古本屋通信

少し文芸的な方向に通信に舵を

古本屋通信    No 2361   2017年  01月05日


   今年は少し文芸的な方向に通信の舵をきってみます


  年末に岡山詩人会議の『道標』 創刊40周年記念特集号を印字しながら思ったのですが、詩人たちのことばは文学的に凝縮された美しいものでした。とても真似ることはできませんが、私のように時事的な文を書き散らしていると、何時しかことばが荒れてくると痛感しました。それで今年はことばにたいして、もう少し自覚的でありたいと思ったのです。政治的な文を書かないという事ではありませんが、文学にも目を向けたいと思いました。せっかく昨年末に長文の詩人たち作品を入力したので、暫らくこれを冒頭に立てることにしました。


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  岡山詩人会議 『道標』 創刊40周年記念特集号

 表題の 『道標』 特集号(163 2016冬号)が我家の郵便ポストに入れられた。届けてくださったのは坪井あき子さんである。受取人は私ではなく連れ合いである。しかし連れ合いより私の方が良い読者なので、私に譲ってくれた。最終的には私の所有となる。一瞥して主要な特集作品をパソコンで文字入力しようと決めた。紙の 『道標』 の部数はけっこう多いが、配布先は限定されるだろう。それに現在の 『道標』 会員にはパソコンで文字化する人はいないようだ。紙の詩誌だけだと偏るだろう。何やかにやで私が文字化することにした。新聞雑誌は断らなくても転載が自由つまり著作権は生じない。だが現在の編集部ここで断っておこう。よろしく了解ください。
 
 全64頁中前半の26頁の文字化を射程に入れる。これが特集頁である。後半は通常号の創作詩だ。前半の全てを文字にしたい。それは、現在の岡山詩人会議運営委員長松田研之氏の「ご挨拶」、そして40年前の 『道標』 創刊号の坪井宗康氏の「編集後記(抜粋)」、それに 『道標』 等に掲載された14人の会員詩人の詩作品である。予め掲載詩人全員の名前を記しておく。以下、敬称略。高木進二、道満誠、手塚亮、坪井宗康、桑村宏、矢木明、大川ふみ、多田聡、沖長ルミ子、鬼木龍平、森岡友宏、宮木義治、久米旅人、赤木よう子。掲載詩人14人は現在の運営委員長松田が選んだそうである。因みに現在の編集部はおおしまふみこ、かわかみよしこ、増成順子、松田研之の4名だという



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   道標40周年記念特集


    ご挨拶   

  みなさん、こんにちは。私たち岡山詩人会議は、今年結成40周年を迎え、機関誌「道標」は季刊をつづけて163号を発行することができました。これは創刊以来の諸先輩や現会員のたゆまぬ詩作への努力はもとよりですが、何よりも読者のみなさんをはじめ、ひろく会外の詩・文学・芸術関係のみなさんの率直なご批判・励ましに負うところが大であると存じます。
  私たち「道標」の詩は、まだ物足りないところがすくなくないと存じます。努力を重ねてゆく所存です。今後ともよろしくお願い申し上げます。
          
      2016年12月15日    岡山詩人会議運営委員長   松田研之


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  「道標」 創刊号 の編集後記 (抜粋)

◇岡山における戦前、戦後の民主主義詩運動をうけついで、その発展の一翼をにないうるようにーこれがわたしたちの願いである。ぜひ感想とご批判を。
◇発刊にあたって二つのことを話し合った。一つは定期刊行をまもって続けよう、ということ。そのため当分は年四回、季刊でやっていくことにした。もう一つは、会だけで小さく固まらないで、会員外の詩人や文化団体からも学んで、交流をすすめていこうということである。それで「ひろば」欄を設け「岡山の詩人を訪ねて」を連載することにした。
         
                       1976年5月20日 (坪井宗康)



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心せくまま        高 木 進 二 (1908 ~ 1983)

断崖の下の
深い渕を
のぞいたときのようではない

古城の
高い石垣の尖端(ハシ)
立ったときのようでもない

小さな漁船で
大きな うねりの底から
山脈詠(月と永の合成字 ヤマナミ)が見えなくなった時のようでもない

百三十キロで
東名高速を
ぶっ飛ばされた時にも感じなかった

そのもの を見る事
「帰(キ)するが如し」
と いうほどの悟りもない

母の墓碑に献じた
「曙近き一九三二年また建之」 から
五十年の歳月が
アッというまに過ぎ去り

なんども 何度も
嵐やくら闇があり
「曙近し」 と思われる宵もあったが
また また
暗い夜がやって来そうなので
          「道標」31号


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培土  二・一スト禁止のに抗して    道 満  誠 (1911 ~ 1994) 


