古本屋通信

党籍消滅前後(その2)

古本屋通信  No 240 6月2日

 党籍消滅前後(その2)

 学生時代の党生活については、余り具体的には書きたくないのだが、話の流れで必要な事だけ書く。

 2つの大学のうち、前半の大学の党組織が素晴らしく、後半の大学が駄目な組織で、党員レベルにも格差があったかに映ったと思う。しかし、実際はそんなことはなかった。先ず規模だが、全学生に占める活動家総数比率(各派合計)は変りなかったと思う。大体2~3割だったろう。これは今では考えられない数字だ。全大学(北から南まで、一部の女子大や新設大学を除いて)変わらなかっただろう。一方は民青の天下、もう一方は3つの党派の鼎立だったに過ぎぬ。京都でいえば、京大、立命館、同志社を引き合いに出せば分り易いだろう。然し同志社にちゃんとした党があったなんて、石崎氏の文章を読むまで知らなかった。

 つぎに、学士入学先の大学の党組織で、私が拗ねていたかというと、そんなことはなかった。私の活動量は多くなかったし、仲間も少なかったが、私はいい同志に恵まれ、生きいきした党生活を送ることができた。少しだけ書く。私は法文学部・哲学科・哲学専攻への学士入学だった。学士として学部3年に編入した。これは学生仲間としてはやりにくいし、私としても年長者扱いにされそうで鬱陶しかった。組織の内外の両方でだ。しかし細胞には私より年長者がいた。Dといった。7回生の4年生。しかも哲学科・哲学専攻で細胞長だった。かれの存在で、私はどんなに助かったことだろう。私は彼をさん付けでよぶ。彼は私を「おい、おめえ」と呼び捨てにする。これがどんなに嬉しいことかは、学士入学したものでなければ分るまい。

 党の組織員は私を入れて僅か6人。民青はその倍。法経はずっと多かったと思うが、数は知らない。文科6人のうち3人が哲学科・哲学専攻。あと国文・国語が一人、東洋史が二人。私は文科自治会の代議員に立候補することになり、選挙活動もせず当選した。哲学科は拠点だった。しかしその後、全共闘の台頭で引っ繰り返される。

 D は第一線から引いていたが、ちょっと前まで総細胞委員だったらしい。総細胞機関紙『地の塩』を自分で書いて、自分で配っていた。D が言った「おい、正式の転籍が完了する前に組織に挨拶を済ませとけえ。無断で学内をウロウロしてたら、スパイと思われるけえ」「誰のところへ行けばいいんで」「そうじゃな、党は中原のところへ行け。同盟は武田じゃ。いいか、くれぐれも大きい顔をするな。そうのうても、おめえが四国からくる言うんで、気にしとる」「うん、わかった」。それで、ふたりのボスに会いに行った。それぞれ5分ほどの立ち話だった。二人とも私より二歳若かったが、ボスだけのことはあった。「聞いてる。こっちこそよろしく」。それで面通しは終わった。

 私の卒業に前後して、上記の「同志」たちも、其々大学を去った。D は7年間の大学生活を終えて大阪に帰った。卒業であり、中退ではなかった。家業のペンキ屋を継ぐと言った。もう一人の哲学科の党員も4年で卒業し、中小企業の営業の職を得たと聞いた。彼は近藤先生の葬儀に広島から駆け付けて来た。国文の女性党員は8年大学に在籍したのち、民主書店に就職した。卒業ではなかった。中退だったか、放校だったかは知らぬ。私は民主書店の常連だったので、ずっと彼女と会うことになる。彼女は二十年ほど前に、アル中で内臓を壊して死んだ。その妹の党員は大学を中退して、民医連に職を得た。党員一家だった。東洋史のもう一人の女党員は4年で卒業し、党の影響下の組合の専従書記になった。定年まで務めた。転籍のときとメーデーのときと、二度会った。

 ついでに上記以外の文科の民青のメンバーのその後について。私が卒業後のことなので、詳しくは分らない。しかし一人を除いて、卒業者名簿に名前がない。中退したのだろう。うち一人は中小業者の組織の専従になって、いまも健在だそうだ。会ったことはない。

 私が転籍の手続きをしようとしたのは、大学卒業後6か月以内、ぎりぎりの時期だった。離党する気などさらさらなかった。地区委員会に行くのは鬱陶しかったので、民主書店の党員に手続きの一切を頼んだ。彼女はよくやってくれたが、これがよかった悪かったか。

  1. 2013/06/02(日) 00:57:22|
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