、感無量である。岡山では民商の福木君がやはり専従生活が長い。並大抵の努力では続かないだろうから、敬意を表する。しかしコレが党員としての半世紀としてどうなのかというと、いくらか疑問も残る。つまり一生涯運動でメシを食べることの是非である。私は余りきびしくは言わないが、5年以上専従や議員として、その収入で生活していると党員として官僚化するという意見がある。デボーリンなんかもそうだろう。私も早期に交代すべきだとは思う。
  1. 2017/02/04(土) 09:45:25|
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