雪が消えて氷がとける。

畝の土は黒々とふくれ上って泡立ちはじめる。

寒々と氷ついていた麦は、解放された悦びの
  まま柔かくふくふくと伸びようとする、空気
  のように伸び上ろうとする。

麦の腰が伸びる・・・・。

そんなとき、培土をする。

ざくり、培土機に掬いあげた土を頭から振り撤
  く。

伸びかけていた腰波無惨に折れ、倒れ、ひしがれ、埋もれる。

麦はなんぎをする。

麦の成長力が内攻する。

麦は根をだしはjめる。太く強い根を大地に
  しっかりと張る。

そして、再び伸びはじめる。
麦はたくましく伸びはじめる。
   『道満誠詩集』 (詩人会議出版)



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クレムリンの赤旗     手 塚  亮 (1905 ~ 1983)

昭和初年 友人の大学生から
こんな話を聞いたことがある
クレムリンの塔のうえの赤旗は
風のない日でもいつも波うっているんだと
夜は夜で照明の中で泳いでいるんだと

コミンテルンの指導部は
万国の労働者の団結と勝利
その確信と不屈の闘志のために
朝夕インターのチャイムを響かせ
扇風機で風を送っているんだとも

クッペル・ホリゾントに美しく翻る赤旗。
ぼくは筑地小劇場の舞台を連想した
扇風機仕掛けとは子どもっぽいが
こんな演出家がクレムリンにいるとは
にくい(にくいに傍点)ではないか

いつか モスクワを訪れる機会があったら
このからくり効果は見て帰りたいものだが
レーニン廟の長蛇の列だけはごめんだ
銅像崇拝・人間性抹殺の迷演出
イリッチの遺体はクループスカヤへだ

クレムリンの塔で泳ぎつづけた七十四年間
鎌とハンマーのあの赤旗」は
居心地の悪さを嘆いたことはなかったか
元来その旗は一国で占有すべきものではない
全世界の被抑圧者解放の旗印なんだ

1991年夏 ついにその旗も
クレムリンの塔からおろされる時が来た
TVの映像にぼくは目を凝らした
ぬっと痩せた右腕が屋根裏から伸びて
じぼんだ旗をつかんで消えた

歴史的瞬間はあっけなく
札砲も寺院の弔鐘も群衆の叫喚も聞こえず
日常生活 ホンのひとこまの
キャベツの葉っぱ一枚
むしり取ったほどの演技だった

※クッペル・ホリゾント 舞台後方の丸くふくらんだ壁。当時日本では築地小劇場しかなかった。


                             (1992・5・1)  「道標」65号


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真珠貝        坪 井 宗 康 (1932 ~ 1985)

外から侵入した砂粒
内に巣食う寄生虫
あるいは
自分自身の腫瘍や
受胎できなかった無精卵
それがどんな不幸のたねであっても
とめどない涙でつつんで結晶させる
優しい芸術家よ

人はおまえを金網籠に入れ
生殖腺を切断し
わざと異物を挿入して待つ
おまえが涙の美学で作品を仕上げたとき
人はおまえを打ち砕いて
それを取りあげる

真珠貝よ
おまえはおまえの美学に叛逆せよ

異物は異物のままに
不幸は不幸のままに
吐き出すがよいのだ

おのれの受精卵だけを
孕むがよいのだ
産むがよいのだ
                   詩集 『カゲロウ異聞』 (手帖舎)


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無縁佛        桑 村  宏 (1929 ~1985)

見わたすかぎりの枯草原。
那岐おろし
横にとぶ雪。

縦横無惨に走る戦車のわだち。
踏みのこされた草むらに
自然石の小さな無縁墓が二基
並んで経っている。
天保十五年辰五月。
新右ェ門。
行年八十一才。
白衣(あるいは友か?)岳道意信士。

昔、ここに堂があり、白衣の老夫婦が住んでいたのかも知れぬ。

火力を増す兵器と、はげしさを増す演習で
掘りまくられ、ふみにじられる草原。

乱れながら横に飛ぶ
雪。
                       「道標」28号


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宇野駅        矢 木  明 (1927 ~ 2013)

一八三九年(天保十年)この地に広潟塩田がつくられた。
海を埋めたて、海水を引き塩をつくった瀬戸内の村むら。
塩は米よりも人々のくらしをうるおしたという。
七十一年経った。一九〇七年(明治四十年)塩田が埋められ、三年後宇野駅が開業され、四国との連絡船も就航した。
戦争があった。その度に宇野駅は拡張された。戦争が終った。国土復興のためにと更に拡張され、おびただしい人と荷物を運んだ。
七十八年が経った。一九八八年(昭和六十三年)、瀬戸大橋が開通した。
宇野線は連絡線廃止、貨物取扱い廃止となる。一日二万人の旅人と八百両の貨車が消えた。記録に残る殉職者七名。機能障害公傷者八十一名。ヤードは消えた。宇野駅はしずかな海辺の駅となる。



   

レールが海に消える所

白鳥のような連絡線はいない
赤錆びたレールの間 夏草が茂り
可動橋は斜めに空をむいたまま
待ってもこない連絡船を
それでも呼んでいるのか

ふりかえるヤードの幾十条のレールの上
七基の鉄塔照明 空につきささり
もはや輝いて地上をてらさない
夜 一面の闇
音なく暗さのひろがりの中 虫が鳴く

ヤードは死んだのか
この空間に何がただよっているのか
昔 塩田人夫が流した
汗とあぶらのしみこんだこの大地

さらに 七十八年間 車輪の鉄粉と
国鉄労働者のしたたる汗を
吸い込んできた大地
十二万平方米のヤード
次はどんな形で蘇るのか
どんな仕事の汗があがれ しみこむのか
その青図面は まだない

駅長のいない終着駅に
ぷあーんと警笛を鳴らし
たった一両 オレンジ色の電車が入る
降りた人々は連絡船通路にこない
ホームをゆるがす足音はない
呼ぶ案内」マイクの声もしない
人々の息吹く気配もなく
張りめぐらせたポスターも消えて

連絡線通路に
波の音がきこえるのだ
(後略)
                           詩集 『駅の刻印』 (手帖舎)


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新人類        大 河 ふ み (1910 ~ 1999)

街を歩いていると
突然うしろから呼びとめられた
ふり向いたら
「あなたは新人類ということを知っていますか」
三人の青年が問いかけてきた
一人がテレビ用の映写機をかつぎ
一人が小型のカメラを持ち
一人がマイクを近づけた
「え 私ですか」 とまどった
「最近新人類ということが言われているのを知っていますか」
マイクの青年がくり返す
「テレビや新聞で時にね」
「新人類なんていないでしょ 強いて言えば新時代の人類ということでしょ」
「若いあなた方のことよ」 etc
「新人類と言われている人に あなたは何をのぞみますか」
「そうね 洞察力 理解力 かしらね」
「そうですか」
新人類の青年たちは遠ざかって行った 
                                「道標」45号
                    


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ジャンヌ・ダルクなどにならなくても良いのだ  
         多 田  聡 (1935 ~ 2011)

志帆よ
おまえはいま
どのような青春を送っているのだろうか
おまえが生まれた時
時代はよき時代ではなかったから
じいちゃんには気にかかる
平凡なサラリーマンの家庭に生まれ
平凡な生活の繰り返しの中で
世間知らずのかわいらしい娘として
降り注ぐ愛をもてあまして
悶々(もんもん)とした日々を過ごしているのがろうか
それはそれでいい
ただその時
自分が世間知らずの少しお馬鹿であること
それに他人の痛みがわかる心優しい娘であること
この二つのことは忘れずにいてほしい
もしも
おまえが不正を憎み正しいことをしようとしているならば
もっと控えめにした方が良い
特にそれが正義と呼ばれているものなら
もっともっと慎重であって欲しい
正義ほどヒトの善意を誤らせる物はないのだから
平凡な家庭の平凡な生活
親の言うとおりの日常に
決起しようと思っているしほりん
ジャンヌ・ダルクなどにならなくても良いのだ
                                 詩画集『ビバーしほりん』 (コールサック社)


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吹き上げ坂を上がると        沖 長 ル ミ 子 

吹き上げ坂を上がると
私が育った村に入る

毎朝 自転車にまたがって
飛ぶように坂を下り
日暮れ時には自転車を押し上げ 
押し上げ 家に帰った

坂は嵐の通り道で
夜になると吹き上げて来る嵐が
家々の雨戸を叩いて回り
何者かがいっせいに坂を駆け下り始める
足音が深く闇の底へなだれ落ちるのを確かめて
私は一日を締めくくった。

久しぶりに訪ねる村の入り口でタクシーを降りると
おばあさんが立っていた
被った手ぬぐいが顔の半分を隠し
空の(小ふご)を抱えている
「ようこられましたなあ」
顔を下げながら素早く手ぬぐいをとると
懐かしげに笑いかけてくる
(誰だったろう)

「若いもんは草取りをしませんけえ
わたしも忙しいことになりました」
おばあさんは手ぬぐいを被りなおし
思いがけない速さで野道を歩いていく

亡くなった隣のおばあさんは
時々 休耕田に座り込んで草を抜いていた
気がつくと毎日出かけるようになっていて
そのうち他所の田んぼにも座り込んでいたりした
家の者がなだめ 時には声を荒げてつれもどす
それでも どこまでも草取りに出かけたと
母から聞いたのはずいぶん前のこと

ぼんやり立っているわたしの足もとへ
風が駆け上がってきた
         詩集『吹き上げ坂を上がると』 (ジャンクション・ハーベスト)



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雪の夜の話        鬼 木 龍 平 (1949 ~ 2011)

場末の酒場にいた。
とまり木には、二人の男がいた。
暗い照明の揺れるなかに。
煙と 演。歌が似合っていた。
カウンターの中には、東北訛りの女がいて。
淋しい目をして唄っていた。

短いカウンターの一番奥に。
そり込んだ角刈の男がいた。
黙って、静かに飲んでいた。

東北訛りの女が、マイクを向ける。
「歌は苦手です」 にかんだ目をして答える。
「民謡も」あるし」 女。
男は、ただ笑っていた。

やがて、自らふるいたたせるように。
男はマイクを握って、立ちあがった。

郷愁に満ちた音楽が流れだすと。
男は目をつむり、唄い出す。
しぼり出すように。
風のように。
 -おどみや かんじん かんじんー
直立不動のまま、目はつむっている。
 -盆が早よ来りゃ、早よもどるー

煙がフッと飛び。
煙い酒場の中を、嵐がかけめぐる。
とまり木をなぎ倒し、吹き荒れる。
男は、村に立っている。
村を見降ろす丘の上に立って。
遠くを見つめている。
男の目は、少年の目になっていた。

嵐となって。
何もかも、吹き飛ばしたいと思った。

熊本県人吉のはずれ。
「上州に敗けない位、秋から冬にかけて、空っ
風が吹くんです。空っ風に飛ばされて水島まで来たんですよ」。

ひとしきり吹き荒れた後の平静が。
酒場に戻っていた。
でも、酒場の外は。
十数年ぶりと言われる雪が。
しんしんと降り積んでいた。
                    「道標」32号


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夏越 (なごし)        森 岡 友 宏 (1953 ~ 2007)

真夏の勾配をのぼり
新暦をぬぎすてていく緑 水無月
井戸端に置かれた瓜の
瓜実(よりざね)というやさしさ
成してもいない子のことを
想ってみたりもする

かろうじて人のならいを身に帯び
日々を操(く)ってはきたものの
熟れることへのひそやかな算段も
尽きつつあって

晦日には
人形(ひとがた)を流してもみようが
穢れを移し
残されるわたしの形は
なお 人であってくれるだろうか

結界は
越えるにはしばらく先
それまでは まろく眠ろう
この緑 この水無月の片隅で
人の姿で

目が覚めたなら
熱のこもる手足を選び
井戸端で瓜を割る
泣きながら 瓜を割る
                       「道標』129号


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ヤギを売るな        宮 木 義 治 

幼い日 ぼくの家にはヤギがいた
ヤギは子ヤギを産んで乳をだし
乳は貧しいぼくたちの食卓をうるおし
ぼくたち兄弟は子ヤギと共に育った

ある日バクロウがやってくる
どこで聞きつけたのか、子ヤギを売れという

母はおまえたちのヤギだからと
おまえたちで決めろといった
ぼくたちは
何も言わなかった

バクロウは玄関にすわって動かない

子ヤギはひかれていった

生まれてはじめて首になわをかけられて
丘の上を
小さな子ヤギが
ちいさくちいさく遠のいていくのが
ぼくらの耳には「メエ」「メエエ」という
泣き声が
いつまでも聞こえていた

ぼくたち兄弟は部屋のすみで泣いた

その時からぼくは思った
ヤギを売るなと言えるようになろう
大人になったらヤギを売るまいと
                       「道標」5号


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面会        久 米 旅 人 

どちらさんでしたかなあ
何か月ぶりかに顔を見せた 娘と孫の面会に
戸惑い 不思議そうな顔をして
母は尋ねている
まだらな記憶を たぐりながら

ぼくは妹に
差し入れは 渡すと一度に食べるので
詰所に預けるよう伝え
母を 院内の喫茶まで連れて来るように頼んだ

母の好きな コーヒーを注文して
しばらく 行ったり戻ったりの会話が続いた
あんたは私の息子じゃったがなあ と
ぼくに言う
しばらく見んうちにあんた 年をとって
頭が薄うなったなあ と

ぼくの頭をしげしげと眺めるのである
ところで あんた こちらの方はどなたです
おばあさんの娘でしょうが というと
私に娘がいたかなあ・・・・
そう言って 妹の顔を見ている
妹は 自分がもう五十を過ぎたことや
娘や息子に 孫が何人いるかなどを話すのだが
妹の話は
母の まだらな記憶の挟間にあるのか
思い出せないでいる
何度も会って
そのひ孫を抱いたりもしているのだが

納得行かない顔で
私には 何人子どもがいたのかなあ と
つぶやく

おばあさんには ぼくと この妹と 弟がいるんよ
そういうと
指を折って まだらな記憶と格闘していたが
突然 目を輝かせ
しわしわの顔をいっそうしわにして
そんなら 私は子持ちじゃが・・・・ なあ と
嬉しそうに
妹や孫やぼくの顔を
また しげしげと眺めるのである
とぎれとぎれの 記憶をたぐり寄せながら
                             「道標」107号

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 最後はかつての会員の作品ではなく、今回の特集のために書き下ろした散文である(古本屋通信)。


  私の始まりはここから        赤木よう子 

  詩は私にとってとっつきにくくむつかしいものに思われていた。
  田舎の本屋の子に生まれ、子どもの頃から活字は好きだった。「商品を読んではいけない」と云われながら、こっそりこっそり自室にこ持ち込んで読み耽っていた。小学校の高学年頃から書く事も好きで手紙をよく書いたし、宿題の作文は褒められて嬉しかった。就職してからも活字との縁は深かったし、PTAの仕事や地域での「しんぶん」づくりに参加していた。
  そんな私が初めて詩らしい詩を書いて「赤旗 読者の文芸」に投稿した。
  「糸くず」である。

  この詩作品は転載を省略させていただく。筆者の想いは理解するが、作品としては新聞投稿の習作であろう。続いて書かれている当時の思い出の文は以下である(古本屋通信)。
 
  1976年3月15日付の紙面に掲載された。
  選者は浅尾忠男氏であった。大層なお褒めをいただいて喜んでいると、詩人坪井宗康氏から、「岡山で詩のグループを立ち上げようと思っている。一緒にやらないか」のお声をかけていただいた。詩の事もよく分からない、詩のグループ??もよく分からない、何も分からない私に何ができるのか不安であった。会報と会計をやってくれないかと云われた。
  矢木明氏、宮木義治氏、手塚亮氏、道満誠氏、久米旅人氏、くにさだきみさん、沖長ルミ子さんなど熱い志を抱いた人たちと出会った。
  みんな若かったし、詩作にも熱心だった。私も覚つかないながら〆切に追われて書いた。子育て真っ最中の若い頃である。
  機関誌名を「道標」にするまでにいろいろあった。その「道標」も、もう40周年、感慨無量である。
  詩人にはなれなかったけれど、詩を書く中で、ことばの持つ力・優しさを学んだ。
  今は、毎日の新聞を丁寧に読むのと、「道標」をはじめ参加するいくつかの会報・機関紙等を読むのが精いっぱいで、なかなか書けずにいる。目も耳も頭の働きも薄くなってしまった。あれから、もう40年経ちました。
  1. 2017/01/05(木) 04:40:04|
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